午前4時
第四章『午前四時』
午前三時四九分に起床した。当然辺りは暗い。部屋の照明を点けて、動き易いジャージに着替えた。妙に冴え渡った目を動かし、美郷が渡してくれたメモを取り出した。
反転の呪文
オヤレウェレ、ウシオウナケクボィエヘウ、オィノムコリキヘニウトウエクオトヨノク
帰還の呪文
オヤレウェレ、ウシオウナケクボィエヘウ、オィノムコルジヘニトウィークトトヨノク
これを五秒以内に唱える必要があったんだっけか……。私は正直自信がなかった。あの鏡のような道具がなければ無理なんじゃないかという気がした。帰還の呪文を何度か練習したが、上手く言えているのかどうか分からなかった。何も知らない人が見たら馬鹿馬鹿しいと思うんだろうなと思いながら、そのときが来るのを待った。
明け方なので、外からはほとんど音がしない。たまに車が通り過ぎる音が聞こえたけれど、申し訳なさそうな響きを感じ取れて、新鮮だった。ふと思いついて、携帯電話で美郷に電話してやろうと思った。同じクラスの女子とは、一応、アドレスや電話番号を春の内に交換していた。
《もしもし、苫井さん?》
ワンコールで出た。私は少し驚いたが、美郷のことだからきっと待ち構えていたんだろうと思った。
「もしもし。今、いい? 起こしちゃった?」
《私、地球では寝ないのよ。時間が無駄でしょ。寝るのは向こうって決めてるの》
「ああ、なるほど……。今から、私、向こうに行くけど」
《私も四時きっかりに向かうわ。立花先輩があなたに泣きつくのを見たいし》
私は一瞬黙り込んだ。彼女が本心からそんなことを言っているのか考えかけたが、無駄だと思い直した。
「ねえ、美郷さんが向こうの世界に行ったきっかけは? あの鏡みたいな道具は美郷さんが造ったんでしょ」
《そうよ。帰還の呪文も、向こうの世界へ渡る呪文も、私が見つけ出したものだしね》
「美郷さんが呪文も知らない頃にどうやって向こうの世界に行ったのか、凄く気になる。誰かに連れて行かれたの?」
《ううん。……夢よ》
「夢?」
《あの世界に行ったきっかけは、夢。明晰夢って知ってる? 夢の中で、自分を自由に動かしたり考えたりできる》
「ああ――聞いたことはあるかも」
《私はそれを幼い頃から自然にできた。最初は家の中を歩き回るくらいだったけど、やがて外に出て遊んだり、空を飛んでみたり、車を運転してみたりするようになった。あるとき、ケーキを食べたいなって思ったら、目の前にケーキが現れて、ああ、ここは夢の中なんだから、好きなものを生み出せるんだなって思ったら、色々と試したくなって》
「それであの世界を創ったの?」
《私があの世界を創ったわけじゃないのよ。まあ、その可能性はあるんだけど、たぶん違うと思う。私はあの世界への扉を開いてしまっただけ。あれは誰かの明晰夢の産物だったのかもね。だって、もしあれが私の夢の世界なら、変な呪文を使うまでもなく自由に世界を変えられるはずだもの》
「そっか……、それがきっかけなんだ。でも、誰の夢の世界なんだろう」
《私には何となく目星がついてるけど》
「誰なの?」
《教えない。不確かなことだもの。自分で考えて》
私は文句を言おうと思ったが、もうすぐ午前四時だった。
「ごめん、もう切る。時間だから」
《そうね。……ふふ、きっと苫井さん、驚くわよ。向こうの世界は様変わりしてるから》
「二〇〇〇年も経ってるからね。じゃあ、向こうで」
私はそう言って通話を終えた。向こうに携帯電話を持って行っても仕方ないので、机の上に置く。
呪文のメモを凝視する。そして反転の呪文を唱える。何度も噛んで、焦った。けれど絶対に言えないほど難しいものでもない。
「オヤレウェレ、ウシオウナケクボィエヘウ、オィノムコリキヘニウトウエクオトヨノク!」
会心の出来だ、と思った瞬間にはあの不思議な感覚が全身を襲っていた。深い眠りから夢の世界に没入するときはこんな感覚なのかもしれない。ここではないどこかに引き摺り込む奔流の存在を知覚しながら、再度異界へと降り立つ。
*
私は深い眠りから目覚めようとしていた。
息苦しかった。それで首に手をやると指先にチクリと痛みが走った。
強烈な既視感を覚えつつも、瞼を開けて起き上がった。
そこは部屋の中だった。
フローリング張りの広い部屋で、天井が途方もなく高い。
首には首輪が締められ、そこから紐が伸びている。紐の先を握っているのは小人で、私を睨みつけていた。
髭を生やし、傲岸不遜な態度を取っている。
「おい、お前!」
「……はい?」
「俺の名はイゼウーズ。お前はちゃんと脳味噌がついているみたいだから予め言っておくが、俺の命令には絶対に従うこと」
「……イゼウーズ?」
「そうしないと痛い目に遭うぞ。いいか、これは忠告だからな。返事をしろ、エレズ‐ヌソィク!」
そう、それはまさしくイゼウーズだった。私は再びイゼウーズに召喚されてこの世界にやって来たらしい。
何だか笑いが込み上げてきた。悲壮な覚悟、と言うと大袈裟だが、緊張して呪文を唱えていたのに、出会ったのが知り合いだったなんて。
「はい、はい。イゼウーズ、久しぶりね」
小人は訝しむ顔になった。
「何だと? 俺に巨人の知り合いはいない!」
「は? 忘れちゃったの? 私よ、紗羅」
「そう、貴様の名はエレズ! 我が軍の最終兵器だ! 活躍を期待しているぞ!」
私はちょっと残念に思った。小人や他の奴隷は人形だと美郷は言っていた。この世界を構成する架空の住民みたいなものなのだろう。定期的に記憶が抹消され、歴史がリセットされるのかもしれない。
「……はい、はい。分かりました。あなたの為に尽くします。私は奴隷ですから」
「む、物分かりの良い巨人だな。全ての奴隷がお前のように賢ければ苦労は少ないのだがな」
「あのー、一つ質問なんだけど」
「何だ」
「慶吾っていう名前の巨人を知らない?」
「オグアク? 知らんな」
「そっか……。あと一ついい?」
「何だ」
「近く、戦争の予定でもあるの」
「あるぞ! 三日後にな!」
「へえ」
戦争はしたくないな。私がそう思って辺りを何となく見渡すと、イゼウーズがやたらと嬉しそうに、
「ふふふ、この部屋は貴様専用にあつらえた。広々としていて気持ちが良いだろう! 戦争が始まるまで、この部屋で寛いでいるがいい! 俺は国王に報告しに行ってくる」
「どうぞ」
イゼウーズはスキップでも始めそうなほど軽やかな足取りで部屋を出て行った。私は立ち上がり、頭が天井に擦れないことに感動しつつも、さっさとこの奴隷の身分から脱さなければならないと焦った。先輩はどこにいるだろう? もしまだ巨人の国があるのなら、きっとそこにいるのだろうが……。
部屋の扉が開き、別の小人が入ってきた。私を見上げて、一瞬途方に暮れた顔になったが、すぐににやりと笑って私に手を差し伸べてきた。
「握手を、ヌソィク」
それは、星博士を名乗っていたウキデグという名前の小人だった。兵士長ウヘレズクに叱られていた、あの情けない男だ。
変な奴が来てしまった、と苦々しく思いつつも握手に応じると、私の相対的に分厚くてごつごつした掌を凝視した彼は、思い出したように、
「まさか、あなたは、エレズ殿?」
「ああ、そうだけど」
「わ、吾輩を覚えてはおりませんか! 吾輩の名は――」
「ウキデグ、だったよね、確か」
「憶えてらっしゃる!」
「あなたこそ、私のこと憶えてるの?」
「もちろん! あ……、いえ、正確には憶えているというわけでもなく、ただ、最近、倉庫を整理しておりまして」
「倉庫?」
「はい。ウモヨク国の遺産を収容した、武器庫みたいなものですが。そこに吾輩とウオィエィの合作を密かに隠しているのですが。先日、二〇〇〇年前の発明を発掘しましてな!」
「二〇〇〇年前の……」
「それは極めて精度の高い監視装置なのです。記憶装置としても使える代物で――ナフヌンの眼球と脳を抉り出し、専用の液体に浸して縮小を抑止し、魔術による細工を施せば完成するお手軽な代物なのですが。これに過去の映像が残っておったのです」
「過去の映像? 二〇〇〇年前の?」
「左様。エレズ殿が蠍の奴隷と入れられていた部屋に、こっそり設置していたようでして……。それを見て、吾輩どもは忘れ去られていた我が国の歴史の一片を掬い上げることができたと欣喜雀躍の極みにおったのですが、麗しきウヘレズク殿が、私とウオィエィがいかがわしい発明に精を出していると誤解し、発明品を破壊してしまったのです」
「あら、まあ」
「そう、まさに『あら、まあ』なのです!」
星博士は怒っているようだった。
「ウヘレズク殿が国内の風紀に神経を尖らせていることは分かっております、しかし吾輩のやること為すこと全てを無条件に潰してしまうのはこの国の――いえ世界の損失であります! ウオィエィとも話していたのですが、エレズ殿、ご助力を願えませんか?」
「助力って……。何よ」
「端的に言ってしまえば、吾輩はもうこの国にいたくないのです! ここから逃げ出してはみませんか? あなただって、奴隷暮らしは嫌でしょう!」
何という幸運。渡りに船とはまさにこのことだ。私は勢い良く頷いた。
「私もここにはうんざりしてたの。巨人の国はまだある?」
「もちろん、あの国だけは亡びるということがありません」
「じゃあ、そこに行きましょう。知り合いがいるはずなの」
「巨人の国に知り合いが? そもそも、エレズ殿は何者です? 二〇〇〇年も前にイゼウーズに召喚されたようですが」
「行きながら話すよ。とにかく、この首輪を外してくれない? あの電撃だけは二度と喰らいたくないんだ」
ウモヨク国は健在で、巨人の国を除けばかなりの勢力を誇る国家となっているようだった。そして他国家との同盟を模索する動きがあり、巨人の国を打倒しようとしているらしい。歴史は繰り返すと言うが、ついこの前、無残に敗退した同盟諸国を目の当たりにしているだけに、滑稽に思えた。あの大巨人を率いる巨人の国に勝てるはずがない。私サイズの巨人を一〇〇人揃えようとも、たった一体の大巨人の前に無力化されるだろう。仮に大巨人を倒したとしても、更に巨大な超大巨人が控えている。
初めから勝ち目などないのだ。それを教えると、星博士は複雑そうな顔になった。ざまあみろという気持ちがあるのは間違いないのだが、今まで自分たちが打倒巨人の国、世界統一の為に働いてきたことが無駄だったと分かって、虚しい気分に襲われているのか。
私は憎き首輪から解放され、部屋の扉を派手に粉砕した。ウオィエィが開発したという水色の全身鎧は非常に軽く、関節も可動部分が多くて動き易かった。強度も問題ないようだ。
通路はかなり狭かったが、通り抜けられないほどではなかった。中腰になり、背中を天井に擦りつけながら進む。
「こちらです!」
ウモヨクの要塞は混乱に陥った。星博士の先導で迷路のような通路を進み中庭に出た。そこには多くの奴隷が気ままに午後を過ごしていた。その真ん中を突っ切る。
「エレズ! エレズ!」
イゼウーズが要塞の窓から身を乗り出して叫んでいた。
「電撃を食らわしてやる! 泣き叫んだってやめないからな!」
しかし首輪は既にない。それに気付いたときのイゼウーズの表情は見物だった。唖然とし、原因を探り、星博士の姿を認めた後の納得と憤怒、それから代替の方法を思案するのだが、そんなものはないことは彼自身がよく分かっている。
やっとのことで捻り出した彼の次の言葉は、
「――て、天罰が下るからな!」
私は大笑いしてしまったのだが、星博士は顔面蒼白で立ち止まっていた。
「どうしたの、さっさとここから逃げようよ!」
しかし、彼の視線の先にあるものに気付いたとき、私も血の気が引いた。
要塞の尖塔の頂上にいるのは金髪の女性――ウモヨクの王、ウキデヌムだった。彼女の足元にいるのは双頭の巨大な竜。見たことのない奴隷だった。この二〇〇〇年の間に新たに召喚したものだろう。
「イーロ・ニオツネズ……!」
星博士が呻いた。イーロと呼ばれた竜は飛び立ち、異様に首が長く不安定な二つの頭をふらふらさせながら小さな翼を使って滑空してきた。奴隷の中ではかなり大きいが、せいぜい五〇㎝といったところだろう。地球であんなにでかい蜥蜴を見たらびびるだろうけど、今は鎧を装着して気が大きくなっていた。
「来い!」
不気味な竜が感情の篭らない赤い瞳を向けてくる。その四つの瞳は私の顔の少し下の辺りを狙っているように思う。首か。
でも首は鎧が完全に防護している。大丈夫、拳で叩き落としてやる。
眼前に迫るイーロ、拳を突き出した私を嘲笑うかのように、翼を上下に小さく動かし、ふわりと浮き上がった。
私の無防備な背中に回り込む。振り返る暇もなく、首筋に食いつかれた。
痛みが走る。いとも容易く鎧を破り、牙が食い込んできた。破片が邪魔になって、今はまだチクリと痛む程度だが、ぞっとした。
「何よ、これ、不良品!」
イーロを振り落とそうと躰を捩じったが、かの双頭の竜は器用に翼を折り畳み、私の手が届かない位置に移動したまま、ぐいぐいと牙を食い込ませてくる。やばい。冷や汗が出る。
星博士の悲鳴が聞こえる。横目で見るとウキデヌムが中庭に降り立っていた。その眼光は炯々としている。私はそれにもぞっとした。
「奴隷の分際で我々人間に歯向かうとは、良い度胸だな、新顔! 貴様には特別な調教が必要なようだ」
ウキデヌムは鞭を手にしていた。バリバリという物騒な音を立てて、近くに突っ立っていた奴隷を感電させていた。電気を流す鞭。それも威力は首輪とは比べ物にならないほど強力だった。感電した奴隷がたかだか数秒で黒焦げになり、部分的に発火していた。
「逃げられると思うな。生まれてきたことを後悔させてやる」
ひいい、と星博士が悲鳴をあげる。やはりあいつはヘタレだったようだ。私は首にくいつくイーロにようやく手が届き、その背中に爪を立てた。竜が甲高い悲鳴を上げる。怯んだところに、首根っこを掴み引き剥がす。そして地面に叩きつけて、踏んづけた。片方の口から何か得体の知れないモノが飛び出した。きっと内臓だろう。ぴくりとウキデヌムが眉を持ち上げる。
「こんな茶番に付き合っていられないの。私は巨人の国に行く必要がある!」
ウキデヌムはようやく中庭に降りてきたイゼウーズを睨みつける。
「イゼウーズ! 本当にこの巨人は貴様が召喚した奴隷なのか? 巨人の国の密偵ではないのか?」
「そ、そんなはずは――」
私は大笑いした。ウキデヌムが顔を真っ赤にする。
「何がおかしい!」
「本気で巨人の国に勝とうだなんて思ってるの? あの国には、私の三倍以上大きな巨人が何百人といるのよ。私の一〇倍くらい大きな巨人だっている。彼らにしてみれば、あなたたちなんかその辺に転がってる石ころみたいなものよ。勝負にならない」
「な――」
「私は巨人の国の密偵ではない。なぜなら、かの国は密偵なんか使う必要がないから。あなたたちはハナから相手にされてないの。二〇〇〇年前なんか、あなたたちは巨人の国と戦う前にエッコクスニフに敗れて全員首切られてたけどね!」
ウキデヌムは唖然とした。私は突進する。雷鞭が私の脛を打擲したが、全く痺れなかった。やはりウオィエィは変わり者だった、巨人を電撃でコントロールしようと思うのなら、鎧に電気を通さない素材を使うはずがない。私の膝がウキデヌムの顔面を粉砕した。美しい小人は大の字に倒れ、完全に気絶してしまった。
中庭を覆っていた壁を粉砕し、要塞の外へと辿り着く。星博士が喜々として私の作った道を通り、高らかに笑う。
「もう吾輩の研究を邪魔する者はいない! 自由だ! 自由なのだ!」
しかしそんな彼の躰が小さく折り畳まれた。小人の影に潜んでいたのは、暗殺者の蜥蜴だった。戦場では影の中に潜み、敵将を討ち取る、確か名前はアヘク……。蜥蜴が星博士を仕留めてしまった。小人はがっくりと倒れ、アヘクが表情が読めないのっぺりとした顔でチロチロと舌を出す。
私は蜥蜴を跨ぐようにして走り出した。要塞の外は荒野だった。枯れ草ばかりが生えた、荒漠とした野原。どちらに行けば巨人の国で、先輩がいるのか、全く分からなかった。もしかすると、ウモヨクに留まったまま巨人の国と戦争に突入していたほうが手っ取り早かったかもしれない。
ほんの少し後悔したけれども、すぐにそんな小さなことは忘れた。この世界にも太陽があって、うっすらと見えるのは月の影で、空は青く、雲がたなびいている。
もし、ここが本当の異世界なら、太陽や月の大きさが同じくらいに見えるというのは、偶然で済ませられるのか。この世界を創ったのは私と近しい存在のはずだ。
創造者にとってここは理想郷だったのか、それとも単なる遊び心の発露だったのか。私には分からない。でも一つ言えることは、私は今、ウキデヌムの顔面に膝を叩きつけることを躊躇しなかった。もし地球でなら、私はきっとそんな乱暴なことはできなかっただろう。私の優しい心とやらが、他人に痛みを与えることを躊躇していたのか、与えた傷が他人の命を蝕むものだと判断して躊躇していたのか、自分が同じ傷を負うことを想像して躊躇していたのか、分かるというものだ。
ここに長く住めば、他人の痛みに鈍感になる。自分の痛みにさえ鈍感になる。首を切られても平気なのは、この世界が特別に精神的な治療効果を有しているからではなく、痛みに鈍感になっているだけなのではないか。
荒野が突然終わった。海に出た。浜辺。水平線が近かった。
石を投げて水切りしている少女がいた。パジャマを着た南里美郷だった。
気付けば私は鎧を脱ぎ捨てていた。美郷の魔術だろうか。
「ふふ、大人しく要塞の中で待ってれば、拾いに行ったのに」
「来てくれるかどうか分からなかったから。それに、前のときだって、迎えに来てくれても良かったのに」
「地球の一秒間で、こちらの世界では六日以上経つのよ? 前回はあなたがこの世界に飛び立った後、すぐに追い掛けたけど、それでも数秒はかかったわ。迎えに行こうとは思ってたけど、その前に巨人の国との戦争が勃発して、あなたのほうからあの空中都市に来たのよ」
「あ、そうだったんだ」
「今回だって、私、あなたの為に三か月くらい待ってたんだからね。呪文を唱えるのに手間取ったみたいね」
「ああ……、ごめん。私の中では上出来だったんだけど」
美郷はふふふと笑った。
「別にいいわよ。おかげで、水切りが上手くなったし」
まさかこの場所で三か月間も待っていたのか? そんなはずはないと思いつつも、時間の感覚が狂っている美郷のことだから、あり得ない話ではない。
私は足元に落ちていた丸い石を拾った。河原に落ちているべき石が海辺にあることに疑問を抱いたけれども、地球の常識なんて通用しないだろう。水切りに挑んだが、一度跳ねただけで終わった。
「手本を見せてあげる」
美郷の綺麗な下手投げのフォームから繰り出された石は、海面を幾度も跳ねてぐんぐん進む。石は水平線の向こう側に落ちた。
「ねえ、この世界も球体なの」
「そうなんじゃないの」
「知らないの?」
「海の向こうには行ったことがないの。私が知っているのは、この大陸だけ。もしかしたら私の投げた石が見知らぬ島に辿り着いて、向こうの人が驚いてるのかもね」
「行こうと思えば、行けるんでしょ?」
「たぶんね」
「どうして? 時間だけならたくさんあるでしょうに」
「苫井さん、本を読んでいて一番楽しいときって、いつ?」
「え?」
「その内容に熱中して、自分がどんな状況にいるのか忘れてしまうくらい我を忘れて、本の中にめり込んでしまうくらい集中しているときでしょ。一度読み終わった本や、いまいち本の世界に埋没できないときは、そんなに楽しくない。せいぜい『興味深い』止まりでしょ」
「そうかもしれないけど――」
「私がこの世界に熱中できるのは、好奇心を抱いていられる内だけ。この向こうに何があるのかは知らないし、興味はあるけれど、でも解明しようとは思わない。私は科学者というより詩人でいたいのよ。分かる?」
「分かる――気もするけれど。でも、いつかは確かめてみるんでしょ?」
「そうね。いずれ、この世界から去る日が来る。そのときに確かめてみる。……これ以上私の躰が大きくなると、日本で目立ち過ぎる。思い切って二〇〇〇年ここで暮らすのも手だけど、正直、そうなったら地球に戻る自信がないわ。だから、終わりの日が近いのかもしれないわね」
「美郷さんでも自信がないの?」
「私は特別な人間じゃない。たまたま魔術の遣い方を覚えただけの、女子高生。精神年齢はあなたの言う通り、おばさんだし」
「でも美郷さんなら二〇〇〇年くらい平気で過ごしそうだけど。この前は酷いこと言っちゃったけど、美郷さんなら大丈夫っぽい」
「あなた、私を何だと思ってるの」
美郷は苦笑している。
「立花先輩を眺めてたら、最初は面白かったけど、段々虚しくなっていったわ。躰が大きくなって、そしてピークに達して、やがて萎んで、それがたかだか一日と半日の出来事。二〇〇〇年の間、先輩は特にすることもなく、格別の喜びを享受するわけでもなく、ただ巨人の国で他の巨人と同じように過ごしたわ。その大半の年月を、巨大過ぎる肉体を持て余すように、申し訳なさそうに縮こめて、私を見つけては嬉しそうに話を始める。まともな話し相手がいなかったんでしょうね。まあ、すぐに誰かと話をしようとはしなくなったけれど。最初の一〇〇年くらいは普通に見えたけれど、それを過ぎたら急速に変わっていったわ。きっと人間の精神がそれ以上の年月を耐えられるようには出来ていないのね」
「どう変わったの」
「滅多に喋らなくなった。話しかければ喋るし、表面上は普通に見えなくもないんだけど、何に対しても無頓着になった。私を見つけたらちょっと興味を惹かれるみたいだったのに、すぐに諦めたかのように逃げるの。そして五〇〇年も経つと私の命令にほいほい従うけれど、話しかけても無反応になった。もう同じ人間とは言えなくなったわね」
「どういうこと」
「瞑想というのかな。思索に耽るというか。何を考えてるのか知らないけれど。生きていることが煩わしくなるんじゃないかな。でも死ぬのは怖い。生きる力が失われたわけじゃないからね。本当、でっかい矛盾を抱えた生き物よ」
「……今、先輩はどうしてるの」
「巨人の国から出て行ったわ。最近は巨人の国の住宅地で暮らしてたんだけど、私に一言も言わずに放浪を始めた」
「今はどこにいるの」
「さあ。これから探そうと思ってるの。でも、苫井さん、話が通じなくても気に病むことはないのよ。ひょっとすると、あなたのことを忘れているかも」
「そうかもね。二〇〇〇年だもんね」
軽々と口にしているが、想像を絶する年月だった。先輩がどうなっているのか、想像することも難しい。この世界にいると精神的な疲弊は少なく済んでいるのではないかという期待もあるが、自分の知っている先輩だと思わないほうがいいだろう。
美郷は空を見上げて、遠い目をしていた。
「先輩はどこにいるのかなっと……。ふむ、ここから結構近いわね」
「場所が分かったなら、早く行きましょう」
「そうね。早く、ね」
美郷はにやりと笑い、私のジャージを掴んだ。そして何やら呪文を唱える。
次の瞬間、私たちは草原に立っていた。くるぶしが隠れるほどの長さの草が鬱蒼と生い茂る、見晴らしの良い丘の上だった。
「先輩はあそこだね」
美郷が指差す。そこには公園の遊具が幾つか置いてあって、先輩が一人でブランコを漕いでいた。あまりに突拍子がなかったので、美郷の仕業かと思って聞いてみた。
「そう言えば、あんなものを造ったこともあったかもしれないわね。暇を持て余すと、人間何をしでかすか分かったものじゃないわ」
「他人事だね」
「だって、私、公園のブランコで遊んだことなんてないもの。あんなのに価値を見出だす人間じゃないわ」
私と美郷は先輩に近付いた。先輩は小声で何か言っていた。二人は顔を見合わせ、耳を澄ませた。
「……二三八八二……、二三八八三……、二三八八四……、二三八八五……」
先輩は自分が何度ブランコを漕いでいるか、数えているようだった。何という時間の浪費だろう。日本の公園で遊んでいる子供も、永遠に夜が訪れなければ似たようなことをするかもしれない。なまじここではそれが可能で、誰も止める人がいないから、傍から見ると狂気の沙汰としか思えないことを抵抗なくやってしまえるのか。
「先輩」
私が声をかけると、ブランコは呆気なく止まった。私はどうでもいいはずなのに、一瞬、「勿体ない」と思ってしまった。二〇〇〇〇回以上も漕いでいたのに、それを一切躊躇することなく中断してしまえるなんて。永遠に近い時間を持て余している者なら、確かに、そういう執着は失ってしまうかもしれない。
先輩は全く変わっていないように見えた。学校の制服を折り目正しく着こなした彼は、私と美郷の顔を見るなり、柔和な笑みを浮かべた。
「久しぶり、紗羅、南里さん」
私はあまりに普通の反応だったので、拍子抜けした。てっきりもっと狂人っぽい反応をするものだと思っていた。それは美郷も同じだったようで、眉を持ち上げて唇をすぼめていた。
「慶吾先輩、私は昨日……、一昨日かな、会ったばかりです」
「ああ、そうだよね。フフ、そうか、紗羅はまだ一日とちょっとした過ごしてないのか。フフフ……」
先輩は髪を掻き上げて爽やかに笑う。悠久の年月が先輩の人格を歪めるどころか、悟りの境地に達しているのではないかと思えるほど、他人を安心させるような立ち居振る舞いだった。私は惚れ惚れと先輩を眺めていた。
「先輩は、あまり変わりませんね。二〇〇〇年もここにいたんでしょう?」
「二〇〇〇年と言っても、そう長くは感じなかったかな。想像もつかない」
実際に体験したはずなのに、想像もつかないというのはないだろう。私は不審に思ったけれども、まともに話ができることに感動していた。これまで私が抱いていた懸念が馬鹿馬鹿しく思えてきた。人は変わりたくなくても変わってしまう。でも人には常に善くあろうという意志があって、それが人をとある座標に収束させる。先輩はこうあるべきという理想とこうであらざるを得ないという現実の妥協点に立って、私と接している。日本にいた頃から先輩はそういう葛藤と戦ってきたのかもしれない。だから輝いて見えたのかもしれない。
私は先輩ともっと話をしたかった。今、何を考え、私や美郷をどのように見ているのか知りたかった。でも、私は気付けば、
「そうですか。先輩、日本に帰るつもりはありますか?」
核心に迫る質問をしてしまっていた。もしここで先輩がノーと言ってしまえば、それまでだというのに。先輩自身が帰還の呪文を唱えなければならないので、無理矢理連れて帰るということはできない。もっと慎重になるべきだろう、と自分の頭の回転の鈍さを呪った。
ところが先輩はにっこりと笑んで、
「もちろん。帰らないと。長い休暇だったよ。早く帰りたい」
私以上に美郷が唖然としていた。信じられない。そう言いたいようだったが、驚きのあまり窒息しそうなメダカのように口をぱくぱくさせるだけだった。
私はその滑稽な顔を見て却って冷静になり、先輩に問いかける。
「それは良かった。でも、平気なんですか」
「何がだい?」
「だって、先輩、地球からこの世界に逃げ帰ってきたんじゃないですか。駅から学校に凄い勢いで駆けて行って――」
「ああ、そう言えば、そんなこともあったね」
先輩は恥ずかしそうに頬を掻く。
「あのときはまだ分からなかったんだよ。ナフヌンと人間はまるで違う生き物だということがね。本当はすぐに気付いたんだ。でも気付いたときには、躰が巨大になっていて、戻るに戻れなかった。せっかくだから長い休暇を取ることにしただけなのさ。心配かけたね」
「いえ、そんな……」
私は首を横に振った。先輩は美郷にも笑む。
「暴力を振るってごめん。ずっと後悔してた。女性に乱暴なんて、最低だよね」
「後悔って、それだけですか?」
美郷が凄味のある低い声で訊ねる。先輩はそんな彼女を受け流す。
「あと、それと、一日半も失踪したら親がさすがに騒ぐだろうなってこと。一言、友達の家に泊まるとでも言っておけば良かったな。帰ったら色々聞かれるかもなあ」
美郷が肩を竦め、私にだけ聞こえる音量で、
「全然騒ぎになってないよ。ふふふ、学校でも、先輩の家でも。ざまあみろ」
そして美郷は興味を失ったようにその場から離れ、滑り台を登り始めた。私と先輩は改めて向かい合った。
「……先輩、もう私たちは恋人じゃありませんよね」
「そうだね。ごめん。迷惑をかけたね」
「いえ。私のほうこそ、突然別れようなんて言ってすみませんでした。先輩が取り乱すのも無理はなかったんです」
「器の小さな男で、ますますきみに軽蔑されたってことが、今になって分かった。あのときは冷静じゃなかった。もう無理は言わないよ」
「そうですか……。あの、じゃあ、帰りますか? メモがあるんです。帰還の呪文」
「五秒以内に言わないといけないってやつだね。フフフ、できるかな」
「できますよ。私でも言えたんですから。それに、無理だったら美郷に手伝ってもらえばいいんです」
「南里さんは不思議な人だよね。どうやって魔術なんか使えるようになったんだろう。僕も二〇〇〇年もあったら魔術の勉強くらいしておくんだった。そうすればもっと自由に過ごせたかも」
「ここは自由ではなかったんですか」
「日本以上に縛られていたよ。だからうんざりしてた。すぐに帰りたかった。たくさん本を読みたいし、たくさん誰かと話をしたい。電車とかバスに乗って色んな場所に行きたい。飛行機に乗って外国に行きたい。言葉の通じない人とボディランゲージだけで分かり合ってみたい。美味しいものをたらふく食べたい。冷たいものとか熱いものを無理矢理喉に流し込んでプハァって言ってみたい。お風呂に入って垢を落としたい。洗髪して頭皮をマッサージしたい。ギターを練習して歌を歌ってみたい。親にありがとうって言いたい。とにかくしたいことばかりだった」
淡々と先輩は話す。私はいちいち頷いた。きっとそうだろう。この世界には足りないものがたくさんある。いや、日本にあまりにモノや選択肢が溢れていたから、そう感じてしまうのだ。この世界に足りないものなどないはずなのに、足りないと感じてしまう。根本的に、私たちはここの住民ではいられないのだ。
「それでも、二〇〇〇年も耐えたんですね」
「そうだね。大変ってわけでもなかったけれど。忘れっぽくなって、時の流れに鈍感になって、もう僕は石像と変わらないんじゃないかって気になったときもあった」
「石像ですか」
「世界が流れていくのをただ眺めているだけ。何かに思いを仮託することもなく、ただありのままの世界を写実的に捉える。無心になれたよ」
先輩は思い出し笑いをして、何度も頷く。
「フフ、そうそう、他の巨人とは全く話が合わなかったな。どうしてだろうね。皆、死ぬのを怖がっていた。いずれナフヌンになることを恐れていた。その前にこの世界から脱出すれば、そんなことにはならないと言ったのに、できるはずがない、と言って聞かなかった。何をそんなに不安に思う必要があるんだろう、二〇〇〇年間も覚悟する時間が与えられているのに、そんなのは嫌だ、なんてまるで子供じゃないか。そうは思わないか」
「そうですね……、子供ですね」
「確かに日本に戻れば嫌なことがたくさんあるよ。僕の両親は離婚した。父さんと母さんは毎日のように喧嘩をしていた。きみとは別れて、しかもなぜか学校では僕ときみがこれから付き合い始めるんじゃないかって噂が流れている。それを利用しようとした僕が言えたことじゃないけど、面倒だろう? 他にも嫌なことはたくさんあるよ。受験もそう。いつかは就職しなくちゃならない。結婚だって、あまりに早かったり遅かったりしないように、世間体を気にしなくちゃならない。好きになった女性は僕の顔や性格ばかりでなく経済力を見るだろう。僕が収入のことなんてさして気にしなくたって、向こうは気にするんだ。コンプレックスは自分で抱くものではなく、他人から押し付けられるものなんじゃないかって気もする。それはともかくとして、煩わしいことがたくさんある。病気も老いも死も苦しみも、全部背負って生きていかなくちゃならない。でも、それを避けようとするのは子供だからだ。大人になったら、全部背負った上で逞しく生きていかなくちゃならない」
「そうですね」
「嫌なものは避ける、そんな人生が楽しいかと言えば、そうでもない。多くのものを取り逃がす結果に繋がる。嫌でもやらなくちゃならないんだ。高校生の若造が何を言ってるんだって感じだけど、僕は伊達に二〇〇〇年も生きてないからね」
その割には俗っぽい言葉を使う。私に分かり易いように話してくれているのか、それとも。
先輩は熱弁する。
「この世界にいると、生きていることが当たり前になる。地球で生きていても、たかだか八〇年の人生なのに、同じような気分になるときがあるけれど、二〇〇〇年の人生ともなると、強く自分を保たないとあっという間に錯覚の海に溺れてしまう。今の僕は当たり前じゃない、危ういバランスの上に成り立っているんだ、という自覚がなければ、地球には戻れなくなるだろうね。玉乗りに使う玉を交換するようなものさ――ちょっと跳べばいいだけなのに、慣れた玉を転がし続けて、それでずっと行けると信じてる。そんなことはないのに。いつかバランスを崩すかもしれないし、玉は転がせば摩耗するし、仮に玉が十分に頑丈でも、地面のほうが削れてやがて玉を止めてしまうだろう。始まりがあるなら、終わりもあって然るべきなのさ」
「先輩は、もう死ぬのが怖くないんですか」
「怖いさ。でも、それが当たり前だろう。僕は人間だ。人間である以上、死ぬことは避けられないし、死なない人間がいたら、それはもう別の生き物だ。生き物とさえ言えるかどうかも分からない。いつか死ぬからこそ生きている、とさえ言えるかも」
それはさすがに私には分からなかった。けれど反論する気が起きなかった。
「先輩、そろそろ帰りますか。はい、メモです」
メモを受け取った先輩は複雑な感情に困惑する顔になった。
「この世界にも愛着が湧いてる。せめて今回の巨人の国との戦争がどのように決着するのか、見届けてからと思ってたんだけどね」
「見てからにしますか? どうせ数十分の誤差でしょうし」
「……いや、僕の身長は今、丁度良い感じだろう? これ以上滞在を先延ばしにすると、ナフヌンに近付いてしまうかも。今すぐ帰還するよ」
「そうですね……」
先輩はメモを凝視し、何度か呪文を唱えた。私より滑舌が悪く、結構時間がかかったが、やがて呪文が成功した。
先輩の躰が小さく折り畳まれていく。何十回も折り、拳大ほどの大きさになったとき、空間にぽっかりと窓が現れて先輩を引き摺り込んだ。窓はすぐに閉じ、跡形もなくなった。
「……こんな感じで移動してたんだ……」
滑り台の上から私を見ていた美郷が、はははと笑った。
「先輩、メモを持ったままあっちに行っちゃったけど、苫井さんはどうするの?」
「え? あ、美郷さん……」
私は一瞬、美郷が私を見捨てるのではないかという根拠のない不安に駆られて、彼女に駆け寄った。
美郷は滑り台からすぅっと降りると、見事な着地を決め、両手を掲げてポーズを取った。
「じゃあ、空中都市に移動しましょうか。あそこにしか鏡がないのよ」
「あ、お願いします……」
美郷はふふふと笑った。
「苫井さん、私のことを誤解してるみたいだけど、血も涙もない理解不能な奇人ってわけでもないのよ。他人の痛みに敏感な、ごくごく普通の女の子」
「別に、変人だとは思ってないよ」
「そうなの? だったら少しは思ったほうがいいわよ。じゃないと、あなたも変人扱いされるかも」
美郷は歩き始める。私は慌てて彼女の横についた。
「変人って思われたいの?」
「そういうわけじゃない。私は自分が普通の人間だって分かっているし……、でも、客観的に見れば私は変人よ。普通じゃない。そう見えても仕方ない。これは忠告」
「そう。ありがとう。気遣ってくれて」
美郷は私の顔をまじまじと見る。
「ねえ、苫井さん。あなたは立花先輩のこと、どう思う?」
「どうって……、元の世界に戻ってくれて良かった」
「それで終わり? だって、二〇〇〇年も死から無縁の世界にいたのに、呆気なく地球に戻るなんて、異常でしょう。少なくとも、私はそんな選択をした巨人を見たことがないわ」
「……ねえ、美郷さん」
「何?」
「この世界って、巨人がそこそこいるよね。全員日本人なんでしょ。ちょっと数が多過ぎるんじゃない」
「そうかしら」
「巨人は二日と経たずにナフヌンになってしまうんでしょう。美郷さんのように魔術を自在に扱って、こちらの世界と地球を行き来している人もいない。つまり日本中から毎日迷い込む人がいないと、こんな数にはなってないよね。おかしくない?」
「どうかな……。年に数百人くらいは行方不明者がいるものじゃないの」
「本当にそう思う? だったら、美郷さんの知っている人って、この世界に何人いる?」
「え?」
「私と、鹿野さんと、飯田さんと、先輩と……、それ以外にいるの?」
「いないけど」
「だったら、美郷さんの知り合いでナフヌンになった人はいないんだよね?」
「そうだけど……。何が言いたいの」
「本当は、この世界は美郷さんが創ったものなんじゃないの」
「私が嘘を言っているって言いたいの」
「美郷さん自身が気付いていないだけ。だって、おかしいじゃない。他の人は皆、ナフヌンになっていくのに、先輩だけ無事に帰還するなんて」
「それは……、そうだけど」
「美郷さんだけ自在に魔術を扱えるっていうのもおかしいでしょ。鹿野さんや飯田さんは使えるの?」
「いや……。うん」
「どうやって魔術を使えるようになったの」
「練習したの。必死に法則を覚えようとしたのよ。やる気さえあれば、誰にだってできる」
「私は、ここが美郷さんの明晰夢だと思う。どうして私や先輩がそれに巻き込まれたのか、現実に影響が出てくるのかは分からないけれど」
「……その可能性はあるわ。それは認める。でも、でもね、苫井さん」
「何?」
「先輩が無事だなんて証拠はどこにもないんだよ。まだ、何も分からない。彼が狂っているかもしれない。痩せ我慢をして元の世界に戻っただけなのかも。ああ見えて、先輩って投げ遣りな男だから。先のことも考えずに衝動で行動するきらいがある」
「それは……」
否定できない。もし先輩が思慮深い人なら私にストーカー紛いのことなんかしなかっただろうし。
「とにかく、早く帰って、先輩の様子を確認しないと」
「どうせ、向こうでは一秒にも満たない誤差よ。そんなに急がなくてもいいじゃない。もうちょっとゆっくりしないと人生損するよ。それより、苫井さん、本当にこの世界を利用しなくてもいいの。身長を伸ばせば、バスケット選手として凄いアドバンテージなんじゃないの」
「別に部活が人生の全てじゃないし、プロになるつもりもないし」
「そっか。残念。飲むだけで背が伸びる薬とか、背伸ばし器とか通販で売ってるでしょ。この世界に招待して無理矢理背を伸ばしたら、結構なビジネスになると思うんだけど、どう?」
「手間がかかり過ぎるし、あなたの話を信じる人がいると思う? 呪文を唱えるだけで背が伸びます、とか言っちゃうの? 怪しさ爆発だね」
「そうかなあ。藁にも縋るって感じの人をターゲットにすれば――うーん」
美郷は楽しそうに言っている。私は美郷に指摘されるまでもなく、先輩のことが心配だった。彼が普通に社会に溶け込めるかどうか、微妙だ。
まだ何も終わっていない。美郷が私と先輩を巻き込んだこの騒動はまだ着地点を明らかにしていない。
「ねえ、美郷さん」
「なあに? やっぱりこの世界に入り浸りたいって思った?」
「全然。そうじゃなくて。先輩が痩せ我慢してるとして……、先輩はどうなると思う」
「別に、興味ないけど。でも苫井さんは放っておけないわよね。無関係ではいられない間柄でしょうし」
「美郷さんも無関係ではないでしょ」
「……そうかしらね」
「あなたがこんなことに私を巻き込まなければ、こんな面倒なことにはならなかったでしょ」
「あなたは私に感謝してもいいくらいだと思うけど」
「どういう意味?」
「さあて」
美郷は笑む。
「そうそう、これは忠告だけどね、苫井さん」
「また忠告?」
「今度のは冗談じゃなくて、本気のね。……先輩の様子をすぐに見に行くって言ってたけど、しばらくは控えたほうがいいと思うよ」
「それは、先輩がおかしなことになってるって思うから?」
「元々おかしかったんじゃないかな」
美郷は笑みを引っ込めて言う。真剣な表情の彼女には迫力があった。この世界の女王としての威厳か、はたまた彼女本然の気質なのか、
「それは――冗談でしょ?」
「まさか。とりあえず、立花先輩を迎えに学校まで行こうだなんて思わないことね。会うにしても、第三者を必ず立ち会わせること」
「でも――」
「反論する必要はないわよ。これは単なる忠告だから。どうするのか決めるのはあなた自身」
突き放すようなことを言った美郷は、笑顔を取り戻し、ふんふんと鼻歌を歌い始めた。
私はそんな彼女の横顔を眺めながら、まだ何も終わっていないという事実を何度も噛み締めた。これから何かが始まるというのでもない。これまで続いてきた事実が、改めて私の目の前に提示されるというだけのこと。
まだ地球は午前四時。もうこの一日が終わってもいいのではないか。そう思えるほど疲れ切っていた。眠り直したかった。全てが万事上手く解決するとは思っていなかった。いや、先輩がこうもあっさりと地球に帰還するとは思っていなかったから、順調過ぎるほどだと言ってもいいだろう。
どうして釈然としないのだろう。その理由は、本当は分かっていた。私がこの世界に降り立って短期間で抱いた懸念を、先輩は二〇〇〇年もの間抱かなかったのか。不審に思っていた。
私はどうしてこの世に生まれたのだろう、という疑念。何か重大な使命を帯びているのなら、分かり易い。でも私はごくごく平凡な女子で、使命なんてなく、ゆえに自由が約束されている。
何の目的もなく生まれるくらいなら、生まれなかったほうが幸せではないか。死に怯えている限り、当然のように浮上する考え。それを打ち消すには生きる理由と幸せが必要不可欠で、そんなものはないと、つまらなそうに日々を消化している大人たちを見ていると、つい思ってしまう。
他人の語る生き甲斐なんて、傍から見れば自分を慰めているようにしか思えない。世の中の大部分の人はこの世に不満を抱いていて、生まれてこなければそんなに苦しまずに済んだのにねと言いたくなる。死にたくない、という願望と、生まれて来なければ良かった、という後悔は、けして撞着しない。
だからこそ製造者に責任はあって、子供は親をなじることができる。生まれてしまった以上殺して欲しくない。そこには意思があって、欲望があって、いつまでも生存したいと思う。
いつまでも、生存したい。
「ここはどこなの」
私は言う。美郷は振り向く。
「うん? どうしたの?」
「ここが、もし美郷さんの夢じゃないとするなら、誰の夢なんだろうね」
「さあ?」
「永遠に生きたいと願った人の夢かな」
「たぶん世界中に大勢いるね」
「うん」
私は頷き、美郷の顔をまじまじと見る。
「動物も夢を見るのかな」
「え? 動物? さあ……、見るかもね」
美郷は首を傾げてふふふと笑う。
「どうしたの、いきなり。この世界の創造主がそんなに気になる?」
「どうして人間は巨大化して、最終的にナフヌンになるんだろう」
「さあ。夢は人の願望を現すと言うけど」
「願望じゃなくて『常識』だとしたら?」
「常識……?」
「この夢を見ている者にとって、人間はその姿のまま巨大化して、じりじりと萎み、最終的にナフヌンのような惨めな生き物になる。そういう『常識』だったとしたら?」
「何を言ってるのか、分からないけど。そんな風に思ってる人なんていないわ」
「そう、この夢を見ているのは人間じゃない」
「動物が夢を見ているってこと?」
「ううん、違う。法律上は生き物でさえない」
「はあ? 苫井さん、宇宙人の夢とか言い出すんじゃないでしょうね」
「違うよ。……胎児。胎児の夢なんだよ、ここは」
「胎児の? 法律上、胎児はれっきとした人間だよ。人権がないのは胎芽」
「じゃあ、その胎芽。胎芽の夢なんだよ」
「何よ、その突拍子もない仮説は。似たことを言ってる推理小説があったような気がする」
「私はその小説のことは知らないけれど、きっとそうなんだよ」
「根拠はあるの?」
「胎芽にとっての人間は、醜くて、世界そのもの。大きくて、でも唾棄すべき存在」
「ちょっと待って、どうして赤ちゃんが人間をそんな風に捉えるって思うの」
「中絶で死んでいく胎芽がたくさんいるでしょう」
「あー、年間に二〇万件とかって聞いたことがあるね」
「それだけの殺人が行われているんだから、恨んでてもおかしくない。ううん、きっと自分を作った親を怨みながら死んでる。そんな胎芽が死に間際に見た夢がこの世界。永遠の生への願望と、人間への憎悪に溢れている」
「……うーん、やっぱり説得力に欠けるよね」
「かな?」
私は美郷を見る。彼女は何度も頷いている。
「まあ、納得できる部分はあるかな。胎芽も、自分がいずれ大人たちのように巨大になることは知っている。人間とは巨大になる生き物だ。しかし自分をこのようにむざむざと死に追いやる醜い生き物でもある。それがナフヌンのような矮小な生物に象徴されている。ナフヌンが共食いするのは、胎芽による大人たちへの復讐。共食いという形で大人を殺害するのは、それ以外に殺害の手段を想像できなかったから。自分たちが大人の胎内にあることは分かる。すなわち胎芽にとって敵は内に取り込み支配すべき対象。ナフヌンは殺し、殺され続ける運命」
「あるいは、ナフヌンとは胎芽そのもの」
私は言う。美郷は面白そうに口元を歪める。
「どういうことかな、それ」
「安易に命を生むな。お前も私たちと同じ立場になって考えてみろ。小さくなって、胎芽になったつもりで、考えてみろ……」
「なるほど。ふふふ、苫井さん、なかなか面白いことを考えるわね。でも、もしここが胎芽の夢なら、あまりにも人間や奴隷たちの姿を忠実に再現しているとは思わない? それだけじゃない、太陽とか青い空とか、胎芽はそんなものを見たことも聞いたこともないはずよね。その点はどう説明するのかしら」
「美郷さんが原因じゃないの」
「え?」
美郷は虚を突かれたように口をぽかんと開ける。
「美郷さんはよく明晰夢を見ていたんでしょう。胎芽の夢とリンクし、新たな世界を創り出した。胎芽が創造したアウトラインに、美郷さんの知識や観念がディティールとして描かれた。だから美郷さんはこの世界において特別」
「……筋は通ってる、のかな。もし苫井さんの仮説が正しいとしても、現実の世界にまで影響が出るのは不可解だから、最終的には理屈が通らなくなるんだけど」
「そうだね」
私はここで、これは人間への復讐だと指摘することもできた。胎芽の怨念は夢の世界だけにとどまらず、現実に影響を及ぼすのだ、と。
でもどれだけ強弁したところで仮説に過ぎず、事実だったとしても、だからどうしたと言われればそれまで。中絶は女性の権利。妊娠時に中絶しか選択肢がないのなら、避妊は大人の義務。妊娠しようが中絶しようが自分の躰のことなんだから放っておいて、なんて論理は通用しない。なぜならそこには生まれてすぐ殺された胎芽がある。既に他人を巻き込んでいる。こんな単純なことなのに、何らかの没義道や齟齬があって、年間二〇万人もの命が奪われている。
――だからどうした
――社会的に許されている。糾弾される覚えなどない
本当にそうだろうか?
誰か教えて欲しい。この世界が胎芽の夢なら、彼らはこの夢を愉しんでいるのか。ここは理想の世界なのか。それとも地獄なのか。
胎芽の復讐とは、この世界に迷い込んだ人間が地球を「地獄」だと思うように仕向けることではないのか。
永遠の生を奪われて、それが本来の姿のはずなのに「足りない」と嘆く。
胎芽が見たいのは夢ではなく、そんな大人たちの姿ではないのか。
「苫井さん、あまり深く考えないこと」
美郷は言って、私の肩を叩く。
「妄想はほどほどに。あなたがそう考えるということは、元々あなたにはそういう考えが眠っていたってことよね」
「そう……、なのかな」
「先輩とはセックスしたの?」
「は? いや、キスもしてない」
私は慌てて言った。美郷は頷く。
「じゃあ、妊娠もしてないわけだ。あなたが胎芽に恨まれる筋合いはないわよね。堂々としてたらいいんじゃないの」
「うん……」
「仮説が当たってる証拠もないんだし。あなたが落ち込む理由が一つもないわよ。ふふふ」
美郷の笑顔に慰められるとは思わなかった。それにしても、どうして私はこんなにも申し訳ない気持ちでいっぱいなのだろう。先輩に告白したとき、漠然とこんなことも予期していたからだろうか。
この死から隔離された世界には、一方で、死の臭いが充満している。ナフヌンは奴隷たちから蹂躙され、戦争では多くの小人や奴隷が殺し合っている。
死なないのではない。永遠に死に続けるではないか。
私はそんな想像をしてぞっとした。一度殺したら二度と死なない。でも、この世界では何度でも死ぬ。何度でも殺せる。それが復讐の方法としては最大級のものに思えた。
もし、この世界から逃れる算段のつかない時点でそんな想像をしていたら、きっとこの世界に留まりたいなんて思いを抱くことはなかった。先輩も同じことを思ったのだろうか。だとしたら、少し安心できる。少しだけ、ほんの少しだけ、希望が持てる。
*
午前四時。
私は自室で目覚めた。
手許にメモがない。先輩が持って行ってしまった。
当然のことながら、これが私の単なる夢であるという可能性はなくなってしまった。これまでは、美郷たちの躰が大きいのは単に彼女らの発育が抜群に良かっただけ、先輩が失踪したのは私にふられたショックのせい、なんて理屈も通用したけれど、メモがなくなったことでそういうのは通用しなくなった。
何だか現実を見せつけられた思いで、部屋を見渡す――机だとか衣装棚とかポスターだとかベッドだとか目覚まし時計だとか脱ぎ捨てられたパジャマだとかを仔細に確認する。
どれだけ立ち尽くしていただろう、携帯電話が鳴った。
美郷からだと思って、ろくに確認もせずに出た。すると、
《学校まで来てくれないか》
慶吾先輩からだった。
「え? 先輩?」
《うん。部室から出られなくて――鍵がかかってるみたいで》
「ああ、外から鍵をかけるタイプでしたっけ」
私はろくに覚えていなかった。落ち着いて部室を見渡す余裕などなかったのだから、当然だ。
《そう。学校に忍び込んで、開けてくれないかな》
「えーと」
午前四時に学校に忍び込む? そもそも、始発の電車が出ていない。高校まで辿り着くことさえ難しい。
「ごめんなさい、ちょっとそれは――」
《そうか。無理か。分かった。じゃあ、僕のほうから行くか》
ん? と思った次の瞬間には電話は切れていた。
私はしばらく携帯電話の液晶表示を凝視していた。
寒気がした。
美郷に電話する。
《どうしたの、苫井さん。五分前にも電話くれたじゃない。用件ならそのときに纏めて言ってよ》
美郷の面白がる口調。私は無性に苛立った。
「学校にいる先輩から電話があったの」
《へえ? 愛してるって?》
「今から私のところに来るって……」
電話の向こうで美郷が息を呑んだのが分かった。
《ふうむ……、先輩はあなたの家の場所、知ってるのよね?》
「うん」
《高校からあなたの家までは、どれくらいかかる?》
「電車で五〇分くらい。自転車で行くとすると――どうだろう、二時間もかからないかな」
《なるほど。猶予はあるみたいね。いい、苫井さん、先輩はあなたを殺しに来ると思ったほうがいい》
「え? ど、どういうこと?」
《先輩は学校にナイフを持参してた。私も後で知ってぞっとしたんだけど、きっとあなたが恋人になることを拒絶したら、その場で刺すつもりだったんじゃないかしら》
「ちょっと、何を言ってるの? え?」
「だから言ったでしょ。先輩は元々おかしくなってたって。あなたの家に行くってことは、あなたを殺すつもりだと思ったほうがいい。私の勘違いかもしれないけれど」
「殺す? え?」
意味が分からなかった。殺す? 先輩が、私を?
理解できない。美郷の嘘だろうか。嘘であって欲しい。先輩が私を殺す?
「『死ぬほどきみを愛してる』」
私は呟く。
《……苫井さん、何なの、そのシベリア気団より寒い台詞は》
「先輩に言われたの。ずっと前のことだけど。どういう意味なんだろうって、ずっと疑問に思ってた」
《なるほど。この愛を拒絶するくらいならお前を殺す、だから大人しく愛を受け取れってことかな。ふふふ、熱烈ね》
「笑いごとじゃない」
《もちろん。ええ、もちろん。警察に連絡したら? 彼氏がナイフ持って家に向かってくるって》
「け、警察……。そうするしかないのかな? もしそれが勘違いだったら?」
《勘違いでした、てへっ。許してにゃんって言えば?》
「……ねえ、ふざけてる?」
《全然。実際、そうするしかないんじゃないの。死にたくなければ》
「死にたくなければ……。私が家から離れれば、何も起きないかな?」
《家族が危ないかもね……。一番良いのは、家族全員で避難することだけど、でもそこまでするくらいなら、警察に連絡したほうが良いだろうね》
「そうだよね、分かった……」
どうして先輩が私を殺そうとしている、と決めつけているのだろう。美郷の言葉しかその根拠はないのに。
そんな私の一瞬の戸惑いを見たのか、ケータイの向こう側に立つ美郷が、
《死ぬのと、警察のおっさんに叱られるのと、どっちがマシなの。あなたが電話しないなら私が電話する》
「美郷さん……。ありがとう、大丈夫」
私は一旦通話を切った。そして、一一〇番をコールすることへの抵抗感が指先を痺れさせた。どうやって説明しよう。恋人が私を殺そうと、家まで向かってきている? ナイフを持った先輩が警察に見つかれば、言い逃れはできないだろう。それでいいはずだが、警察が信じてくれるかどうか自信がなかった。
一、一、まで押したところで、私は床の上にあってはならないものを発見した。
呪文が書かれたメモ。美郷が私に寄越してくれた、あの紙切れ。今は先輩が持っているはずの――
「警察に電話するつもりなのか?」
振り返った。そこには先輩がいた。私の部屋に、先輩が侵入していた。腕をだらりと下げて佇んでいる。
絶句した。訳が分からなかった。先輩が一歩歩み寄る。私は二歩下がる。すぐに部屋の端に行き当たった。背中が窓枠に当たり鈍痛。息が上手くできなかった。先輩を見上げて、その手にナイフが握られていることを視認する。
美郷の言葉は本当だった。先輩はナイフを持っている。それで私を刺そうとしている――
「どうしてここにいるの、って顔だな」
先輩は笑う。
「二〇〇〇年間も向こうにいれば、呪文の一つや二つは体得するさ。ある規則性に気付いてね、それからは簡単だった」
「そんな――だって」
「呪文を理解するのと、噛まずに読み上げることとは、別のスキルが必要だからね。だから紗羅の前で呪文を上手く言えなかったのは、演技ってわけでもない。きっと誤解してくれるだろうという打算はあったけれど」
「来ないで……」
「そんな複雑な呪文を使ったわけじゃない。帰還先を部室ではなく愛する人の場所に設定し直したまで。南里さんが気付いているかどうか知らないが、この呪文を使いこなせば、向こうの世界を経由することで、地球のどこにでも瞬間移動できる。フフフフ、嘘みたいな話だろう、でもこれは事実なんだ」
「嫌だ……」
「紗羅、どうしてそんなに怯えるんだ? 僕がきみを刺すとでも思っているのか? どうしてそんな風に思う? 僕がきみを刺す理由に思い当たる節があるのか? それはつまり、きみは僕を拒絶するってことか? 僕の愛を?」
「嫌だ、嫌だ……!」
「泣きそうになってるじゃないか。可哀想な紗羅。僕はきみを本気で愛していたのに。きみが僕の愛を拒絶するなら、きみを殺さないといけない。約束したからね》
「約束……?」
「死ぬほどきみを愛してる。きみも、それ相応の愛を返してくれないとね。不公平だろ?」
「狂ってる……。先輩、やっぱり狂ってる!」
「フフフフ。怖い声を出すなよ。僕だってきみを殺したくはない。せめて、一度くらいは味を知りたいと思ってた」
「味って……?」
「どんな味かな。フフ、だって、きみ、僕は一七歳だよ?」
「は?」
「キスもしないで、セックスもしないで、満足できるわけないよ。きみのことは本当に好きだった、大事にしたかった、そういう純情がまだ僕には残ってたんだって、嬉しかった。でも、それだけじゃ済まないよね。仕方ない」
「何を言ってるの?」
「浮気だよ。僕には別のガールフレンドがいた。女子大生とか、OLとか、年上ばかり。妊娠させて中絶させたことも何度かあった。ゴムをつけるのが嫌だった。そういう主義。分かるだろ、別にやましいことをしてるわけじゃないのに、こんな拘束具みたいな。あの世界の首輪みたいなものだよ。でもきみが相手なら、もっと愛をもって付き合える。そう思ってたのに」
自分でも驚くほど納得がいった。聞く前から分かっていた気がした。
「先輩……。やっぱり、二〇〇〇年間も向こうに幽閉されていただけはありますね」
「うん?」
「先輩に、あの世界は相応しかったんですね……」
「それは、どういう意味かな。永遠に生きるべきだってこと?」
「半分、正解です」
先輩が更に近づく。手のナイフの圧倒的な存在感。ただ机に置いてあるだけなら単なる刃物に過ぎないだろうに、先輩の手に握られていると俄かに禍々しいオーラを放ち始める。まるで何かが乗り移ったかのような。生命を憎み喜びを根こそぎ奪わんとする悪魔の手先かのような。
「じゃあ、残りの半分は?」
「先輩が今、やろうとしていることです」
「……よく分からないな」
先輩は更に一歩近づく。腕を伸ばせば、もう私を刺せる位置にいた。私はいつ刺されてもおかしくない。死んでもおかしくない。その事実が脳髄をヒリヒリと灼く。極度の緊張状態が私の全身の筋肉を硬直させる。右も左も分からないほど混乱していた。それなのに動けない。視線はナイフにだけ注がれる。
「もしかして、僕が他の女性と付き合ってたことにショックを受けているのかな? でも、僕はきみのことが本当に好きなんだよ。だから大切にしたいと思って、乱暴なことはしなかった。これほど女性に尽くしたことはなかったんだよ。なのにきみは僕を否定する。乱暴に。暴力的なまでに。突然別れを切り出して。何様なんだ」
ナイフがじりじりと近づいてくる。先輩が腕を伸ばしている。先輩は気付いているのだろうか。自分が目の前の女の子を殺そうとしていることに。気付いたときには、彼の前には無残な亡骸が残っているだけ。そして彼は嘆き悲しみ、涙を流す。そんな気がした。大人の身勝手さと子供の自分勝手さを兼ね備えた年代に、彼はいる。
「どうでもいい。先輩が誰と付き合ってたかなんてことは。今となっては、本当に、どうでもいい!」
私は叫ぶ。
「私が耐えられないのは――自分の命のこととか、他人の命のこととか、その素晴らしさもおぞましさもろくに考えずに、ここに立っている。そんな人間に恋をしてしまった自分が、耐えられない!」
「どういう……。それは、どういう意味だ、紗羅」
先輩がどすの利いた声で言う。そのとき、部屋の扉が開いた。
父と母が顔を覗かせていた。騒ぎを聞きつけて起きてきたのだろう。
「紗羅、どうしたんだ、彼は――」
父は先輩を訝しげに睨んだ後、ナイフを突きつけられている私に気付いた。
母の顔色は真っ青になったが、父の反応は真逆だった。顔が紅潮し、目が血走る。その迫力に先輩が一瞬怯んだ。
「貴様――何をしようとしている? それを――どうするつもりだ」
「う、うわああ!」
先輩がナイフを振り回した。余裕なんて吹き飛んでいた。私に向かってナイフを振り、父に向かって切っ先を突きつけ、母にも威嚇した。母は部屋に踏み込むこともできず、その場で腰が砕けた。
私は窓にへばりつく。足が震えていた。向こうの世界では戦争を経験したのに。今となっては分かる、あんなものは現実を知らない胎芽の夢に過ぎなかった。ナイフ一つで震えるこの不甲斐ない女が、巨人エレズ‐ヌソィクと同じ者のはずがない。
死ぬのが怖いのは私の心ばかりではない。
この肉体が死を拒絶している。
先輩が悲鳴を上げた。
私ははっとした。
父と組み合った先輩が呻き声を上げていた。口から血を吐いて、苦しそうに床に転がった。父が茫然と立ち尽くしている。
「な、ナイフなんか振り回すから――」
父は激しく息をつきながらも、困惑していた。先輩の腹にナイフが深々と突き刺さっている。先輩は床を這い、フフフと笑った。
「きっと驚くだろうな……、驚くだろう。次の瞬間には僕は完治しているんだから」
私は凝然と事態を見守っていた。先輩は向こうの世界へ行こうとしている。向こうでなら怪我はあっという間に完治する。
私は動けなかった。先輩は父を睨んでいる。殺してやるとその顔が宣言している。もしここで先輩を向こうの世界へ逃がせば、先輩は父を殺す。
間違いなく、父は殺される。先輩は何度でも復活する。私は歩み出そうとした。
けれど私は動けなかった。
恐怖で固まっていたのではない。
誰かが私の足を掴んでいた。
視線を下げる。
そこには無数のナフヌンがいた。
体長五〇㎝ほどのナフヌンが私の周囲を蠢いている。
ナフヌンがキーキー喚きながら私の前進を妨げている。
悲鳴さえ出なかった。驚愕し、そのおぞましい姿に息が詰まった。
「オヤレウェレ、ウシオウナケクボィエヘウ、オィノムコリキヘニウトウエクオトヨノク」
先輩が叫ぶ。その姿が消える。私は絶望した。同時に、ナフヌンの姿も消えていた。幻覚にしてはあまりに生々しかった。
父はひたすらに立ち尽くしている。先輩の姿を見失い、困惑している。
母もきょろきょろと辺りを見渡し、先輩が自分の背後にでもいるのかと思ったか、小さく悲鳴を上げて立ち上がり、父の背中にへばりついた。
私は大きく深呼吸した。
数秒が経った。
一〇秒経った。
三〇秒経ち、私はその場にへなへなと座り込んだ。
一分経って、ようやく父が言葉を発した。
「あの少年はどこに行った?」
私は首を横に振った。分からなかった。ここから逃げて、別の場所に移動したのか。向こうの世界で頭を冷やし、私たちを皆殺しにすることを諦めたのか。
何も分からない。
脚がじんじんと痛む。
ジャージを捲ってふくらはぎを見ると、ナフヌンの手形が無数に残っていた。
ナフヌンは、どうしてこちらの世界に?
何がしたかったのだろう。
冷えた汗が首筋を伝う。
母が私に近付き、抱き締めた。
理屈もなく、私はそれを受け入れた。
温かい。
ああ、幸せだったはずだよね。
お母さんのお腹の中にいるときは、幸せだったはず。
それなのに突然殺されて、無念だったよね。
私は天井を仰いで、生きている、と思った。
私は生きている。
涙が頬を伝う。
恐怖の為だろうか。それとも、母親の温もりがよほど嬉しかったのか。
私自身にも分からない。
「あれは誰だったんだ」
父が私に訊ねる。私は思案した。忽然と消えた先輩。先輩の腹を刺してしまった父。床に残る血痕。
「幽霊だよ」
私は嘘をついた。
「最近、私、妙な幽霊に憑かれてたの。でも、もう大丈夫だから」
「幽霊……」
「お父さんとお母さんが追い払ってくれたから。もう、大丈夫だから……」
*
疲れ果てて、少し眠っていた。起きると午前六時頃になっていた。ふと枕元に置いてあった携帯電話を見ると美郷からの着信で履歴が埋まっていた。
「美郷さん?」
掛け直すと、美郷は昂奮した様子で、
《見直したわ、苫井さん》
「……何が?」
《立花先輩を刺したんでしょう。よくやったわね。しかも、向こうの世界に追い返した。絶妙な手技だわ》
「はあ……?」
《向こうの世界では不死身。だから今も先輩は生きている。けど、地球で負った怪我が向こうの世界で癒えるわけではない》
「……それは、つまり……?」
《先輩の腹には穴が開いたままだってこと。いつまでも苦しみ続けて、でも地球に戻ったらあっという間に死んでしまうから、戻るに戻れず――ナフヌンになっちゃった》
「病院に瞬間移動すれば、治療は受けられたんじゃないの?」
「あの怪我じゃまともに発声できないよ。ふふふ……」
私は驚くと同時に、納得もしていた。向こうの世界で怪我を癒せるなら、数秒で地球に戻ってきて、油断している父や私を刺し殺そうとしたはず。それができなかったのは、向こうで悶え苦しんでいたからなのか。
「先輩は――じゃあ、向こうで一〇〇年以上も苦しみ続けていたの?」
《そうね。ちょっと可哀想だけど、あなたを殺そうとしてたんだから、自業自得よね》
想像しただけでぞっとした。それほど長い期間、腹に激痛を抱えているなんて。自業自得と言えばそれまでだが、やり過ぎな気もした。
《ねえ、苫井さん。罪悪感を抱く必要なんてないのよ》
「でも……」
《だって、もう終わったことですもの。今は午前六時。先輩が向こうの世界に逃げ帰ったのは午前四時をちょっと過ぎた辺り。人間がナフヌンになるのに十分な時間。あなたは、今まで眠ってたの?》
「うん」
《私は、面白かったから、先輩が悶え苦しむところを見ていたわ。ナフヌンの中でもかなり弱ってて、他のナフヌンに苛められてた。で、喰われてた。すぐに醜悪な連中の仲間入りよ。他のナフヌンの死肉と混ざり合って新たな個体の肉片となり自意識なんてなくなって、漠然とした快楽と苦痛を刹那的に抱く……、孤独とは無縁の存在になった》
「……うん」
《ある意味、楽園と言えるのかも。寂しがり屋の先輩にとってはね》
「傍から見たら、地獄だけど」
《先輩から見たら地球が地獄かもよ。もう怖いものなしよ。だって、自分という存在が希釈され、ナフヌン一般に拡散したんだもの》
「それは、死とどう違うの? もう考えることも、何かを感じることもなくなるんじゃないの」
《創造主の慈悲なのかも。死ぬのではない、永遠に生き続けると信じ込ませることで、死への恐怖を取り除く――実際、ナフヌンが何を考えているのかは知らないけど、本当に生き続けてるのかもしれないし――》
「美郷さん、もう先輩は帰ってこないの?」
《無理じゃないかな。仮に、向こうの世界が胎芽の夢だったとして、その夢が終われば、解放されるのかも。でも、胎芽の夢って何よ。もう夢を見ている彼らは死んでるんじゃないの? 永遠に覚めることはない》
「美郷さんは、創造主の慈悲、って言ったけど……」
《ええ》
「むしろ、創造主が慈悲を欲しているんじゃないかな。終わらない夢を見続ける、胎芽を慰める為に、美郷さんが」
《私が?》
「うん。美郷さんの明晰夢が胎芽の意識を掬い上げた。だって、美郷さんって、案外優しいでしょ」
《……ふふ、私は優しくなんかないわよ。それに、そういう意味なら、慈悲と呼ぶべきじゃないわ。償いとでも呼ぶべき》
「償い?」
突然、通話が切れた。私はもう一度掛けようかと思ったが、やめた。もう少し時間を置いてからにしよう。
ノックがあり、母が顔を覗かせた。笑顔だった。
「もう、大丈夫なの、紗羅?」
「うん。今日は、学校行くから。昨日はごめんね」
「ううん、幽霊の所為だったんでしょ? もう少し寝てなさい。部活には行くの?」
「うん」
幽霊。普通だったら信じない。けれど先輩が私の部屋から忽然と消えたところを、母は目撃している。信じるしかない。
罪悪感はなかった。他に説明のしようがない。真実をありのまま話しても信じてくれるとは思わない。幽霊と言ったほうが信憑性がある。それほど奇妙な真実。
幽霊。
もう先輩は死んでしまったのだろうか。私はそう信じたいのか。
いや、死んだはずがない。
ナフヌンになって。
縮んで、小さくなって、自分が生まれた頃の混沌とした意識を思い出して、選択できない立場に戻って。
自らの選択を恥じる。
きっと、恥じる。
恥じなければ、家畜がお似合いだってことだ。
*
全て夢だったらどんなに良いだろう。
そう思いながら学校に行き、朝の部活では思いのほか気持ちの入った練習ができた。
私と先輩をくっつけようとしていた友達は何事もなかったかのように私に接してくる。制汗スプレーを吹き付けながら、あまりに無垢な顔をして話しかけてくるので、邪険な対応はできなかった。
運動着から制服に着替えて、教室に向かおうとする。
渡り廊下に立花先輩の後ろ姿があった。
最初は見間違いかと思った。しかし横顔はまさに先輩のだった。
あまりに驚いて、何も考えられなかった。隣を歩いていた友達がシシシと笑い声を噛み殺しながら、
「立花先輩、恰好良いよね」
とか言っている。
私は頷いた。
そう、それは確かに現実だった。
ただし過去の。
私は渡り廊下を歩きながら、一年生の春、まだ高校の部活に慣れていない頃、先輩の後姿ばかり見ていた当時のことを思い出した。
今はもう、先輩はいなかった。あのときの光景が風景とだぶる。学校の風景はこんなにも変わりないのに、もう先輩は戻ってこない。
学校では失踪したことは伏せられていた。数日後には大きな騒ぎになっているかもしれないが、今日のところは、まだおおごとにはなっていない。先輩と同じクラスの生徒には、家庭の事情とだけ説明されたようだ。
昼休み、美郷が私の席に近付いてきて、話があると告げた。
いつも私と一緒に教室で昼食を食べている友達数人が、胡散臭そうに美郷を見上げる。私があっさり応じたので、更に驚いたようだ。
私と美郷は屋上に向かった。何組か、屋上でのランチを楽しんでいるグループがいる。美郷がのっそりと一角を陣取ると、そこが彼女の定位置らしく、やけに落ち着いた様子で空を見上げた。
「全部夢だったら良いのに。なんて思ってない?」
私は美郷の勘の鋭さに舌を巻いた。
「まあね。美郷さんは?」
「全部夢だったら嫌だな。と思ってる」
「美郷さんとは一生分かり合えない気がするな」
私が笑って言うと、美郷もくすくすと笑う。
「あら、私たちって親友でしょ。あなたが言ってくれたとき、冗談って分かってても、ちょっと嬉しかった」
「ああ、そうなんだ。じゃあ、それでもいいよ。で、話って何?」
「私、立花先輩と同じ中学だったんだよね。地元の、公立中学」
「へえ?」
「先輩と付き合ってた。当時は私も、今より可愛かったし、お似合いのカップルとか言われてた」
「今でも可愛いよ」
「ありがとう。でも、もっと可愛かったの。で、妊娠した」
「そうなんだ」
前から知っていた気がした。
「最終的には流産したけれど。先輩は私が妊娠したと知ったとき、逃げようとした。私が相手の名前を告げなかったら、きっとうやむやにしてたと思う。恨んだ。嫌いになった。でも、先輩と同じ高校に進学した。親は私がまだ先輩のことを好きなんじゃないかって疑ってたけど、逆。復讐したかった。いつか殺してやるって思ってた」
「それはそれは……。凄いね」
「でも、先輩が苫井さんに付き纏っているとき、ちょっと嫉妬しちゃった。ふふふ、おかしいよね」
「別におかしくないと思うよ」
「そうかな?」
「うん」
「ありがとう。……そういうことだから」
「どういうこと?」
「だから、向こうの世界が胎芽の夢だってこと。私の明晰夢がそれを補完したってこと。苫井さんの仮説は当たってると思う。母親の胎内しか知らない胎芽が世界を創造したらああなるのかもしれない。と、今になって思うの。死ぬなんてことも分からなくて、食べることも、排泄することもよく分からなくて、ただひたすら眠っていて、自分を包み込むのが自分より大きなヒトで、そのヒトは自分を勝手に生み出して、勝手に殺す。胎外の世界を想像したら、あんな奇妙な法則が支配する場所になるんじゃないかな。それと、父親に向かって、お前もワタシと同じ立場に立ってみろって言ってる気がして」
「それは、そうだろうね。うん」
私は美郷の悲しげな顔を見た。胎芽の夢はありきたりな生を謳歌している私たちを元気づけてはくれない。彼女が破滅するのではないかという危惧を抱いた。
「これからも向こうの世界に行くの? やめておいたほうがいいと思うよ」
「もう、行けなくなっちゃった」
「え?」
「呪文を唱えても、行けないの。夢が消えちゃったのかな」
「そうなんだ……」
「別に困らないけどね。どのみち、これ以上躰を大きくするつもりはなかったし」
「そうだよね。……先輩とはもう会えないんだね」
「それは、どうかなあ」
「え?」
美郷は笑う。
「夢の中でなら、会えるでしょう」
私はぽかんとした。ふとすると詩的で他愛のない台詞のように聞こえる言葉が、今はより生々しく聞こえる。
美郷は不服そうな顔になった。
「私、おかしなこと言ってる?」
「全然。むしろ、良いこと言ってる」
「でしょ?」
「でも似合わないな」
私は笑う。美郷はますます不機嫌そうな顔になった。
「喧嘩売ってる?」
「いやいや、ごめん」
「謝って済むくらいなら世界に戦争なんて存在しないわよ」
私は肩を竦める。
「謝って済むようなことでも、戦争のきっかけになる気がする」
「だから、何?」
「謝罪は素直に受け入れましょう。という教訓」
「ふふ、向こうの世界では、謝罪なんてしても誰も聞いてくれないけどね。戦争だってなくならない」
「でも、美郷さんがいなくなったから、あの世界から戦争はなくなるかもしれないんでしょ」
「なにそれ?」
「だって、美郷さんが戦争を継続しようと色々と手を打ってたんじゃないの」
「まさか。私があの世界に足を踏み込んだときには、戦争は世界の根幹を為していたわよ。たとえ大聖人が尽力しようとも、あの世界から戦争はなくならない」
「そう、だったんだ」
「あの夢を見ていた人――私か胎芽か知らないけれど、世界は争いに溢れているのが当然だと考えているんでしょうね。あの世界は狂っている。けどただ淡々と時間を潰すのに最適な場所だった。安心とはちょっと違う。自分が怠惰であることを忘れさせてくれるような、そんな場所。そうは感じなかった、紗羅さん?」
美郷は顔を赤くして笑った。何をそう恥ずかしそうにしているのだろう。私はしばらく意味が分からなかった。
屋上からは街並みが一望できるはず。でも私と美郷は座り込んで意味のないことを延々と喋っていた。ふと視線を持ち上げれば青空に鏤められた白雲。少し視線を下げると高層マンションや電線。それ以上視線を下げる気になれなくて、私は美郷に目を向けた。
彼女はじっと私を見つめている。その眼差しが悲し過ぎて、私は息を止めた。
「いつか、私たちも死ぬのよね」
「そうだね」
「紗羅さんは、怖い?」
「怖いよ」
「でも、平気そうな顔をしてる」
「忘れてるから。そして思い出すから。慣れるんだよ。ううん、慣れた気になって、感覚がマヒして、本当は怖くて仕方なくて、忘れようとして」
「その繰り返しだよね。向こうの世界にも、死はあった。ナフヌンになるという終末を死以上に恐れる人はいる。ただ二〇〇〇年の間に生の意味が希釈される。人は死をより長く忘れることができる」
「美郷さんも死ぬのが怖いの?」
「覚悟はしているはず。でも、怖いのは変わりない。生への執着って黴みたいなもの。長く放っておけば放っておくほど深く浸潤してこびりつく。怖くて、怖くて、でもいざその恐怖がなくなったら、世界は色褪せて見える」
「あるいは、おもちゃみたいに」
「そうだね」
美郷は力なく笑う。
「命さえもおもちゃにできるんだよ、人間は。向こうの世界では、それがより顕著になるだけ。死んで当然、って感じしない?」
美郷は向こうの世界で生きることに、まだ執着があるのかもしれない。
私も全くないと言えば嘘になる。
でも地球で普通に暮らしていたいというのも本音。
気まぐれで向こう見ずな私は、そうやって迷って揺らいで、結論を先送りにして生きている。混じりっ気なしの激情を抱いて行動できる人間は、傍から見れば頼もしいような、危ういような、滑稽なような。
「死んで当然だよね」
私は答える。
「私たちなんか、死んで当然だよ」
でも、死にたくない。
世界の胎内に抱かれて感じたことは。
たったそれだけの感情。
死にたくない。
先輩、聞こえますか。
死にたくない、ですよ。
人間は皆ナフヌンになってしまえばいい。
そうすれば少しは、死を身近に感じて、人に優しくなれる。
私にそれを教えてくれた人は、既に亡い。
〈了〉
これにて完結です。ありがとうございました。
言い訳になってしまうかもしれませんが、とりあえず本家のガリヴァー旅行記(全訳)も結構えぐい作品だということだけは言っておきたいです。本家作品の狂気を模倣したかったのですがちょっと方向性を間違ったかもしれません。