人間
世界は平面であり、外縁には空より高い壁が聳り立つという。でもそれは目には見えない。透明なのかと言えばそうではない。誰に聞いても答えは曖昧で、この世界に端なんてないと言う者もいる。でも平面上の世界なら端はあるはずだと言っても誰も首を傾げるばかり。いっそのことこの世界の端に行ってやろうかと思うのだが私には自由なんてない。不自由なままこの世界からさよならする予定だ。
世界の土地を一〇〇〇に分割し、その内の五〇〇を領土としている巨人の国に勝利する為には、可能な限り多くの召喚士を揃えて一斉攻撃を仕掛ける他はない。しかしそれをやっても互角に持ち込めるかどうかは微妙だ。巨人の国がどれだけの戦力を蓄えているのかなんて、本当のところは誰も知らないのだ。
逆に言えば呆気なく勝利する可能性もあるわけで、確かにこれで勝算が薄いと悲観するような奴は争いごとに向いてないと言えるだろう。
決戦が近いと聞いても奴隷たちは変わらない日々を過ごしていた。広場でのんびりと談笑している。先輩は一人で物思いに沈むことが多かった。他の寡黙な巨人と似ていた。戦争を多く経験するとああなるのだろうか。私が他の奴隷と話していると虚ろな視線を向けてくる。でも私から話しかけるのが怖かった。拒絶されるような気がして、少し離れた場所で様子を見る。そんな心配は杞憂だったのか、先輩のほうから話しかけてきて、微笑を見せてくれた。でもそれが偽物なのか本物なのか、そもそもその区別に意味なんてあるのか、私は考えながら、先輩と何か話をした。内容は忘れた。お互いに話をすること自体が目的だったからだろう。そうやって互いに何も変わっていないとアピールしたり、それを確かめたりしていた。探り合いと言っても良かった。
エッコクスニフの召喚士全てが出征し、奴隷だけとなった。それでも秩序は破れなかった。誰も逃げようとしなかったし、その種の冗談めいた言葉が飛び交うこともなかった。逃げても無駄だと分かっていたのもあるのだろうが、好奇心も多分にあっただろう。この先世界はどうなるのか。巨人の国の実力はどれほどのものなのか。巨人の国と呼ばれるくらいだから、巨人が多いのだろう。どれほどの軍勢なのだろう。
そうやって浮かれている兵士たちを見ていると、やはりこの世界の戦争は戦争と呼ぶにはあまりに潔癖で緊迫感が足りないと思ってしまう。レジャーの一種みたいだ。いやこの世界ではまさにそうなのだろう。
そして召喚士たちがいなくなって数日後に、広場から続々と奴隷たちの姿が消えていった。何の前触れもなく消失するので、最初は驚いたが、いよいよ召喚士たちが戦場に到着して奴隷を呼び出しているのだろう。
先輩が私に笑いかける。
「何も心配はいらない。ドサクサに紛れて降伏すれば、痛い目には遭わずに済むだろう」
「上手くいけばいいんですけど……」
「大丈夫さ。大丈夫」
何を根拠にそう言うのか。他人事のような気がしてならない。
「先輩も降伏するんですよね」
私は尋ねた。そのとき、一瞬だけ先輩の顔が歪んだように思う。それは嘘をつこうとした顔ではなかった。かと言って私の質問にまともに答えようとした顔でもない。
それは明らかな嫌悪だった。私は茫然とする。先輩の姿はなかった。召喚士エクンウゼィに呼び出されたのだろう。間もなく、私もイゼウーズに呼び出された。その瞬間に鎧が身についていた。
そこは湿原だった。舟に乗った奴隷たちが編隊を組んでいるが、私は湿原に臍の下まで浸っており、靴越しに泥の不安定で流動的な感触があった。
傍らの小さな舟にはイゼウーズの姿があった。久しぶりに見る彼の顔は随分やつれて見えた。実際にはそんなことはないのだろうが、気落ちしているのは確かだった。
「どうしたの」
「挨拶くらいしろ、いきなり主人に質問をするとは、無礼な奴だ」
「こんにちは。……だって、落ち込んでいるように見えたから」
「船酔いだよ、馬鹿野郎。西方のナヒツズ攻略を任せられて、長旅を強いられていたんだ」
「それで、ずっといなかったんだ」
「お前には分からんだろうが、ここはウモヨクやエッコクスニフの裏側にあるんだ。巨人の国を避けるように長旅をして、本当に大変だった。舟でここまで進むのも一苦労だったし」
「お疲れ様。……ねえ、あれが巨人の国の要塞?」
湿原の向こうに巨大な構造物があった。霧がかかっていて輪郭が定かではないが、ざっと六メートルはあるだろう。小人が築き上げた小さな砦に見慣れていたから、その異様な存在感にびくりとしたが、地球で私はもっと大きな建物を山ほど見てきた。別に恐れる必要なんてないはずなのに、どうしてだか胸の高鳴りが治まらなかった。
「要塞、ね」
イゼウーズの表情は冴えない。
「もしそうならいいんだが。俺は嫌な予感がしている。……なあ、エレズ」
「なに?」
「今まで聞いてなかったが、巨人には大人と子供がいるそうだが、お前は大人か?」
「……子供かな。でも体格はかなり大人と近いと思う。もちろん、女のね。だから別に大人でもいいよ」
「なら、いい。いいはずだ」
しかしイゼウーズの表情はずっと曇っていて、私は心配になってしまった。
「船酔いしてるんだよね?」
「ああ」
「あなたたちって船酔いするの?」
「する。実際にしている」
イゼウーズはうざったそうに私を見上げた。そして彼方に見える要塞をじっと見る。脂汗が彼の顎を伝う――小人も汗をかくのかと私は不思議に思った。なら水分補給が必要だけれど、この世界の誰かが水を口にしているところなど見たことがなかった。実際、私だってこちらに来てから一度も水分を摂っていない。
不可解だと思ったその瞬間、湿原が割れた。
巨大な波が船団を襲った。私は泥とはいえ地に足がついていて踏ん張りが利いたけれども、水面に浮かぶ舟は流されるままだった。中には転覆する舟もあった。近くにいた小人や奴隷は私が拾ったが、全ては助けられなかった。
湿原に生まれたうねりは、何か巨大なものが引き起こしている。霧の彼方に目を凝らす。向こうでは大きなものが動いている。巨人が操舵する船だろうか。最初そう思った。でも違った。それは一足、一足、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
私はそれを見上げた。
見上げるほど大きかった。
霧が晴れ、その巨大で醜い外貌が露になる。
鎧も纏わずに現れた全裸の男。
膝下までしか水に浸っていない。
剥き出しの性器と性毛から水が滴り落ちている。
毛深い。
肌は褐色で罅割れている。
顎鬚が鳩尾の辺りまで伸びている。
その双眸は灰色で黒い光を宿している。
巨人だった。私の身長の三倍はある。正真正銘の巨人だった。
私は小人の気持ちを理解した。
勝てるはずがない。
自らの三倍もの身長を誇る相手に、勝てるはずがない。百人かかろうが、千人かかろうが、勝てる気がしない。実際にやってみれば倒せるかもしれないが、そもそもやってみようという気になれない。それほどの圧迫。
私は巨人を見上げていて周囲の変化を失念していた。巨人の背後から何かが迫ってくる。それはかつて私が要塞だと思ったものだった。霧の中から現れたのは数十人の巨人。いずれも感情を失った顔をしている。彼らは私たちを見ていない。ただ前を見据えて前進をしている。何だろう。私はその顔に見覚えがあるような気がした。でもそれが何なのか分からない。
躰の長さも幅も厚みも三倍。軽く撫でられただけで私なんか水の底に沈んでしまうに違いない。勝てない。勝てない。勝てない。
先頭の巨人が私を見下ろした。そこで彼の表情が僅かに変化した。
それは、意外なことに、親愛の表情だった。私は呆気に取られたが、すぐに圧倒的な暴力に晒された。
巨人たちが一斉に足を振り上げて、船団を蹂躙し始めた。巨大な波が起こっただけで船団は無力化された。私だって左右にふらつき、危うく溺れるところだった。
巨人たちはただ水遊びをするようにステップを踏むだけ。それだけで軍団は壊滅した。戦術も何もなかった。エッコクスニフは敗北を喫した。そして、他の戦場でも似たようなことが起きていることは想像に難くない。
私は巨人を見上げる。一人の巨人が私に手を伸ばす。逃げようとしたが、捕まった。巨大な掌が私の胴を優しく締め付ける。空中に持ち上げられたときは生きた心地がしなかった。
巨人の瞳に色が宿る。それは穏やかな茶だった。
「きみ、女子高生?」
巨人の喉から、思いのほか親しみ易そうな声が発せられた。
私は小さく頷いた。それが精いっぱいだった。ふと下を見ると、巨人たちが網を引っ張り出して奴隷たちを掬っていた。
私は茫然としていた。巨人は私を見て不器用そうに笑った。
「久しぶりだな、もしかして日本人?」
「……は、はい」
「小さいと、可愛いね」
感心したように巨人は言う。私は失神寸前だった。目の前に巨大な髭面がある。可愛いねと言われたって、その迫力たるや筆舌に尽くし難い。
「心配しないで。小人たちには仕置きが必要だろうけど、奴隷には何もしない」
そんなことを聞かされたって、私は少しも安心できなかった。早く逃がして欲しかった。私はもう意識が保てない。ああ、胴体を締め付けられているから血が止まっているのだろうか。巨人は心配そうに私の顔を覗き込む。
「大丈夫かな? ああ、すぐに女王様に会わせてあげるよ。しかし、きみも運がなかったね。最初から巨人の国に召喚されていれば、余計な苦労をすることもなかったんだ」
それからも何か言われた気がした。けれどもう何も覚えていない。これから小人と接することがあったら、もっと控えめにしようと思った。想像以上に、人は大きいものが動くと恐怖を感じるものだ。全身がぞわぞわする。きっと自分を儚い存在だと思い出してしまうから怖いのだ。すぐに砕けてしまいそうで、私は巨人の指先から体温を感じて鳥肌が立った。
戦争は数年にも及ぶという予測は的中しなかった。巨人の国から三〇〇名ほどの「大巨人」が出撃して、二日でエッコクスニフを始めとする同盟諸国を壊滅状態に追いやった。奴隷は捕獲して閉じ込めただけだが、召喚士たちには相応の罰が与えられたらしい。伝え聞いたところによれば、手足をもがれ、股を裂かれ、逆さに吊るされて臓物を引き摺り出され、それを鳥がついばんでは吐き出し――とにかく酷い責め苦を受けているそうだ。
私は他の捕獲された奴隷たちと共に、巨人の国へと移送された。移送と言っても召喚術で一発だった。気付けばそこは都市の只中であり、私とほぼ同サイズの人間が街中を歩いていた。その街並みはヨーロッパ風で、石畳の往来とカラフルな屋根が目に付いた。延々と住宅が並んでいる。生活感を感じないのはこの世界には食事も排泄も汚穢も存在しないからだ。私の下半身を汚していたはずの湿原の水はどこかに消え去ってしまっていた。それどころか鎧も首輪もどこかに消え去っている。私はもうイゼウーズの奴隷ではないということだろうか。
一緒に飛ばされた奴隷たちの中に他の巨人の姿はなかった。もちろん慶吾先輩も。私たちを先導するのは大巨人の男だった。大巨人は街並みの中で異様に目立って見えた。どころか、この街の住民でさえも、大巨人には怯えているように見えた。
街行く人に私は声をかけた。すると笑顔を返してくれたが、止まってじっくり私の話を聞いてくれる人は一人もいなかった。
どこに連れていくのかとビクビクしていたら、住宅地の真ん中で先導役は止まった。
そして空を指差す。
私たちは空を見上げた。すると空に浮かぶ巨大な島が見えた――島は私たちの真上にあり、間もなく太陽の光を遮り、一帯を深い影の中に落とした。島の底部は平坦だったが紛れもない岩の塊で、目を凝らして見ると窓のような窪みが見えた。そこから誰かの顔が見える。じっとこちらを観察しているようだ。
そして先導役の大巨人が、何も言わずに私を持ち上げた。あたふたする私に彼は忠告した。
「じっとしてないと怪我するぞ。頭が潰れたり手足がバラバラになるかも」
それは単に怪我と呼ぶべきものではなかった。せめて大怪我、くらいは言って欲しい。いくら死なないと言っても痛みはあるし、私はこちらの世界に来て普通なら致命傷に至るような大きな怪我を負ったことはない。
「何する気?」
「空飛ぶ島への片道切符だよ。ははは」
大巨人は快活に笑った。そして振りかぶった。血の気が失せた。血が逆流する。叫ぼうとしたら既に空の人だった。大巨人は私をソフトボールか何かのように乱暴に投げつけた。空高く君臨する島めがけて。
窓から顔を見せていた何者かが、身を乗り出した。阿呆かと思った。まさかキャッチするつもりか。できるはずない。
しかし窓から出てきたのも巨人であり、しかもそいつは大巨人より更に巨大だった。私の身長の一〇倍はあるのではないか。遠くからでも顔が確認できたのはそいつの顔が常識では考えられないほどでかかった。超大巨人とでも呼べるそいつは腕を伸ばし、私を片手でキャッチし、掌の上に乗せた。そう、それほど巨大だった。超大巨人の鼻息を感じて私はビクビクしていた。超大巨人は私を興味深そうに観察した後、窓の中へと入った。
窓と思っていたものは入口だった。近くで見るとそれは大巨人が両腕を広げても端から端まで届かないほど巨大な門だった。
空飛ぶ島の内部は「ヘンテコ」の一語に尽きた。円筒状の通路が上部へと続いているのだが、入口が最下部にあるおかげでかなりの距離を登らなければ居住スペースまで辿り着けない。攀じ登るときに使うのが、小人用の細長いスロープ、人間用の階段、大巨人用の梯子などだ。それらが綺麗に色分けされ、入り組んで上へ上へと伸びている様は、機械の複雑な配線を見ているかのようだった。
私を掌に収めた超大巨人は、スロープも階段も梯子も使わずに、それらが束なって出来た取っ掛かりを足にかけて、登っていった。それは凄まじい速度で、振り落とされないように彼の指に掴まらなければならなかった。
ものの数十秒ほどで、円筒形の通路から金属のタイルが敷き詰められた広場に出た。超大巨人の出番はそれまでのようで、私を下ろし、そこから姿を消した。
それも仕方ないことで、ここから先は私サイズの人間でなければ自由に動けそうになかった。大巨人でも窮屈そうだ。白い壁の半円形の通路が東西南北に伸びている。通路の左右には黒く塗装された扉が並びときどき人が出入りしている。もちろんサイズは私と一緒か、やや大きいくらいだった。
「こっちだよ」
傍らに人がいた。その顔を見て私は仰天した。
目の前にいるのは南里美郷といつもつるんでいた、鹿野裕子だった。暗い黒魔術部の部室の中で本を読んでいた、あの不気味な女子だ。私よりやや背が高く、そのせいか顎を引いている。すると上の歯が唇からはみ出し、鋭利な犬歯が剥き出しになる。目の下には薄い隈が出来ていて、細かな吹き出物が肌を覆っている。顔立ちは可愛らしい部類なのに、大柄なのと不健康そうな肌でかなり損をしている女子だった。
「鹿野さん……」
「あはははは、私の名前、憶えてくれてたんだ。ははは」
何がおかしいのか、鹿野裕子は笑い声を上げ続けた。表情がほとんど動かず、猛禽類のような鋭い眼差しで私を凝視したままだったので、不気味だった。
「ここは何? あなたも巻き込まれたの」
「まさか。ここはウチだよ。勉強部屋的な?」
鹿野はわざと意味不明なことを言って私を惑わせようとしているに違いない。私の反応を窺っていた。不安がる表情を見せて彼女を喜ばせたくなくて、私は平気なフリをした。なのに鹿野はにやりと笑った。待ってましたと言わんばかりに。
「苦労した?」
「え?」
「奴隷として扱われて、苦労した? 一回死んだ? どうだった?」
私は困惑した。見知った顔に出会えたのに、全く安堵しなかった。目の前の人間は本当に同学年の女子なのだろうか。異星との交換留学生とでも話している気分だ。根幹の部分で分かり合えないという確信がある。
「死んでないよ。死ねないんだから」
「そういう意味じゃなくてさああー」
「分かってるよ。大丈夫、電撃喰らったくらいで」
「気持ち良かった?」
「え?」
「気持ち良かったでしょ? 落ちるとき。ね?」
私は絶句した。もちろん気持ち良くなんかなかった。この女は頭がおかしいのだろうか。はははと鹿野は笑う。そして何も言わない私に飽きたように、背を向けて歩き出す。
「ついて来てよ。女王様に会いたいでしょ」
「女王に会えるの?」
「会えるよ。ここって女王様の家だもの。その為に来たんでしょ」
「……あ、あのさ、慶吾先輩って無事にここに到着した?」
「立花先輩? ああ、そう言えばエッコクスニフに一人だけ残って奮闘している巨人がいるって話を聞いたけれど、それが先輩かもねえ。違うかもだけど。いずれ来るんじゃないの」
「そんないい加減でいいの」
「どうせ時間は幾らでもあるんだしさああははは」
まるで音響装置が壊れたかのような笑い声を、鹿野裕子は上げる。私はまず耳の不調を疑い、それから彼女の正気を疑う。いちいちびくりとするからやめて欲しい。もっと普通に話せないのだろうか。
鹿野は通路を歩く。一つの扉を開けて、中に入る。私はそれに続いたが、扉の向こうも通路だった。同じような通路が続いていて、私は面食らう。
また別の扉を開け、中に入り、新たな通路に出る。それを何度も繰り返した。鹿野がふざけているのではないかと思い始めたとき、唐突に、扉の向こうが豪奢な謁見室になっていた。礼拝堂のような雰囲気の奥行きのある部屋。玉座があって、その前に衛兵らしき大巨人が控えている。高級そうなタペストリーが何枚も壁に掛けてあり、宝石のささやかな光に一瞬目を奪われた。
玉座には誰も座っていない。しかし奥の通路から誰かが現れ、謁見室の入口で立ち尽くす私を見るなり、微笑した。
「久しぶりね、苫井紗羅さん。それとも、エレズ‐ヌソィクと呼んだほうがいいかしら。ふふふ」
私は小さく震えていた。玉座に悠々と腰を下ろしたのは、半ば予想していた人物ではあったが、やはり衝撃的だった。南里美郷が学校の制服を着て現れたときは、せめて衣装を替えて欲しかったと思った。ここが現実の延長線上にあると制服が教えてくれている。生々しい。スカートが似合わないほどの巨体は、今は可愛く見える。衛兵として立つ大巨人の影響だろう。もしかするとそれを意識して衛兵を置いているのかもしれない。
「美郷さん……」
「ウゾ‐ティーティークにようこそ。この島の名前。支配者の島。空中都市。下界の騒ぎを眺め渡すのに最適な場所よ。あなたも元の世界に戻る前に、特等席を堪能したら? ふふふ、全ての人間は一度はその権利を有するものなの」
謁見室のタペストリーが剥がれ落ちる。壁の向こう側は透明だった。その先に見えるのは空と、下界。私は思わず目を見張った。一〇〇〇に区分された領土がはっきりと視認できる。扇形と三辺が内側に窪んだ三角形の組み合わせ。領土ごとに森林や沙漠や山岳地帯といった違いがあるので、その領土の境界が一目瞭然なのだ。こんな不自然な世界に私は今までいたのか。
「どう、この大パノラマは。良い気分でしょう」
「ここって、何なの? この世界はいったい何なの? あなたは何者なの?」
「おっと、質問タイムに突入しちゃうの? 別にそれでもいいんだけど――でも、あなたの成果を聞かせてもらいたいものね」
「成果? 戦争の?」
「ノー、ノー、違うわよ。そんな遊びじゃなくて、苫井さんはどうしてこの世界にやって来たんだっけ?」
「あなたに無理矢理――」
「嘘を言っちゃ駄目だよ、ふふ……。苫井さんが立花先輩から逃げ出したいって言ったから、そうしてあげたのに。恩を仇で返すつもり?」
「別に、頼んだわけじゃ――」
「そりゃ、そうかもしれないけど。でも、成果はどうなの」
「成果って」
「立花先輩もこっちの世界に送ったのは、別に先輩に脅されたからじゃないんだよ。先輩はもうあなたに興味を示さなくなってなかった?」
「こんな非常識な場所に送り込まれたら、恋愛とか、それどころじゃないでしょう」
「一理ある。あるね。ふふ、でも根本的な変化を感じなかった? 先輩は変わってなかったと本当に断言できる? このまま元の世界に帰って、先輩はもう一度苫井さんに告白すると思う?」
私は即答できなかった。いや答えは分かっていた。先輩はもう私に興味を示さないだろう。どうしてそう思うのか――先輩は私に素っ気なかっただけではなく、嫌悪しているようにも思えた。普通、元の世界の人間と再会できたら喜ぶはずなのに、先輩は淡々としていた。嬉しくなかったのだ。私のことが嫌いになったから。
「……告白はしてこないと思う。でも、今はおかしな世界に放り込まれて、混乱しているんだと思う。地球に戻れば、大丈夫」
「何が?」
「何がって……」
「何が大丈夫なの?」
「そんなの……、元に戻る。先輩は元の立派な……」
「立花先輩が立派? ははは、そう見えるように取り繕ってるだけだって気付いたはずじゃないの。苫井さんにしつこく付き纏うあの醜い姿があの男の本性だよ。くだらない。別に、それが悪いってことじゃない。努力で立派であろうとするのは、それ自体批判するようなことじゃないでしょう。でもメッキが剥がれてしまうようでは未熟だね。まだ高校生だから、無理もないんでしょうけど」
「み、美郷さん。先輩に何をしたの?」
「別に……。ただこの世界に放り込んだだけ。ねえ、苫井さん、人間を嫌いになる方法って、何か知ってる?」
「人間を、嫌いに? ええと……」
「答えはね、人間を人間と思わず見ることよ。『それ』をじっくりと観察し、捏ね繰り回し、弄んでいる内に、『それ』が人間であると気付いたとき、すなわち自分自身であると悟ったとき、人は人を嫌いになるの」
「意味が分からない」
「ごめんなさい、説明が下手で。つまりね、立花先輩は気付いてしまったのよ」
「何に?」
「人間の醜さに。……ねえ、人って誰でもナルシシストだとは思わない?」
「ナルシスト?」
「うん。誰だって自分が可愛いでしょう。人間の醜さを見つめるって言ったって、自分自身も人間なんだから、どんな悪行や蛮行にも、多少の愛着が湧いてしまうものでしょう。あるいは過剰に拒絶し、思考を停止させ、見て見ぬフリをする。そうすれば自分を改めなくて済む。人間は醜い一面もある、でもその一面とはどんなものなのか、理解しないまま生きていく。無責任だとは思わない?」
「何が言いたいの」
「この世界にはね、この世界には、人間を人間嫌いにさせる仕組みが眠ってるの。この世界を創った奴はきっと相当な人間嫌いなんでしょうね。はは、私も一時期、自分の親まで汚らしく見えたものよ」
「だから、何が言いたいの?」
「ナフヌンよ」
「ナフヌンがどうしたの? 家畜がどうしたの?」
「あれは人間なのよ」
「人間って?」
「だから、よく見なさいよ。あれは人間なの。人間なの。人間。野生の人間。あなたも戦争に参加したならナフヌンを殺したでしょう。あの習慣はつまりはそういうことなの。人間なの。ナフヌンは人間で、あなたは人間を殺したの」
意味が分からなかった。
ナフヌンは醜い家畜で、愚かしくて、節操がない。唯一生殖能力があって、共食いをして、増えることも減ることもない。単純な労働を任せられることもあるが、基本的に虐げられることによってその存在価値を見出している憐れな獣。
私はその顔を思い出そうとした。涎まみれのあの醜い顔。私がこの足で踏み潰して殺したあのナフヌン。悲鳴。
「あっ」
私は呻いた。そして思い出す。あのときの感触。
あまりに脆い生き物。あれが人間? しかしどう見ても人間ではない。いや、人間ではないと認めたくなかった。
だから目を背けた?
イゼウーズは言った、ナフヌンを直視できるのは数秒だけだ。
どんなに醜くても、見れないことはないだろう。どうして彼はそう断言したのだろう。
気付くのに数秒で足りるからだ。それが実は人間が家畜として扱われた姿に他ならない。そして私はあのだらしない乳房のメスのナフヌンを殺した瞬間、自分が死んだような心地になったのだ。
あれが私に酷似していたから。顔も体型も似ていない。酷似していたのは仕草。悲鳴。心が震えて、何度も思い出す。
私がこの世界で抱いた最大の痛みはあれだった。
「だから何!」
私は叫んでいた。美郷は少し驚いたようだった。
「だから何! ナフヌンが人間だって? でもあんなの人間じゃないよ。似てるだけじゃん。人間に似てるだけの生き物じゃん。あんなの殺しても何にもならないよ。そんなんで人間を嫌いになるわけないじゃん。馬鹿じゃないの?」
「苫井さん、そうじゃないの」
「何が! 何がそうじゃないの!」
「ナフヌンは、本当に人間なの。元々は人間だったのよ。そしてここにいる大きな巨人さんも、もっと大きな巨人さんも、全員元々は人間だったのよ。あなたと同じようにこの世界に迷い込んだ、人間なの」
私の頭が美郷の言葉を理解するのに数秒を要した。言葉を紡ごうと思っても、口が動かない。見かねた美郷が口を開く。
「この世界は全ての生命に不老不死を与えるわけじゃない。というのも、召喚士たる小人たちは実は人形だし、ときどき修繕してやらないと動かなくなってしまう。他の人間以外の奴隷たちも人形。異世界から召喚されるのは私たち人間だけ。それも、今のところは日本人だけね」
「日本人だけ……?」
「別に、そろそろ外国人が来てもいいと思うんだけど、入口が日本にしかないからね。ふふ、この世界のルールを教えてあげる。私たちの躰はね、この世界にい続けると、伸び縮みするの。恒星の生涯って知ってる? 膨らんだり、小さくなったり、最後爆発したりするんだけど、それと同じ。何億年という尺度ではわりと忙しないけど、人間が感知できる時間尺度だと、絶対不変のもののように思えるわよね。この世界も、不老不死というのは確かにそうなんだけど、躰が徐々に変化するの。膨らんで、縮む。膨らんだのがあなたより大きな巨人、縮んだのがナフヌン。それだけのことなのよ」
「……何を言ってるの。膨らんだのが巨人で、縮んだのがナフヌン? 皆、人間だった?」
「ナフヌンになってしまうと、脳の容量が少なくなってしまうからなのか、皆バカになっちゃうんだよね。それと、不老不死になると生殖能力がなくなっちゃうものなんだけど――私の憶測に過ぎないけれど、人間の脳が生殖はもう必要ないと理性に働きかけるからじゃないかなと思う。つまり人間の脳の隠された機能ね。ナフヌンほどバカになっちゃうと、その機能まで削られてしまうって考えてる。これ荒唐無稽な考えに思えるかもしれないけど、人間が生命の危機に陥ったとき、子孫を残そうと異様な性的興奮状態に陥ることもあるらしいし――」
美郷はそこで言葉を切り、私が震えていることに気付いて、首を傾げた。
「……ナフヌンが人間って、本当なの」
「本当よ。嘘なんかつかない」
「何なのよ、この世界は。意味が分からない。意味が……」
「私も初めてここに来たときは途方に暮れたよ? しかも、当時は元の世界に戻る方法も分かっていなかったし」
「今は分かってるの?」
「私が見つけたの。だから女王様をやってるわけでね。ふふふ、何千年という時間は人間を巨大にさせたり小さくしたりする。無数の国々が合併しては分裂し、滅ぼされては興る。どんなに強い力を持とうとも、時の流れが全てを消し飛ばしてしまう。でも私はこの国において、永遠にも近い時間を掌握することに成功した」
「どういう意味?」
「この世界と、地球とでは、時間の進むスピードが全く違うの。こちらの一年は、地球の一分に当たる」
「一分……? 一分が一年……?」
「そうよ。地球の一日はこちらの世界の一四四〇年に当たる。私がこの世界に出入りするようになって、一年とちょっとだから、五〇万年もの世界の動きを見守ってたことになるのかな。こうして考えてみると、神にでもなった気分ね」
「五〇万年……」
「普通の人間が大きな巨人になるまでが、向こうの時間で、ざっと一〇〇〇年くらい。それからやっぱり一〇〇〇年くらいかけて元のサイズまで戻り、そして一〇〇年前後でナフヌンになる。大巨人のまま地球に戻ったら重力に負けて身動きできなくなるか、死ぬでしょうけど、元のサイズに戻ったときに地球に戻れば、数日間の失踪で済まされるでしょうね。まあ、そんなことをする人はいないけれど」
「……どうして?」
「苫井さんも感じてるでしょ。地球に戻ればいずれ自分は死ぬ。それまで二〇〇〇年にも渡って不死なる生活を続けていたんだから、今更死の世界になんか戻れないわよ」
「……死ぬくらいなら、ナフヌンになってでも、不死でい続ける……?」
「そうね。ナフヌンって馬鹿でしょう。記憶力がない。嫌なこともすぐに忘れて、自分の醜さも忘れて、その場その場の衝動で生きている。それを羨ましく思う人もいるの。それに、互いに捕食し合い、交尾をし、混ざり合う。長く生きていると誰かと密接に関わり合いたいと思うらしいわ。その究極の形じゃないの」
「自我はあるの?」
「はい?」
「自我だよ。自分は紗羅だって強く意識することだよ……」
「あるわけないでしょ。だって、他のナフヌンに喰われて、その喰われた奴の腹の中で別のナフヌンの死骸と混ざり合って、それでまた生まれてくるんだよ? はははは、考えただけで胸糞が悪いわ。この世界を考えた奴はどういうつもりだったのか知らないけど――もしかしたら既にナフヌンの仲間入りしてるのかもね」
胸糞が悪いというのは確かだった。私は目の前の美郷が正常な人間なのか見極めがつかなかった。彼女の体格が標準的な女性よりもかなりがっちりしているのは、偶然ではない。きっとこちらの世界で長く過ごしていたので、躰が膨らみ始めているのだ。
「ナフヌンの総数は一定。でも新たにナフヌンになる者は少しずつだけど増えている。不思議には思わない? 彼らの体格はこの世界の主人たる小人たちと同じくらいのまま、ずっと変わらないのよ」
「別に……」
「理由は簡単。ナフヌンはどこまでも縮み続けているの。身長が五〇㎝まで縮んだから、これ以上縮みません。ということにはならない。新たなナフヌンを加えて、食糧を増やしているから、かろうじて数を維持しているの。ナフヌンを一匹だけ隔離して飼うと、どんどん小さくなって、どんどん馬鹿になって、自分を喰らおうとさえするわ。そして最終的には目に見えないほど小さくなって、どこかに消える。死んだわけじゃない。ただ風に攫われて、世界をふわふわ漂い続けるでしょうね」
「そんなに小さくなったら、何も考えられないでしょう。死んだとの変わらない」
「まさにそうね。でもナフヌンになってしまった時点で、人間と呼ぶにはあまりに粗末な思考しかできなくなる。既に死んでいるも同然よね。少なくとも、私たちが死を恐れるのは、理性ある意識が失われるからではないかしら? 狂ってまで生き延びたいと思う人間が、その時点で既に狂っていると言ってもいい」
美郷は玉座に凭れながら足を組み替える。彼女は美しかった。きっと近くで話をしたらあまりの図体の大きさに面食らうのだろうが、ふとすると滑稽にさえ見える巨大な玉座によく映えていた。私は拳を固めた。
「先輩は、気付いてしまったって言ったよね?」
「そうね。人間の醜さに嫌気が差した。だから、彼はもう地球には戻ろうとしないでしょう」
「あなたは平気みたいだけど」
「私? 私だって大変だったわよ。さっきも言ったけど、両親まで嫌いになりかけた。地球の人間の顔がナフヌンに見えるのよ。汚らしくて、うんざりした。今でも多少引き摺ってるし、あなたもそうなると思うけれど」
「私は地球の人間だよ。絶対に帰る」
「それは、もちろん。ふふふふ、でも、怖くて堪らないでしょう?」
「そんなことは――」
「強がらなくてもいいじゃない。不老不死っていうのは魅力的でしょう。もちろん、最終的にはナフヌンになるから、不老不死っていうのは嘘なんだけどね。でも不愉快な死を遥か遠くに追いやることができる。私だって死ぬのは怖いよ? 別に恥ずかしいことじゃないでしょう。できれば帰りたくない。違う?」
「……私は……」
「立花先輩はこの世界にとどまるでしょうけど、あなたにもその選択肢は残されているのよ? 権利と言ってもいい。ここは楽園。地球は地獄よ」
「そんなことはない」
決然と美郷の言葉に反抗したのは、私ではなかった。私は振り返る。美郷も意外そうに立ち上がった。
そこにいたのは立花慶吾先輩だった。どうやら彼をここまで案内してきたらしい飯田聡子を置いて、私の横に並び立つ。
「先輩……」
「何を迷ってるんだ、紗羅。せっかく地球に戻るチャンスを得たというのに。この世界にとどまる? 冗談じゃない」
美郷は玉座に腰掛け直したが、驚きのあまり口をパクパクさせていた。
「意外です。先輩はこの世界にとどまると思ってました」
「どこが意外だ。こんなふざけた世界、さっさと逃げ出したいに決まってる。紗羅さん、人間というのは、いずれ死ぬと分かっているからこそ、輝けるんだと僕は思ってる。僕と一緒に地球に戻ろう」
「せ、先輩……?」
「心配しなくても、もうきみには付き纏わないよ。僕も冷静になって気付いた、僕が異常だったとね」
「そ、そうですか……」
「きみは地球に戻りたくない?」
「分からないんです……。自分でも」
「分からないなら分からないままでもいい。でも、ここからはさっさといなくなったほうがいい。ここは狂人の楽園に過ぎないよ。まともな神経を持った人間なら、生まれ育った地球で生き、死んだほうがいいと分かるはず」
「先輩……」
先輩はにこりと笑む。
「だろう? さあ、南里さん、僕たちを元いた場所に戻してくれ」
美郷は溜め息をつき、億劫そうに立ち上がった。
「やれやれ、期待外れですよ、慶吾先輩。元いた世界に帰るには、唱えるだけでいいんです。オヤレウェレ、ウシオウナケクボィエヘウ、オィノムコルジヘニトウィークトトヨノクとね」
私と先輩は顔を見合わせた。美郷は肘掛けに凭れてうざったそうに、
「もう一回だけ言いましょうか。オヤレウェレ、ウシオウナケクボィエヘウ、オィノムコルジヘニトウィークトトヨノクですよ、先輩。ふふふ、この世界の言語を理解すれば、なんてことはないんですけどね。魔術だって使えるようになるし――そもそもこの呪文だって魔術の一種だし」
私は驚いた。
「美郷さんも魔術を?」
「じゃなきゃ、巨人の国の女王なんてやってられないしね。ねえ、苫井さん、あなたはエレズと呼ばれていたでしょう。それはこちらの世界では紗羅という意味なのね」
「うん、それは知ってるけど……」
「もし本当に自動翻訳されるなら、私がいくら『紗羅』と言ったって、あなたは『紗羅』と聞き取れるはずがないわよね。『エレズ』としか聞こえないはず。おかしいとは思わない?」
「言われてみれば――」
「実際には、この世界で交わされている言語は全て日本語よ。ただし呪文として使われるこの言語――私は鏡語と呼んでいるけれど、鏡語は、この世界でのプログラム言語として働いている。魔術とは世界の書き換えに他ならない。そのことに気付いてから、私はこの世界がどこかのスパコン上に展開されている何かのソフトウェアの中なんじゃないかって推理してみたけど、学校からいきなりアクセスできちゃう意味が分からないわよね。だからもしかしたら地球自体が全てプログラム上の星なのかもしれない、ここは地球とは別のサーバーの世界なんじゃないかな、なんて考えたこともあった。でもはっきり言って確かめる術はないから、考えても無駄なんだけど」
「えっと……」
「ごめんなさい、脱線しちゃったかな。つまり、鏡語は魔術用の言葉ってこと、鏡語をマスターすればこの世界ではやりたい放題ってことね。小人や奴隷が『紗羅』と発音して『エレズ』と翻訳されてしまうのは、魔術の適用範囲内に収める為。『紗羅』を『紗羅』のままにしてあなたに向かって魔術を使っても、効果がないのよ。そもそも日本語で会話している私や苫井さんや立花先輩同士の会話では翻訳の必要性がないので、きちんと『紗羅』は『紗羅』として認識される」
分かったような、分からないような。プログラムというのは喩えで言っているのか、それとも真実、そうなのか。先輩が苛立ったように言う。
「いい加減にしてくれ、さっさと帰せ!」
うんざりしたように美郷が肩を竦めた。
「はいはい。じゃあ、この鏡を見て。この鏡は私が開発した、誰でも呪文が使えるようになる不思議なツール。中に書かれている文字を読んでね」
美郷は玉座の裏から小さな額縁のような木組みを取り出した。私と先輩はその中を覗き込む。単なる額縁なのでそれを手に持つ美郷の笑みが向こうに見える。それだけだ。
いや、美郷の顔がぼやける。文字が浮かび上がってくる。
「オヤレウェレ、ウシオウナケクボィエヘウ、オィノムコルジヘニトウィークトトヨノク」
意図せず、私と先輩は全く同時にその呪文をすらすらと唱えていた。
躰が重くなる。
捻じれていた世界が再び裏返るのを感じる。
これまで裏になっていたものが表に、表立ったものが裏に戻る。
まるでメビウスの輪のように表と裏の区別がつかないものを見る角度を変えたかのようだ。
これまでの現実がまた別の現実に変容する。
ふわふわと浮かぶようにしていた躰が現実の重みで拘束されて自由を制限される。
これまでの私はあまりに自由だったのだと、初めて気付いた。
美郷の声が聞こえた気がする。こちらの世界に来たときもそうだった。
「エレズ‐ナフヌン」
私にはその言葉の意味が分かった。そして彼女の意地の悪さを憎むようになった。
*
黒魔術部の部室には明かりが点いたままだった。気付けば私と先輩は窓際に立ち、南里美郷、鹿野裕子、飯田聡子と向かい合っていた。
地球の一分が向こうの世界の一年だとするなら、多少地球に戻るタイミングがずれたとしても、ほぼ同時に帰ってきたように感じられるだろう。
「夢じゃなかった……、よな?」
くたびれたように先輩は言う。私はゆっくりと頷く。美郷が笑っていた。
「夢だったら、私、発狂してしまうわ、あの世界だけが生き甲斐なのに」
鹿野と飯田も無言で頷いた。私は彼女たちの気持ちが少しだけ理解できた。他人とは違うことをしているというのは、それだけで優越感をもたらしてくれるし、それに考えてみれば、自由に二つの世界を行き来できるというのはかなり便利だった。眠くなったら向こうの世界で眠ればいい。勉強時間を確保したかったら向こうで勉強すればいい。休暇を長くしたかったら向こうの世界でバカンスを満喫すればいい。いや、学校でのたかだか数分の休憩時間でさえも、美郷たちにとっては数年間の休暇なのだ。
そんな凄まじいことをしている三人組が、毎日真面目に学校に来ているという事実が奇妙に思えた。きっと、向こうの世界に浸り、ナフヌンになるつもりなどないのだろう。溺れる寸前のところで踏みとどまっているのだ。どころか、それを利点に変えているようにも思える。
「……じゃあ、帰ろうか」
慶吾先輩が言う。私は頷いた。このまま家に帰っても良いのかどうか分からない。良いに決まっているのだが、このまま普通の生活に戻ることが非常識に思えた。なぜだろう、何かをやり残している気がする。
「苫井さん、たまには一緒に帰りましょうよ」
「えっ」
美郷が私を見てにやにやしている。
「駅まで一緒でしょ。ね、いいでしょ?」
私は助けを求めるように、慶吾先輩を見た。しかし先輩は既に近くに置いてあった自分の鞄を手に取ると、部室を出ようとしていた。
「じゃあ、また明日」
先輩は爽やかな笑みを浮かべて手を振った。私は手を振り返すしかなかった。
飯田と鹿野も示し合わせたように、並んで部屋を出る。
私は困惑して、美郷を見つめていた。彼女はポケットに手を突っ込んで、ふふふと笑った。
「どうしたの。嫌?」
「嫌じゃないけど。じゃないけど……、どうして一緒に帰りたいなんて思うの?」
「友達が一緒に帰るのがそんなに特別なこと? 理由なんか必要?」
「友達って……」
「秘密を共有したわけだから、親友と言ったって問題ないくらいよ? ふふふふ」
「秘密なの?」
あの世界に渡ることが。
「秘密でしょう。別に話したって、誰も信じてくれやしないでしょうけど。でもわざわざ変人奇人の仲間入りをすることないわよね」
お前が言うか。既に変人扱いされていることに気付いていないのだろうか。
私の表情の変化を見抜いたか、美郷は笑みを深くした。
「もう手遅れだろって言いたいの? ふふ、まあそうかもね。でも『ここまで』とは思わないでしょう。黒魔術部なんて非公式の部活を立ち上げている人間がまともなはずがない。多少授業中に挙動不審でも怪しまれることはない。せいぜいクスクス笑われるか、不気味がられるくらい。まさかテスト中に堂々とカンニングしていたりマラソン大会のとき一〇〇メートル走る度に数十分休んでるとは思わない。あなたも望めば、それくらいのことはできるのよ? 呪文を暗唱さえできれば、別に私の力を借りなくたって、いつでもあの世界に戻ることができる。まあ、地球に戻ってくるほうの呪文を先にマスターすることをお勧めするけれど」
「ふざけないで。二度とあんな世界には行かない」
「ふふ、そうだよね。あの世界って、根本的に、人間の居住には向いていないのよ。人間は躰の内の何パーセントが消化器か知らないけど、結構な割合を占めているでしょう。あの世界ではそれが全くの無駄。食の愉しみを奪われただけでも、魅力の薄い世界だと思う人はかなりいるでしょうね。ナフヌンにならないと性行はできないし、呼吸だっていくらしても無駄、息を止めても苦しくない、これってかなり奇妙なことよ。感覚がどんどんずれていく」
「分かってるなら、あなたも――」
「でも、遊園地みたいなものと考えれば、問題はなくなるわ。こんなしけた世界でうだうだやってるより、凄く楽しいし。そうは思わない?」
「……童心には戻れるかもね」
「でしょう?」
美郷は笑っている。屈託なく笑っている。普段陰気に見える彼女が今は明るく振る舞っている。
死というものが理解できなくて。
巨人として戦争で大活躍して、全能感に浸って。
モノを壊してもすぐに直って。
小さな生き物を無邪気に殺して。
確かに童心に戻れる。
この世の不条理を全て忘れて、無邪気に生きて、そしてやがて訪れるナフヌンへの退化を知りながらも、敢えてそれを受け入れるだけの命への執念を育む。
「地獄だよ」
私は言った。美郷の表情が歪む。
「何ですって?」
「地獄にするんだよ。あの世界は、ここを」
私の言葉に美郷の表情は歪んだまま硬直した。そのとき部室の扉が開き、あまり見覚えのない教師が怒鳴り声を上げた。
「とっくに下校時刻を過ぎてるんだよ、さっさと家に帰れ!」
はあい、と慣れたように美郷は言ったが、私はかなりびっくりしてしまった。
私と美郷が部室を出ると、教師が私の顔をまじまじと見つめて、
「南里の友達か? 物好きだな」
と言った。美郷はくすくすと笑う。確かにこんな女とつるむのは酔狂の極みと言っていいだろう。
「友達じゃなくて、親友ですよ」
私は半ばやけになって言った。これには美郷も驚いた顔になった。
学校から駅までの道すがら、私と美郷は並んで歩いていた。もちろん一緒に帰るなんて初めてのことだった。
緩やかな下り坂になっている歩道。薄汚れたガードレールは腰の位置。ここは小学生の通学路でもある。飛び出し注意の看板が立てられている。私が今より子供の頃はこんな小さなガードレールでも跨ぐことができなかった。隣をビュンビュン行き過ぎる車が恐ろしかった。しかし今では分かるが、幅が狭いこの道では車はかなり減速し、いつ子供や無作法な自転車乗りが飛び出してきてもすぐに停まれるように配慮していた。そんなことを知らず、子供の頃は死の隣り合わせのような気がして、小学校の校門をくぐったときに深く安堵したものだ。もちろんすぐにそんな不安は消えて、すっかり慣れてしまったが、あのときの感覚を思い出して、私は小さく笑った。
美郷が不思議そうな顔をする。
「何を笑っているの」
「美郷さんだって、ときどき意味もなく笑ってるでしょ」
「意味がないわけじゃない」
美郷は言った。私も言い返す。
「単なる思い出し笑いよ。私には意味があるけど、美郷さんには意味がない。意味のあるなしなんてその程度の意味だから、気にしないで」
「ああ……」
美郷は納得したように頷いてから、私のほうをちらちらと見るようになった。
「ねえ、さっき地獄とか言ったでしょう。どういうつもりで言ったの」
「別に……。気にしないで」
「気にしないほうがおかしいと思うけれど」
美郷は思いのほか神経質なようだ。私は彼女が怯えているのだと思った。
「美郷さんは、ここの生活が好き?」
「嫌いではないわ。少なくとも、今は。大人になったら嫌いになるんだろうけど」
「どうしてそう思うの」
「今の大人たちを見て、楽しそうだな、なんて思う?」
「ああ、なるほどね。でも、いつかは大人になるんだよ」
「今はまだ高校生よ。私はもう、あなたの三倍以上は生きているけれど」
「やっぱり、美郷さんの躰が大きいのは、向こうの世界に入り浸っていたからなんだ」
「そろそろ限度なのよ。これ以上大きくなると日常生活に支障が出る」
「じゃあ、もう向こうの世界に行くのはやめる?」
「たまには行くわよ」
「でもいつかは行けなくなる」
美郷は私を睨みつける。
「いつか、いつかって。そんな先のことばかり気にしてたらキリがないわ」
「正論だね。でも、私が言ってることも本当だよ。向こうの世界に慣れたらこっちの世界が地獄に思える。いつか死ぬ。そんな世界にみすみす戻らなきゃいけなくなるなんて。ナフヌンになったほうがマシ、なんて思い詰めることになるんじゃないの」
「そんなことにはならないわ」
「じゃあ、美郷さんはもう死ぬことを受け入れているんだ」
「所詮、私は人間に生まれたんだもの。死からは逃れられないわ。それは覚悟してる」
「本当に?」
「何が言いたいの」
「私は怖い。自分がいつか死ぬってことが。この世が地獄なんじゃないかって思い始めてる。あの世界で生きて、死ぬことも知らないまま緩やかに頭がオシャカになっていくのは幸福なことなんじゃないかって気がしてる」
「じゃあ、あなたはそうすれば?」
「美郷さんはどうしてそうはなりたくないの」
「そんなの、説明しないと分からない?」
「分かるよ。でも、改めて聞いてる」
「……無様だからよ」
「何が無様なの」
「だって、無様じゃないの。奴隷にも劣る存在よ。常に苛められ、食欲と性欲に囚われた醜い生き物。滑稽味を通り越してグロテスクな生き様よ」
「それって、こっちの世界でも同じでしょ」
「何よ?」
「ナフヌンは人間なんでしょう。美郷さんが言ったんだよ。こっちでも人間は食欲とか性欲に囚われた醜い生き物。同族を喰らう非道。何が違うの。こっちの世界で生きていく以上、つまらない大人になることは避けられない。だったらもう醜く生きる他はないんだよ」
美郷は一瞬表情を凍らせたが、すぐに笑い始めた。
「あなたも染まったみたいね。そんなことを考え始めたら終わりよ。もう二度とこちらの世界に融け込むことができない。私は多くの人間を見てきた。ナフヌンに成り下がるのに、こちらの時間で二日とかからない。あっという間よ。あっという間に人はナフヌンの群れの中に加わる。あなたもそうなるんだわ」
「ならない」
「なる」
「ならない。ならないったらならない。なるのは美郷さんのほうだよ」
美郷はくすくすと笑った。
「私が、地球時間でどれだけ長い間あの世界と関わってきたと思ってるの。一年以上よ。あなたはたかだか数秒間、向こうの世界に行ってきただけ。それで悟ったようなクチを利いてるもんだから、笑っちゃうわ」
「あなたは子供のままよね」
「何が?」
「あなたは大人になることを拒否してるだけだって言ってるの。何が女王よ。あっちの世界でいくら権勢を振るっても、こっちの世界で何になるっていうの。あなたは気味悪がられてるだけじゃない。しかも躰まで大きくなって、一生お嫁に行けないわ。はっきり言って気持ち悪いのよ。あなたなんかザコだわ。こっちの世界ではザコ! ザコよ」
美郷の表情は動かなかった。
「今度は子供じみた言葉。あんまり幻滅させないでよ。そうやって怖いのを紛らわせようとしているんでしょう」
「孤独だったくせに」
「孤独?」
「じゃなかったら、私を巻き込んだりしないでしょう。飯田さんや鹿野さんじゃあ、満足できなかったんでしょ? 美郷さんと似たような見た目だもんね、あの子ら。でも、美郷さんはああいう子にしか声をかけられなかったんだよね? 私みたいな体育会系の女子と話してるところなんて見たことないしね。認めてもらいたかったんだ、きっと。自分は凄いんだ、って私に思って欲しかったんでしょ」
「勝手なこと言わないで。的外れよ」
「だって、あなたが向こうに入り浸るほど、どんどん惨めになっていってるよ。挽回するチャンスなんて皆無。図体ばかりでかくてどん臭い、勉強はできるし話してみると頭の回転は速そうだけどひたすら陰気で近寄りたくない。おまけに女王様気質って。はははは、終わってる。あなたの人生、もう終わってるよ。しかも、実際には四〇歳以上なんでしょ。肉体は高校生でもさ。改善の余地も残されてないよね。もう頑固なおばさんって感じだよね。はははは」
「私を怒らせたいの? 苫井さん、私を侮辱して楽しい?」
「はは、ごめんなさい」
私の言葉に美郷は面食らったようだった。
「……謝るくらいなら最初から言わないで」
「私をこんなことに巻き込んだ仕返し。別に恨んでもいないし、怒ってもいないけど、ちょっとむかついたから」
「……あなたって不思議な人ね。傍から見たら普通の女子高生って感じなのに」
「そう? でもさ、向こうの世界に放り込まれて、何だか自分でも驚くほど考えるようになった。きっと、余計なものを篩い落とされたからだと思う」
「シンプルに生きられるからね」
「美郷さんもそう感じる?」
「頭の中の風通しが良くなる気がする。食べ物とか、セックスとか、そういうことを考えなくて済むようになるから、かも。本当のところは知らない。でも普段、そういうことばかり考えているわけでもないんだけど」
「無意識に引き摺ってるのかな。はははは、でもその結果、小難しいことばかり口に出す女の子が生まれちゃったわけだけど」
「……苫井さん、本当にもう向こうの世界に行きたくはないの?」
「うん。もういいよ。向こうの世界に行くと、死ぬのが怖くなる。たとえばさ、お金を持ってないときは、お金が欲しい、お金があったらこんなことができるのに、みたいな妄想をたくさんするでしょ。でも、いざお金をたくさん手に入れたら、やれ株で運用してみようとか、盗まれたら大変だから金庫に入れておこうとか、色々と気を揉んで、相当な時間お金のことばかり考えるようになるよね。結局、欲望とか恐怖って、完全に克服したり消化したりすることができないんだと思う。克服したと思っても別の形で現れて人間の頭を悩ませるようになっているんだよ。死についても一緒で――死なない世界に行ったら別の悩みが生まれるに決まってるし、死に代替する恐怖とか欲望って、相当厄介なんじゃないかなって思うの」
美郷は深く頷いた。
「確かに、そうかもしれない。ふふ、でもその考えばかりに囚われてたら、無気力な人間になってしまいそうだけど」
「そうだね。ああ、言われてみればそうだなあ。どうしよう」
私は笑っていた。傍から見たら仲の良い二人組に見えたかもしれない。
駅の方向からこちらに誰かが走ってくる。辺りは薄暗く、街灯の青い照明が道を照らし始めている。
私と美郷はほぼ同時に気付いた。こちらに駆けてくるのが慶吾先輩だということに。
先輩は私を見つけるなり、表情を歪めて口元から涎を垂らしながら、
「駄目だ」
と言った。私と美郷は顔を見合わせた。
「何がですか、先輩」
「駄目なんだ、駄目!」
先輩は喚き、美郷を押した。美郷はしかし図体がでかく、体重もそれなりにあったので、一歩下がっただけで済んだ。もし押されたのが私だったら、ひっくり返ってアスファルトに後頭部を強打していたことだろう。
先輩はそのまま学校のほうへと走り去った。美郷が肩を押さえて呻いた。
「痛たた……。相当強い力で押してきたわよ、あの人」
「どうしたんだろう、先輩」
美郷はにやりと笑う。
「ふふ、まあ、私が家に帰ったら、面倒見てあげるから、心配しないで」
私は深く息を吐いた。
「先輩に何をしたの?」
「何もしてないよ。ただ、嫌気が差したんじゃないの、この国に」
「どういう意味よ」
「だって、日本って、世界でも有数のナフヌンの密集地でしょう。特にこの時間帯の駅はきついでしょうね。嫌にもなるわよ」
「それって――先輩はあの世界に戻るってこと?」
「強い麻薬をやると、躰に蛆虫が湧く幻覚に襲われるんですって。それと似てるのよ」
「えっ?」
「うじゃうじゃ人間がいるところを見るとね。ふふふ、まあ、苫井さんももうすぐ分かると思うよ……。どうしても無理なら、タクシーで帰ればいいのに。先輩も智慧が回らないこと。まさかこんなに早くギプアップするなんて」
「つ、連れ戻さないと――」
「言っとくけど、私が家に帰って再びあの世界に降臨するのに、あと五〇分くらいかかるわ。それまで鹿野さんも飯田さんもあの世界には行かない。どういう意味か、分かるわよね」
「……今向こうに行けば、五〇年間は帰ってこられない……?」
「五〇年も向こうにいれば、躰は肥大し、成長期なんて微笑ましい言い訳は通用しないわよ。苫井さんは女子の中では身長が高いほうだから、きっと今の私よりもでかくなるわね。一夜でそんな変化をしたら――別人だと思われる可能性すらある」
「助けてあげてよ、あなたが引き起こしたことでしょ、先輩を迎えに行って!」
「無理よ。無理無理。まあ、先輩が自力で鏡語を習得できれば、帰ってこれるわ。それに、先輩に付き纏われて、迷惑してたのはあなたでしょ。良い機会じゃない」
「先輩がいなくなって清々した、なんて私が言うと思ってるの!」
「大声出さないでよ。ふふふ、どうしても気になるなら追えばいいじゃない」
「学校に電話する。先輩は黒魔術部の部室に行って、あの鏡みたいなもので向こうの世界に行く気なんでしょう。その前に誰かが止めてくれれば――先生が一人くらい残ってるはず」
「ああ、それがいいかもね。うん、ふふふ……」
私は美郷の笑みを不気味に思いながら、携帯電話と生徒手帳を取り出した。手帳に書かれている高校の電話番号を押す。美郷が軽やかにスキップしながら駅に向かった。
「先輩のことより、自分の心配をしたほうがいいんじゃないかなあ?」
私は美郷の後姿を見送った。なかなか電話が繋がらない。苛々しながら、何度か掛け直した。数分語、電話が高校の職員室に繋がった。出たのは先ほど私を怒鳴りつけた教師だった。慶吾先輩を止めてと叫ぶ。何のことだと教師は言った。黒魔術部の部室の前を固めて。先輩が絶対に入らないようにして。
教師は要領の得ないことを何か言った。大人はこれだから。目下の人間は判断力がなくて、言葉にはちっとも重みがなくて、トンマばかりだと本気で思っている。これが目上の人間の言葉なら、あっさり従うだろうに。
ああだこうだと説明している間に、先輩のものと思われる叫び声が電話から聞こえてきた。
《うおっ、何だ、今の声》
「立花慶吾先輩です! 先輩が学校に戻ったんです! 止めてください! お願いします!」
《立花がどうしたっていうんだ》
まだ悠長なことを言っている教師に怒りを抱いた。
「さっさと行ってよ! 先輩を止めてよ! 黒魔術部の部室だよ!」
私は叫んだ。教師はやっと職員室を出たようだった。
通話は繋がったままだった。私は胸の高鳴りを鎮めよう、鎮めようと思いながら、じっと電話口に耳を澄ませていた。
やがて、教師が戻ってきて、電話に出た。
《お、まだ繋がってんのか、これ》
「どうでしたか」
《誰もいなかったよ。部室も一応見に行ったが、誰も》
「でも、職員室の前で叫んだ人がいたでしょ!」
《きっと悪戯だな。立花がそんなことをするとは思わないがな。もう帰ったよ》
「誰が? 慶吾先輩が? どうしてそんな無責任なことを言うの」
《無責任って、なんだおら。おい、さっきの女子生徒だろ。名前を言え、名前を》
切った。私は泣きそうになっていた。先輩は本当に向こうの世界に行ったのか? どうして? こちらの世界に戻ってくることに積極的だったのに、どうしてこんなに早く行ってしまったんだろう?
先輩が心配、というのではなかった。私は恐ろしかった。自分も先輩と同じように、あの世界に戻ってしまうのではないか。この世界ではもう生きられないようになっているのではないか。
私は結局、そのまま駅に向かった。タクシー乗り場のちょっとした行列に並んでいる美郷が見えた。ちょうどタクシーが立て続けに三台到着して行列が進み、乗り込むところだった。
美郷が街灯の下に立つ私の姿に気付いて笑った。私に手を振った。制服がするりと車中に消えると、無性にそれを追いかけたくなった。
一人にしないで。
そう叫んでしまいたかった。
駅の明かりが眩しくて、そこに吸い込まれる人々の動きを目で追った。
服を着たナフヌン。
私は目を閉じて、何度も自分に言い聞かせた。
大丈夫、ここにナフヌンはいない。
いるのは人間だけだ。
私と同じ、人間だけ。
内臓を潰されて喘ぐナフヌンなんてどこにもいない。
見境なく交わるあの醜い生き物なんていない。
互いに喰らい自らの糧とするおぞましいあいつらは遠くの世界で蠢いている。
瞼を開ける。
構内から吐き出される無数の人。彼らはここからどこへ行くのか。そして何をするのか。何を考え、どんな末路を迎えるのだろうか。
潰されれば死ぬ。再生なんてしない。それが当たり前。でも毎日潰されているのは人間もナフヌンも一緒なのではないか。
自分を抑えて、自分を殺して、円滑にコトが進むように配慮して、ストレスを抱えて、その捌け口にされるのは自分より弱いヒト。食物連鎖は人の間でも存在している。共食いだ。
これは共食いだ。私は吐き気がする。どうして人と人と人を見るにつけてこんなことを思うのだろう。人は関わり合って生きている、それだけのことだろう。どうしてネガティブなイメージばかり脳裏に閃くのだろう。
足が震えた。もう駄目だと踵を返すのは簡単だったが、そうしたら先輩と同じようにあの鏡の前に立ってしまう気がした。
青白い照明に浮かび上がる駅の看板と吐いても吐いても尽きない人の群れにうんざりする。スーツを着てネクタイを緩めた中年の顔に黄色の斑点があった。実際にはないと分かっているのに、私を見る顔に下卑た感情が宿り、腰が引けた。
叫び出しそうになるのを抑えながら、駅に入った。改札口を抜けてホームに降り立つ。
電車が来るのを待つ列に加わる気になれなかった。壁に背をくっつけて、行き交う人たちの無表情を食い入るように見つめた。彼らは人間であって、ナフヌンではない。分かっているのに、今にもどこかから小人がやってきて彼らを殺してしまうのではないかという妄想が襲ってくる。いや、実際に死ぬ人間がいた。私は見た。私とそう歳の変わらない女性が別のナフヌンに押されるようにして倒れ滅茶苦茶に凌辱されるのを。血が流れて私の足元を揺らした。足を持ち上げたのに血液は粘性が高く纏わりついてくる。それは蠢いていた。今にも女性の許へと戻ろうとしている。ぐつぐつと煮えているかのように煙が立つ。燃えているのではない。腐っている。発酵している。倒れている女性がにやりと恥ずかしそうに笑った。
「すみません」
女性は立ち上がって、散らばった鞄の中を掻き集めた。会社員風の若い男がそれを手伝っていた。私は軽く溜め息をつき、自分が幻覚に囚われていたことを悟った。私の足元まで転がってきたクリアファイルを蹴飛ばす。女性がむっとしたが、文句は言わなかった。
「どうだった?」
真横から声がした。ぎょっとして見ると、メスのナフヌンが二人、私を見ていた。
「いや、ええと」
私と同じ制服を着ている。数秒の思考の末、同じ女子バスケ部のナフヌンだったと思い出した。私と先輩をくっつけようと要らないお節介を焼いた、頭の出来の悪い友人たち。
「……先輩なら、もう私に興味ないから」
「ええ? 嘘でしょ。振ったんでしょ、紗羅が」
責めるように言う。それでいて薄笑いを浮かべている。あるいは私が嘘をついているのだと思っている。御膳立てしてあげたんだから、こっそり付き合うなんてことはしないで。そんな風に言われている気がした。
「嘘じゃない。先輩はもう、興味がないの」
私にも、あなたたちにも。
私はナフヌンと話をしているのが気味悪くて、その場から逃げた。
ちょうど電車がホームに到着した。満員ではなかったがそれなりに混んでいた。私は息を止めて中に入った。
ナフヌンの臭いがする。吐き気がした。ドアが閉まろうとしている。何度もそこから飛び出そうと思った。しかし歩いて家に帰るとなると、数時間はかかるだろう。狂いそうになる。自分の部屋でじっとしていたい。見知らぬナフヌンの視線が気になる。私を見て何を考えている。何をしようとしている。
「見ないで!」
私は叫んでいた。妄想ではなかった。本当に叫んでいた。車内の乗客が一斉に私を見た。動悸がした。声が嗄れていた。
「見ないで!」
乗客たちのざわめき。誰かが「痴漢?」と言った。その言葉をきっかけに、近くに立っていた男性客が私から離れていく。誰もが私を見ている。吊革に掴まった私は頭をだらりと下げて呻いた。
「見ないで……」
電車が揺れた。次の駅に停車して乗客が少し入れ替わる。新たに入ってきた人は私の周りだけぽっかりと空いていることを不気味に思ったようだった。私を見る。じろりと睨み返すと怯えたような顔になった。ナフヌンの悲鳴が聞こえたような気がした。
「殺してやろうか!」
私は叫んだ。車内のざわめきが強くなり、近くに座っていた客が数人立ち上がり、隣の車両に避難した。
それを冷静に観察しながら、私は目を細めた。空いた席に腰掛けて躰を揺すった。
大丈夫、家に着きさえすれば。大丈夫……。すぐに元の自分に戻る。
ふと向かいの席に腰掛けて私を迷惑そうに見ている老いたナフヌンに気付いた。しなびている。今にも他のナフヌンに喰われるだろう。でなければ際限なく縮んでこの世から消え去るだろう。生まれたとき、胎児よりも小さく、もっと未成熟な頃よりも小さくなって、何も感じなくなって、でももし考えることがあるとすれば、孤独にさせないでくれ、私も食べてくれ、一緒にしてくれ。だからナフヌンが他人を食べるのは愛の表現でもあるのだ。そうやって食べてくれないからこの世から孤独が消え去らない。
だって、私たちはどうしてこの世に生まれてきた? 理由なんてない? 親が子供を欲しがったから? どうして欲しかった? 人生は素晴らしいって教えたい? 生まれてくることは素晴らしい? でも親だって生き抜いてない。まだ死んでない。まだ全ての苦しみを味わってない。最も過酷でおぞましい苦難であるはずの死を味わってないのに、人生が素晴らしいなんてことが言えてしまうなんて、恐ろしい。その無責任でくだらない言葉。余った土地にゴミを埋め立ててその上に花を植えたかのような胡散臭さ。ゴミは花が枯れた後に表に出てくる。ゴミの色は褪せているかもしれない、しかし予期しないような形状に腐食しよりおぞましい形となって目に入る。耐えられない人間はまたゴミを埋めようとする、また花を植えようとする。でも土も苗も尽きたときどうなるかと言えば、どうしようもない。ゴミにまみれて惨めな気分になるくらいならゴミごと食らってしまったほうがよほど潔い。
生まれた以上は孤独でなんていたくない。でもどうやっても孤独だという気もする。手と手を取り合って繋がれるなら苦労はない。もっと包み込むようにして、私を感じて欲しい。
落ち着いてきた。周りにいるナフヌンがあまり気にならない。電車が揺れて腹に力を込める。尿意があった。向こうの世界ではそんなものはない。だから新鮮な気分だった。
尿意はすぐに消えた。向かいの老人が怒ったように立ち上がった。周りの人間も退散した。ひそひそ声が大きくなる。私は愉快だった――でも自分が異常であることには気付いていた。生まれてしまった以上は死にたくない。でも生まれてこなかったほうが良かった。そんな気分だった。この世界は冷たかった。
家に帰ってすぐにシャワーを浴びた。夕食は食べなかった。自分の部屋のベッドの上で蹲った。母親が心配して部屋まで来た。返事をしなかった。何があったのかしつこく尋ねてきたが、仕方なく顔を持ち上げたとき、そこにいるのがナフヌンとしか思えなくて吐き気がした。ぐだぐだ喋って、探ろうとしている。
「黙って」
ナフヌンごときが、私に話しかけようとするなんて。心底むかついていた。
母親を部屋の外に追い出した。ちょうどそのとき帰宅した父とひそひそと相談を始める。何かあったんじゃないか。帰ってくるのが少し遅かったし。帰ってきてすぐにシャワーを浴びたの。いつもはもっと遅くにお風呂に入るのに。
部屋に鍵はついていない。だから入ろうと思えばいつだって入ってこられる。でも両親はそうしなかった。
あの世界に帰ってたまるか。私は正常な人間だ。愚鈍で浅はかな生き物でいい、ただ普通の人間でいたい。
大きく溜め息をついた。携帯電話で慶吾先輩の番号にかける。圏外だった。
ケータイごと向こうの世界に行ったのかな。私はぼうっとそう考えた。明日から学校は休もう。でないと大変なことになる。枕に頭を投げつけるようにして、眠った。
*
病気でもないのに学校を休むのは初めてだった。ベッドの上で携帯電話を弄っているだけで半日が終わった。母が何度も様子を見に来て、昨晩よりは冷静に対応できるようになった。少なくとも母はナフヌンには見えなくなった。ときどきナフヌンの面影が重なるけれど、母は人間だときちんと認識できる。突然母の頭が爆発したり、内臓が飛び散る妄想をしては怯えたが、3D映画が2Dに切り替わる程度には、迫力が落ちていた。
朝食と昼食は食べた。きっと食事をすることで、頭の機能が回復したに違いない。食べるという行為がこれほどグロテスクに思えたのは初めてだったが、問題はなかった。
夕方になって母がやたらウキウキした様子で部屋に入ってきた。
「オトモダチが来てくれたわよ」
「友達?」
私は首を傾げた。部屋に入ってきた三人組を見て、仰天した。上体を起こす。
美郷と、その取り巻きの飯田と鹿野だった。にやにやしながら部屋を見渡す。鹿野は早速机の上に積んでいた漫画本を手に取り、飯田は壁に掛けられたカレンダーを眺める。美郷はベッドに腰掛けて、私にぐっと顔を近づけた。
「先輩がどうなったのか、知りたい?」
「……別に、いい」
「気にならないの?」
「もういい。知りたくない。関わりたくない」
「ふふ、昨日より落ち込んでいるように見えるけど、どうやら問題はないみたいね。きっと苫井さんも、私や飯田さんや鹿野さんのように、地球と向こうの世界を自由に行き来できるようになるわよ。辛いのは最初だけだから」
「……美郷さんはどうしてタクシー通いなの?」
「気になる?」
「まだ完全に克服してないからでしょ。普通の人がナフヌンに見えるんでしょ?」
「そうね。否定はできない。症状はかなり改善したけれど、雑踏とかを見ると途端に蘇る。向こうの世界にいるときは平気なのにね、酔いみたいなものかな、ナフヌン酔い?」
三人はくすくすと笑い始めた。私は機嫌が悪くなるのが自分でも分かった。
「で、何の用。先輩の件だけで来たのなら、もう帰っていいよ」
「つれないわね。ふふ、親友って言ってくれたのに」
「あれは我ながら趣味の悪い冗談だと思った」
「酷いなあ……、ふふふふ、でも、あなたは優しい人だから」
「何よ?」
「立花先輩は明日にはナフヌンになるわ。向こうの世界では既に一〇〇〇年以上経ってるもの。当然よね。そうなればもう見た目の区別はつかない」
「先輩は、こっちの世界に帰ってきてないの」
「一応、説得はしたのよ? 私が見に行ったときには、二メートルの巨漢になってたけど、まだ地球の社会に溶け込めないわけではなかった。筋肉量が不足して寝たきりになる可能性もあったけれど、リハビリすれば問題なし。でも、先輩はそれを拒否した。永遠に近い時間を生きると言って浮かれてたわ」
「……私にできることなんてないよ」
「あるわ。ふふふ、先輩を連れ戻す最後の手段があるの」
「向こうの世界で、人間の躰は一〇〇〇年かけて膨らみ、一〇〇〇年かけて元のサイズまで縮む。こちらの世界に復帰するには、向こうの世界に行った二〇〇〇年後に帰還すればいい」
「そういうこと」
「向こうの世界で二〇〇〇年も過ごした後、こちらの世界に戻ることなんてできるの」
「さあ。やってみないことにはね。それに、私、ときどき思うの」
「何を?」
「向こうの世界では二〇〇〇年でも、地球ではたかだか二〇〇〇分、一日と九時間強。もし向こうの世界で二〇〇〇年を過ごした人間が、地球の知り合いと出会ったら、どう思うんだろうって」
「美郷さんが話してくればいいじゃん」
「私は先輩の知り合いとは言い難いし、向こうの世界では、そうね、ゲームマスターみたいな存在だしね。あんまり生々しさがないでしょ」
「何を企んでるの」
「だって、笑えてくるでしょ」
美郷は実際、笑みを殺し切れないようだった。
「考えれば考えるほど滑稽なのよ。立花先輩は永遠の命が欲しくて向こうの世界に飛び込んだのに、残ってる寿命は私や苫井さんのほうが長いのよ? もうすぐナフヌンになってしまう自分に絶望し、地球に戻れば永遠の生は失われることになるから、やはり絶望し――より賢い選択をしたはずなのに、もう彼には絶望しか残されてないのよ」
「気の持ちようだと思うけれど。先輩は実際に二〇〇〇年間も向こうの世界で生きていたんだから」
「割り切れればいいけど、ふふふ、きっと立花先輩は、あなたに嫉妬しているわ。そういう生き物でしょ、人間って。人間って。人間ってさ」
美郷は笑っている。私は肩を竦めた。
「もう、知らないよ。忘れたいの。先輩なら大丈夫」
何が大丈夫なのか、私自身も分からなかったが、それさえもどうでも良かった。
「明日の午前四時に、ちょうど先輩が向こうの世界に行って二〇〇〇年が経つわね。もし気が向いたら、お出かけしてみて」
そう言って、美郷は紙切れを取り出した。私はそれをまじまじと見つめた。
「受け取ってよ、苫井さん」
「何、これ」
「向こうの世界に渡る呪文と、帰還の呪文。覚えるのは無理だろうと思って」
「嫌だよ、こんなの、いらない!」
「いいからいいから。遠慮しないで。ふふふ」
美郷は嫌がる私を押さえつけ、紙切れを強引に握らせた。そして頭をぽんぽんと叩いた。
「心配しなくても、あなたなら向こうの世界に呑まれることはないわよ。私が保証する。ふふふふ、危なくなったら、私が強引に連れて帰るから、私を信じて」
「だから、私は行かないよ」
「それなら、仕方ないかな。行くことを強制することはできないからね。あーあ、他人を向こうの世界に飛ばす呪文があればなあ。嫌いな奴をこの世界から消すことができるのに」
ねえ? と美郷は鹿野と飯田に言う。二人は不気味に笑って、頷いた。
私は掌に入っていたノートの切れ端か何かを、すぐに捨ててしまおうと思った。この三人組が帰ったら、ビリビリに引き裂いてゴミ箱の奥底に封印しよう。それがいい。
「じゃ、苫井さん、学校で」
美郷は手を振り、部屋を出た。廊下で母と和やかに会話しているのが聞こえる。私はすぐに掌の中の紙切れを取り出し、真っ二つに引き裂こうとした。
しかし切れなかった――簡単に裂けると思っていただけに、爪が剥がれそうになり、小さな悲鳴を上げた。
「何よこれ」
紙切れを広げてまじまじと見る。材質は単なる紙のはずなのに、いざ破ろうとすると鉄みたいに硬くなる。美郷の魔術だろうか? まさか、本当に?
俄かには信じられなかったが、あんな奇妙な世界に迷い込んだ後だったし、信じないという選択肢はなかった。この紙は普通ではない。
「だから何よ」
くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ入れた。
「ナイスシュート」
私は呟き、再び横になった。このまま明日の朝になってしまえ。そして先輩は手遅れになってしまえばいいんだ。私が過ごすこの一分、一時間が、先輩にとっての一年、数十年間だという。そんなの、言葉で考えても理解できない。音楽を二倍速で聞くと原形をとどめていないが、先輩の場合、何倍速になるんだ。
暇潰しに暗算しようとしたものの、ちょっと私には難しかった。億劫だったが携帯電話の電卓機能で計算した。
答えは、五二五六〇〇倍速。先輩があの世界で、私の五二五六〇〇倍の速度で考え、行動しているのだと思うと――やはり実感が湧かなかった。
きっと、目の前に先輩がいても、私の平凡な能力の双眼ではその影を認識することすらできないだろう。
逆に、先輩からしてみればこの世界は極端にゆっくりとしていて、空気の動きさえもあまりに緩慢で、身動き一つ取れないに違いない。あるいは大気の動きに逆らえず、ほんの少しずつ動いてしまうとか。躰がバラバラに引き裂かれてしまうとか。想像を超えているし、現実には起こらないとは思うが、それほどかけ離れた世界ということだ。
明日の午前四時に、先輩はナフヌンになり始める。
その事実は、私を怯えさせた。
もし、私が先輩と同じようにあの世界に逃げ帰っていれば、もうじき永遠にも近い向こうの世界での寿命が尽きようとしているのだ。
どこが永遠なのだろう。どこが不老不死なのだろう。燃え尽きるのがあまりに早い。本当に先輩は二〇〇〇年も生きたことになるのだろうか。もしかすると美郷は私をからかっているだけで、今日も先輩は高校に普通に通っていたのではないか。そんな気がした。
もしそうだったらどんなに良いだろう。先輩のことなんかもう好きではない。それは間違いない。けれど初恋の相手だった。憎らしいという感情はない。幸せになって欲しいとも思わない。何だか難しいけれど、少し離れた場所で普通に過ごしていてくれたなら、何となく安心する、そんな距離感の関係になりたい。
もし、私が先輩の申し出を受け入れて、再び付き合い始めていたら、こんなことにはならなかった。美郷が私と先輩をあの世界に連れて行くことはなかった。先輩がナフヌンになることもなく、それが幸せなのか不幸なのかは私が決めることではないけれど、少なくともこの日本で先輩を慕っていた人から、彼を奪い去ったことになる。
きっと、人間には相応しいスケールというものがあって、それが寿命八〇年、この街並み、地球というやつなんだろう。それよりあまりに大きなものや小さなものに出会ってしまうと感覚が狂ってしまう。思考が鈍ったり、勘が鋭くなる代わりに脆くなってしまう。
先輩を連れ帰ることは彼にとって正解なのだろうか。お節介ではないのか。私の嫌いな、善意の押し付けではないのか。
でも、それが本当にいけないことなのかどうか。私は自分の感情でしか考えていない。
この世に善悪があるとしたら――正義の相対論が必ずしも全ての事象を網羅しているわけではないとするなら、私が先輩にお節介を焼くことが間違っているかどうかなんて、分からない。先輩は嫌がるだろう、私を憎むだろう。でも歯を磨かない子供に、大人が嫌われてでも無理矢理白い歯を守らせようとするのと同じように、私はここで一歩踏み込むべきではないのか。
責任を取るわけじゃない。私と先輩が向こうの世界に迷い込んだ責任が、私にあるとは思わない。諸悪の根源は美郷だ。その彼女さえも、一年前に何かの拍子に巻き込まれただけ。もっと大いなる意志が――あるいは何者でもない意志とさえ呼べない無数の偶然の連鎖が、私たちに試練を与えている。どうしてこんな地球みたいな物騒な星に生まれてしまったんだ、と嘆く人はいるけれど、それで誰かを恨む人はいないだろう。恨むとしたら親か神様――でも親には育ててもらった恩がある。愛してもらった恩がある。どうして責められるだろうか。
だからこそこの世には神という概念が生まれたんじゃないか、とさえ私は思う。全ての災厄を神のせいにすればそれで済む。何が人を暗鬱な気分にさせるか分かったものではない。雨が喜ばれるときもあれば、憎まれるときもある。豊かな自然は人に不可欠なものだけれども、凶悪な害獣さえも育む懐の深さがある。美しい風景さえも、落ち込んだ人にとってはおぞましいものに見えるかもしれない。
だからあらゆるものは神が創った。あらゆる恵みを。ふとすると災厄に転じかねないモノを自分の先祖や偉人が創ったということにしてしまうと、身近な場所に憎しみや恨みが生じかねない。神が人間の感謝も恨みも一身に引き受ける存在としてある限り、私のようなひねくれ者が親や社会に敵意を抱くことはなくなる。
私は、誰のせいでもないと考えた上で、先輩を助けられるものなら助けるべきだという結論に達する。一人の力ではどうしようもない流れがあるとして、運命があるとして、人が結束するのはそれを破る為ではないか、というお行儀の良いことを、今は信じられる気がする。破滅へと突き進む先輩を知っているのは私と美郷たちだけ。そして救う気になれるとしたら、私だけ。
人が人を救う理由なんて、それだけで十分だろう。私はゴミ箱を漁り始めた。
そして呪文の書かれた紙切れを眺める。ふとするとくじけそうだった。逃げ出したかった。美郷は私が先輩を救おうとすることを見透かしていただろうか。彼女の予想をみすみす的中させるのは癪だけれど、そんな感情と先輩の命運を天秤にかければ、当然後者に傾く。
誰かに認められたいとか、後悔したくないとか、そういう打算、偽善が私の中にあるのは間違いないだろう。最初から私は先輩を見捨てられる人間ではなかった。別に私は特段優しい人間でも、立派な人間でもない。ただあまりにこの世界に順応し過ぎていて、誰かが創った悪趣味な異世界に馴れることがなかった。でも先輩は私とは違っていて、両親が離婚したとか、私の冷たい態度に絶望したとか、様々な理由があるだろうけど、地球の社会に未練が薄かったのではないか。
どちらの世界で生きるべきか、なんてことを私は先輩に説教するつもりはないけれど、もし先輩が目を背けているだけなら、現実を直視できずに逃げているだけなら、絶対に後悔するときが来る。
午前四時、もし私が眠気に負けずに起きていたなら、先輩を迎えに行こう。ベッドに横たわった私は、瞼を閉じて、あの剥き出しの醜悪を思い出した。ナフヌン。理性を失った人間。その象徴。あの世界が誰かに創られたものだとするなら、きっと創造主は人間嫌いがこの世に一人でも多く増えて欲しいのだろうなと思った。