表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

戦争

グロ注意

第二章『戦争』



 三度夜が訪れ、三度夜が明けた。私はウカッパエから話を聞き、この世界の習慣や常識について大まかな知識は身に着けた。けれどもまだ十分ではなかった。私とウカッパエの活動時間が真逆だった点が災いした。

 そんなときに戦争が始まろうとしている。私は数日ぶりに牢獄から出された。狭く低い通路に辟易しながらも、他の奴隷たちと共に中庭に出た。

 そこは砦の内壁に囲まれた小さな運動場になっており、小人に似た醜悪な戦士や、人形、巨大な蟻や蜂がそこらをうろつき、談笑していた。虫が当然のように会話をしているのは違和感たっぷりだった。ウカッパエと話をして慣れたと思っていたが、そうでもなかったらしい。

 金髪の女領主ウキデヌムが、砦の尖塔から手を振っていた。奴隷たちが和やかに手を振り返す。私も手を振ったが、近くにいた蜂の一匹をあやうく叩き落とすところだった。


「諸君、戦いのときが来た。先日、我らがナフアグ領に奇襲を仕掛けてきた憎きイオィクグに報復をする瞬間が訪れたのだ。見よ、聳える巨人を。我らが戦女神、エレズ‐ヌソィクである。彼女がいる限り我が軍に負けはない。讃えよ、彼女を、彼女を召喚せし賢者を」


 尖塔同士に架かる橋に、あの髭面のイゼウーズが現れた。次の瞬間、奴隷たちが声を揃えて、


「ウエキツ‐ヌソィク!」

「ウエキツ‐ヌソィク!」

「ウエキツ‐ヌソィク!」


 と大合唱を始めた。イゼウーズは得意そうに手を上げ、貧弱な髭を撫で、私の不思議そうな顔を冷笑と共に一瞥した。そしてウキデヌムに向き直る。

 ウキデヌムの傍らに兵士長たるウヘレズクが現れ、


「編成を発表しても?」


 と耳打ちした。私の耳が思いのほか優秀なのか、それとも私の背が高くて音の出所が近かった所為か、ひそひそ声をしっかりと聞き取ることができた。


「お願い」


 ウキデヌムは頷く。ウヘレズクが手を翳すと、空気中に巨大で透明な膜が発生した。それはスパンコールのようにきらきらと光を反射し、やがてその光の向きが統一され、巨大なキャンパスとなった。

 空の浮かんだ膜に、ウヘレズクが文字を刻む。それは日本語であった。これも世界の仕組みによって翻訳されているのだろうか。刻み込まれた文字を目で追った。




対イオィクグ国・ネシオク領争奪戦・編成


○本陣 国王 ウキデヌム

  一 蜥蜴〈アヘコツ‐アヘク〉

  一 毒蠍〈ウロゼズ‐ウカッパエ〉

 二〇 蝙蝠〈ウロミオク‐イオィツンウズ〉

 二〇 蝙蝠〈ウロミオク‐ネツエド〉

 三五 亜人〈ウズンアズ〉

 三五 亜人〈エキオティケク〉



○右翼 発明家 ウオィエィ

  一 獅子〈ノウエル〉

 四〇 傀儡〈イオィフヌン‐イコクネス〉

 四〇 傀儡〈イオィフヌン‐ウエキブグス〉



○左翼 兵士長 ウヘレズク

  一 閃竜〈イール‐エィスンアク〉

 三五 亜人〈オノメコロ〉

 三五 亜人〈オディーレク〉



○遊撃 召喚士 イゼオーズ

  一 巨人〈エレズ‐ヌソィク〉

 二〇 銀蟻〈ウレ‐オノムケレテグ〉

 二〇 金蟻〈ウレ‐オノマケメン〉

 三五 火蜂〈アリム‐ウテグ〉



 以上だった。四人の召喚士がそれぞれの奴隷を使役し、軍を編成する。名前の上の数字は個体数だろう。

 おおおお、と歓声が上がる。何に昂奮しているのだろう、と思ったが、私の耳の近くを飛んでいた蜂が教えてくれた。


「アヘク様、ウカッパエ様、ノウエル様、イール様は、我が国では『ウモヨク四傑』と呼ばれ恐れられているんダヨ。四傑が揃い踏み、しかも巨人エレズが参戦。今昂奮しないでいつするのって話ダヨ」

「そうなんだ。へえ、ウカッパエってそんなに凄いんだ」


 確かに、私はこの世界では巨人だけれど、体高三〇㎝はある蠍ウカッパエには、できることなら近づきたくはなかった。元の世界で出会ったら泣き叫んで逃げるサイズだ。まして普通の奴隷は、自分とほぼ同じサイズの蠍と対面することになる。あの硬そうな装甲を貫けるのだろうか? 


「ウカッパエ様はその毒針で牽制しながら、厚い装甲で本陣を守り抜く『最後の砦』と呼ばれているんダヨ。その相棒がアヘク様。物凄く寡黙でいらっしゃるけど、暗殺の腕前は一流なんダヨ」


 蜂が子供のような声をしているので、私は少し和み、ふんふんと聞いていた。


「それで残りの二体は?」

「イール様はあまりやる気がないけど、やる気になったら手が付けられないほど強いって噂ダヨ。でもやる気になるのは十年に一度って言われててボクもイール様が活躍しているところは見たことがないんダヨ。ノウエル様は真面目な戦士で毎度のように戦場に出るヨ。四人とも召喚石を二つ消費してこの世界に召喚された大物だから凄く強いんダヨ」

「私は三つだけど……。召喚石を二つ消費ってそんなに凄いの?」

「召喚石自体はこの世界にたくさんあるヨ。有限だけどネ。同時に二つ消費するのが凄いんダヨ。技術的な問題もあるし、何より準備が大変なんダヨ。三つとなると猶更ダネ。だからおいそれと強いヒトを召喚できないんダヨ」

「へえ……。色々教えてくれてありがと。きみ、名前は?」

「ウテグ。でも他に同じ名前の蜂が三〇体以上あるから覚えても無駄ダヨ」

「同じ名前?」

「そうダヨ。ボクたちは群体なんダヨ」


 そこでウキデヌムの話が始まり、私は蜂との会話を終えざるを得なかった。

 金髪の指揮官は平原を指差して、熱弁している。


「ネシオク領はかつて我々が統治していた鉱山地帯である。召喚石を精製するのに必要な鉱石が多数産出されることから、古くから近隣諸国が狙ってきた要地であるが、戦力が整った今、その奪取に動く。特に奇襲を失敗させたイオィクグ国は賠償金の金策に走るのに必死で、他国の傭兵を雇うこともできずにいる。兵力は半減していることだろう。積年の恨みを晴らせ、ネシオク領を取り戻せ!」


 おお、おお、おお! と大合唱が起こり、私もそれに参加してみた。それなりに気分が高揚し、中庭から外への門が開いた。そのまま行軍に移るらしい。

 と思ったら、イゼウーズが梯子で中庭まで降りてきて、私を見上げた。そして軽く手を振ると、私は例の首輪と鎧を着用させられていた。


「うわ、重っ」

「おとなしくしていたようだな、エレズ。お前が逆らわなければ、俺も電撃なんかに頼る必要もなくなる」

「この世界の仕組みは大体理解した。せいぜい扱き使われてやるわよ。これから敵の領地に攻め込むの?」

「ああ。しかし、最低限の護衛を除き、ほとんどの奴隷はここに置いていく。お前は目立ち過ぎるから護衛には向かん。ここで待っているんだな」

「えっ、せっかく外の世界を見物できると思ったのに。っていうか、戦争をするのに私をここに置いておくの」

「戦場で再び呼び出すんだよ。わざわざ徒歩で移動させるのも酷だろうという配慮だ、感謝しろ」


 目立ち過ぎるから待機、と言ったばかりなのを忘れたのだろうか。わざとだろうか。私に文句を言わせて電撃を浴びせたいのだろうか。


「分かりましたよ、小さなご主人様。大人しく待ってます」

「ふん、それでいい」


 隙あらば捻り潰してやる。私はそう心に決めた。ああ、礼儀正しいウヘレズクが主人だったら良かったのに。

 私の心を見抜いたようにイゼウーズは笑う。


「お前、今、俺のことを痛めつけてやりたいって顔をしていたな」

「そんなことないわよ」

「別にやれるならやってくれても構わんぞ。報復が怖くなければな」

「……私はそんなことはしません。この世界に死がないのなら、奴隷が主人に逆らっても必ず報復があるってことだから」

「その通りだ。利口になったようだな」

「もし私があなたを襲うにしても、きっちり準備をしてからにすると思う。死なないとは言っても、包丁で首を切ったら物凄く痛くて、魔術を使うどころではないでしょ。あとは再生しないようにチョコチョコ肉を削ぎ落していけばいいんだ。そうすれば永遠に報復は訪れない。でもそれをするのは簡単ではないでしょうね、他の小人が黙ってないでしょうし」


 イゼウーズはぎょっとしたようだった。


「お前、よくもまあそんな残酷な発想が湧くな。昔、その種の拷問がこの世界で流行ったそうだが、巨人の国の女王が禁じたのだ。もしそんな行為がばれたら巨人の大軍が襲ってくるぞ」

「私だってそんな残酷なことはするつもりがないよ。たぶん途中で吐くわ」


 イゼウーズは不気味なものを見る目で私の全身を眺め渡した後、門から砦の外へと出て行った。四人の召喚士の他に、ウカッパエや小さなライオンなどが帯同した。残りの奴隷は中庭で談笑したりじゃれあったりしている。和やかな雰囲気だった。

 この世界における戦争は領土の奪い合い、それ以上の意味を持たない。殺し合いではないのだ。スポーツ感覚に近いだろうか。それも暮らしには直接関わらない純粋な娯楽としてのスポーツ。敗れても名誉が傷つくだけ、国が滅びても拾ってもらえる。切羽詰まれと言うほうが間違っている。それでも私は少しだけ緊張していた。死なないとは言っても、斬られれば痛いだろう。私が蹴飛ばした相手は通常なら即死するような重傷を負っても、死ねない。それはある意味でより残酷なことではないだろうか。


 痛いのが怖くて死にたくないのか、死にたくないから痛みを恐れるのか。痛みとは本来、身の危険を躰の所有者に報せる為の機能だろう。だがこの世界において痛みとは本当に必要なのだろうか。これも小人たちが内臓や肛門を有しているのと同様に必要なくなってしまったモノなのではないか。

 同時に、もし痛みがなくなれば、この世界の見方が変わるだろうなとは思う。痛みや、熱さ、冷たさを感じなくなれば、脅威に勇敢に立ち向かえるようになる代わりに、思想の一部をごっそりと失う気がする。食事や排泄、呼吸の必要さえなくなった私は既に何かを失っている、だけれどこの痛みが依然として存在するのは、それが人間にとって欠くべからざるものだからではないだろうか。


 失ってはいけない何か。私はそれが痛みだということにうんざりする。美味しいものをたくさん食べたいのに、そんな喜びは失われてしまった。なのに痛みはある。理不尽だと思う一方、痛みのない世界など想像できない。そんな世界に慣れた自分はきっと今の自分では理解し難い思想を抱いているに違いない。元の世界に戻ったら、さぞかし困るだろうな、とは思う。そして戻りたくなくなる。この世界の住民であることを幸福だと思うようになる。


 砦の中庭で、私は寝そべる。鎧がぐいぐいと腰を絞め上げたが、金具をずらすと上手くスライドし楽になった。

 その気になれば攀じ登って脱出できそうな壁を見て嘆息する。ここから逃げたってイゼウーズに召喚されれば戦場に立つことになる。リスクを負う必要はない。それにしたって落ち着き過ぎじゃないだろうか、と私は自分に問いを投げかける。

 周りにいる奴隷――蟻だの蜂だの小人によく似た亜人だのは、こういう状況に慣れているのか、ここぞとばかりに陽気に振る舞っている。きっとずっと閉じ込められていてストレスが溜まっていたのだろう。監視している何人かの召喚士も警戒している様子はなく、寛いでいる。私の挙動を見るときだけは少し真剣な顔つきになったが。


 これが普通なんだろう。でもここの普通に慣れたら駄目だ。私はここで何ができるのか。戦争に勝って小人は満足かもしれない、けど私はずっと部屋に閉じ込められているだけ。それを何十年と続ける。老いはしないからこのピチピチの一六歳のまま、それは素晴らしいかもしれない。けど老いを失えれば加齢への恐怖はなくなる代わりに喜びなんてものも存在しないだろう。元の世界に帰ってクラスメートの老いた顔を目撃し、「あら、苫井さんの娘さん?」なんて呼びかけられるのだ。それは恐怖だった、友人の老いた姿を見て優越感に浸ることはできそうにない、私はこうやって元の世界との関係性を剥奪されていくのだろうか。戦争と幽閉の日々を重ねて、永遠の闘争を繰り広げて、それで何を得られるのか?


 でも、私は、よくよく考えてみれば――元の世界にいたって、そんな大層な喜びを得られただろうか。何も分からないではないか。もしかすると若くして交通事故で死ぬかもしれない。大学受験に失敗して苦しい浪人生活を送るかもしれない。大失恋をして心が荒みきってしまうかもしれない。ブラック企業に就職して骨の髄まで搾り尽くされるかもしれない。DV夫に捕まってボコボコにされるかもしれない。仮に幸せな人生を歩んだとして、そんなものはたかだか八〇年で終わる、永遠ではない。幸せが終わる瞬間は必ずやってくる。

 私はそれでも元の世界に戻りたいだろうか? ここなら自分は必要とされている。それなりに充実感はあるだろう。ウカッパエも悪い奴ではない。これから待遇が改善される可能性だってある。いや、永遠の時間が約束されたこの世界なら、少しの可能性でも無限大の期待に近付く。私はここでは巨人であり、成功を約束されている。

 小難しいことを考えなくとも、私は強く、戦争で重宝される。ここでは私は特別な存在なのだ。


「……ホームシックになるどころか、ここを気に入りそうになるなんて」


 高い空は青、元いた世界と変わらない。きっとこれも翻訳されているのだろう、私をこの世界にとどめる為に。








 突然、耳鳴りがした。

 否、それは銅鑼に似た楽器が無数に並べられ、小人よりやや大きい裸の男どもが力いっぱいに叩いているのだった。私は起き上がった。近くにはイゼウーズが立っていて、腕組みをしていた。

 彼が何か言ったが、平原に鳴り響く銅鑼の音で聞こえなかった。耳を近づけて、やっと、


「準備はいいか?」


 と言っているのだと気付いた。私は頷き、立ち上がった。

 そこは巨大な岩の前だった。平原の真ん中にぽつんと置かれた、鉱山。麓に建造された砦には小さな弓を構えた小人がずらりと並んでおり、敵将と思われる赤髪の小人が、尖塔の屋根の上で何やら指示を出している。

 私はいつ矢が飛んでくるのか分からず、少し怖くなって、兜の面頬を下ろした。あんな小さな矢でも肌に直接刺さればとてつもなく痛いだろう。

 銅鑼の音が小さくなり、代わりに両軍の兵士が雄叫びを上げ始めた。そして敵要塞から異形の奴隷たちが現れた。

 亜人が半数、獣や蟲が半数。総勢は二〇〇といったところか。四人の召喚士で扱える奴隷というのはその程度が限界なのかもしれない。


 我が軍の部隊はいつの間にか整列していた。ウキデヌムは蝙蝠たちが担ぐ輿の上に立ち、空中から指示を出している。左翼と右翼の兵士がやや広がり、扇状に布陣する。私たち遊撃部隊は他の三部隊の後方に位置していた。

 敵軍の布陣は中央に兵を密集させた形で、前列には甲殻類の蟹みたいな生き物がずらりと並んでいる。中央突破して部隊を分断させるつもりだろうか。

 私は召喚士たちがどのように戦うつもりなのか分からず、指示を待っていた。銅鑼の音が完全に止むと同時に、両軍の指揮官が裂帛を上げた。

 二つの軍勢が一斉に突進する。遊撃部隊たる私たちも、イゼウーズの叫び声で走り始める。


 と、イゼウーズが跳躍し、私の肩の上に攀じ登った。さすがに重く、私は首に回ってくれと訴えたが、聞き入れなかった。


「鎧だけでも重いのに、あんたなんか運びたくないよ!」

「貴様は一気に本陣を狙え! 手柄は俺のものだ!」


 私はうんざりしたが、言われた通りにしないと電撃を食らう。激突した両軍が平原の真ん中で交戦しているとき、その中央を堂々と突っ切った。誰も私の進攻を止めようとしなかった。砦に立つ敵の大将が何か喚き、一斉に小さな矢が襲ってきた。

 私は顔を庇ったけれども、全身を覆う鎧が全てを弾き飛ばした。恐れる必要がないと分かると、一気に距離を詰め、山麓の砦に到着した。大将は砦の中に引っ込み、射手も間近に見る私の迫力に腰が引けたようだった。


 中には勇敢な戦士もいて、剣を持って跳び掛かってくる亜人がいたが、私の鎧は相当に頑丈なものらしく、びくともしなかった。私は喧嘩なんかしたことなかったし、軽くビンタするように戦士を払うと、既にそれは一撃必殺の攻撃で、相手は完全に失神してしまった。

 なるほど、私は一対一で負ける要素がない。絶対的な戦士だ。イゼウーズが私の耳元で喚いている。


「先にウキデヌム様がやられれば、俺たちの負けなんだぞ! モタモタするんじゃない!」


 私は頷き、砦の壁を蹴飛ばした。しかしさすがに頑丈で、びくともしなかった。


「乗り越えろ!」

「え?」


 私は砦の壁を見上げる。二メートル半はある。ジャンプすれば届かないわけでもない。しかし私に自分の体重を押し上げるだけの腕力があるだろうか。しかも今は重い鎧を着ている。


「無理だよ、門を潰そう」

「無理じゃない、ふざけるな、電撃を喰らいたいのか!」

「無理なもんは無理だって……。ねえ、それより、他の部隊の援護をしたほうがいいんじゃないの。粗方蹴散らした後、皆で一斉に攻撃を仕掛けたほうが……」

「俺に意見するのか!」

「意見っていうかさ……、私にこの砦は壊せないから。何が道具でもあれば話は別だけど」

「武器? ふむ……、武器庫に攻城槌があったか? しかしあれはお前には小さ過ぎるし……」

「何でもいいから頂戴よ。素手で殴ったり蹴ったりするの、痛そうなんだもん」

「ふん、軟弱な奴め」


 そう言いつつもイゼウーズは何やら唱え始めた。


「アゼヅボィオウクアギオィシオク、エレコクキボヌニケヘウ」


 すると私の足元に丸太に金具を取り付けたようなものが現れた。除夜の鐘を叩く撞木を連想した私は、なるほど、これを振り回せば要塞を破壊できるかもしれないと思った。

 射手台から私を見下ろす小人たちが、戦々恐々としている。まさかそんな巨大な撞木をぶん回すつもりじゃないよな、とでも言いたげだ。

 私が撞木を持ち上げた。かなり重たく、はっきり言って泣き出しそうだった。けれど相手が怯えるのが楽しくて、脇腹に抱えるようにして、要塞に突っ込んだ。

 壁に亀裂が走り、門とのつなぎ目部分に大きな裂け目が入った。イゼウーズが歓声を上げる。


「いけ! いくんだ、エレズ!」

「はいよ、ボス」


 私は助走距離を取り、再び撞木を要塞の外壁に叩きつけた。轟音と共に壁が割れ、門が弾き飛ばされた。門前には数人の亜人が潜んでおり、瓦礫の下敷きになって呻き声を上げた。


「大将を探せ、召喚士を捻り潰せ!」


 私は要塞の中に入った。イゼウーズの命令で、まず撞木を投げ飛ばして尖塔を倒壊させた。段差を攀じ登り、外壁に据え付けられた射手台や胸壁を鉄の拳で薙ぎ払う。何人もの戦士が私の一振りで倒された。

 私はあまりに自分が強いので、おかしいなと思い始めた。だって小人とはいえ、身長は五〇㎝ほどはある。元いた世界で五〇㎝もあるイヌ相手に、これほどまでに圧倒できるだろうか? 五〇㎝のイヌなんて小型の愛玩犬ではあるだろうけど、それでも本気になったら私の手に噛みついてくることくらいはありそうだ。この世界の亜人や獣たちの動きは酷く緩慢に見える。

 まるで私にかかる重力やら空気抵抗が、小人の彼らとは違っているみたいだ。そう、私はこの世界に来てから、自分の躰が重いとも軽いとも思っていない。ここが地球と同じように惑星だとしたら、地球とほとんど重力が一緒だと言っていいだろう。感覚的にはそうだ。空気の成分も、気候も、ほとんど同じ。

 だとしたらどうして小人のような生命が生まれたのだろう、私と同じくらいの大きさの生命になっていてもおかしくなかった。

 私は尖塔の瓦礫から大将らしき男が這い出てきたのを見た。大将は恐怖に震え、逃げようとした。


「捕まえろ!」


 言われるまでもなく、私は動いていた。敵軍の兵士がぶつかってきて大将が逃げる時間を稼ごうとしたようだったが、はっきり言って敵ではなかった。何かをするまでもなく、ただ歩くだけで敵を撥ね飛ばせる。歩行者を戦車で轢き殺すようなものだ。

 私は大将を片手で捕まえると、持ち上げた。じたばたと抵抗するので頭をぽんぽんと叩いた。すると大人しくなった。首が折れるほどの衝撃を受け、戦意を失ったらしい。

 イゼウーズが私の腕を伝って移動しようとしたが、あまりに重くて大将もろとも落としてしまった。イゼウーズは無事に着地したが、大将は腰を打ち、呻き声を上げた。


「負けを認めろ!」


 イゼウーズが大将に詰め寄る。敵の大将はイゼウーズを見て、それから私を見た。そしてぶんぶんと首を振る。


「分かった、負けだ。我々イオィクグの負けだ……」


 すると、周囲にいた奴隷兵士たちが煙のようにその場から消えた。遠くから聞こえていた戦闘の雑音が消える。

 遅れて、歓声が聞こえた。ウモヨク国の友軍が砦の中に侵入し、隠れていた他の召喚士三名を見つけ出した。

 四人の敵将はウキデヌムの前に並べられ、首を刎ね飛ばされた。


 私は驚愕した。首を斬った。頭部だけとなった小人に、周囲を囲んでいた兵士たちが石をぶつける。無慚だった。私は目を背け、その場から離れた。

 砦を出ると、戦闘の跡が残っていた。イオィクグとの戦闘で傷を負った奴隷たちがそのまま放置されていたのだ。

 その中にウカッパエの姿を認めた私は、慌てて走り寄った。

 かの蠍は全身に槍を刺され、その場から動けないようだった。私の姿に気付くと、


「エレズ、さすがだな。儂はこのザマだ」

「だ、大丈夫なの、こんなに槍が……」

「数日で治る傷だ。攻撃を一身に受け止めるのは儂の役目。しかしこの槍を外さん限りは――」

「わ、私が抜こうか?」

「頼む」


 私は槍を一本一本慎重に引き抜いていった。一本抜く度にウカッパエは呻き声を上げた。相当に痛むのだろう。全てを抜き終わると、彼は安堵したように、


「少し眠る」

「どこかに運ぼうか?」

「主人が安全な場所に呼び出してくれるだろう。気にするな」


 私はしばらくウカッパエを眺めていたが、本当に眠り始めた。痛みに強いのだろう、全身穴だらけで眠れるなんて。それとも慣れてしまったのだろうか。

 私は戦争が想像以上に血腥いことに驚いていた。誰も死なない、と聞かされていたから高を括っていた。実際には血は流れるし、断末魔が戦場を塞いで私を萎縮させた。こんな戦争を繰り返し続けているなんて、小人は狂っているのではないか。

 私は立ち上がり、戦場を見回した。呻き声が聞こえてくる。死の恐怖から逃れても痛みからは逃れられない。中途半端な楽園。私は思った。戦争なんてないほうが良いではないか。娯楽にはなり得ない。奴隷たちを戦わせて高みの見物? でも敗北したら首を刎ねられて苦痛を与えられる。そんなことを想像しただけでぞっとする。私はもううんざりしていた。いつか私もあんな目に遭うのだろうか。だとしたらこんな世界に長居したくはない。


 ふと、遠くにイゼウーズの姿を見た。砦と平原と鉱山のちょうど境目、あまり目立たないところに立っている。

 イゼウーズの近くに誰かが立っている。それは人間ではなかった。影のような存在だった。風が吹いても全く揺らがない。しかし常にちらちらと点滅して、光を浴びると半身が消える。

 私は、近づいたら怒られるだろうか、と思いながらも、好奇心を抑えきれなかった。こそこそできるような躰ではないから、のっしのっしと、敢えて物音を立てながら近づく。

 イゼウーズがすぐに気付いた。影は消える。かの小人は冷や汗をかいていた。


「何を聞いた?」

「何をって、何が?」

「話を盗み聞いていただろう。何を聞いたか正直に話さないと電撃を――」

「ちょ、ちょっと待った、何も聞こえないよ。盗み聞くならもっとこっそり近づくでしょ」


 イゼウーズは納得がいかなかったようだが、


「本当に何も聞いていないのか」


 と何度も尋ねてきた。私は真摯な頷きを繰り返すしかなかった。最終的には彼に信じてもらうことができて、ほっとした。


「で、誰と話をしてたの」

「お前に話すようなことではない」

「話の内容も?」

「無論だ」

「じゃあ、私のご主人様が影みたいな得体の知れない輩とこっそり話をしてたってウキデヌムさんに教えてあげるのも駄目?」


 イゼウーズは怯えた表情になった。そしてすぐ高圧的な目つきになる。


「お前、俺を陥れようとしているのか?」

「まさか。ははは、別に、ちょっとからかっただけなのに」

「俺はやましいことはしていない。だが、他人に知られては困るようなこともある」

「ふうん。で、やましいことって具体的に何があるの」

「お前は俺から何を聞き出したいんだ」

「この世界の常識ってのがよく分からなくて、さ」

「お前は俺の弱みを探りたいだけだろう。自由の身になる為に。多少智慧のある奴だとそんな馬鹿げたことを考え始める。お前たち奴隷は人間に使役されているからこそ、安定した暮らしを享受できているというのに」

「そうかな。自由の身のほうがさっぱりできると思うけど」

「俺たち召喚士は異世界からお前のような戦士を召喚する。しかし元いた世界に戻す方法は知らない。ここ何千年も似たようなことをしてきた。とっくにこの世界は奴隷で溢れているはずだと、お前は思わないのか」

「さあ。この世界がどれだけ広いかも知らないし、召喚士の数だって」

「この世界には奴隷の墓場があるのだ。巨人の国のどこかに、それはあると言われている。そこでは死ぬこともできないまま埋められた奴隷たちの嘆きが聞こえてくると言うぞ」

「い、生き埋めにしてるってこと? 惨い……」

「奴隷が喜んで主人に仕える為の、見せしめだ。主人の手から逃げ出したり、主人を失った奴隷は、墓場に連れて行かれても文句は言えない。そして巨人は主人を失う可能性が圧倒的に高いと言われている」

「ど、どうして? 叛逆を起こすから?」

「そうではない。巨人を扱える召喚士がごく限られるからだ。お前のような大型の奴隷は、召喚するときにも多大な苦労を強いられるが、コントロールするのにも相当な力量が必要だ。俺のような凄腕が世界で何人もいるとは思わないことだ――それに、十分な力量があったとしても、一度に戦場に送り出せる駒は限られているから、お前が費やした労力の割に戦争に貢献できないと判断されれば、追い出される可能性もある」

「巨人って最強なんでしょ? ど、どうしてそんな……」

「それだけ巨人を扱うのは難しいということだ。俺もお前から遠く離れて統御する自信はない」

「わ、私を脅そうとしてるんでしょ。分かったわよ、ウキデヌムさんには何も言わないわよ」

「それが賢明だな。そしてお前の為でもある」

「どういう意味?」

「これ以上聞くな。電撃で眠らせるぞ」

「眠るって言わないわよ、それ。気絶するって言うの。マジちびりそうになるんだから」


 私がそう文句を言ったとき、砦のほうから一際大きな歓声が上がった。

 私が首を傾げると、イゼウーズが心得顔で言う。


「ゲームが始まったな。見に行くか?」

「ゲーム?」

「敵国が所有していたナフヌンを苛めるんだ。石を投げたり、過激な奴は内臓をぶちまけたりするな。目玉刳り貫いてペンダントを作る奴もいる。ばらした臓器は一か所に戻ろうとするから、もぞもぞ動くんだ」

「ナフヌンって家畜だよね? ……どうしてそんなことをするの?」

「どうしてって、楽しいからだよ。それに捕縛したナフヌンに劣等感を植え付けておくと、自国のナフヌンと引き合わせたとき、争いが起こりにくいんだ。奴らは知能が高くないくせに、互いの上下関係ばかり気にするからな」

「でも、幾ら何でも――そんな惨いことをするなんて」

「気にするなよ。ナフヌンは昨日あったことなんてすぐに忘れる。どれだけ痛めつけたって翌日にはけろりとしているんだ。それに、放し飼いにしておくと俺たちが何もしなくたって殴り合ってる。オスがメスを巡って争うケースもあれば、単純にアイツが気に食わないからってんで殺しにかかることもある。あるいは理由もなく相手を傷つけようとしたりな……。そうそう、ナフヌンはな、この世界ではありとあらゆるものが不死で不老だという事実を知らん。だから暴力を振るえば相手は死ぬと思っている。実際、自分は同族を殺したという罪悪感で鬱になる個体もいるほどだ。ふん、鬱になるくらいなら最初から暴力を振るうなよ、大人しくやられろ、と思うんだが、連中には根本から破壊衝動ってものが刻み込まれているらしいな」

「……ねえ、じゃあ、ナフヌンを痛めつけるのって、彼らを殺すのと一緒なんじゃないの。だって彼らは自分がやられる度に殺されてるって思い込んでいるわけでしょ」

「だから面白いんじゃないか。刃物を突き付けて、本気で怯えるのはナフヌンだけだぜ。奴隷どももこいつらをいたぶるのが好きで、鬱憤を晴らしているんだよ。まあ、お前は、奴隷相手でも派手に暴れられるから、あまり興味はないかもしれないが」

「でも、でも……、そんなの間違ってる。生き物を虐殺するなんて」

「その為の家畜だ。お前が部屋の隅で蹲ってるだけで国が回るのは、ありとあらゆる労働を請け負っているナフヌンが存在しているからこそだぞ。ナフヌンに鞭を打って働かせるのも、憂さ晴らしの道具にするのも、それが奴らにあてがわれた役割なのだから、お前に文句を言われる筋合いはない」

「殺すのは駄目でしょう。殺すのは!」

「死なねえよ。ふん、殺したって死なねえんだから、いいだろう。ナフヌンだって俺らを良い主人だって思ってるだろうよ。連中は近くにいる異性と交尾できれば満足なんだ。嘘だと思うだろ、でも連中はそれが一番の幸福だと思い込んでいるんだ。だからオスとメスを同じ数だけ部屋に入れておけば、それで万事上手くいく。はははは、少し前にウオィエィが『学術上の興味』とか言い出してな、ナフヌンのオスとメスをばらばらに解剖したんだ、それで二匹の性器を近づけたら何とおっぱじめやがった、脳味噌も心臓も全部ぶちまけた状態でだぞ、奴らは下半身だけで生きているんだと実感したね、ははは、もちろんそれで妊娠はしなかったがな」


 あまりにグロテスクな話で、私は吐き気がした。私は壁を一枚隔てた先でそのような蛮行が行われているとは信じたくなかった。しかし歓声の中に聞こえてくるか細い悲鳴は、ナフヌンの声だろうか。アーとかオーとか、甲高くて不気味なほど抑揚のない声が聞こえてくる。


「どうしてナフヌンだけにそんな仕打ちをするんだろう、って思ったか?」

「感想はそれだけじゃないけど、もちろんそれも思った」

「ナフヌンには俺やお前にはない機能が備わっているんだよ。それが生殖だ。この世界に生殖できる生き物はナフヌンしかいない。そして、奴らは不死身ではあるが、老いはする。老衰してしなびてしまうと、他のナフヌンがそれを食らう。食われても死ぬわけではなく、腹の中で意識は残っているらしい。それを栄養にして、また殖える。ナフヌンはそういうサイクルを送っている。ゆえに、世界全体でのナフヌンの数は常に一定だ」


 私はもう聞かないほうがいいと思った。この世界は狂っているがこのナフヌンという生き物に対する扱いは凄惨の一語に尽きる。


「もういいよ、説明しなくて。はああ、ナフヌンに同情しちゃう」

「同情? ふふふ、おいおい、エレズ、お前まだナフヌンを見たことがないのだろう。あんな醜悪な生き物は他にいない」

「美醜なんか関係ないでしょ」

「関係あるさ。お前はナフヌンを見た瞬間、この生き物に愛情を注ぐことは絶対にできないと思うはずだ。断言できる、お前がナフヌンを直視できるのはほんの数秒だ。はははは」


 イゼウーズは私が不快そうな顔をしているのが愉快で堪らないらしい。ナフヌンをここまで苛め抜いて罪悪感の欠片さえ持っていないなんて、この世界の小人はサディストが揃っているのだろうか。ナフヌンが醜い生き物だとして、それで苛めて良いということにはならない。いやこれは苛めの域を越えているだろう。生命を冒涜している。ナフヌンがこれほどまでに悲運な運命を背負わされているなんて、同情してしまう。


「日本人の判官贔屓を知らないの」

「うん?」

「私はナフヌンを苛めるようなことはしない。そんなことをするのは弱い人間のすることよ」

「ははは、戯けたことを言うぜ、巨人は。そんなことを言えば器がでかくなるわけじゃないんだ、実際に連中を目にしてから言えよ」

「今は……、いい」

「お楽しみの最中だからか? ははは、でもお前はナフヌンを痛めつけたくないんだろ、助けに入ったらどうだ」

「でも、そんなことをしたら、あんたが……」

「電撃が怖いのか? 偉そうなこと言っておいて自分の身が可愛いのか? いやいや、好意的に解釈して、電撃喰らったらナフヌンを助けることができずに気絶してしまうから、そんなことを気にしているんだとしよう。安心しろよ、俺はお前の邪魔はしない」

「ええと、でも、今行ったら――」

「そうだよ、ナフヌンの生首がずらりと並んでいるだろうな、ははは、それが怖いのか? だがお前はどうしてナフヌンを苛めることに反対だったんだ? それが間違ってるからだろ? それともなにか、お前はそういう凄惨な現場を自分が見たくないから反対しているのか、結局自分が可愛いだけってオチか、ははは、巨人ってのは軟弱な上に偽善者なのか、躊躇することなくナフヌンを助けに行ってたら俺も感心したかもしれんが、実際は言い訳ばかりじゃねえか。正直に言えよ、お前は自分がそうやって引き裂かれるのが恐ろしいんだろ、ナフヌンがやられてるところを見ると、自分もやられてしまうんじゃないかって不安になるんだろ、自分だったらあんなことされたら泣き叫んで許しを請うだろうな、もしそれでも済まなかったらどうしよう。臆病な奴はそうやって平和主義者を気取って他人を思いやるポーズを取るがな、結局自分が可愛いだけさ、新しく来た奴隷に多いんだ、そういう奴には俺はいつもこう言ってやるんだ、お前の常識はここでは通用しない。この世界では、優しさなんて臆病者の属性に過ぎない。どんなに心配したって、遠かれ早かれお前も同じ目に遭うんだ。そうすると途端にそいつは勤勉になる、ナフヌンを同じように苛めるようになる、なぜって、やらなきゃ損だからな。自分だけやられるだけってのは耐えられないだろうし、敵を倒す練習も兼ねているからな、真面目な奴ほどナフヌンを憎んでいるよ、醜いって時点で憎悪の対象にもなるし」


 イゼウーズの話は毒だった。私は頭がくらくらするのを感じた。この男は常に他人の臓腑を見ているのではないか、斬り飛ばしたらどんな風に血が出るだろうか、そんな風に考えているのではないか。私にはもう関わりたくない世界だった。

 けれど偽善者呼ばわりされたまま引き下がるわけにはいかなかった。


「あんたみたいな無慈悲な人間じゃないのよ、私は」

「ふん、行くのか? お前の驚く顔が目に浮かぶよ」

「ナフヌンを助けに行ってくる。どんなに理屈を捏ねたって無駄よ、正義は揺らがない!」

「正義と来たか。おいおい」


 イゼウーズはあきれ顔になったが、私は砦の中に侵入した。

 そして中庭で行われているらしいナフヌン苛めを目撃しようと歩み出した。

 すると、奇怪な鳴き声が足元からした。

 瓦礫の陰に隠れていたのはナフヌンと思われる生き物だった。

 その醜悪な姿に私は面食らった。

 それは恐らくはメスだった。ただそれくらいしか、私には確認できなかった。背を向け、逃げ出そうとした。

 するとそのナフヌンと思われる生き物は私の足に喰らいついてきた。手に生えた長い鉤爪が私の鎧の隙間に食い込み、肌をチクリと刺した。大した痛みではなかったけれども、酷く驚いたので足を振り上げてしまった。ナフヌンがぶらりと宙を飛ばされ、私の足元に着地した。そしてナフヌンの仰向けになった姿を目撃した。

 それは一瞬の出来事だった。なのに私はそのナフヌンの身体的な特徴を目の当たりにしてしまった。良く言えばつぶらな瞳と言えそうな丸い双眸はしかし黒い光に包まれて泥水のように濁っていた。低く平べったい鼻の穴からは毛がびっしりと生えている。貧弱な毛髪と髭は薄汚れていてヘドロのように固まっていたり剥げていたりする。赤黄色の肌には黒い斑点が浮かんでいたり青い痣があったりこれもまた不潔な印象がある。長い鉤爪には垢が溜まりところどころ折れていたり先が割れていたりする。無様に長く垂れ下がった乳房には張りがなく茶色の歪んだ形の乳頭がなぜだか濡れている。胸毛が乳房にまで及んでいるのでただひたすら卑猥で美点などありはしない。性器と肛門の周りには短く縮れた毛が生えているが何もかもを隠すまでは繁茂していない。脛からもびっちりと毛が生えて足の指にもちらちらと申し訳程度に汚らしい毛が顔を出している。毛先がべったりと倒れていて湿気を含んでいるようだ。だが今挙げた場所以外ではまともに毛が生えておらずその罅割れていたりニキビが出来たりしている赤黄色の肌が剥き出しになっている。骨張った躰とでっぷりと突き出た腹。肉という肉がぴくぴくと痙攣し突起が生まれては凹む。まるで全身に極小の心臓を埋め込んでいるかのようだ。関節を酷使し手足を異様な方向に曲げて移動しようとする。四足歩行だか二足歩行だか分からなかった。ナフヌンは悲鳴を上げた。私はあっと言った。


 ナフヌンを踏み潰していた。


 鎧は足裏までは保護していなかった。ナフヌンの内臓が弾ける感触、骨をゴリゴリと磨り潰す感触、脳漿やら血液やらが伝う感触、全てがいっぺんに襲ってきて、私は悲鳴を上げた。

 砦の入口からイゼウーズが笑って見ていた。


「ははは、お前もやったじゃないか。せいせいするだろ、そんな醜い生き物は殺して当然。そういう役割なんだよ」

「わざとじゃないっ……」

「わざとかどうかなんて関係あるのか、きっとお前はまたナフヌンを殺すよ、それがこの世界に生きる者の宿命なんだからな。誰も死なない世界で死を実感できるのは相手を殺すときだけ、自分が殺されたときは痛みでそれどころじゃないからな。誰もがナフヌンを殺し、その怯える様を見て、自分は生きているんだと実感する。ふふ、言っとくがこれは俺だけの意見じゃない。学者先生が大真面目に議論している内容さ、だから文句は俺に言うなよ、俺はハナから善否なんかどうだっていいんだから」

「知らないわよ――知らないわよ、私は殺してない! わざとじゃないから――」


 私は足をどけようと思った、そして足をどかしたらそこには残骸があった。これを私がやったの? そう思うとパニック状態に陥った。足をどかしたくなかった。そこにあることを認めたくない。しかし潰れたばかりのナフヌンの内臓は再生に向けてもぞもぞと動いていた。私の足裏についた血だの骨の破片だの内臓の切れ端やらが蠢いている。私は発狂寸前だった。

 様子がおかしいことに気付いたイゼウーズが私の前で手を振った。でも何も聞こえなかった。足裏の嫌な感触を忘れたくて手足を滅茶苦茶に動かした。目は天に向けた、なぜって足元にはアレが広がっているだろうから。


「落ち着け、おい、貴様、エレズ!」


 イゼウーズの声が断片的に届く。でも私の神経は足裏だけに集中していた。自分が何をしているのか、どこにいるのか、すっかり意識の外に追いやり、この足裏からまた新たな肉体を築き上げようとするナフヌンの脈動を感じていた。


「止むを得ん。ふん、自業自得だからな」


 なぜだか、そのイゼウーズの声はくっきりと聞こえた。ああ、そうか、これを望んでいたのかもしれない。私は電撃が襲い来る寸前にそう悟った。そして全身に痺れを感じ、思考も何もかもが空白に近づき、どうか全て忘れてしまってくれと念じながら、意識を闇の中に棄てた。








 気付いたときには見慣れた部屋に横たわっていた。ウカッパエの姿がないことが、唯一の相違点だった。鉄格子が嵌められた窓、天井から吊るされた照明器具、冷たい床などを知覚した後、足裏に違和感を覚えて跳ね起きた。

 足の裏には何も残っていない。それどころか全身が綺麗さっぱりとしていた。戦争のときに瓦礫の埃を大量に浴びたはずだが、まるで湯上がりかのように清潔な状態だ。誰かが躰を清めてくれたのだろうか、それとも魔術の仕業だろうか。

 ナフヌンを踏み潰した記憶は、残念ながら鮮明に残っていた。そしてあの行為に一種の爽快さが混じっていたことに、私は驚きを感じていた。ナフヌンは小人とほぼ同じ大きさだ。私が本気になれば小人をあんな風に潰せるということだろうか。想像しただけで吐き気がするのにそれを止めることができない。

 あの家畜の醜悪さは確かにイゼウーズが指摘した通りだった。あんな生き物を愛でることはできない。でもやっぱり苛めるのは間違っているとしか思えないし、世界を跨いだからって、正義の在り方がそう容易く転換するとは思えない。ましてここは日本語が通用し、互いに意見を交わすことができるほど知能の高い生き物で溢れ返った世界なのだから、ある程度の価値観は共有できるはずだろう。


 ただし、誰もあんな生き物の為に正論を振り翳し、他人から疎まれてでも制度を変えたいとは考えないだろう、とは思う。ましてナフヌンは知能が高くなく、自分が痛めつけられたことさえすぐに忘れてしまうと言う。それが本当かどうかは知らないが、小人がそう信じ切っているのなら、悪意は薄いのかもしれない。

 郷に入っては郷に従えなんて言葉があるけれども、それは無難に世渡りしたければそうしろという程度の意味であり、それが人道的に正しいという意味では断じてない。

 この世界では生命は軽んじられている。あまりにもありふれていて、かつ壊れないものなので、当然のことかもしれない。でも私は試されている気がする。もしここで郷に入ることに抵抗がなくなれば、私はもう地球の住民ではなくなっているだろう。


「真剣な顔して、何を考えてるんだ」


 声がして、私はびくりとした。壁が透明になる。通路に佇んでいたのは小人――ウキデヌムだった。彼女が険しい顔つきであることに、私はびくりとした。


「特に、何も……」

「あなたは今回の戦場で一番の戦功を挙げてくれた。しかし錯乱してイオィクグから略取した砦を破壊したのは余計だったな。あの修繕費用は賠償金では賄えない。思わぬ出費だ」

「私が、砦の破壊を? でも、中に侵入するには――」

「そうではない。門をこじ開けたときの損壊の修繕費用はイオィクグの連中が負担してくれる。あなたはナフヌンを苛めている最中、錯乱してさんざん暴れ回ったではないか。イゼウーズがもっと早く電撃を浴びせてくれていれば、もう少し被害は抑えられたのだが」

「そんな――私が暴れ回った? 全然覚えてない」

「そうなんじゃないかと思ってたが。……あなたに悪気がないのならこの一件は不問とする。イゼウーズには必要以上にあなたを責めないように伝えておく。もし仕置きされたら私かウヘレズクに言え。もちろん、あなたがその仕置きを自分から受け入れたいというのなら話は別だが」

「はい。すみませんでした」


 ふとウキデヌムは笑み、


「戦場でのあなたは実に頼もしかった。近くエッコクスニフとの会戦がある。実は今回の戦いはあなたの試用も兼ねていたのだが、心配はいらないようだな」

「エッコクスニフ……、会戦……」

「会戦というのは自国の戦力を総動員させて激突する、いわゆる最終決戦というやつだ。我が国とエッコクスニフの確執はここ五〇年にも及ぶ。徐々に押されていたのだが、最近は隣国の協力もあり、互角の勝負に持ち込めそうだということで数か月前に会戦の申し込みをしていた。まだあなたが召喚される前だったので、かの国も勝算大いに有りと判断したのだろう、快諾してくれたよ。今頃慌てふためいているだろうな」

「私がいるからですか」

「そうだ。あなたはナフヌンさえ満足に潰せないような、優しい性格をしているようだが、それゆえに活躍もできると私は期待している」

「どういう意味ですか」

「会戦で敗北した将兵は、三年から五年もの間、殺され続ける」


 ウキデヌムは淡々と言う。


「死なないのだから殺され続けるという表現は間違っているだろうが、しかしこれが一番しっくりくる。殺され続ける。土に埋められたり、水責めをされたり、臓器を引き抜かれたり、骨を削られたり、火に炙られたり、縛られたり、ナフヌンに襲われたり――とにかく色々な苦行が待っている。私も既に五度ほど経験していることだが、慣れそうにないな。しばらくは放心状態になる。じきに回復するが、やられている間は、はっきり言って地獄だよ」

「どうして――そんな惨いことを、わざわざ」

「じゃないと緊張感が欠けるだろう。やるからにはお互い本気でやらなければな」


 ウキデヌムは言い、その美貌を歪めて笑い声を上げる。


「そんな悲しそうな顔をするな。だから頑張ってくれと言いに来たのに。私をそんな目に遭わせないでくれ。こう言えば、あなたも頑張れるのではないか」

「ウキデヌムさんが勝っても、向こうの将兵をそのように惨いやり方で責めるんですよね」

「まあ、そうだな。権利であると同時に義務でもある。もし慣例に従わなければ巨人の国が派兵するかもしれない。連中は秩序を乱す人間が嫌いだからな」

「こんな酷いことをやらせているのは、巨人の国なんですか」

「一概にそうだと言い切ることはできない。何度も言うが、これは慣例だ。ただ、巨人の国が戦争の何もかもを支配し、コントロールしようとしていることは事実。慣例の徹底を推し進めていることは間違いない」

「どうして……、そんなこと」

「あなたは巨人の国に興味があるのか」

「は、はい。私と同じような人がたくさんいるのかなって思って」

「この世界を一〇〇〇に細分し、領土の争奪戦を創始した巨人の国の女王は、冷徹で無慈悲な性格をしていると聞く。あなたが巨人の国に行ったとしても、そこの臣民は女王のように優しさなどかなぐり捨てているんじゃないか。あなたと話が合うとは思えない」

「それでも、行ってみたいんです」

「ふふ、そんな機会が訪れればいいな。私はこの国が亡びるまで、あなたを手放す気などないがな」


 そしてウキデヌムは一つ息を吐き、笑みを湛えて、


「イゼウーズという男は信用できる。己の野心の為なら何もかもを投げ出す男だ。私はあの男となら手を取り合って頂点の座に手をかけることができると考えている」

「何もかもを投げ出す、ですか」


 私はふと、イゼウーズがイオィクグ戦の後に不審な動きをしていたことを思い出した。


「彼には裏切りの可能性はないんですか」

「裏切り?」

「何もかもを投げ出すのなら、この国だって投げ出すかもしれないじゃないですか」

「……彼はそんな恩知らずではない。彼を拾ったのはこの私だ。生まれたばかりの彼を保護し教育を施したのもこの私だ」

「受けた恩さえも投げ出す男だったら? 何もかもを投げ出すっていうのは、そういう意味で言ったんじゃないですか」


 ウキデヌムは、一瞬怯えの表情になって、私を見た。部屋の中で寝そべる、青白い顔をしたこの私を。


「恐ろしいことを言うものだな、あなたは。しかしその通りかもしれない。私は常々彼の中に危ういものを見てきた。何もかもを投げ出し、自ら危険に飛び込もうとするんじゃないか、そう心配しているだけだと思っていたが――もしかすると私も、彼が裏切ろうとするのを恐れていただけなのかもしれない」

「ええと、あの、そんな深い意味はないんですよ。でも、イゼウーズが胡散臭い男に見えたから、ついこんなことを」

「信じるしかないな。彼の忠誠を。私を斬って捨ててでも自らの望みを叶えようと思うのなら、それはそれで立派なものではないか」

「り、立派ですか?」

「情けも馴れ合いも必要ないということだろう。最も激しく苛酷な道を敢えて行こうというのだ、応援してやりたくもなる」


 私にはよく分からない。よく分からないが、


「主君を裏切ると巨人の国の女王が怒るんじゃないですか。慣例を重んじるんでしょう」

「あなたは意外に思うかもしれないが、裏切りにも規則があって――最低限の事項を守れば王を裏切って他勢力に寝返ってもお咎めはない」

「滅茶苦茶な――滅茶苦茶ですよ、それ」

「この世界は既に巨人の国の女王に統治されているも同然。私は国王という名の道化か。女王を愉しませる為に知恵を絞り敵国を出し抜き領土を獲得する。裏切りも女王を愉しませる為の要素なのかもしれない。だが私はこれまで通り、この国を上へと押し上げる為の労力を惜しまない。私は女王が全知全能だとは思わない。私と大差のない人間だと思っている。たまたま巨人を始めとする戦力を揃えることに成功し、世界を掌握したに過ぎない。世界の半分を支配したまま停滞したのは、この世から戦争を『保護』するのと同時に、それ以上の拡大が容易ではないと判断したからではないか。粛々と世界制覇の為の準備を進めている最中なのではないか、そういう風に思うことがある」

「誰もが、この世界の制覇を狙っているんですね。ウキデヌムさんも」

「当然だ。どの時点でそのように刷り込まれたかは知らないが、常に考えている。目先の利益の為に戦争をしているわけではない。まして快楽などは求めていない」

「世界を制覇した後はどうするんですか。永遠の命をどのように活かすんです」

「考えたこともないな。しかしそうだな、また世界を小分けしたくなるかもしれない。私が考えたルールの下で戦争を再開する。そうなったらきっと、私は幸せを感じることができるだろう」

「今、巨人の国の女王がやっていることと同じですか」

「ああ、そうだ。私は女王に共感する部分がかなりあるんだ。傍観者でありたいとは思わないが、このような規則ある戦争の雰囲気は好きだ。奇襲という例外は許されているがそれにもリスクは付き物。敵の砦の弱点を探って攻め込むのではなく、総戦力を分析してそれを打ち砕くその明快さ。きっとそこに女王の性格が滲み出ていると思う」

「女王は、曲がったことが嫌いってことですかね」

「そう思う。身の回りに理不尽に思う事柄が多過ぎるので、このような戦争の形を創出したのだ。実際に会ってみなければ、本当のところは分からないが」

「ウキデヌムさんも女王に会いたいですか」

「もちろん。だがそれでどうこうというわけにもいかないし、会わないほうが良いだろうとは思う。彼女が私より明らかに上だと思ってしまったら、もう歯向かう気持ちは湧いてこないだろうから」


 ウキデヌムは寂しそうに笑った。自分が相手を圧倒するとは言わない辺り、相当に巨人の国の女王を尊敬しているのだろう。畏怖と言ったほうが正しいだろうか。


「一人では寂しいだろう。話し相手が欲しくはないか、エレズ」

「ウカッパエはどうしたんですか」

「彼は療養中だ。イオィクグから喰らった槍の穂先に毒が塗ってあったようでな、完治には時間がかかる。まったく、卑怯な連中だ」

「……話し相手の件ですけど、どちらでも良いです。一人でじっと考えてみたい気もするけど、それじゃあ考えが纏まらない気もするし」

「考えとは、何だ? 何か気になることでもあるのか」

「ええと、はい。なんだか、この世界って奇妙だなって思って」


 ウキデヌムは笑う。


「あなたの世界に奇妙なことはなかったのか? ただ単に見慣れないものを指してそう言っているだけじゃないのか? ふふ、まあ、私に役立てることがあったらいつでも言ってくれ」


 そう言ってウキデヌムは去った。透明な壁が色を取り戻して、私は閉塞感漂う部屋の中で一人だけとなった。

 寝そべり、大きく伸びをして、部屋を占領する。一瞬だけ良い気分になったけれども、こうやって日々を積み重ねていくのだという見通しが立つと、途端に絶望に囚われた。

 こんな場所で永遠を過ごして、どうなるというのだろう。ウキデヌムや巨人の国の女王のように、戦争を愛せるのならば、この世界は楽園と言えるのかもしれない。肉体的な劣化も、精神的な疲弊も綺麗に消えてしまうこの世界は、魂が永劫に燃え続ける炉のようなものだ。紙屑みたいに儚くてろくでもない命が次々と燃やされてしまう私の生きてきた世界とは全く異なる。


 でも、上手く言葉にできないけれど、そうやって何かを燃やして出来た炎が何の為にひとときも絶やされることなく煌々と光を放ち続けているのかと言えば、地球では様々な答えが見つかるように思う。

 この世界ではどうだ。燃えること自体が目的で、その後のことは分からない。煙なんか立ちやしない、摩耗することもなく、消耗することもないのだから、煙になる成分があるはずがない。ここで燃えているぞと誇示することもなく、ただ燃えて燃えて燃えて終わりも何もなくただ燃えて燃えて燃えて――そんな行為に虚しさを感じるのは私だけだろうか?

 何となく気付いたことがある。永遠という言葉の響きに惹かれるものはあるけれど、考えれば考えるほど、それは虚無的だ。果てにあるものは何だろうか、と人は当然思う。永遠の生があれば果てを見ることは可能なはずだと考える。では果てを見た後はどうなる。ありとあらゆる果てを見た後、人は最終的には自らの生の果てを見たくなるのではないか。


 天井をじっと見ていて、私が哲学めいたことを考えるのには理由がある。私がこの世界で生きていくと決断する為には避けては通れない道だろうと思う。だって永遠の時間があるのなら後悔する時間だって永遠だ。私はここで突き詰めて考えなければならない。もし考えるのを辞めたいというのなら――今すぐ元の世界に帰ってしまうしかない。

 小人たちと同じ結論に達することはないだろうと思う、戦争それ自体に意味を見出すことは狂っている。唯一の娯楽がそれというのも歪んだ世界だ。何がそうさせるのか、と考えれば、魔術、不老不死、巨人国の統治、などが挙げられるけれども、実際にそれらがなくなったらどうなるのか私には分からない。

 だからウキデヌムが巨人国を打倒するところを見てみたい気もする。彼女が世界を制覇したら、どのようにこの世界は変化するのか。平和な世界が訪れるとは思わない。いや、今まさに平和がこの世界を覆っているのだろうか。誰がこの世界に不満を持っているだろう。そんなのは私だけではないかとさえ思う――それとナフヌンか?


 そうやって私はナフヌンの醜悪な顔と姿を思い出し苦悶する。気持ち悪い。何なんだ、あの得体の知れない不気味さは。何を考えて生きているんだ。闇の中に無数に蠢いているような気がして、私は上半身を持ち上げた。照明器具を間近に見る。網膜に光を焼きつけてナフヌンの残像を消そうとする。けど消えない。

 ああ、殺したくなる理由が分かる。私が踏みつけただけで破裂したあの内臓、砕けた骨。何と脆い生き物だろう、まさに殺される為に生まれたような家畜ではないか。死のない世界にあって無様に泣き叫ぶあの姿。あれは彼らなりに私たちにサービスしているつもりなのだろうか、愉悦に耽る主人を眺めて彼らは何を思うのだろうか。

 水をめいいっぱい飲んで悪い何かを吐き出してぐっすり眠りたい気分だった。それができない世界は、既に十分呪われている。私はそう思った。






   *







 エッコクスニフとの会戦が近づくにつれて、砦の中は物々しくなっていく。奴隷たちが駆り出されて訓練めいたことをするときもあった。窓から外を眺めていると、アルマジロみたいな顔をした亜人がぎゃあぎゃあ喚きながら棒で叩き合っていたり、巨大な蟻のような生物が取っ組み合って酸を吐いていたりしていた。あんなのに一斉に襲われたら、私だってひとたまりもないだろうに、前回の戦いのときは誰もが私を恐れていたように思う。絶対に自分が死なないと分かっているのに、どうしてまともに挑んで来なかったんだろう。痛いのが嫌だからか。それだけなら話は簡単だけれど、巨人だからというだけで持ち上げられ過ぎていると感じることがある。巨人の国の女王が世界の半分を統治し、圧倒的な権勢を誇っているので、イメージがそれに引き摺られているのではないか。


 皆が外でワアワアやっているのを羨ましく思いながら、牢獄で数日を過ごした。ウカッパエが戻ってきたときは素直に嬉しかった。彼は戦争がある度に、毎回同じような目に遭うらしい。敵の集中砲火の的となることで、相棒のアヘクが仕事をする時間を稼いでいるのだという。アヘクは暗殺が得意であり、一気に相手方の主力を叩くのが役割だ。イオィクグとの戦いでも三人の主力級を粉砕して戦いを有利に進めていたという。


「やられるのが役割ってストレス溜まるでしょ」


 私が指摘すると、ウカッパエは肩を竦めるように足を持ち上げて、


「慣れれば大したことはない。貴様もじきに分かる」

「分かりたくないけど」

「悪夢みたいなものだ。眠りの中に落ちて、その中で苦しんで、しかし覚醒してしまえばこんなものかと思う。二度と悪夢なんか見たくないと思っても、それを避ける方法はない」

「悪夢ね……、全然慣れてないんじゃないの」

「諦め、と言ったほうが正しいかもしれないな」

「もし、元の世界に戻れるとするなら、どうする?」


 ウカッパエは一瞬硬直したように見えた。すぐに、


「戻らん。この世界に順応してしまった後では、元の世界は複雑過ぎる」

「やっぱりそうだよね。私はさっさと帰りたいんだけどさ、あーあ、ここから出してくれないかな。イゼウーズが私を解放することって、この先あるのかなあ」

「可能性として最も高いのは」

「うん?」

「この国が会戦で敗北し、滅亡したとき、貴様を扱える召喚士が敵国にいなければ、自由の身になれるだろうな」

「でもそれだと、奴隷の墓場に連れて行かれるって聞いたけど」

「誰から聞いた?」

「イゼウーズ」

「奴隷を怖がらせる方便みたいなものだ。少なくとも私の知り合いでそんなものを見た者はいない」

「嘘? 墓場なんてないの?」

「主人を失い放浪する奴隷の数は年々増えている。その姿を見かけることがあまりに少ないのでどこかに彼らの墓場があるのではないかと一部の学者が仮説を立てた。しかし墓場という表現そのものが比喩に過ぎないし、奴隷を戒める為に召喚士がその仮説を引用し脚色しているというだけの話だ」

「仮説って、学者の妄想ってこと?」

「まあ、極端に言えばそうかもしれん。だが、主人を失った奴隷が目につかないどこかに去ってしまうというのも事実だ。主人を失うことを恐れる奴隷は多い。口先では奴隷の墓場などないと言っていても、心の底ではそれに象徴される危険がこの世界に潜んでいると信じる者は多い」

「ウカッパエはどうなの」

「儂か?」

「そう。ウカッパエなら正しい認識をしてそう」

「いつの間にそこまで儂を信用していたのか――ふん、儂は奴隷の墓場などないと思っている。それに準ずるものもな」

「じゃあ、私もそれを信じる」

「簡単な奴だな」

「ウカッパエがそう考えたのは、どういう根拠があってのこと?」

「儂を信じるのではないのか」

「一応、私自身も検討しておこうかと思ってね」

「ややこしい奴だな。……巨人の国の女王オテズムは、この世界を一〇〇〇に細分し、陣地争いを促した。オテズムは世界の半分、すなわち五〇〇の領地を手中に治めている。その中の一つに奴隷の国があるのではないかと思っている」

「奴隷の国?」

「巨人の国の女王が、主人を持たない奴隷を回収しているという噂があるが、それは事実のようだ。自国の働き手として期待しているというより、難民とでも呼べばいいのか、主人を失った奴隷のような『不純物』を取り除いておきたいんだろう」

「不純物……、か」

「この世界には死もなく、飢餓もなく、貧困もなく、ただシンプルな戦争があるだけだ。女王は戦争を愛するあまり、ごたごたした戦争以外の要素は排除したいのだろう。戦争に適したこの世界を守りたいのかもしれん」


 私にはウカッパエの言葉の意味がよく分かる。それと同時に、反発したい気持ちも。この世界には戦争しかない、しかし裏を返せば、戦争さえなくしてしまえば、私のような地球人が思い描く「楽園」が完成するのではないか。


「巨人の国には、私みたいな巨人がたくさんいるのかな」

「いるだろうな」

「それなら、既に巨人の国が奴隷の国みたいなものじゃないの」


 私の言葉にウカッパエは意外そうにした。


「そうかもしれないな。だが扱いは違ってくるだろう。普通の奴隷と巨人とでは」

「でも私は巨人だし。やっぱり、自由の身になったほうが色々と上手くいきそうなんだけど」

「……そうかもしれない。だが、それをイゼウーズには話さないほうがいいだろう。他の召喚士にもだ」

「どうして」

「第一に、貴様への監視を強める。第二に、会戦で負けた後、貴様を手放そうとしない可能性がある」

「でも、会戦に負けたら、敵国に奴隷を差し出すんでしょ」

「そうだが、それを避ける方法がある。会戦が始まる前に敗色濃厚と見たら、他国の協力者に奴隷を譲渡する。召喚士は国が滅んでも数年後には傭兵として別の国の戦力として働くことになるから、そのときまで貴様を預かってもらうというわけだ」

「それじゃあ、いつまで経っても自由になれないじゃない。ていうか、それってごくごくまっとうな方法に思えるんだけど」

「だが、会戦となると、両者の承諾がないと行われない。開戦前から敗色濃厚と見る者はまず存在しない。普通はな」

「普通じゃない場合って、どういうときがあるの」

「裏切りを考えている奴が他国の戦力の分析を任されていたり、国王であったり、国家の重要な戦力を担っている場合は、敗色濃厚な会戦が行われる可能性があるだろう」

「うーん、なるほどね、ところでイゼウーズってそのどれかに当てはまる?」

「イゼウーズ? 彼がこの国を裏切るとでも思っているのか」

「裏切りそうな顔してるじゃん、あの髭面からして」

「そうか? 彼はこの国の中核の召喚士だからな、彼が裏切れば、会戦での勝ち目はなくなるだろう」

「そんなに凄い奴だったの」

「貴様を含め、強力な奴隷を従えている。ウキデヌム様、ウヘレズクの二人に次ぐ実力者だ。いずれはこの国を背負って立つ男だろう」

「ふーん、そうなんだ」

「それで、貴様はどうしてイゼウーズが裏切りそうだと思ったんだ」

「だから、あの髭面――」

「貴様の目に彼がどのように見えているかは知らんが、髭があると信用できない人間だという認識が貴様の中にあるのか」

「えっと、ああ、うん。何となくだけど」

「いいか、貴様はもっと奴隷である身の上を自覚しろ。この世界に殺人はない。しかし虐待や拷問は存在する。儂がいた元の世界に死はあった。きっと貴様の世界でもそうだろう。死のある世界の拷問は、肉体が壊れてしまえばそこで終わる。だがここではそれもない。より凶悪で長期の虐待や拷問が存在する――貴様は、ナフヌンへの仕打ちを見ただけで震え上がったらしいな、あんなもの、比ではないぞ。下手なことを言ってイゼウーズの怒りを買えば何をされるか分かったものではない」

「はいはい、肝に銘じておきます。でも、あんたしか聞いてないんだし、別にいいじゃない。それともあんたはご主人様にチクるわけ」

「告げ口などはしない。誰を味方につけて、誰を貶めるか、そんな思考に囚われている奴は遅かれ早かれ破滅する。あるがままを受け入れるだけだ」

「ははは、私の世界でもそうかもしれない。なんかさ、こっちの世界に来て感じることがあるんだ」

「何だ」

「ここにいる人たちって、あんまり先のことを考えてない気がする。あのウキデヌムさんでさえ、世界を制覇した後のことは考えてなかった。私なんかはつい考えちゃうんだけどさ」

「考えないわけではないだろう。ただ、答えも出口もない、果てのない思考になる。どこかで強制的にストップするしかない。何度も悩み、思考し、考えている内に結論が一つに収束する。やがてそれは思想になる」

「よく分からないけど」

「人生の答えなど見つからない、探しても無駄だ、そういう思想に染まる者が多いということだ。刹那的な生き方を求め始める。永遠の生とは似ても似つかないものだが」

「そういうもんなのかな。永遠の生を受けたら、イメージだけど、毎日ぼんやり過ごすような気がする」

「本来はそうあるべきなのかもしれん」

「本来は?」

「ああ」


 ウカッパエはそれ以上説明してくれない。でも私には何となく分かっていた。人生が怠惰と堕落に満ちたものにならないよう、戦争があるのだろうと。だから戦争を保護するという言い方が罷り通るのだ。

 もし全ての生命が生存し種を残すことだけを目的としているなら、もうこの世界にいる生き物がする一切の行為は無意味となる。なぜならその行為とは、突き詰めれば、全て自らの生存の為に行われると考えられるからだ。既に永遠の生を実現している個体は、ただ眠り続ければいい。土の中に埋もれても、海の中に没しようとも、ありとあらゆる感覚を遮断して、永遠の生を謳歌すればいい。


 この世界でそのような生き方が一般的ではないのは、戦争があるからだ。戦争で負ければ苦痛が待っている。あるいは領土を広げることに欲望を満たす者もいる。戦争がなくなれば、生物がかろうじて保持している「生命らしさ」を失うことになる。不完全な命だからこそ持っていた感情や行為は、この世界では場違いなものだが、失われると生きる意味を見失うことになりかねない。

 そう、私も含めて大概の知的生物は、生きているというだけでは意味がないと思いがちらしい。生き甲斐を求めてこその人生。

 大きな流れに逆らっている気分だった。いずれ訪れる帰結を必死に遅らせているかのような印象。この世界全体が取り組んでいる課題。永遠の命とは祝福なのだろうか、それとも呪いなのだろうか。








   *









 エッコクスニフとの会戦には、ウトンナッザクという場所が選ばれた。見晴らしの良い荒野であり、建造物は一切なかった。雌雄を決するに相応しい場所だった。

 ウモヨク国には一二人の召喚士がいた。ウキデヌム、ウヘレズク、ウキティム、ウオィエィ、ウキディ、ウキテズ、ウキヅミグ、ウキデグ、ウキテヘン、ウキデンネク、ウキトムス、そしてイゼウーズである。どうしてこう似たような名前が並ぶのか、他人に覚えてもらうつもりないだろう、と私は思ったのだが、彼らからすると区別が難しいという感覚が理解できないらしい。語頭ではなく語尾の印象を深めるように努力すれば、記憶が容易だということに気付いたけれども、やはりそれでも難しい。


 一二人の召喚士はそれぞれの奴隷を従え、ウトンナッザクの荒野に降り立った。砂塵の舞う戦場の遥か向こうに、うっすらとエッコクスニフの影が見える。

 私にはよく分からないけれども、ウキデヌムたちにとっては長年の宿敵らしく、前回の戦争とはまるで気合いの入り方が違った。感極まって涙ぐむ者もいた。長い間鎬を削ってきた相手ととうとう決着がつく。感慨深いのは分かるが泣くことはないだろう。

 私は呆れつつも、イゼウーズの神経質な振る舞いに注意を向けていた。彼は私に首輪と鎧を着せると、うろうろと周辺をうろつき、落ち着きなくウキデヌムの様子を窺っていた。あまりに怪しかったけれども、誰も彼の振る舞いに口を出すことはなかった。決戦前とあって緊張していると解釈したらしい。


 エッコクスニフの軍勢から、大きな法螺貝のような太い笛の音が聞こえてきた。でっぷりと腹の張った亜人で編成された楽隊が、敵方の笛よりやや高い音の笛を鳴らす。互いに笛の音を三度ずつ聞かせた後、両軍の奴隷が雄叫びを上げた。

 とうとう会戦が始まったのだ。

 私はイゼウーズの指示を待った――しかし彼は私の肩に攀じ登ってくるわけでもなく、ただ戦場を見つめていた。


「どうしたの、行かないの」


 私が言うと、彼は茫然と私を見上げて、小さく頷いた。


「ああ、行くぞ。俺たちの部隊が活躍しないと勝利は遠い」


 イゼウーズは号令をかけ、自らの奴隷を戦場に展開させた。両軍の快速部隊が既に激突し、戦場にいっそうの砂埃を舞い立たせていた。

 空中の輿の上に立ったウキデヌムが指示を出し、巧みに部隊を展開させている。敵方の部隊を挟撃するように右翼が大きく膨らみ、襲いかかる。私たちイゼウーズの部隊は動きが停滞した敵の左翼に突撃した。私の姿を見るなり敵兵が怯え、逃げ惑う。私は拍子抜けしたが、敵部隊は完全に分断され、あっという間にウモヨク軍が優勢に立っていた。

 しかし。

 ウモヨク軍のほうから悲鳴が聞こえてきた。イゼウーズも何やら奇声を上げる。

 土埃が晴れたとき、うっすらと影のように目立たなかった巨体が、突如として私の前に現れた。


 それは巨人だった。

 私よりもやや背丈のある、黄金色の鎧に身を包んだ巨人……。


「げっ……」


 私は呻いた。兜で隠れて相手の姿は見えない。しかし巨人は雄叫びを上げ、自分が男であることを示した。

 向こうにも巨人がいるなんて。私は途端に恐ろしくなった。小人相手なら無敵だったけれど自分より大きな相手に勝てるはずがない。

 エッコクスニフから歓声が沸く。私の腰が引けているのを見て勝算有りと見たのだろう。私は慌てて姿勢を正したけれども、たぶん依然として不自然な立ち姿だったのだろう、誰かの狂ったような笑い声が聞こえてきた。


「勝たなくてもいい」


 イゼウーズが私の肩に攀じ登りながら言う。


「食い止めろ。奴の相手ができるのはお前しかいない。時間を稼ぐんだ――負けないことを考えろ」

「で、でも、相手は男で――」


 私は言いながら、巨人と意思疎通を図ろうとした。しかしかの巨人はズッカズッカと友軍が避けるのも待たずに歩み寄ってくる。私は面頬を上げて引き攣った笑顔を見せたが、相手は無反応だった。


「もしお前が負けたら、巨人を止められる奴がいなくなる。大丈夫、お前があいつを止めてくれれば、勝利はこっちのものだ」

「む、無理だよ――だって、私は女の子で」


 しかし最後まで言う前に、イゼウーズは私の肩から降りて、小人たちの戦争に参戦した。私は巨人と向かい合った。黄金色の鎧が陽射しに照り輝いている。そして私の肩を掴んで組み合ってきた。

 思ったよりも相手の力は強くなかった。お互い、武器を持っていない。時間を稼ぐことくらいはできるかもしれない。

 そう思った瞬間、巨人の拳が頭部を叩いた。

 意識が一瞬飛んだ。それほど凄まじい威力の攻撃だった。よろけたところに、巨人の手が伸びて支える。いや、もちろん支えたわけではない、倒れて逃れることは許さないという無慈悲の現れだった。

 私は怯んだ。けれど同時に、やるしかないんだなと覚悟が定まったように思う。怖くて、怯えつつも、相手をしっかりと見据えた。巨人は凄まじい力で組み合ってくる。必死に抵抗したが、じりじりと押される。肩から先を突っぱねて全体重を相手にかけるが、それでも押される。躰を相手に密着させるようにして押し返そうとしたが、その力を利用されて投げ飛ばされた。鎧の中で目が回り、立ち上がろうとしたところを、蹴り飛ばされた。

 地面を転がり、敵を目視しようと首を巡らす。しかし兜がずれて、視界が遮られた。面頬を開けると、目の前に敵が迫っていた。そのまま地面を引き摺られる。


 歓声が聞こえた。きっと敵軍の兵が勝利を確信したのだろう。私は恐怖していた。このままやられてしまうのだろう、何をされるのだろう、まだ諦めてはいけない、様々な想いが去来して私を奮い立たせようとする。だが私は格闘技の経験者でもなければ、屈強な肉体を誇るわけでもない。着慣れない鎧に動きを制限されて、わたわたと手足を振り回すしかなかった。

 やがて巨人が私の上に圧し掛かってくる。腕で頭をガードした。殴られると思ったのだ。

 しかし思いもしない言葉が降ってきた。


「僕の肩を掴め」


 巨人を見る。巨人は私の腕を取り、捩じ上げるようなポーズを取りながらも、実際には全く力を込めていない。


「えっ?」

「僕を引き倒せ。そして両者立ち上がり、組み合うポーズを取る――それで周囲からは怪しまれることはない」

「あなたは――」


 私は兜の奥の顔を見ようとした。そしてその声を思い出す。

 長く、情けない声音しか聞いていなかったので、忘れていた。

 私を虜にした爽やかで芯の通った真っ直ぐな声。


「先輩……? 慶吾先輩ですか?」


 巨人は小さく頷いた。


「言われた通りにしろ、早く!」


 戦場を見渡す。私たちは主戦場からかなり離れた場所に来ていた。数人の将兵がこちらの様子を窺っているが、近づいてくる気配はない。巻き添えを食らう心配をしているのだろう。


「分かりました!」


 私は甲冑を着込んだ先輩の肩を掴み、引き倒した。素早く跳ね起きる。先輩は尻餅をついてから、いかにも憤激したように勢い良く立ち上がる。その迫力に私は気圧された。そして先輩と激突する。

 組み合い、顔を近づける。周囲からは力の比べ合いをしているように見えるだろう、そうあって欲しい。


「先輩、どうしてここに?」


 私は早速質問を投げつける。先輩は兜の奥で微笑した。


「きみの後を追ったからに決まってるだろう。黒魔術部の部室に踏み込んだとき、きみが怪しげな呪文を唱えて消えるのを見た。だから僕も間髪入れずに呪文を唱えたんだ――咄嗟の判断だったけど、二度と言えないね、あんな意味の分からない文字の羅列は」


 それができたのは愛のおかげだ、とでも言われたら困るので、私は素早く、


「先輩もこの世界で奴隷として扱き使われてたんですね」

「ああ。戦争は五度経験した。こちらの世界に来てからほとんど休む暇もなく駆り出されて、正直うんざりしている」

「私はまだここで三戦目です。……あの、元の世界に帰る方法って知ってますか」

「巨人の国の女王と会うことだろう」

「はい」

「巨人の国に行かなくてはならない。その方法を模索している」


 先輩は頼もしい余裕の笑みを浮かべている。語り口も私が憧れていた立花慶吾先輩のものだ。私に別れを告げられて魂を抜かれた情けない年上の男の姿はどこにもない。


「私もずっと考えているんですけど、先輩はどうですか」

「自分の国を滅ぼすこととかかな」

「そうやって主人の束縛から逃れるんですね。今回は会戦なので、必ずどちらかは巨人の国に行けますね」

「そうかもしれないね。ただし、自由の身になるとしたら、きみだろうね」

「私の国が負けるって……?」

「我が国には隠し玉がいるから」

「先輩以外に、ですか」

「ああ。ほら、見てごらん、そろそろお披露目のはずだ」


 私と先輩が主戦場を見やる。砂埃が視界を遮っている。何か巨大な影が蠢いているように見える。悲鳴と怒号。私は目を凝らした。

 そこではもう一人の巨人が雑兵を蹴散らしていた。ウヘレズクの部隊が総攻撃をかけるがあっという間に四散する。巨人は先輩と同じ黄金色の鎧に身を包み、淡々と敵兵を踏み潰していった。


「あれは……」

「同盟国からの傭兵だ」

「同盟国?」

「巨人の国の女王が戦争に関する規則を定めていることは知っているかな」

「はい、一応」

「その規則の中に同盟という単語が出てくることはない。認められているわけではないが、禁止されているわけでもない。巨人の国の軍事力だけが規則を順守させる強制力として機能している。従って同盟の取り決めは口約束以上の意味を持たない。というのも盟約の破棄に際する制裁の手段を確保しようにも、この国に貿易はなく、大概の問題は魔術で解決できるので、それができない。つまり同盟が成立する余地は極めて少ない」

「でも、同盟国は現実に存在する」

「そう。共通の目的を持ち、兵力を統合し、運命共同体となることで、堅固な同盟関係を築くことに成功した」

「共通の目的……?」

「打倒、巨人の国。長く続いた彼女らの統治を終わらせる」


 私はさして昂奮しなかった。やりたければ勝手にやれば、程度のことしか思わなかった。


「思い切ったことをしますね。勝算はあるんですか」

「あるみたいだ。僕の主人が結構なやり手でね、世界中の有能な召喚士をスカウトしているようだ。きみの国でも、イゼウーズという召喚士を引き抜こうとしているらしい。合意に至ったかは知らないが」

「そうだったんですか」

「驚かないね。思い当たる節があった?」

「はい、まあ」

「そういうわけで、いずれ僕ときみは一緒に戦う仲間になる。巨人の国を倒せるかどうかは分からないけれど、女王と接触できればいいわけだから、正直どちらでもいい」

「負けたら酷い拷問を受けるんじゃないですか」

「どうかな、巨人の国だから、僕たちは厚遇されるんじゃないか。最悪、拷問されても死ぬわけではないのだし」


 私はぞっとした。ごく普通にそう言ってしまえる先輩が急によそよそしく感じられた。それとも自分に言い聞かせているだけだろうか。前進を躊躇わせるものは障害でも賢慮でもない、己の内から湧き出てくる恐怖だ。

 恐怖を克服するには勇気を振り絞るか、自分を騙すしかない。


「分かりました……、巨人の国へ侵攻するのはいつですか」

「戦力が整い次第。とりあえず全ての巨人は確保するそうだ」

「巨人って私たちのことですよね? もしかしてこの世界に存在する巨人って、全て地球からやってきた人なんですかね」

「その可能性が高いだろうね。僕たち巨人同士で結託することも可能だ」


 私と慶吾先輩が喋っている間に、もう一人の巨人が、ウモヨク国を蹂躙していた。もはや戦局はエッコクスニフが圧倒的に有利だった。輿に乗ったウキデヌムが私のほうを何度も見る。助けてくれ、何とかしてくれ、そう言われているかのようで、胸が痛んだ。


「……先輩、ウモヨク国が負けたら、将兵は全員殺すんですか」

「殺すというか、首は切るだろう。イゼウーズ以外はね。それが習わしだ」

「先輩は平気なんですか……、あんなに美しい小人たちが、殺し合いをしている。見ていて気分が悪くなりませんか」

「殺し合いじゃなくて、ちょっと過激なおままごとって感じじゃないかな。誰も死なないわけだし」

「でも痛みはあります。彼らには感情もあります」

「それはそうだろうけど、死なないんだから殺し合いとは言えないだろう。紗羅、きみも彼らが僕たちとはまるでかけ離れた存在だということを知ってるだろ。戦争が何よりの楽しみなんだよ。こんな世界ではそれも仕方ないのかもしれないけれど」

「はい」

「外野がとやかく言うことじゃない。僕たちはさっさとこんな世界から逃れるんだから、お節介もいいところだ。まあ、この世界に永住したいというのなら、口を出す権利もあるだろうけど」

「まさか。永住なんてとんでもない」

「だろう。だったら目を瞑っていればいい。何も見なかったフリをすればいい。紗羅、僕はこの世界に来てから、何かを見る度、何かを聞く度、自分の中の何かが音を立てて変わっていくのを感じることがあるんだ」

「それって……」

「こんなふざけた世界でなくとも、見知らぬ土地に行けば誰だって感じるような、そんな些細な変化かもしれない。あるいは何もしなくたって、人は時が経つにつれて変わっていくのかもしれない。面白いと思っていた漫画が途端につまらなく感じたり、逆にくだらないと思っていた音楽を気紛れでもう一度聞いてみたら感動してしまったり、でもそれって、漫画とか音楽とかが変わったわけじゃない。僕自身が変わってしまっているだけなんだ。面白いとかつまらないとかくだらないとか感動したとか、そういう反応の違いは結局は僕次第なんだよ。絶対的に面白い漫画とか絶対的にくだらない音楽とかはないんだよ。これが理解できないからお前はガキだ、高尚な文学はこう解釈すべきだ。そういう意見は的外れなんだよ」

「先輩……?」

「ごめん、ちょっと話が脇道に逸れた。僕が言いたいのは、この世界はこうあるべきだっていう考えを外野の人間が持つべきではない。良いも悪いも、立場によって変わってくるだろうし、同じ人間が正反対の意見を持つことだってある。安易な相対論で満足するわけじゃないが、僕はこの世界がどうあろうとも関係ないと思ってる。僕は僕の為に動く、なぜならこの世界の住民ではないから。シンプルな答えだとは思わないか」


 そう割り切ったんですね、とは言えなかった。でも話を聞いていて共感する部分はあった。人はいつまでも同じではいられない。子供がいつかは大人になるように、大人がいつかは老人になるように、人は日々変わり続けている。この世界ではそれが歪んでいるように思う。変化に慣れた私や慶吾先輩は毎日戸惑っている。

 肉体的な変化ばかりでなく、精神的な変化さえも、この世界は殺しているように思う。どうして首を切られた後も普通に過ごせるのだろう。想像がつかない。普通は一生立ち直れないほどの精神的な傷を負うものではないか。痛みがあるし、それに対する恐怖もあるだろうし、本来ならこの世界の住民は戦争を忌避して然るべきなのに、その存続を望んでいる。いくら他に娯楽がないと言っても、おかしい。

 でも先輩は日々自分が変わっていると言った。私もここに来てから何かが変わった気がする。少なくとも先輩とこうして話していても何の感情も湧いてこない。知り合いに会えたという喜びはあるけれども、それ以上の何かは見当たらない。私は元々こんな人間だったんだろうかという気はする。先輩に憧れていたときは何を思って生きていただろう。むしろ見ていたのは先輩ではなく自分自身だったように思う。憧れの人と一緒に過ごす日々にワクワクしていただけで、私は今が充実しているという証拠が欲しかっただけなのか。


 充実しているという証拠なんて、あるのだろうか。私がここで充実していると心の底から信じられれば、それでいいのか。周りから見ていかにも充実していると思われるのがいいのか。生きる意味ってなに、のような根源的な問いに繋がりそうで、私は考えるのを辞めたくなる。でも私はここにいようが元の世界に戻ろうが、何をしたいのかはっきりしない人間ということに変わりない。

 やりたいことがはっきりしている人間なんているの? 私はまた新たな疑問に悩む。そりゃあ、いるだろう。いるに決まってる。私だっていつかはそうなるだろう。でもやりたいことを続けられる人間なんて少ない。宇宙飛行士になりたい人間が全員希望を叶えられるような時代は、まだまだ遠いだろう。それが現実で、やりたいことができない人間は不幸なのか。そんな世界に救いはないのか。私はこの世界を見て不自然に感じるのは小人たちの中に戦争を否定する者がいない点だ。発明家がいたり天文学者っぽい人がいたりするが彼らの研究も軍事的発展に繋がっている。戦争こそが全て。無限の命と不死身の躰、おまけに魔術などという不思議な力まで備わっている。そんな世界にあって、どうしてこう多様性に欠けるのか。もしこの世界に神がいるとするなら、世界を創り慣れていないに違いない。あるいは多様性を犠牲にしてでも実現したい何かがあるのか。


「紗羅、そろそろ終戦のようだ」


 先輩が言う。そして私を地面に転がした。

 衝撃で眩暈がしつつも、素早く立ち上がった。そのとき戦場の端で、ウキデヌムが乗っていた輿が、巨人の拳によって粉砕されるのを見た。エッコクスニフの歓声が聞こえ、私と先輩は昂奮した兵士がウモヨクの旗をズタズタに切り裂くのをぼうっと見ていた。








 ウキデヌム以下、イゼウーズを除く全ての召喚士が生首だけとなり、物干し棹のような台から紐で吊るされ荒野に晒された。生首とは普通に会話ができるらしいが、もちろん私はそんな場所には近づきたくなかった。遠目で確認しただけなのに、吐き気がした。普通の生首と違って、血が垂れ落ちるのと肉体の再生が同時に起こり、宙に血溜まりが出来ていた。それはこの世界ではごく一般的な晒し方なのだそうが、命を冒涜しているようにしか思えない。おもちゃで遊んでいるかのような振る舞いに私はうんざりした。


 けれども、私が知らないだけで、地球にだってそういう類のことは山ほど行われてきただろう。むしろ命が消耗品であると知りながらそのような蛮行に勤しんできた地球の人間のほうが悪質と言える。その悪質さへの嫌悪を、私はこの世界の住民にぶつけようとしている。それはやはりお節介とでも言うべきで、先輩が言うように外野の人間がとやかく言うことではないのかもしれない。いやきっとそうだ。

 それが分かったからこそ、私はこの世界に慣れてはいけないと肝に銘じる。いよいよこの世界の住民として取り込まれてしまう。ああいった光景を嫌悪するのが普通で、特に私の住んでいる日本は、ちょっとでも不謹慎なことをすると個人だろうが企業だろうがあっという間に傷だらけになってしまう、潔癖な国だ。もちろん、私が善悪について潔癖になる必要はない。他人の痛みに敏感になり過ぎるのも良くないと思う。でもこの世界にある善悪は私にはそぐわなくて、怖くなってしまう。これまで親しげに話していた相手が、実は私とはかけ離れた価値観を持っていて、笑いながら私を傷つけるのではないか、それも悪意なく。そんな恐怖が段々と増している。


 気分が悪くなった私の面倒は先輩が見てくれた。エッコクスニフ国は戦勝祝いもそこそこに、早速ウモヨク国の領土を接収しにかかったようで、私に構ってくれる者などごく少数だった。それは別に構わないのだが、イゼウーズが裏切ったことを知った将兵たちの恨めしい眼差しが私にも向けられているのを感じて、居心地が悪かった。

 ウカッパエを始めとする有能な奴隷は、エッコクスニフの召喚士が引き取ろうとした。しかし中には制御が難しい奴隷もいて、それらは荒野に解き放たれた。あんな風に私も自由になれたら、きっとすぐに元の世界に帰れるだろうに。エッコクスニフを核とする同盟軍はいつになったら巨人の国に宣戦布告するのだろう。できる限り早いほうがいい。ただ、この世界の住民の時間の尺度について、私はまだ詳しく知らなかった。準備期間は永遠にある、確実に勝てる戦力が整うまでは目立たないようにしよう、などと考えようものなら、私は今の自分を保ち続ける自信がない。人は環境に慣れ、変わる生き物だと私ははっきりと理解している。というのも人間はそこまで我を張れるほど強い生き物ではない。昨日読んだ漫画の感想が今日読んだ漫画の感想と食い違うなんてことはしょっちゅうあるだろう。普通に過ごしているだけで日々緩やかに変化している。私はこの世界に知らず順応してしまうのではないか。先輩の言った通り目を瞑っているべきだろうか。でもそれはそれで新たな世界に目覚めてしまいそうだ。一日中目を瞑っていた人間が、一〇〇年ぶりに元の世界に戻って、まともな生活を続けられるだろうか。一〇〇年後の未来に現代人がついていけるはずがない、という話は置いておいて、私は自分が変わってしまうことへの恐怖を強く感じ、苦悩した。


 傍にいる先輩は私より幾らか楽観的で、すぐに巨人の国との戦争が始まると言っていた。続々と戦力が集まり、もはや巨人の国の包囲網は完成しつつあるという。


「本当なんですか……、でも、具体的な開戦日時は分からないでしょう」

「それはそうだけど、この世界の人たちは、永遠の時間を与えられているのに、結構せっかちでね」

「そうなんですか?」

「この世に経済なんて必要ないと思うけれど、ちゃんとカネはあるし――しかもその単位はきちんと『円』に変換されるから面白い――小人たちは生殖できないのに、結婚の制度はある。どこかいびつなんだよ、この世界は。誰かの意思が介在されているのではないか、と考えてしまう。だから、人々がせっかちなのは理由があるんじゃないかと思ってる」

「理由ですか……」

「きみはこの世界が一体何なのか、考えたことはあるだろう。そして僕たちをこの世界に導いた南里美郷が何者なのか、ということも」

「ええ、それはもちろん。でも考えても推測ばかりで、不毛だと気付きました」

「南里美郷がこの世界を創ったとしたら?」

「どうやってですか?」

「分からない」

「確かに、可能性としてはあり得るんでしょうけど――でも、彼女だって普通の女の子です。こんな世界を創り上げるのは難しいんじゃないんでしょうか」

「うーん、別に彼女でなくともいいが、誰かがこの世界を創ったのは間違いないと思うんだ。この世界の住民がせっかちなのは、観賞する上での都合というわけでね」

「――つまり、小人たちがあまりのんびりしていると、見ているほうはつまらないということですか」

「この世界の住民が戦争を肯定し、疑うことなく血腥い闘争を繰り広げているのも、それで説明がつくだろう。そして巨人の国は侵略もしなければ、干渉だって最低限にとどめている。戦争の規則を破った者に制裁を加える、ゲームマスターとでも呼べる立ち位置だ」

「何が言いたいんです?」

「僕がもうすぐ元の世界に帰れると確信する理由だ。巨人の国には僕たちを導いてくれる存在がいるはず。このゲームから下りる方法を教えてくれるだろう」

「ゲームですか……?」

「きみはそう感じなかったか? この世界全てが、あまりにシステマティックじゃないか。一〇〇〇に分割された領地を巡って各国の将軍が闘争を繰り広げている。しかしあまりに力を蓄え過ぎた国があると巨人の国が出撃して滅ぼしてしまう。つまりリセット。最初からゲームのやり直し。召喚士は奴隷を異世界から呼び出し、自らのキャパシティの範囲内で部隊を編成する。それで行われるのは正面きっての戦い。奇襲は多くの小人が悪手と見做して、それほど多くない。予測不能な要素を排除してある程度コントロール可能な変数だけで戦争の行方を決定しようとしている。ゲーム的だ。それもリアル志向ではなく、エンターテインメントに徹していると言える」

「よく、分かりませんけど……」

「これは僕の解釈だから話半分に流してもらって構わないが、まあ一度始めてしまった主張は最後まで述べるべきかな。はっきり言えば、僕たちは誰だか分からない人間が主催する大きなゲームに巻き込まれたのさ。僕はきみを追って自ら進んでゲームに参加したが、きみはまさに巻き込まれたという表現がぴったりだろう。このゲームの目的は単純で、この世界から脱出すること。でも、たぶん、正規のルートは、自分が所属する国を強くし、『ラスボス』の巨人の国を打倒し、女王と接触することなんだろう。同盟ルートというのは用意してあるのかな」

「ゲーム、ですか」


 でも私は納得できなかったし、先輩の話は飛躍し過ぎではないかと思った。これが本当に誰かの作ったゲームなのだとしても、私たちをこうして異次元に引き摺り込んだ時点で尋常ではない。それなら南里美郷の黒魔術が生み出した時空の歪みに迷い込んだ、とでも説明したほうがしっくりくるだろう。

 私は先輩の考え方が心配になってきた。別にこれがゲームだと思い込むのは良い、私にだって真実は分からないのだから。でも「リセット」という言葉には危うさを感じる。「首を切られても構わない、死なないのだから」そんな考え方は危険だ。私は痛みに臆病なだけだろうか。絶対に違う。この世界に死はないのかもしれないが、私にとってはある。元の世界でもそうだろう、死そのものが人間を蝕むのはほんの一瞬。死が引き起こす悲劇は、それを恐れ、逃れようとする人間の動きそのものだと言える。だからこの世界でも死に準ずる肉体の破損を恐れるのは、ごく当然だと思う。


 先輩と二人で話していると、上機嫌の小人が一人、近づいてきた。エクンウゼィという名前の、先輩の主人である召喚士だ。


「巨人同士、仲が良いな。エレズ、とかいったかな」

「はい」


 私は頷きながら、一つ違和感を抱いた。そして傍らの先輩を見る。しかし違和感の正体は掴めなかった。

 エクンウゼィは髭を生やした男だったが、イゼウーズよりも小ざっぱりとしていて、丸顔だった。喋るときに髭に触れるのが癖らしく、私を見上げながら何度も髭を引っ張ったり撫でたり指先で弄んだりしていた。


「なかなかの美人じゃないか。メスだろう? 二人とも、良き仲になれるのではないか」


 余計なお世話だった。また先輩が狂ったように私に向かって恥ずかしい台詞を吐くではないか。

 しかし慶吾先輩はゆったりと構え、エクンウゼィの話に耳を傾けていた。私に注意を一切向けていない。それはポーズではなく、本当に私が眼中にないようだった。


「エクンウゼィ様、この度の戦も見事な采配でありました」

「世辞はいい。オグアク、もう少し肩の力を抜け。エレズには事情は説明したのだろうな?」

「はい」


 先輩は頷く。オグアクというのはこの世界での先輩の名前なのだろう。

 エクンウゼィは満足げに頷く。


「エレズ、貴様の力が必要だ。巨人の国に対抗するには我々も巨人の力が必要不可欠。貴様はオグアクよりも非力そうだが、活躍を期待しているぞ」

「はい……」


 すっかり主人づらのエクンウゼィに無難な返事をする。先ほどからイゼウーズの姿がなかった。彼とはあまり気が合わないが、エクンウゼィよりは親しみが湧いた。きっと目の前の小人が巨人相手でも踏ん反り返っているからだ。その傲慢な態度が気に食わない。


「おっと、そろそろ連絡の時間だ。ちょっと失礼するよ」


 エクンウゼィは背を向けた。そして彼の目の前に異物が発生する。

 それは影だった。かつてイゼウーズがこっそり会話を交わしていた怪しげな影――特定の人物の術なのか、それともこの世界のごく一般的な通信手段なのか知らないが、遠くにいる人間と話をしているらしい。


「先輩、忠臣を演じてるんですね」


 私が小さな声で訊ねると、先輩は意外そうにした。


「別に演じてはいないけれどね。エクンウゼィ様は尊敬できる人物だよ」

「そうなんですか?」

「そうだ。僕なんかよりずっと賢いし、奴隷に優しく接してくれるし……、嫌い理由なんて何一つない」


 私は意外だった。心の底では見下していたっていいはずなのに。私はイゼウーズを見下しているわけではないけれど、尊敬なんて絶対にできない。ウヘレズクのように慇懃で柔和な人物だったら尊敬していただろうか? でも首輪をつけて無理矢理戦争に駆り出すような人間、戦争を無条件で肯定する、私たちと考え方や感性が似ているようで全く違う彼らの人格を、尊重はしても尊敬はしない。

 そもそも先輩はこれがゲームだと思っていたのではないのか。ゲームの登場人物を尊敬するなんておかしい。ゲームというのは極端な喩えだったとしても、そう考えるからこそこの理不尽な主従関係に嫌悪感を抱くべきではないか。

 もしこれが私や先輩のような地球の人間を対象にしたゲームだというのなら、なぜ奴隷側なのか。召喚士の立場でゲームに参加したほうが、裁量が広がってより幅広く参加できるだろう。


 これはゲームなんかではない。先輩は直感でそれを理解しているのではないか。私は薄く笑みを浮かべる先輩には心を開くことはないと感じた。

 もしかすると先輩は既にこの世界の在り方に順応してしまっているのではないか。私はそんな恐怖に囚われて、もしこの世界が夢だったら、悲惨なことになると思った。


 いつか必ず覚める夢だったなら、いつか必ず現実に戻らなければならないとしたら。

 この世界で永遠にも近い時間を過ごせたとしても、先輩の肉体は高校二年生のまま全く変わってなくて、私たちが感じた全てが一夜にも満たないほど短い時間の脳のトリップだったとしたら、先輩はどうなってしまうだろう。

 生きていけない。私はそう思う。言葉にはできないほどの違和感が襲ってくるはずだ。死という本来なら避けられないはずの脅威から一度脱してしまった(と錯覚した)人間に、現実の世界は恐ろし過ぎる。この世界をゲームと表現した先輩の気持ち自体は理解できる。現実味が薄い。自分を含めて全て架空の出来事なのではないかと思えてしまう。それに溺れるのが怖い。私はどんなに苦しくても水面から顔を出し続けて苦しい肺呼吸を続ける。首筋に鰓が出来上がって水中の呼吸が可能だと分かっても、絶対に潜らない。一度潜れば二度と水面から顔を出すことはできない。一度鰓で呼吸して、肺呼吸に戻ろうとしたら、血を吐く。

 取り返しのつかない血を吐いて、私は私でなくなってしまうだろう……。









 エッコクスニフの本拠地に移送された。エッコクスニフは多方面と戦争をしているらしく、奴隷が収容されている広場の出入りが激しかった。けれども私の出番は全くなかった。イゼウーズが裏切りの末に軍門に下ったことは周辺国には公にされていないらしい。最初は巨人の国に不穏な動きを悟らせたくないのかと思っていたが、先輩が私の浅はかな推測をあっけなく否定した。


「巨人の国の密偵は優秀で、とっくに同盟の動きには勘付いているだろう。紗羅を戦場に出さないのは、きっと同盟を上手く進める為だろうな」

「どういう意味ですか」

「エッコクスニフのやり口は少し強引だから、反発する者も出るだろうということさ。イゼウーズさんの引き抜きはあまり褒められたものじゃない」

「そうなんですか」

「奇襲でさえも大方の国王は敬遠するくらいだから、戦争に関してここの住民は潔癖なのだろう」

「言われてみればそうですね――そうそう、奇襲をしかけてきた国を『卑怯者』呼ばわりしてた小人がいました。信用を失うんですね」

「もちろん、すぐに噂は拡がるだろうから、きみを戦場に出したって問題は少ないかもしれないが、成功率を少しでも高める為の措置だそうだよ」

「ところで、巨人の国には会戦をするんですか、それとも領土を指定してチマチマと奪っていくんですか」

「さあ……、僕のような奴隷には何も知らされていないが、遠くの同盟国を積極的に増やしているところを見ると、全世界同時多発的に奇襲を仕掛けるんじゃないか。会戦を宣言すると、巨人の国と同盟国の内の一つのタイマン勝負になる。するとそこから一年は会戦を宣言することができなくなる」

「ああ、そう言えばそんなルールがあったような。それにしても奇襲ですか」

「巨人の国が定めたルールだし、文句を言うことはないだろうね。正面からぶつかっても勝ち目は薄いだろうし、幾つかの戦場で勝利を収めることができれば、巨人の国が飼っている奴隷を簒奪することができる。そうなれば戦力は充実する」

「そんなに上手くいきますか? 仮にいったとして、巨人の国の兵力に匹敵するだけの軍を築けるんですかね」

「勝算がなければこんなことはしないんじゃないかな」

「それは――どうですかね」

「どういう意味?」

「ここの人たちって、自分の命なんてどうでもいいって感じで動いてませんか。ううん、ちょっと違うかもしれない……、どうせ死にはしないと思って高を括っているというか」

「実際、そうだろう」

「そうですけど、自分の命は賭けてませんよね。成功しなくても次がある。勝算がないからやらない、という論理は成り立たないのでは? 面白そうだから、とか、たまには大規模な戦争を、とか、そんな軽い気持ちで始めることも――」

「それはないな」


 先輩は強い調子で言った。私はびくりとした。


「そ、そうですか?」

「そうだ。そんないい加減な生き方をしているわけじゃない。きみもこの国を見渡して感じないか。清新な匂いのする規律を。爽やかな空気の秩序を」

「ええと……」


 私は困惑した。先輩は思い出したように笑みを浮かべたけれども、手遅れだった。私には分かった。先輩はこの世界を気に入っている。


「――たまに旅行する分には、こんな世界も素敵だと思う」

「ええ、そうですね」

「でも、やっぱり、僕たちがいるべき場所じゃないな。そう、確かにきみの言う通り、この世界の住民が自分の命を軽視して乱暴に事を進める可能性もないわけではないだろう。しかしこれはいわば『意地』の問題でね。こんな頽廃的な制約の下にあるのに、この世界の人間はイキイキしているとは思わないか」

「まあ……、活発ではありますね」

「命を投げ出して成功の見込みの薄い戦争を仕掛ける、なんてことは、彼らはしないよ。そんなことをすれば恥と感じるだろう。彼らは永遠の生を愉しむ方法を知っているんだ。ふとすると、僕みたいな奴は、どうせ死なないんだから羽目を外して色々と試せばいいじゃないかと思ってしまうが」

「ええ、それが普通だと思います」

「でもそれは愚者の考えなんだ。普段、制約の下で抑圧を受けている人間の、気晴らしでしかない。真実の自由が与えられたとき、賢者は程度というものを弁える。制約なんかなくても、どの水準が適正か判断しようとするものだ。そしてこの世界の場合、勝ち目の薄い戦はしない。もしそんなことを戦略として許容すれば、戦争は途端につまらないものに成り下がるだろう」

「かもしれません」


 私は先輩の言葉に理解を示しつつも、気持ちが入り過ぎているのではないかと思わないこともなかった。正論だと感じるからこそ、先輩がそこに美点を見出だすのではないかと不安になってしまう。


「……分かりました。勝算がないかもしれないっていうのは訂正します。すみませんでした」

「いや、僕も可能性がないとは言わない。もしかすると投げ遣りになって、玉砕覚悟で巨人の国に喧嘩を売っているんじゃないかって不安になることはあるよ」


 しかし先輩が私をフォローする為の言葉だということは、あまりに見え透いていた。これは先輩の優しさだろうか、それともそんな見せかけの優しさを押し付けて私を懐柔しようとしているのだろうか。元の世界にいた頃から、先輩は私に優しかった。けれど優しい人と親しくなろうとするのは他人から優しくされたいという打算に過ぎないのと同様に、他人に優しくするのは自分に敵意を向けるなと念押ししたいからではないだろうか。

 いやいや、深く考え過ぎている。単なる言葉のやり取りに、そんな打算などが見え隠れしているように思うのは、私がこの世界を過剰に恐れているからに他ならない。早く戦争が起こって、こんな日々を脱したかった。先輩だって普段と同じでいられるはずがない。私は不安に思って何もかもを疑いたい気分になっているだけ。普通に女子高生をやっていたときはこんな深く考える性格ではなかったのに。


 エッコクスニフの奴隷の収容所は広々としている。広場には全ての奴隷が詰め込まれているが、狭さは感じない。先輩の話では、エッコクスニフが所有する領土の内の一つを、丸々奴隷の為の居住スペースとして設置しているらしい。練兵場が隣接しており、希望する奴隷はそこで鍛錬することができる。私は当然そんな無駄なことはしたくなかった。巨人以外には負ける気がしなかったし、巨人相手だったら勝てる気がしなかった。相手も女の子だったら話は別だけれど。

 先輩はエッコクスニフ生え抜きの巨人として、戦争に参加する機会が非常に多かった。私はやっぱり先輩がいなくなると寂しかった。他にも巨人がいたがとてつもなく寡黙だった。それどころか私が話しかけると露骨に嫌そうな顔になる。蠍や蜂とは意思疎通ができるのに、見た目が似ている巨人とは分かり合えないというのもおかしな話だった。ただ、向こうからは関わろうとせず、不気味なだけで済んだのは、幸運だったと言えなくもない。


 穏やかな十数日を過ごした。巨人以外の奴隷は誰もが気さくで、私に好意的に接してくれた。もしかすると私を畏怖していたのかもしれないが、少なくともそんな気配を感じることはなかった。

 この世界に摩耗はなく、滓が出ることもなく、垢もない。気を付けていれば躰の清潔を保つことは難しくなく、私は野外でもストレスを感じることなく過ごすことができた。

 きっと、地球の人が思い描く楽園に、この場所はかなり近いだろう。何も食べなくていい。余計な欲望に惑わされることはない。死なない。老いない。奴隷という立場さえ忘れてしまえば気楽なものだった。もしこんな日々が永遠に続いたとしたら――戦争も何もなく、殺し合いなど起きず、ナフヌンを苛めることもなく、ただ淡々と安らぎだけを求めて生きていたら――他の生き方などできなくなる。それほど幸せな時間だった。


 そう、この日々が幸せだと素直に思えてしまう私は、同時に危機感も抱いていた。けれど他に形容しようがない。これが幸せでなければ、元の世界に戻ったとき、私はどんな情景を幸せだと断言することができるだろう。不安なことなんて何一つなく、友人たちと穏やかに語り合うことができる、それが幸せでなかったら、地球に幸せなんか存在しないに違いない。

 仕事がないと張り合いがない、という人もいる。仕事の成功が幸せだと。でも世界中の全ての人間が仕事で成功することなどあり得ない。なぜなら、仕事の成功とは周りとの比較によって初めて成立するものなので。周りと同程度しか利益を出せていないのに、ただ暮らしに不自由ないから仕事が成功していると言えてしまう人は、仕事なんかなくても幸せを感じることができる人だ。こうして友人と語り合っているだけで幸せだと感じられる人だ。従って仕事で成功することが人生の喜びだと言ってしまう人間の全部あるいは一部は幸せになれない。全てが成功者であったなら彼らは幸せになれないのだから当然だし、仕事で失敗した人間は自分が不幸だと感じるだろう。そこにあるのは激しい競争社会であり、このふざけた戦争世界が戦争を保護してまで争っているのと変わらない。


 幸せって何だろう、なんてありふれた問いだけれど、地球に限って言えば、巡り合わせが良かった、程度の意味でしかないと思う。全ての人間が幸せになれる時代なんてのは歴史上存在しなかったのだし、今後何年間文明が続くか知らないけれど、そんなお伽噺みたいな時代が到来すると断言できる人間なんていないだろう。幸せな人間の隣には不幸な人がいる。

 でも私が今、こうしてのんびりと過ごしている世界には幸せに生きる方法がある。戦争をなくしてしまえばいい。そしてそれはけして夢物語ではない。争いが絶えない地球とは違って、このふざけた戦争世界は労力を注ぎ込んで戦争を維持しようとしている。それも純粋な娯楽として――どす黒い欲望の要求ではなく、永遠の先の生き甲斐の枯渇を憂慮して。


 ふと私は穏やかな日々を過ごしていて思う。この世界が神の産物だとするなら、私の住んでいた地球のある宇宙は「失敗作」だったのではないかと。この世界こそが神の創り出した「楽園」なのではないかと。ここでこそ生命は息衝くべきであり、地球の行く末は破滅しかないのではないかと。

 私は首を横に振って否定する。いや、否定することができないことを知っているから、忘れようと思う。地球はいつか破滅する。そんなことは分かっている。人類が自爆するか、膨らんだ太陽に飲み込まれるか、隕石が地球を二つに割るか、宇宙人に侵略されるか、緩やかに衰退していくか、そんなことは知らないけれど、必ずいつかは破滅する。それは誰もが知っている。


 誰がどんなに善行を積もうとも、破滅する。誰がどんなに立派でも、破滅する。誰がどんなに神に忠実であろうとも、破滅する。失敗作だから。


 私は何度も首を振る。考えを改めようとする。いや忘れようとする。でも地球というのは恐ろしい場所だ。わざわざ戻ろうとするのは愚かしいのではないか。いつか必ず死ぬという状況、そこから離れてみれば、かなり異常のように思える。死ぬって何だ。死んだ後は私はどうなるのか。今よりもっと幼かった頃、死ぬのが怖くて、夜に延々泣いていたことがある。それが普通だと大人が私を慰めてくれたこともある。でもそれが普通って、なんだよ。いつか必ず死ぬって、そんなの不条理だろう。そう思ったこともある。というか、今でも思っている。どうして死ぬって分かってるのにわざわざ子供を産むんだよと思うこともある。死があまりに遠いからか。親が一度死を経験して、それが凄惨なものだと知ったら、子を産むのはやめるか。


 産むのは、やめるか。


 私は強烈な衝撃を受けて、思考を止めた。それは奴隷広場に夜が訪れて辺りが闇に包まれているときだった。先輩はいない。私は一人蹲って死のない世界で死に怯えていた。

 周囲に話し相手はいない。奴隷たちは自らの寝床をこしらえて互いに離れて寝ている。私は野原で孤独だった。子供の頃、夜にゾンビ映画を見てしまって恐怖がやまずに泣き続けたことがある。窓の向こうにある闇にみっちりとゾンビが詰まっている想像が止められずに、ああ自分は喰われてしまうんだと悟り、涙が涸れるまで泣いて目を腫らした。

 あのときの感覚と似ている。私は唐突にこの世界に必要とされていないのではないかと思ってしまった。いや、もちろん、世界に必要とされている人間なんていない。人間が担う役割とか使命なんて、別の誰かで代替可能だ。もしそうでなかったらとっくに文明は崩壊している。そんな当然のことを突然思い出したのはなぜだろう。なぜ私はここまで打ちのめされているのだろう。


 思い出した――そう、思い出した。私は物心ついた頃には既に気付いていた。自分が世界を構成するピースの一部の表面にくっついている錆垢みたいな存在だということに。どうして私は生まれたんだろう、否定的に考える材料にしたわけでもなく、ただ純粋に疑問に思った。答えは成り行きというのが一番しっくりくるんだろう。親に望まれて生まれた? でもそんなの親のエゴだと思う、頼んだわけでもないのに。この考え方は酷いだろうか? でもむやみに生命を神秘化するわりには中絶が後を絶たない。経済的な理由? それって命より金が大事ってことだよね。もし私が中絶されそうなエンブリオだったら。本当に生まれたくて、生きたかったら。貧乏な暮らしでも片親でも何でもいいから殺さないでって叫ぶよ。巡り合わせ。幸せだから生まれたのか不幸だから生まれたのか分からない。


 私は誰に向かって話しているのか。きっと、世間ってやつだろう。ここにその世間はないけれど、でも私はいつかそこに戻ることになる。

 戻りたい? ここにい続けたほうが幸せだよ。私はいつの間にか泣いていた。死ぬのが怖いのだと気付いた。そんな単純なことに気付かなかったなんて。この世界がどこか浮ついて見えるのは、きっと死という要素が地球を彩っていたからだろう。その儚さが万物の色に宿っていたからだろう。と、私は適当なことを思って笑う。

 駄目だ。考えれば考えるほど戻りたくなくなる。考えちゃ駄目だ。そう言い聞かせる。あるいはそう言い聞かせ続けるのだと自分を説得する。そうやって安心したい。この世界は狂っているけれど、私も狂ってしまえば、楽しく過ごせるのではないか。

 きっと、そうなんだろう。そう思えるからこそ怖い。早く夜が明けて欲しい。私は誰かと話がしたい。雑念を頭に吹き込みたい。今夜は頭が冴え過ぎる。まるで私ではない誰かが頭の中に不安を手で押し込んでくるかのようだ。もう、駄目だ。駄目だ。夜が深くて、朝が遠くて、また泣けてきた……。









 エッコクスニフは同盟国の中でもかなりの発言力を持った軍事国家だった。内部から見れば、ウモヨクのような小国とは比べ物にならないほど戦力が整っている。召喚士が百人単位で在籍しているし、ウカッパエと同等以上の優秀な奴隷が揃っていた。召喚士の質に関してはむしろウモヨクのほうが優れていると感じることが多かった。イゼウーズのような召喚石を三つ使用するような天才は滅多にいなかったし、人格的に小物だと感じるような者が目に付いた。でも、考えてみれば当然で、奴隷は替えが利くが召喚士は増えもしなければ減りもしない。おまけに彼らは傷つくことがない代わりに成長することもない。人材は育つことなくただ漂うだけだ。それにこれだけの奴隷が揃っているなら召喚士に関しては質より量を優先すべきだろう。巨人の国にルール無用の殴り込みをかけるなら、それしかない。

 イゼウーズの姿を全く見ないのが気掛かりだった。もちろん彼が奴隷の収容所に顔を出さないのは別におかしくないのだが、でも他の奴隷を放り出して私だけを連れてエッコクスニフの同盟に参加した以上、もうちょっと私に愛着みたいなものを抱いてもいいんじゃないだろうか。他の召喚士が奴隷の収容所に遊びに来たときにそれとなく尋ねたことがあるのだが、彼らも姿を見ていないらしい。

 あんな奴でもいなくなったら寂しくなるものだ。嫌っている人でもたまに会いたくなるのはどういう心理だろう。一度会ったら憎まれ口を叩かれるのは目に見えているのに。また彼とは会いたくなくなるに決まっているのに。


 ある日、先輩が戦争から帰ってきた。

 戦争から帰ってきた。考えてみればえげつない表現だ。これが日常なのだから、私の常識は着々と崩壊している。

 先輩は言った。近い内に巨人の国に戦争を仕掛ける。

 きっと数年にも渡る大戦争になるだろう。

 誰もが何度も元の世界では死に値するような怪我を負っては、復活して戦場に送り出されるだろう。

 そして先輩は引き攣った顔の私に向かって小さな声で続ける。

 敵方の捕虜になればいい。そうすれば巨人の国に入れる。

 元の世界に帰る道筋が見えてくるはずだ。

 先輩もそうするんですよね、と私は尋ねた。深い意味はなかった。

 先輩は頷いた。

 でもそれが優しさからきた嘘なのか、本心なのか、私には分からなかった。そして、もしこのとき先輩が首を横に振っていたなら、きっと私は先輩を説得することなんてできなかったに違いない。だって私もその選択に惹かれていたのだから。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ