巨人
数年前、大学生の頃に書いた小説です。初めてガリヴァー旅行記の全訳を読んだときの衝撃が凄まじく、つい小説にしてしまいました。確か約15万文字を二週間くらいで書き上げたはず。勢いだけで書いたので、後で読み返したら「なんだこの気持ち悪い小説は」と愕然した思い出。これを書いた人は頭がおかしいんじゃないかな。全四話です。
第一章『巨人』
死ぬほどきみを愛してると言われた。
死ぬほど。
考えてみればえげつない表現だ。それは死んでも私を好きでいてくれるということ? 死んでしまうくらい過激な愛を私に対して抱いているということ? この愛が拒絶されるくらいならいっそのこと死んでしまいたいということ?
私はこの場から逃げたかった。そんなつもりで先輩の部屋まで来たわけではなかった。別れ話をするつもりだった。ずっと前から考えていたことだ。
それなのに先輩は潤んだ瞳で、立ち上がった私を見上げてくる。バスケの試合のときはコート上の誰より大きく見えるのに、今は何もできない子供に見える。私がその手を振り払ったらどこまでも堕ちていってしまいそうな危うさがある。
だからって、私は先輩を引き上げられるわけでも、支えられるわけでもない。私はまだ一六歳の女子高生で、重大な問題を解決する名案も思い付かない、漠然と「頑張って」としか言えない無能。
別にそれを恥じるわけじゃない、それが普通だろうから。でも、自分を慰めるときに使う「普通」が卑怯な気がするのはなぜだろう、正論であるはずなのにどこか捻じ曲がっているように思うのはなぜだろう。
「別れてください」
私は確かにそう言ったのだと思う、先輩が表情を変えないまま、止め処もない涙を流し始めたので。
嫌だ、とも、待ってくれ、とも、先輩は言わなかった。先輩はそういう人だった。だから私は先輩に憧れ、そして嫌いになったのだ。
私は小学五年生のときからバスケットボールを始めた。同級生の誰よりも上手だったので自信を深め、中学校でも続けた。中学校でも同級生の中では一番で、一年生のときからスタメンに選ばれていた。高校に進学してもバスケは続けるんだ、と当然のように考えていた。
特に受験勉強を頑張ったわけでもなく、ごく自然に地元の公立高校に進学した。そこのバスケ部で活躍する立花慶吾先輩を見て、バスケを始めて良かったと心の底から思った。これまで強い衝動があってバスケを続けてきたわけじゃない。でもあんなに格好良い人と同じスポーツができるなんて、こんなに素晴らしいことはない。大袈裟ではなく、本当にそう思ったのだ。
慶吾先輩は女子人気が極めて高い二年の男子で、去年のバレンタインでは二〇個以上チョコを貰ったという。ライバルが多いのか、と私は落胆したけれども、うじうじ迷っているのが嫌で、七月の半ばに思い切って告白した。
すると、慶吾先輩も「紗羅のことがずっと好きだった」と言ってくれた。私はもう舞い上がってしまった。憧れの先輩が私のことを気に入ってくれてたなんて! お互い部活で忙しかったし、学校の友達には内緒だったので、頻繁に会うこともなかったけれど、たぶん三か月の内に一〇回はデートをしたと思う。
手を繋ぐことも、ましてキスをすることもなかった。それでも私は幸せだった。先輩の両親が離婚して、塞ぎ込むことが多くなっても、じきに元の先輩に戻る、とあまり気にしていなかった。
でも先輩は戻らなかった。両親の離婚、という重大な事件に耐え切れなかったみたいだ。私は先輩と一緒に過ごす鬱屈な空気が嫌だった。しかも先輩は部活を辞めてしまい、毎日のように今日会おうと持ちかけてくる。会っても特に何かをするわけではない、ただ私の隣に座って黙り込んでいるだけ。一緒にいるだけで救われるんだと先輩は言った。
私は先輩のことが嫌いになった。顔は格好良いと相変わらず思うけれど、それだけ。周囲の羨望を集め、誰よりも輝いていた先輩はどこかに行ってしまった。
だから別れた。後悔はないはずだった。罪悪感があるのはきっと、愛していると言われたからだ。高校生が愛してるなんて言葉を使わないで欲しい。それが嘘だとは思わない。むしろ真実だと思うからこそ生々しい。私はこんな恋が欲しかったわけじゃない。もっと夢を見させて欲しかった。私の初恋は終わった。
それからだ。慶吾先輩と私の仲が校内で噂になり始めたのは。
ただし「苫井紗羅と慶吾先輩が破局した」というのではない。「苫井紗羅と慶吾先輩が結ばれそうだ」というので、ちょっとした騒ぎになっているのである。
私と先輩の恋愛は秘密裏に進展し、終焉を迎えていた。先輩の両親が離婚した、というよほど重大な事件があっさり校内中に知れ渡ったことを考えれば、私たちは信じられないほどひっそりと愛を育んでいた。
それが悪い方向に作用してしまったようだ。放課後、私の教室の前で慶吾先輩が腕組みをして待っている。私が体育館へ向かおうと廊下に出ると、待ってましたと言わんばかりにコンニチハと言う。爽やかだ。二人きりのときはあんなに陰気なのに。
慶吾先輩は紗羅に気がある。他人がそう思うのは当然の話だ。そしてその推測自体は間違ってない。受験勉強の為に早めに部活を辞めた、と建前上は説明している先輩は、依然女子に高い人気があった。だから私のことを妬む女子が出るのではないかと心配したが、現実は真逆だった。
同じクラスの女子のみならず、バスケ部の女子、見ず知らずの上級生まで、私と慶吾先輩の恋が成就するように仕向けてきた。よほどお似合いに見えたのだろうか? この学校の生徒は良い人ばかりだった。イジメの話なんか聞いたこともないし、私の周りにも話していて不愉快に思う人もいない。私が慶吾先輩に対してつれない態度を取っていることに文句を言う人がいてもおかしくないのに、「照れてるんだなあ」と好意的に解釈してくれる。だからこそ厄介だとも言えるのだが。
周りの女子が私と慶吾先輩をくっつけようとしている。そのことに私も先輩もすぐに気付いた。あろうことか先輩はこの状況を利用することに決めたようだ。あくどい。ますます嫌いになった。でも面と向かってそんなことを言えるはずがなかった。一言でも会話を交わしたくなかった。私の逃避行が始まった。昼休みや放課後、教室の前で私を待っている慶吾先輩をひたすら躱す日々。
学校に行くのを辞めようか。でもそうしたら家まで押しかけてくる気がして怖かった。
私と先輩は破局したばかりなんだと正直に宣言しようか。でもあんなに人の好い友達が掌を返して私を責めるのではないかと思うと躊躇した。私は周囲の女子が「抜け駆け厳禁!」の協定を結んでいることを知っていた。誰か一人だけ先走って慶吾先輩に告白したら村八分ならぬクラス八分の刑に処する。そんな取り決めが存在することを聞いたことがある。
私が先輩と付き合い始めたのはまさにその抜け駆けがきっかけである。表立って批判されることはないかもしれない、けど間違いなく軽蔑され、多少の陰口は叩かれるだろう。
この厄介な事態を打破したいのなら、評判を落とすくらいは覚悟しないといけないのかもしれない。でも私は先輩に対しても苛立っていた。私が嫌がっているのを分かっていて、なお付き纏うというのは、どういう神経をしているのだ。ストーカーの気質があるんじゃないの。と言ってやりたかった。
思い切って復縁してみようか? 想像しただけで気が滅入った。両親が離婚し、父親と二人暮らし。そんな境遇が同情され、慶吾先輩人気に拍車がかかっている気がする。私には分からないが、「憂いのある年上の男子って素敵!」らしい。
ある日の午後練が終わり、体育館の更衣室で汗まみれの躰をタオルで拭いているときのことだった。
周りの様子がおかしい。着替えるのが異様に早い。私以外は既に運動着から制服になっていた。汗ばんだ躰を拭くことも、いつもならあれほど入念に吹きつける制汗スプレーを取り出すこともなく、そそくさと更衣室から出て行く。
「ねえ、ちょっと待ってよ――」
私は心細くなって、慌てて着替え始めた。けれど更衣室から渡り廊下に出たとき、知り合いの女子は既に校門から出て行くところだった。
追いかけようと思った。けれど渡り廊下の向こうに佇んでいる慶吾先輩を見たとき、思考が止まった。
私は慶吾先輩に付き纏われるようになってから、同じ部活の女子と必ず一緒に帰るようにしていた。一瞬でも一人にならないよう、体育館から校門を潜り自宅の玄関に辿り着くまで、注意を払っていた。
なのに今日は友達全員に逃げられた。六時半のチャイムが鳴り響く中、私は先輩と睨み合っていた。
「話がしたい」
と先輩は言った。私はこの場から逃げ出すことも可能だった。けれどけじめをつけるべきだと思った。なぜって、先輩が女子バスケ部の協力を取り付けたことは確実であり、いつまでも逃げ続けることは不可能と判断した。
それに憤りもあった。はっきりと言ってやりたい、私はもう先輩のことは好きではありません、と。
私と先輩は昇降口まで移動した。靴を履き替えながら先輩は、
「僕のこと、嫌いになった?」
と尋ねた。私は迷ったが、最終的には、頷いた。
先輩は特にショックを受ける風でもなく、にやりと笑った。
「せめて今日から一緒に帰らないか。話がしたいんだ――友達として」
「嫌です」
「どうして……」
「これまでも似た関係だったからです。もう先輩の傍にいたくないんです」
「だったら、もっとちゃんとした恋人になろう」
「ちゃんとした、ってどういうことですか」
「それはつまり――」
「やっぱりいいです。どうせやり直すことはないですから」
「紗羅――」
やり直したいとは露ほども思っていなかったし、その陰気な顔を見ているだけで気が滅入ってくる。憧れの先輩と一緒にいる、という優越感にも似た浮かれた気持ちが、私の恋の主成分だったのに、もう慶吾先輩は憧れの対象ではなくなってしまった。
「ごめんなさい、無理なんです」
と私ははっきりと言った。それでも先輩は縋るように私を見ている。私なんかそんな頼りになるような女じゃないよ。他の人に縋ったほうがよほど頼りになるんじゃないかな。と思ったけれども、きっと先輩は否定するに決まってる。紗羅しかいないんだと言って、私の気を惹いた後は黙り込む。初速と惰性だけの恋。放物線を描いてやがて墜ちる。
「話ってそれだけですか」
「いや、色々あるんだ。今日、ウチに来ないか」
「行きませんよ。息が詰まるんです」
「どうすればいい」
「どうもしなくていいです」
「僕に死ねって言うのか」
私は耳を疑った。先輩が泣き出しそうな顔になっている。
「そんなこと……、言ってません。いきなり何を言い出すんですか」
「死ぬほどきみを愛してる」
先輩は大声で言った。周りには部活終わりの生徒が少なからずいた。私は周囲を見回し、大半がぎょっとしているのを確認する。中には笑っている人もいる。手を叩いている人もいる。耳の先まで真っ赤になるのを自覚した。照れたのではない。怒りが募ったのだ。
「先輩、やめて――」
「死ぬほどきみを愛してる。何度でも言ってやる。僕の傍にいてくれ。頼む」
「嫌です」
と私は言ったが、声がかすれていた。きっと聴衆の耳には届かなかった。
「きみのことを諦めきれないんだ。頼む。頼むよ。傍にいてくれ」
狂っていると思った。でもきっと、慶吾先輩のことを遠巻きでしか見ていない人は、立花慶吾はなんて純情なんだ、なんて一途なんだろう、そう思うに決まってる。
私は逃げ出したかった。けれど足が鉛のように重くなり動けなかった。早く返事をしてあげて、OKって言ってあげて。周りにいる生徒の期待が嫌になるほど分かってしまう。けれどこの場の空気に負けて頷くことだけは嫌だ。
どうしてこんなことになったんだろう。どうしたら逃げ出せるんだろう。
「苫井さーん」
私の名前を呼ぶ声があった。
上からだ。
私ははっとして校舎を見上げた。三階の廊下の窓から手を振っているのは、南里美郷だった。黒髪を不気味に垂らして、その大きな手を振っている。
「ずっと待ってたのに。約束、忘れちゃったの。早くおいでよ」
美郷は確かにそう言った。全く意味が分からなかった。美郷と約束なんて交わした覚えがなかった。けれど私は、
「ああ、ごめんね、今行くよ」
と自然な笑みを浮かべて、外履きから上履きへと履き替えた。
そして美郷が待つ三階を目指して走り始めた。
一度だけ振り返った。
先輩は靴も履き替えずに私を追おうとしていた。その眼は血走っていた。誰が私以外に、その異様な表情に気付いただろう、私は恐怖を感じ、階段を駆け上がった。
南里美郷は、学年一の秀才であると同時に、身長一八〇㎝を超す長身だった。モデル体型からは程遠く、かと言って肥満でもなく、骨格が日本人離れしていた。男子と同じ程度には肩幅があり、春のスポーツテストでは握力五〇㎏を超したと言われている。
顔立ちは悪くないが、ぼさぼさの長髪に、常に浮かべるにやにや笑いが不気味に思われて、交友関係は狭そうだった。黒魔術部という、非公式の部活を立ち上げて、数人の友人と共に活動しているという噂が立っていた。
私のようなスポーツに青春を捧げた女子とは住む世界が違った。だからこれまでろくに話したことがない。同じクラスではあったが、苫井さんと呼ばれたとき、何だか違和感があった。たぶん呼ばれ慣れていないからだろう。
三階の廊下に向かうと、美郷はブラウスのポケットに両手を突っ込んで、廊下の窓から外を眺めていた。
私に気付いた美郷は、にやりと笑った。二〇㎝以上背の高い女に見下ろされるのはあまり良い気分ではなかった。
「苫井さんも大変だね」
「え?」
「立花先輩に告白されて、困ってたよね。助けたつもりだったんだけどさあ、迷惑だったかな」
「いや、そんなことない。助かったよ」
私は慌てて言った。実際、あのとき声がかからなければ空気に流されて、先輩を勘違いさせてしまうような返答をしてしまっていたかもしれない。そう思うとぞっとする。
「よく、空気が読めないって言われてさ」
美郷は廊下を歩きながら言う。私は一瞬、彼女について行くべきか迷ったが、ふと階段の下から先輩が追ってくるような気がして、彼女の横についた。並んで歩き始める。
「だから心配だったんだ。凄く迷ってさ、けど苫井さんが物凄く困ってるみたいだったから、思わず声をかけちゃった」
「ありがとう、本当に助かった」
「立花先輩と、何かあったの?」
美郷が訊ねてくる。私は何とも言えなかった。何かあったか、という質問に何だか含むものがあるような気がした。普通、「どうして立花先輩の告白を受けないのか」とか、「先輩のどこが気に食わないの」といった質問が頭に浮かぶのではないか。「なにかあったの」とは、穏やかではない。
「別に、何もないけど……」
私は嘘をついた。あまり親しくない美郷には、とてもじゃないが話せない。
「じゃあ、さっきの騒ぎは?」
「先輩に、愛してるとか大声で言われて――」
「何かあったんじゃん。嘘つき」
と美郷は軽い調子で言って笑った。私は遅れて、ああそうか、美郷はクラスの噂とかに疎いから、先輩が私にしつこくアタックしていることを知らなかったのか、と気付いた。
「ああ、そうね。何もないってのは間違いだったかな」
「先輩のこと、嫌いなんだね」
「え?」
私は困惑する。嫌いだって? 嫌いという単語はあまりに刺々しい。食べ物の好みになら使っていいが、たとえばアーティストとか漫画とかの話でその単語を使えば、ちょっとした確執を生みかねない。まして人間相手に使うなんて。
美郷は突然、立ち止まる。
「だって、そうでしょ。逃げたがってた。私の勘違いじゃなきゃならいいんだけど」
美郷の浮世離れした佇まいには不思議な魅力が備わっていた。魅力と言うとプラスの意味に捉えがちだが、彼女の場合は逆だ。凄惨な犯罪を起こした囚人に強烈な異性の魅力を感じる変人が、世界には一定数いるそうだが、その感覚がほんの少し分かった。
美郷には負の魅力がある。目を背けたくなるのに、ついその奥を覗き込んでみたくなる。きっと人間全てが備えている悪の部分がそうさせるのではないだろうか、誰もが持っている背徳への願望が美郷のような人間を輝かせているのではないか。
黒い光、とでも呼べそうな美郷の姿態。ニキビ一つない白い肌なのに、その薄皮の向こうに何かおぞましいものが詰まっているのではないかと思わせる、不穏な佇まい。
「苫井さん、私の勘違いじゃないって言ってくれないかしら」
美郷は言う。私は答えられない。ふと廊下を見渡すと、慶吾先輩が外履きのまま校舎内に侵入し、私と美郷を睨みつけていた。ゆっくりと歩いてくる。
「掃除当番だったのに」
「え?」
私は聞き返した。美郷は嘆息する。
「今日、掃除当番で、放課後に廊下を掃除したのに。汚さないで欲しい。せめて明日の朝まではさ……」
私は首を傾げた。そして、美郷が立ち止まった先の教室に、手書きのプレートが貼り付けられていることに気付いた。
黒魔術部・文句のある奴は呪う
ギャグだろう。きっとギャグなのだろう。だがこの空き教室の主が美郷だと、笑うに笑えない。
先輩が更に近づいてくる。美郷のことを警戒しつつも、私に野獣のような視線を向けてくる。私が先輩を拒絶しているからそう見えるのだろう、と思っていたら、
「何だか、立花先輩って言うほど男前じゃないよね。近くで見るとさ」
と、美郷が言った。私はどう反応していいか分からなかった。
「で、苫井さん、そろそろ答えてくれる」
「な、何が?」
「苫井さんが立花先輩のこと、嫌いなのかどうか。私の勘違いだったら、とんだ悪者でしょう。私は空気読めないなりに、気を遣ってるの」
私は近づいてきた先輩の顔を見る。嫌いだなんて言うはずがない、そんな表情をしている。
私は、ふと、そんな先輩の顔をもっと歪めてやりたいと思った。はっきり嫌いだって言ってやらないからこんなに付き纏うんだ。恋人になりたい、友達として話し相手になって欲しい、そんな願望を抱くのは、まだ私が先輩のことを嫌いじゃないという幻想を抱かせてしまったからに他ならない。
「美郷さんの勘違いじゃないよ。私は慶吾先輩のことが嫌い。もう顔も見たくないわ」
先輩の足が止まった。私を凝視する。もうこれで付き纏ってくることはないよね。
私はキッと表情を引き締めて先輩を睨みつけた。さっさと帰ってくれないかな。そういうメッセージを込めたつもりだった。
先輩の顔色がみるみる変わっていく。青褪めていく。やがて土気色になり、唇が紫色になる。ぶるぶると震え、歯がカチカチと音を鳴らすのを聞いた。
そして先輩は涙を流した――別れを告げたときも先輩は泣いた。あのときは二人きりだった。でも今は第三者がいる。爽やかでスポーツ万能、誰に対しても柔和でリーダーシップを発揮することが多かった、あの憧れの先輩が、無様に泣いている。
「嫌だ、紗羅、僕のことが嫌いだって? そんなはずはないよ、そんなはずは!」
先輩が走り出した。私は短い悲鳴を上げた。先輩が私に腕を伸ばす。しかしそれは届かない。
私と先輩の間には巨大な壁。南里美郷。
「本来、部員しか部室には入れないようにしているんだけど」
美郷は言いながら、慶吾先輩を突き飛ばす。先輩は床を転がり、自分より背の高い女子を信じられないような目つきで見た。
「良かったら、どうぞ、避難して」
私は頷いた。黒魔術部というプレートが張られた教室のドアを開けて、中に入る。
途端、噎せた。中は妙に埃っぽかった。カーテンが閉められ、暗い。照明のスイッチを探したが、足元にはごちゃごちゃと物が散乱しているらしく、何度も転びかけた。
やがて照明が点いた――黒い背表紙の本ばかりが陳列された本棚が真っ先に目に入った。隅にはビーカーだのガラス瓶だのが積み上げられ、小さな机を椅子代わりにして読書をしている女子が一人、入口近くに立って照明のスイッチに手をかけている女子が一人。
読書をしている女子は私の存在を全く無視していたが、照明を点けてくれたほうは驚いているようだった。
「おや、まあ」
その女子は隣のクラスの飯田聡子だった。身長一七〇㎝と大柄で、長めのスカートを穿いているので綽名が「女番長」ということは知っていた。
「確か、苫井さん? 黒魔術部に何か用?」
「いや……」
私が言葉を濁していると、美郷が部室に入ってきた。後ろ手にドアを閉め、鍵をかける。間もなく、ドンドンとドアが叩かれ、慶吾先輩の怒鳴り声が聞こえてきた。
「いけないなあ」
美郷が嬉しそうに言う。
「立花先輩、ご立腹だねえ。苫井さん、今夜はここに泊まってく? 帰り道、ブスリとやられるかもよ」
まさか。冗談ではない。しかし美郷はにやにやしているわりには鋭い眼光を向け、
「それとも、遊んでく? 黒魔術部に入部してくれたら、色々使わせてあげるよ。ふふふ」
私は恐ろしかった。優しかった先輩があんな狂気に満ちた声を上げるなんて。美郷の不気味さなんて可愛いものに思えた。
飯田智子が、肩を竦めている。
「部長、どうして苫井さんをこの部屋に?」
「困ってる人を見かけたら、放っておけないじゃん。こう見えて、母性溢れるほうだし」
美郷の言葉に、読書をしていた女子がキャハハハと笑い始めた。それにつられるように他の二人も笑い始める。私は、先輩よりもこの三人のほうがやばいのではないかと思いかけた。
それに、ふと気付いた。私がこの部屋に入ってきたとき、真っ暗闇だった。それなのに、名前も知らないこの女子は読書をしていた。字なんて読めるはずがない。
「私の名前は鹿野裕子……、野生の鹿は裕福な子供に喰われると書いて鹿野裕子。どうせ私のことなんか知らないだろうから、自己紹介しとく」
と、読書をしていた女子が言った。私はぺこりと頭を下げたけれども、絶対にお近づきになりたくなかった。
三人とも大柄で、不気味だ。黒魔術なんてものを信じているオカルト女子とは絶対に分かり合えない。私は部屋の外に先輩がいなければさっさとこんなところ抜け出したいくらいだった。いや、既に先輩の愛の告白を受け入れるか、この三人の異様な空気に耐えるべきか、二つの苦難を天秤にかけ始めている自分がいる。
美郷が私を見据えて、言った。
「苫井さん?」
「な、なに」
「先輩から逃げたいなら、良い方法があるわ――とっておきの方法がね」
「なによ、それ……。変なことじゃないでしょうね」
「変なこと? ふふ、あなたの言う変なことっていうのがよく分からないけど――もしあなたが黒魔術を『変なこと』というカテゴリーに入れるというのなら、そうね、私がこれから提案することも『変なこと』に違いないわ」
「今から黒魔術をするってこと?」
「まさか。そんなもの、現実に存在しないわ」
美郷はあっさりと、この部活を根本から否定する。
途端、鹿野裕子がぎゃーぎゃー喚き始めたので、美郷は苦笑した。
「ははは、裕子は黒魔術の存在を信じてるのよ。子供よね。まあ、オカルティズムが時代精神の形成に一役買っていたのは事実だし、とりわけ芸術的見地からはその存在は現代でも無視できないものではあるけれど、一般に言われるファンタジー的な魔法みたいなものを、私が信じているわけではないのよ」
「はあ……?」
「ごめんなさい、小難しい話をするつもりは毛頭ないの。でもね、苫井さん、私たちのこと、不気味だと思ったでしょう。気持ち悪いと思ったでしょう。何を考えてるのか分からないと思ったでしょう。私があなたでも同じことを思うと思うわ。苫井さんは可愛いから不気味にはならないと思うけど」
何が言いたいのか分からず、私は小さく頷いただけだった。美郷は部室のドアが揺れているのを澄ました顔で見ている。
「つまり、行ってみたいとは思わない?」
「……どこに?」
「ここではないどこかに。たとえば、立花先輩のいない場所に」
私は鼻で笑った。
「行きたいかもね。むしろ、先輩をどこかに飛ばして欲しいけど、それが無理なら、私が消えたい」
「ふふ、苫井さん、絶好の場所があるのよ」
「どこ? ……まさか隠し部屋があるとか?」
私は部室を見回した。美郷は首を横に振る。
「違うの。苫井さん、立花先輩から逃げたいなら、私の言う呪文を唱えて」
「呪文?」
「そう。オヤレウェレ、ウシオウナケクボィエヘウ、オィノムコリキヘニウトウエクオトヨノク」
「……はい?」
「オヤレウェレ、ウシオウナケクボィエヘウ、オィノムコリキヘニウトウエクオトヨノクって言うのよ。それも、五秒以内にね」
「いや……、覚え切れないし、五秒以内とか無理だし……。そもそも、そんなの……」
やっぱり迷信にどっぷり浸かってるじゃないか。私は美郷を睨みつけた。
美郷はくすくすと笑っていた。
「ねえ、苫井さん、あれを見て」
美郷は壁を指差した。そこには絵の入っていない額縁が飾ってあった。
「あれ、額縁じゃないのよ」
美郷は言う。
「あれは鏡なの。人の真の姿を映し出す鏡」
「いや、向こうの壁の染みとか見えているけど……。鏡なんてない」
「特別な鏡だから、目では見えないの。苫井さん、もっと鏡をよく見てごらんよ」
私は拒否したかったが、自分より大柄な女子三人に囲まれて凄まれると、ポーズだけでも言う通りにしておいたほうがいいだろうと判断した。
額縁のような鏡に近付く。
中には何も嵌められていない。壁の染みが剥き出しだ。壁紙だって亀裂が入って剥がれかけている。
ただの亀裂ではない。ジグザグで、まるで何かの意図があってそのような形に裁断されたかのような……、いや絶対にそうだ。
私は目を凝らす。
額縁の中に鏡が嵌められている。
それは私の顔を映さない。
ある奇怪な文字列が浮かび上がる。壁の染みだと思っていたものは紋様に、壁紙に入っている亀裂だと思っていたものは文字だったことが分かる。
これは鏡だ。確かに鏡だ。
何も映さないわけではない。私の顔を映さない代わりに「何か」が裏返って見える。
「オヤレウェレ、ウシオウナケクボィエヘウ、オィノムコリキヘニウトウエクオトヨノク……?」
私は言った。あまりにもすんなりと、恐らくは五秒以内に。
躰がふっと軽くなった。
世界が裏返るのを感じる。
これまで表にあったものが裏に、裏にあったものが表に。
まるで立体仕掛けの絵本のように、現実が仕舞い込まれる。
そして次の現実が姿を現す。
そう、これは夢だとか幻覚の類ではなく、現実の転換。
数直線上に突如として差し込まれたもう一軸。私はそれまで知らなかった方向へと歩み出す。東西南北、上下左右では説明できない全く新たな方向に。
歩み出す。
美郷の声が聞こえた気がする。先輩の叫び声も。
「エレズ‐ヌソィク」
私にはもちろん、その言葉の意味は分からなかった。
*
私は深い眠りから目覚めようとしていた。
息苦しかった。それで首に手をやると指先にチクリと痛みが走った。
瞼を閉じていたので、自分の指がどうなったのか分からなかった。じわりと熱い疼きが込み上げてきたので、出血したのだと推測した。
でも私はまだ眠っていたかった。きっと完全に覚醒したならこの痛みの輪郭がはっきりとして私を苦しめるだろう。だから眠りたかった。眠気なんてほとんどなくなっていたのに、頑固に瞼を閉じ続けていた。
「ほら、起きろよ」
不機嫌そうな男の声が聞こえた。私はそれが一瞬先輩の声に聞こえて、びくりとした。でも後で考えてみると全く似ていなかった。
とは言え、恐怖を感じた私は発作的に起き上がっていた。
勇気を持って瞼を押し上げると、そこは茂みの中だった。
私の背丈ほどもある低木とささやかな下生えが私の躰を包み込んでいる。
そして小さな子供が私を睨んでいた。上半身を起こしただけの私よりも目線が低い。身長は五〇㎝といったところか。
しかし、それはよく見ると子供ではなかった。大人である。なぜ大人だと思ったかと言えば、骨格と髭だ。目の前の人物は髭を生やしている上に、筋骨隆々とした肉体を持っていた。大人の骨格をしている。
それなのに身長が低い。
男は私を胡散臭そうに見ている。
「思ったよりも小さいな……。おい、お前!」
私はとんでもないチビ人間を見て、これは夢だろうかと思い始めていた。でも草が肌を撫でる感触、鼻を刺激する泥の臭い、何より目の前に広がる色鮮やかな世界を、夢だと断じることはできなかった。
「なんですか」
私は一応敬語で言い、小人を見た。小人は頷いている。
「俺の名はイゼウーズ。お前はちゃんと脳味噌がついているみたいだから予め言っておくが、俺の命令には絶対に従うこと」
「はあ?」
「そうしないと痛い目に遭うぞ。いいか、これは忠告だからな。返事をしろ、エレズ‐ヌソィク!」
イゼウーズは叫んだ。私はぽかんとしていた。
イゼウーズは地団太を踏んだ。
「今言ったばかりだろう! 返事の仕方が分からないのか、いいか、こういうときは『はい!』と言え!『はい!』だぞ!」
「いや、あの……、誰ですか。それとここはどこ? エレズなんとかって、何のことです?」
私は何が何やら分からなかった。イゼウーズは腰に手を当て、ふんと鼻を鳴らした。
「半端に智慧がついていると、いちいち説明するのが面倒だな。まあ、三石を費やしたのだから、これくらいでないと満足できんかもな。いいか、お前は奴隷なんだ」
「ど……、え?」
「奴隷だよ、奴隷。言葉の意味が分からんか? お前はこれから俺の為に生きるんだ。俺の為に働き、俺の幸福だけを願って判断を下さなきゃならん」
「ちょっと待ってよ。奴隷の意味は分かるよ。でもいきなりそんなことを言われても……、ってかここはどこ? 私はどうなっちゃったの」
「混乱するのは分かる。ふん、まあ今は暇だし、じっくりと説明してや――」
しかしそのとき空気を震わせる轟音が鳴り響いた。イゼウーズは振り返り、空の彼方を睨みつけた。私もそれにつられたが、どうも空の様子がおかしい気がした。
しばらく音の余韻が辺りの空気を震わせていたが、やがてイゼウーズが絶叫した。
「畜生! 奇襲か! おい、エレズ‐ヌソィク!」
私はぽかんと空を見ていた。雲の動きがおかしい気がする。異様に早いというか、空が近いというか……。
「おい、返事をしろ! ちっ、この!」
そのとき私は全身に電撃が走ったかのような衝撃に見舞われた。思わずひっくり返り、自分がスカートを穿いていることも忘れて大股を開けてしまった。
すぐに衝撃は去った。私はよろよろと立ち上がった。
「い、今のは……」
「返事をしろ、エレズ‐ヌソィク!」
「その、さっきから言ってるエレズなんとかっていうのは……?」
「お前の名だ!」
「は? いや、私の名前は苫井っていってですね――」
「昔の名は捨てろ! 今のお前の名はエレズ‐ヌソィクだ! 略してエレズでも構わん! とにかく返事をするんだ、エレズ!」
「はあ?」
「返事は『はい』と言っただろ、低能め!」
イゼウーズは憤激し、何やら手振りした。
すると再び電撃が襲ってきて、危うく失神しかけた。私は確信を持った。
「も、もしかして、あなたが怒ると電撃を……?」
「そうだ。貴様の首についた拘束具を介して、電撃を送れるようになっている。それが私がお前の主人たる証!」
私は首についている輪に触れた。もちろん、こんなものを着けて華の高校生活を送っていたわけではない。
「いつの間に、こんなの……」
「エレズ! 今は多くのことを話している時間はない! 敵の奇襲があったのだ、既に戦場が展開されている!」
「な、何を言って……」
「戦え!」
イゼウーズは叫ぶ。
「お前は戦う為に、この俺から召喚されたのだ! 巨人エレズ! 比類なき力を誇る戦士よ! 戦場で存分にその力を振るえ!」
「た、戦えって、何と? ど、どんな風に? いきなりそんなこと言われても――」
イゼウーズの眼が残酷な光に満ちる。私は三度、電撃に襲われた。しかも今度は少し長かった。電撃を受けている間はただひたすら苦痛が全身を襲うだけで、何も考えていられない。
茫然として、怒りさえ湧いてこなかった。自分が従順になっているのを感じた。
「エレズ、さっさと立て!」
「はい……」
「戦場に向かう! ついて来い!」
イゼウーズは猛然を走り出した。私は仕方なく立ち上がり、自分の三分の一ほどの身長しかない男について歩き始めた。男は走っているのだが、私の歩幅は彼の三倍ある。ちょっと歩行速度を速めるだけで十分について行くことができた。
私は電撃の衝撃からまだ醒めることができずにいて、思考が停滞していた。やがて周囲を見回すと林は終わり平原が広がっていた。しかしどこか違和感がある。普通の平原ではなく、何となく「ちゃっちい」印象があった。まるでこの世界がプラモデルで出来ているかのような、不自然な景色。どこがおかしいとはっきり指摘できるわけではないので、頭がぼうっとしているだけだと思うことも可能だった。
ああ、やっぱりここは夢なんだろうか。私が思いかけたとき、平原の向こうに巨大な砦が見えた。
しかしそれもやはりどこか違和感があった。巨大な砦には違いないのだが、迫力に欠けているのだ。私の背丈より少し高い壁に囲まれた構造物には、無数の小人が群がっている。イゼウーズと同じような体格の人間がたくさんいて、私は不覚にも「可愛い」と思ってしまったのだが、小人のいずれもが鎧や剣で武装していることに気付いて、ぞっとした。
「蹴散らせ!」
イゼウーズが息を切らしながら言う。私は砦を遠くに見ながら、えっ、と聞き返した。
「何ですって?」
「あの卑怯なイオィクグの軍勢を蹴散らせ! お前を呼び出すのに召喚石を三つも費やしたんだ、それくらいはやってくれないと困る!」
「はあ? いや、蹴散らせって、あの中に突っ込めってこと?」
「そうだ」
「無理だよ。怪我するし……」
「怪我? ああ、そうか、巨人用の武具をあつらえさせている途中だったか……」
そのとき、私とイゼウーズの間に、新たな小人が現れた。地面から生え出たわけでも、空中から舞い降りたわけでもない、前触れもなく忽然とそこに現れたのだ。
赤いマントを翻したその新たな小人は、私を見上げてヒューと口笛を鳴らした後、紙切れをイゼウーズに手渡した。
「ご注文の品をお届けに参上しました、イゼウーズ様。毎度ヌニオィズ商会をご利用して頂きありがとうございます」
「ご苦労さん、代金は受け取ってるか?」
「もちろん。ウモヨク国の財務管理担当者は優秀でいらっしゃる。これまで一度たりともお支払いが滞ったことはございません」
「そりゃあ、良かった。で、エユセク連合は文句言ってなかったか」
「いえ、ご心配なく。今後ともご贔屓に」
赤いマントの小人はニカッと笑みを浮かべ、私にも一礼すると、またもや突然姿を消した。私は目をぱちくりさせた。
イゼウーズは赤いマントの小人から受け取った紙切れを凝視している。
「なるほど……、おい、エレズ!」
「は、はい?」
「腕を少し広がろ。そうじゃない、もっと脇を広く。軽く拳を握って。肩幅に足を開いて、それで少し胸を張れ。よし、そのまま動くなよ。……アゼヅボィオウオロヨンヌソィク、エレコロコチゴンヌニオィズ」
イゼウーズは呪文を唱えた。すると、私の躰が一気に重くなった。
見れば、私の躰には鎧が備わっていた。アルミみたいな光沢を持った金属が全身に張り付いている。兜、胸部、腕、腹、腰、脚、全身を覆っている。私が驚いてあたふたしたら面頬が落ちてきて視界が狭くなった。
「こ、これは――」
「お前の為に鎧を用意しておいたのだ! サイズは大丈夫なようだな。よし、行くがいい、巨人の力を見せてみろ!」
私はぽかんとしていた。何が何だか分からない。イゼウーズは私が動こうとしないことに憤激した。
「どうした、なぜ動かない!」
「いや、何が何だか――」
「ああ、分かったぞ。防具だけでは戦えん、武器がないじゃないかと言いたいんだな。心配するな、お前の巨大な躰が何にも優る武器である!」
「いや、そうじゃなくて――」
「他に質問があるのか? 今は緊急事態だ、質問は後にしろ!」
「でも」
「どうした! また仕置きを喰らいたいのか!」
「い、いやです。でも、私がどうして戦わなくちゃいけないの? ここはどこなの? それに、どうしてあなたはそんなに小さいの? あなただけじゃない、敵だって、みんな、小人……」
「お前に比べたら全ての人間は小さく見えるだろうよ。ふん、お前が混乱するのも理解できる。仮にお前が我々人間と同程度の知能を持っているとするなら、突然の環境の変化に咄嗟に対応できずおろおろしてしまうのはむしろ普通のことだ。だが、敢えて言おう、お前は俺の奴隷であり、考えている暇があったら躰を動かせ!」
イゼウーズはその場で飛び跳ねた。次の瞬間、私の躰は電撃を喰らって地面に転がっていた。ゴツゴツした鎧が背骨に当たって激痛が走った。頭を地面に打って意識が朦朧とする。
「さっさと立て! お前は戦士なんだ! さっさと走れ!」
イゼウーズの男にしては甲高い声が平原に響く。遠くでは金属が搗ち合う音が盛んに鳴り響いている。私は平凡な学校生活で抱いたことのない感情が自分の中に芽生えるのを感じた。
それは、圧倒的な怒り。本気で何もかもを滅茶苦茶にしてやりたいと願う、剥き出しの破壊衝動。理性の訴えを無視してこの爆発的な感情に従うことを覚悟したときの、ぞくぞくするような爽快さ。
私はイゼウーズを睨みつけた。さしもの小人も恐怖に顔を歪めた。彼は私の三分の一の背丈しかない小人だ。
「な、なんだ、その眼は。敵は俺じゃないぞ。もう一度電撃を喰らいたいのか?」
「理不尽なこと言わないで」
「り、理不尽なんかじゃない! お前はこの俺が呼び出したんだ! 俺がご主人様なんだよ! 今は戦争中で、少しでも戦力が必要なんだ、あの砦が落とされたら、この一帯の平原の所有権を失う! お前は知らないだろうが、ここを落とされると貴重な召喚石が数十個失われることになる! 今月は年に一度の産出日で――」
「最初からそう言いなさいよ」
「え?」
「はっきり言って、あんたの話なんかちっとも分からない。でも最初から説明を放棄して私を痛めつけて、お前は奴隷だ何だって。理不尽過ぎるでしょう。ただでさえこんなわけの分からない世界に迷い込んで、わけの分からない小人と日本語で話し合って、これは夢じゃなかったら何なんだって頭を悩ませているのに、こんな仕打ちを受けたら、私……」
「な、なんだよ」
「自分でもぞっとしちゃうようなことをするかもしれない」
イゼウーズは引き攣った笑みを浮かべた。
「それでいいんだよ、エレズ! 巨人の戦士に求められているのはまさにそれだ! 立ち上がってくれ、そして憎きイオィクグの軍勢を追い払ってくれ! 奴らはいきなり奇襲を仕掛けてきた卑怯な奴らなんだ」
「そんなの、知らないけど」
私は立ち上がった。
「何だかよく分からないけど、凄くムカツク……。何なんだろう、ここは。夢としか思えないのに、はっきり、これは夢じゃないって感覚で分かる。自分でもびっくりするくらい気持ちが冷めてる。暴れてもいいっていうなら、暴れちゃおうかな」
「そうだ、暴れろ! その為にお前はここに来たんだ」
「ゲームセンターにあるモグラ叩きゲームみたいなものだと思っていい?」
「うん? げえむせ……、何だって?」
「とにかく、アトラクションだと思って、せいぜい楽しませてもらうよ。あの砦に群がってる奴らを撃退すればいいのね?」
「そうだ! 戦え!」
「あんたは戦わないの?」
「え、俺? お、俺は戦士じゃない。誇り高きウズ‐ネキオィズだ!」
よく分からない単語が出てきたので、私は面倒になり、奇襲してきたという無数の小人の軍勢に向かって歩き始めた。
そのイオィクグとかいう軍勢は、ずっと前から私の存在を気に掛けていたようで、いよいよ接近を始めると、素早く陣形を整えた。
二〇〇人はいるだろうか……、剣や盾を構えた小人たちが、私に憎悪と恐怖が入り混じった視線を向けてくる。身長五〇㎝の小人と言っても、たとえば、体長五〇㎝のトカゲと比べると、全く圧迫感に欠けた。というのも、小人は普通の人間の三分の一の背丈しかないばかりではなく、横の幅も三分の一、躰の厚みも三分の一になっているので、ちょっと足先で払ったら軽く吹っ飛んでいきそうなほど華奢に見えるのだ。
実際、私は二〇〇人もの軍勢を前にしても落ち着いていた。鎧に包まれている効果もあったかもしれない。
私が慣れない鎧に苦戦しながらもよたよたと走り出すと、敵軍の士気は一気に下落したようだった。逃亡する小人が何人かいる。
それでも大半は勇敢で、剣を突き出してくる。だが私の隙間のほとんどない鎧をカンカンと鳴らすばかりで、全く効果がない。そして、小人たちは私が軽く振れただけで倒れ、ぎゃあぎゃあとやかましく喚いた。砦のほうから歓声が聞こえた。みると青い旗を掲げた小人たちが私に手を振っていた。
少し気分が良くなって手を振り返した。はっきり言って、イオィクグとかいう軍勢は私の敵ではなかった。私が小人を一人持ち上げてみると、せいぜい、三㎏程度しかなかった。持ち上げられた小人は顔面蒼白、必死に助けを求めたので、わあわあ騒いでいる味方の兵のほうへ投げてやった。ぎゃあああという断末魔を聞いて、気分が悪くなった。
「降参しろ、イオィクグ! 今退くなら、追撃しないと約束しよう! ああ、そうだ、奇襲を受けた側の権利は放棄してやると言ってるんだ! 後日会戦を申し込んでやると貴様らの国王に伝えておけ!」
砦の上から大音声で叫ぶ金髪の若い女がいた。もちろん彼女も小人だが、大層美しかった。その凛とした声に、イオィクグの軍勢はすぐさま、どこから取り出したのか、巨大な白旗を掲げ、退却していった。
砦からは万歳三唱が聞こえる。万歳って日本人しかやらないよなあ。それとも私が知らないだけで外国でもそういう習慣があるのかなあ。と私が思っていると、砦の上から金髪の女性が私に手を振っていた。
「巨人エレズ! あなたのおかげで戦争に勝った! もしあなたが来なかったら負けていたかもしれん。イゼウーズはどこだ?」
「ああ、そこにいますよ」
私は答えながら、砦から私を見ている小人たちが、皆笑顔であることに面食らった。誰も彼もが私のことを歓迎している。もちろん悪い気分ではないのだが、居心地が良いとは言えなかった。
イゼウーズが私の足元まで駆けて来て、
「よくやった、エレズ! やはりお前の戦闘能力は圧倒的だ。俺も鼻が高いぞ!」
私は髭を生やした小人を睨みつけた。
「戦争は終わったのよね? だったら教えて。ここがどこなのか。どうして私を奴隷と呼ぶのか。全部よ」
イゼウーズは深く頷いたが、にやりと笑い、
「あまり調子に乗るなよ、戦争は終わった。そして、お前は奴隷なんだ」
私はカッとして、さっきやったように、小人を片手で持ち上げて脅してやろうと思った。
しかしその前に電撃が全身を襲った。しかも今度は短時間ではなく、数十秒にも渡るものだった。
涎が垂れるのが分かる。全身が痙攣し、無様な姿を晒しているのだろうと遠い意識で思う。段々と思考が閉ざされ、白い闇が意識を覆う。気絶までにはそれほど時間がかからなかった。
*
夢だとすぐに気付いた。慶吾先輩と私が仲良く話している。現実ではありえない。それとも私は回顧しているのだろうか、楽しかったあの日々を。
先輩は両親が離婚してから変わってしまった。塞ぎ込みがちになり、私の様子など気にもかけなくなった。それだけならいいが、二人でいるとほとんど喋らなくなった。口を開いたと思ったら、愛してるだの、ずっと一緒にいようだの。両親が別れたからって自分だけは恋人と真実の愛を築きたいとでも思ったのだろうか。だとしたらとんだ阿呆だ、高校生のときの恋愛が何だって言うんだろう。
慶吾先輩のことが好きだった時期はあった。憧れの的だったし、こんな凄い人と付き合っているという優越感があった。でも、慶吾先輩という人間そのものが好きだったかどうかはよく分からない。互いに綺麗に着飾ったまま見つめ合う、そんな関係だったような気がする。要するにおままごとの範囲を越えていなかった。もちろん、そこから一歩踏み出すことも、十分に有り得た。先輩の両親が離婚なんかしなければ、きっと、然るべきときにもっと深い関係になっていただろう。
私は目覚めた。暗い部屋だった。天井に小さな照明が据え付けられていたが十分な明かりとは言えない。
躰を動かすと、背中が随分痛んだ。首輪と鎧は外されていて、学校の制服の代わりに麻のみすぼらしい衣服を着せられていた。誰が着替えさせたんだろう、まさか小人が数人がかりで? 想像しただけで顔が真っ赤になった。下着はそのままだったので、大事な部分は見られてないだろうけど……。
部屋には私以外にも誰かいるようだった。もぞもぞと動く影がある。私のことを注視しているのだろう。私は上半身を起こしたが、それだけでもう頭髪が天井に触れた。建築物が小人中心のサイズで出来ているのなら、おかしくないことだが、随分と窮屈なものだ。屋内ではまともに立つこともできないのだ。
「誰かいるの。……こっち来て、私と話をしてよ」
私の声は大きく響いた。そんなに怒鳴ったつもりはなかった。しかし小人サイズの建物の中にいると、必要以上に威圧感たっぷりに聞こえた。闇の中にいた誰かは、おそるおそるといった風に出てきた。
それは巨大な蠍だった。私はぎょっとした。赤褐色の外殻を備えた、体高三〇㎝ほどの、凶悪そうな佇まい。カサカサと動く足は、私が蠍に対して抱いていたイメージ以上に不気味であり、蜘蛛を連想させるものだった。
「どうしてこんなところにサソリが……。あの小人たち、私を殺そうとしてるのかな……」
「あまり大きな声で話すな」
蠍のほうから声がした。私は目をまんまるにした。
「――今、誰か、喋った? どこにいるの? 隠れてないで、出てきなさいよ」
「ここにいる」
蠍がカサカサと近づいてくる。私はぎょっとして、立ち上がりかけた。すぐに頭が天井に当たり、その拍子に舌を噛んで随分痛い目に遭った。
そして、どうやら蠍以外にこの部屋には誰もいないことを確かめると、まじまじとその赤く立派な虫を見つめた。
「――もしかして、あんた、喋ってる?」
「いかにも、喋っている。……そんな疑うような目で儂を見るな」
蠍はうんざりしたように言った。蠍には表情がない。当然の話だ。しかしカサカサと足を動かし、声に抑揚をつけて喋られると、案外感情が伝わってくるから大したものである。
「どうしてサソリが喋れるの……、ていうか、マジ? 本当に? あの小人たちが私をからかってるんじゃないでしょうね……、着ぐるみじゃないの、あんた」
「そんな不思議なことか? 貴様だって普通に喋っているだろう」
「私とあんたを一緒にしないでよ」
少しむっとして言った。蠍は肩を竦めるかのように、前足二本を持ち上げて躰を沈めた。
「貴様は、今、自分が生まれ育った国の言語を喋っているだろう」
「え? ああ、日本語ね」
「儂も、生まれ育った世界の言葉を喋っている。ノウプーオキズという世界なんだが、知っているか?」
「いえ、知らない。あんたもこことは別の世界から連れて来られたのね。……でも、私とあんたは、今、日本語で喋ってるでしょ?」
「違う。儂らが喋っているのは、この世界に共通する言語だ。偉大なる巨人の女王が、翻訳の魔術を世界にかけ、全く異なる言語の遣い手同士でも会話が成立するように計らったのだ」
「……なに、それ。翻訳って。魔術って」
「貴様が発話したニホンゴとやらは、この世界の共通語たるオヒオィイオクという言語に変換される。それから儂の出身地であるノウプーオキズの言語に置き換えられ、儂の耳に届く。逆もまた然り。儂の発声方法と貴様の発声方法はまるで違うが、それも貴様の耳や感覚器に適した形で情報が伝わる。これで儂が貴様のような巨人と会話できる理由が理解できたか?」
「ああ、ありがと。説明してくれて」
私は素直に礼を言った。イゼウーズよりもとっつき易そうな奴だと思った――見た目には慣れそうにないけれど。
「ところで、あんたの名前は?」
「儂の名はウロゼズ‐ウカッパエという。呼ぶときはウカッパエで良い」
変な名前だ。覚えにくい上に言いにくい。
「……ねえ、パエじゃ駄目? ウカッパエって、何だか間抜けな響きなんだわ」
「儂からするとパエもこの上なく間抜けな響きだ。貴様の名を聞こうか」
「紗羅よ」
「なるほど、エレズ……。良い名だ」
「いや、紗羅だって。エレズなんかじゃなくて」
「何を言っている?」
「いや、だから私は紗羅という名前で、エレズっていうのはあのイゼウーズとかいう糞小人が勝手に名付けたものでね……」
ここでウカッパエは合点がいったように両足を擦り合わせた。
「……説明しただろう。世界には翻訳の魔術がかかっている。貴様が自分の名を呼ぶと、儂にはエレズと聞こえるのだ。固有名詞は一度この世界の共通語に変換されると、その発音のまま相手の耳に届く。恐らく、儂が貴様の望むように名前を発話したところで、エレズと翻訳されてしまうのだろうな」
「何よそれ……、エレズなんて変な名前、嫌なのに」
「そう言うな。美しい響きではないか」
「……ねえ、じゃあ、ウカッパエっていう名前も、本来は違う響きなの?」
「そうだな。儂はもうこの世界の名に慣れてしまったが。真の名を言ってみようか? どうせウカッパエとしか聞こえないだろうが」
「うん、一応、お願いする」
「コホン。……儂の名はウカッパエ。ウロゼズ‐ウカッパエである!」
威厳たっぷりに蠍は言ったが、私はふうんと頷くことしかできなかった。
「ねえ、もしかして、あんた、蠍族の中では結構偉いほうなんじゃないの」
「どうしてそう思う?」
「だって、声に渋味があるというか。話しぶりも落ち着いてるし」
「世辞を言っても何もやらんぞ」
「世辞じゃないよ。へへ、蠍ってよく見ると全身甲冑って感じで格好良いじゃん」
私は軽く笑ってから、改めてこの暗い部屋を見渡した。闇の向こうに何があるのか分からないが、何となく、閉じ込められているのではないかと思った。
「ねえ、ここから出られる?」
「無理だな。行軍か、戦争のときしか外には出られん」
「やっぱり、私たちって、イゼウーズの奴隷なの?」
「貴様はイゼウーズの奴隷だが、儂の主人はまた別の人間だ。名をウキデヌムという」
名前を言われても、憶えるのは難しい。どうも日本人には馴染めない響きだ。
「……あのさ」
「なんだ」
「あんたって、物知り? この世界がどうとか、私がどうしてこんなところにいるのかとか、分かる?」
「儂はこの世界に連れて来られて、二〇年ほど過ごしている。大半はこのような暗室に閉じ込められているので、博識とは言い難いが、まあ他の奴隷たちよりはモノを知っていると言って差し支えなかろう」
「この世界って、何なの? どうして小人が私やあんたみたいなのを奴隷にして、他の小人と戦争なんかしてるわけ?」
「世界とは何か――か。哲学的な命題だな」
「そうじゃなくてさ」
「分かっている。正直に言えば、儂もこの世界が何なのか、どうして儂がこんな場所に迷い込んでしまったのか、詳しくは分からん。だが、ルールのようなものは大体理解している」
「ルール……」
「この世界は貴様の言う小人――普通は単に人間と言うが、彼らに都合良く出来ている。彼らは我々には扱うことのできない魔術を巧みに操り、他の生物を支配下に置いている。ただし、この世界の元からの住人は、彼ら人間しかいない。他の生物は、全て他の世界から無理矢理に連れて来られている。儂や貴様がそうであるように」
「そうなんだ」
「彼らは儂らを呪文によって束縛し、支配する。この世界の共通語であるオヒオイィオクによる詠唱が魔術を利用する条件らしいが、儂のような蠍には人間のような発話は不可能だ。貴様なら、もしかすると真似することができるかもしれないが」
「魔術って……、何もないところから突然現れたり、逆に消えたり、私に鎧を着させたり、そういうこと?」
「そうだ。人間は魔術によってありとあらゆる生産活動を行う。呪文を唱えたり、紙切れに文字を書くだけで可能な為、彼らの活動は際限を知らない。ああ、それと、一つ、大事なことがあった」
「何よ」
「この世界には『死』がない。ありとあらゆる生命は不老であり、不死身だ。儂も、貴様も、人間も、獣も、植物も、全て恒久に生き続ける」
「は? ええと……、ごめん、どういう意味?」
「そのままの意味だ。儂の尾の毒針は、この世界に来る前は大型の獣さえ一撃で仕留める強力なものなのだが、今では敵を数日間寝込ませる程度の力しか持っておらん」
「それでも十分恐ろしいけど」
ウカッパエは嬉しそうに足を擦り合わせてバチバチと鳴らした。
「ふふ、そうか? まあそれはともかく、不死のおかげで戦争になっても命の危険を心配する必要はないわけだ」
「ふうん……、ねえ、それでさ、大事な質問なんだけど」
「何だ」
「元の世界に戻るにはどうしたらいいの? 私、知り合いに飛ばされたっぽいんだけどさ……」
「元の世界に戻る? ふふ、方法は一つしかない」
「何よ、それは」
「巨人の国の女王に気に入られることだ」
「巨人の国……?」
「この世界の半分を統治し、ありとあらゆる人間を支配する巨人の国の女王だけが、送還の儀式を可能としているらしい。送還とは、召喚したモノを元の世界に送り返す技術を言う。女王に認められれば、あるいは、この世界と貴様がこれまで住んでいた世界とを自由に行き来することもできるかもしれん」
「自由に行き来とか、どうでもいいけど。……はあ、何だか面倒臭そうね。先輩と一緒にいたほうが楽だったかも」
「この世界に来たばかりの者は、高い知能を持っていればいるほど混乱する。貴様は知能は高そうだが、それほど取り乱したりはしないな」
「そうかな? 私、こう見えて結構びびってるけど……。まだこれが夢なんじゃないかって思ってる」
「儂もだ」
ウカッパエは言う。
「儂もここに二〇年以上いるというのに、まだ慣れない部分がある。人間たちが使う魔術は不可思議なものであるし、その原理も使っている本人たちでさえ理解していない。モノは上から下へ落ちる、夜の次には朝が来る、強い者が勝つ、そんなごく当然の事実と同様に、魔術を可能とする何らかの仕組みが、この世界には埋め込まれている。明らかに儂のいた世界とは違っている。恐らくは貴様の存在した世界も」
「うん……」
「だからもしかするとこれは夢なのかもしれない。永遠に醒めない夢だ。彼ら人間は儂らの夢を乗っ取り、無数の夢を繋ぎ合わせ、一つの巨大な空間を創成したのかもしれない。そんな風に思うこともある」
「ファンタジーだね」
「まさに」
ウカッパエは頷いた――蠍も肯定するときは頭を動かして頷くのだ。その事実が私には奇妙に思えた。言語が自動的に翻訳されて蠍と自由に会話できる、というのは、理屈の上では納得できなくはない。しかし蠍がまるで人間と同じように頷きによって肯定を表現するというのは明らかにおかしいではないか。言語のみならず、そういった仕草さえも、自動的に矯正されているのだろうか? 聴覚ばかりでなく、視覚までも騙されている?
ウカッパエの言う通り、これは私の夢なのかもしれない。あるいは誰かの夢……。そう考えれば辻褄が合う。
逆に言えば、これは夢だと説明すれば、辻褄の合わないことなど存在するはずがない。これは夢だと思うしかない現象や事物があることが、奇妙なのだ。私はここで思考を放棄するべきだと思った。でないとこの世界にいる限り、疑念を抱き続け、精神的な疲労から逃れることができなくなる。
ウカッパエの表情を窺い知ることができない。きっと彼も(メスかもしれなかったが)これは夢だと考えることでありとあらゆる現象を受け入れることにしたのだろう。
きっと彼も私の何気ない仕草や言葉に違和感を覚えている。それを何でもないことだと思い込んで、平然と喋っている。私自身も、蠍とお喋りをしているなんて、自分が狂ってしまったのではないかと疑いたくなる。でも、たぶん、そうではない。
ここは夢の中なので――そして私はこれが夢であると本当に自覚したわけではなくて。ただ夢の中の私がこれは夢であると考えているだけ。本当の私はこの夢を俯瞰で見ていて、いつかこれが覚める瞬間を待っている。これが夢であると本当に気付いたときには、夢は破れ、現実に立ち戻る。そうなったときこの夢で起こった出来事はほとんど忘れていて、慶吾先輩とのいざこざに頭を悩ませる日々が戻ってくる。きっとそうだと私は自分に言い聞かせた。
そうすれば私はこの世界で何かをする勇気が湧いてくる。蠍と話すのも、小人たちの命令に従うことも、敵と戦うことも、それなりに楽しめるんじゃないだろうか。
私は暗がりの中でそう思った。慰めでしかなかった。涙が出そうだった。本当は南里美郷に文句を言ってやりたかった。ここはどこなんだよ。どうしてこんなところに飛ばしたんだよ。お前は何者なんだよ。これも黒魔術なのかよ。さっさと助けに来てよ。先輩でも誰でもいいから私を助けてよ。どうにかしてよ、お願いだから。何でも言うこときくから。どうにかしてよ……。
蠍と語らっている内に、部屋が明るくなってきた。今まで気付かなかったが、部屋には鉄格子を嵌めた窓があって、そこから朝の光が差し込んでくるのだった。すると天井の照明がひとりでに消えた。まるで光センサーを内蔵しているみたいだが、魔術による仕掛けなのだろう。もっと自分が驚くと思っていたのに、ふうんという感じだった。仮にこれが魔術によるものでなくとも、光センサーくらいこの世界にあってもおかしくないかなと思った。それくらいおかしな世界だった。
蠍は夜行性なのか、部屋の隅に蹲ってぴくりとも動かなくなった。今までは暗くてよく見えなかったが、赤みを帯びた外殻と、紫の稲妻のような線が走る尾、黒光りする毒針は、他者に畏怖を抱かせるのに十分な凄味があった。
私も部屋の隅に(と言っても躰が大きいので部屋の三分の一くらいを占領してしまうのだが)蹲り、時が過ぎるのを待った。話し相手がいないと退屈だった。
遠くから足音が聞こえてくる。ぴくりとウカッパエの尾が動き、毒針から毒液が滴り落ちた。びくりとした私に、ウカッパエは笑い声をあげる。
「ふふ、そう警戒するな。儂はどんなに鬱陶しく感じようとも、これまで味方に攻撃を仕掛けたことは一度もない」
「その言葉、信じていいんでしょうね」
「儂はこれまで一度も嘘をついたことがない」
「物凄く嘘っぽいんだけど」
「これは信用の問題だ。儂からはこれ以上言うことはない」
私は肩を竦める。
「……まあ、あんたが悪い奴じゃないってことは分かったから、信用はする。けどあんまり毒液は撒き散らさないでよ」
「これはどうしようもない。自然と分泌されてしまうのだから。貴様だって爪を伸ばすのは危険だからやめろと言われたって、どうしようもないだろう」
「そりゃそうだけど、私はちゃんと週に一度、爪を切ってるもん」
「儂だって毒液は誰もいないところで捨てている。これ以上、儂に何を求める?」
「分かったよ、分かった、私が悪かったよ」
私は少しふて腐れて、言った。すると部屋の外から笑い声が聞こえてきた。
途端、部屋の壁が透明になり、部屋の外にいる小人の姿が露になった。
それは、かつて砦の上から私を睥睨していた金髪の若い女性だった。
「すっかり仲良くなったようだな。ウカッパエ、エレズ。何より」
「あなたは……?」
私はこの美しい小人に備わっている凛とした美しさと威厳を前に、萎縮してしまっていた。私のほうが遥かに大きな躰をしているのに、彼女の立ち姿が大きく見える。
「私はウキデヌム。この国の王だ」
ウキデヌム……、これまたおかしな名前で、覚えにくい。
しかしどこかで聞いたような気がする。私は蠍が緊張したように部屋の中央までするすると出てきたのを見て、ああそうだ、昨晩ウカッパエが自分の主人だと話していた人物の名前と一緒だと思い出した。
「ウキデヌムさん、ここ窮屈で、どうにかなりませんか。外に出してください」
ウキデヌムは困ったように首を傾けて、苦笑した。
「すまない、それはできない。それより、昨日の戦いは見事だった。あれからずっとイゼウーズが自慢し続けている。巨人の召喚は非常に難しいからな」
「そうなんですか、あの男が」
「きっとあなたはこれから頻繁に戦場に駆り出されることになる。これから戦争の予定がびっちりと詰まっているからな。あなたの力は頼りにしている。巨人を飼っている国は数えるほどしかいない。きっと他国は震え上がっているだろうな」
「……巨人って、私のことですよね。そんなに私が強いんですか? 私って普通の女子ですけど」
「あなた自身に、特別な力はない。だが、その大きな躰が何にも優る武器と言えるだろう。召喚術の詳細は、知っているか?」
「いえ。魔術ですか」
「いや、魔術とはまた別の技術。全ての人間が使えるわけではない。召喚石という特別な鉱石を使って、異世界から生物を呼び寄せる。そして、通常、召喚士は同時に二つの召喚石しか使えない」
「はあ」
「だが、あなたのような巨人の召喚には、三つの召喚石が必要となる。本来、巨人の召喚は不可能。それほど強力な存在だというわけだ」
「……数人がかりなら召喚できるのでは?」
「召喚術というのは召喚士と異世界への扉との個人的な契約で、複数の人間で協力して召喚するということはできない。だから、三つの召喚石を扱える一部の天才にしか、巨人を召喚することはできない」
「天才、ですか。まさかイゼウーズが……?」
「類稀な才覚を血反吐を吐くような努力によって磨くことで、召喚石を同時に三つ扱うことが可能となる。イゼウーズは千人に一人の天才であると同時に、万人に一人の努力家。実を言えば、召喚石を二つ扱える召喚士というのもある程度限られているし、一つも扱えない人間だって珍しくないのだ。三つの召喚石を扱える人間なんて、この世界に一〇人もいないはず」
そう聞くと凄いことのように思える。ウキデヌムは私の感心した顔を見て微笑する。
「あなたはイゼウーズのことを嫌いになってしまったようだ」
「そりゃあ、何度も電撃を喰らえば、嫌いになりますよ。あの傲慢な口調とか、聞いただけで嫌になります」
「電撃によって奴隷を従える方法は、けしてポピュラーなものではない。最も過激で残忍な、多くの召喚士なら避ける行為。しかし巨人を統御できなければ一国が沈むと言われているから、彼も万全の準備をしていたようだな。ついでに言うと、電撃によって奴隷を従えるのはかなり難しい魔術の知識が必要で、正直言うと彼が電撃を使っているところを見て、私は感心したものだ」
「知りませんよ、そんなこと。わざわざ難しいことをして私を痛めつけてるなんて、ますますうんざりします」
ウキデヌムはうんうんと頷く。戦争で勝ったことが嬉しいのか、彼女はずっと笑顔だ。
「そうだな。なあ、エレズ、私がイゼウーズを高く買っているのは、彼が天才だからではない。彼が他の人間なら思いもつかない、巨大な野心を抱いているからだ。きっとあなたはその野心の為に、扱き使われるだろう」
「野心……? はは、世界征服とかですか」
冗談のつもりだったが、ウキデヌムは否定しなかった。
「それに近いかもしれない。私にはまだその全貌が掴めてないが」
「私を使って世界征服って……。あの、私はあなたがたから見れば巨人で、強そうに見えるかもしれませんけど、ワンコ一匹叩きのめすことのできない弱虫ですよ。運動神経は悪くはないと思いますし、やるときはやる女だとも自己評価してますけど、それにしたって、普通の女の子なんです。あまり期待されても……」
「あなたは知らないんだ。あなたが、この世界ではいかに特別で、恵まれた存在なのか」
「え……」
ウキデヌムは笑みを薄めて言う。
「あなたが元いた世界がどんなところかは知らない。きっとあなた以上に大きな生物がごろごろいたんだろう。でも、断言できる。あなたより強い生物なんて、この世界には存在していない。少なくとも私は見たことがない。あなたが戦争で負けるとしたら、それは同じ巨人と戦ったとき。あなたは、同族の中では、強いほう、弱いほう?」
「弱いほうだと思います……、一六歳の少女ですから。同年代の男子とか、まして成人した男と取っ組み合っても、十中八九勝ち目はありません」
「それは残念。だが、あなたはじきに知るだろう。あなたはこの世界を束ねる力を秘めている。特に優秀な召喚士であるイゼウーズと組めば、その可能性は高くなる。そして最終的には、巨人の国さえも凌駕する勢力を築けるかもしれない」
ウキデヌムは背を向けて、歩み出した。
「エレズ、あなたが今はまだ小さなこの国を、上へ上へと押し上げてくれる。私はそう信じている」
透明だった壁に色が戻った。私とウカッパエは再び二人きりになった。
蠍がのろのろと部屋の隅に戻る。私は窓から差し込んでくる光に目を瞬かせながら、
「ねえ、ウカッパエ。眠いの?」
「ああ、少し眠らせてくれ。貴様は眠くないのか」
「私は昼行性だから」
「しかし、昨晩はずっと起きていた」
「その気になれば起きていられるのよ。……ねえ、眠る前に、一つだけ質問に答えてくれない」
「何だ」
「世界征服って……、あれってウキデヌムさんの冗談じゃないよね」
「儂の記憶が正しければ、その単語を初めて使ったのは貴様のほうだが。……しかし世界征服を夢見る国王は、この世界においてはむしろ普通だろうな。個人の召喚士がそれを夢見るというのはあまり聞かないが」
「できると思う?」
「質問は一つだけではないのか」
「サービスして。あはん」
蠍は溜め息をつき――そういう躰の動きをしただけで、吐息は聞こえなかったけれども――面倒そうに言った。
「恐らく、貴様が元いた世界でもそうだったと思うが、戦争というのは、最低限の規則が設けられていたとしても、基本的には問答無用の殺し合いだっただろう? しかしこの世界では生き死にがない。どれだけ兵力を失っても再起できる。しかも、ある特殊な事情が手伝って、この世界の戦争をより奇妙なものに仕立て上げている。規律が重んじられ、ゲーム性さえ感じられるようになっている」
「ゲーム性? 特殊な事情? 規律って?」
「全てを説明していると儂の睡眠時間がなくなってしまう。なので一つだけ言えるのは、この世界の戦争は巨人の国の女王によって管理されている、ということだ。巨人の国がもたらした世界の均衡は、戦争をより活発なものにした。全ての国が戦争に明け暮れ、奴隷や家畜を酷使しては、スズメの涙ほどの領地を奪っては奪われ、守っては守られる。これを平和だと呼ぶこともできるだろう、なにせ全ての国は憎しみ合うわけでも、罵り合うわけでもなく、必要があれば国王同士が一緒に食事をして談笑するほど仲が良いからな。まあ、一部に嫌われ者がいるが、戦争に悪い印象を持っている人間など、ここにはいない」
私は唖然とした。そして、同時に、納得もした。人は死なないと寛容になれるものなのだろうか。それとも小人たちの性格が、私たち人間(彼らの言う巨人)とはまるで違っているのだろうか。戦争というのは言葉だけで、ちょっとした陣取り合戦みたいなものなのだろうか。いずれにしろここでは戦争は必ずしも悪というわけではない。
自分が死なないというのも大きいが、私がどれだけ相手を傷つけても、死なせることはない。これは非常に大きな意味を持つだろう。私はこれが戦争と呼ぶべきものなのかどうか、分からなかった。それより、戦争云々を語る前に、不死身であり不老であるというこの世界の仕組みに不気味なものを感じていた。戦争がその不気味さをより際立たせるような気がする。
ウカッパエがぴくりとも動かなくなった。私も手足を投げ出して寝ようと思ったが、蠍の針が怖いし、そもそも彼がいなくとも手足を伸ばせるほど部屋が広くなかった。
縮こまるようにして瞼を閉じる。眠れるだろうか。眠気は全くない。この世界は何なのか、その答えを小人も持っていない気がした。
巨人の国にいる女王とやらは、分かるだろうか。この世界で巨人と呼ばれる者は、きっと私と同じくらいの背丈なのだろう。
もしかすると――いやもしかしなくても、その巨人というのは、私と同じように地球からこの世界に迷い込んでしまった人を指すのではないだろうか。
もしそうなら、巨人の国こそ私が目指すべき場所ではないだろうか。小人たちに囲まれて生きるのもそれなりに有意義そうだけれども、居場所となると違うような気がする。
私は、目覚めたら、ウカッパエにまず巨人の国について聞こうと決めた。そしてイゼウーズの支配から逃れるにはどうするべきか考えなければなるまい。彼をぶん殴って解決するだろうか? でも彼は絶対に死なない。私も死なない。もしこの支配から逃れる術がないというのなら、私は未来永劫彼の奴隷となってしまう。
想像しただけでもぞっとした。吐き気さえする。自由になりたい。元の世界に帰りたい。きっとこういう願いは慣れや諦めと共にもっと身近なものにすり替わる。もっと待遇を良くして欲しい。ベッドで眠りたい。もっと広い部屋に入れて欲しい。
やがて私は性根から奴隷となってしまって、イゼウーズを喜ばせたい、彼を落胆させたくない、そんな風に思うときが来るんだろうか。寒気がした。そんな未来が来ることを否定できないのが情けない。なにせ私が想像した未来は無限の時間の中にきっと埋もれているだろうし、それを掘り当ててしまうことはけして難しくないと気付いてしまったので……。
すぐに目が覚めた。窓から覗いてみると太陽は真上にあるようだった。蠍はまだ眠っている。これから退屈な時間が続きそうだと悲観していると、誰かの足音が近づいてきた。
足音は私の部屋の前で途絶え、間もなくして壁が透明になった。そこに立っていたのは長身の男であり(小人なので私から見ればチビなのだが)私に深々と一礼した。つられて私も軽く頭を下げた。
「エレズ‐ヌソィク……、少しお話をよろしいかな」
「あなたは?」
「吾輩はウモヨクのウモィウゾグ、ウキデグと申します。以後お見知りおきを」
「はあ……」
しかし固有名詞が幾つも出てきたので覚えられそうになかった。私の表情を読み取ったのか、
「吾輩のことは、では、星博士とでも呼んでいただきたい。星に関する研究を行っているのです」
「星? 夜空に瞬く、あの星?」
「左様。しかし単に星々の運行に気を配るばかりでなく、戦争における参謀のようなこともやっておるのです」
「もしかして、占星術みたいなこと?」
「そうかもしれませんし、違うかもしれません。吾輩自身、ときどき自分が何をやっているのか分からなくなるときがあるのです」
「へえ」
私は少し呆れたが、真面目に占星術をやっています、と言われても同じような感想を抱いただろう。
「で、その星博士が私に何か用?」
「あなたが持つ星を教えて頂きたい」
「私って星を持ってたの」
私は若干茶化してみたのだが、星博士は真剣だった。
「人間のみならず、ありとあらゆる生命はその内に自らの宿命の象徴たる星を宿しておるのです。吾輩はそれを読み取り、精査し、戦場における役割を定める務めがあるのです」
「そうなんだ。……で、私が持ってる星とやらはどうしたら分かるの」
「吾輩と触れ合うだけでよろしい。手を伸ばしてくださいますかな」
「でも、壁があるよ」
「問題ありません。とにかく腕を伸ばしてくだされ」
私は言われた通り、星博士に向かって腕を伸ばした。星博士も腕を伸ばしたかと思うと、私の拳にちょこっと触れ、急いで手を引っ込めた。私を爆発物か何かだと警戒しているかのようだった。
「分かりましたぞ、あなたの星が」
「どんな星?」
「三九一番です」
「……ええと、それって良い星? 悪い星?」
「星に良し悪しなどありはしません。そして星一つで語れることはさほど多くはない。星とは他の星との関わりによって初めて意味を為すのです。詳しくご教授致しましょうか」
「いや、いいよ、あんまり興味ないし……」
しかし「あまり興味がない」を言い換えると「ほんの微かに興味はある」とできなくもない。星博士は延々と星に関する考察、その利用、実務的処理の方法を話し始めた。私は最初、それがすぐに終わるものと高を括っていたのだが、甘かった。
三十分ほど聞いたところで、私は堪らず、
「ねえ、星のことよりもっと知りたいことがあるんだけどさ」
「何でありましょう」
「あなたは軍の参謀なんでしょう。戦争って規則があるって聞いたけど、それって具体的には何なの」
私はそれなりに星博士が興味を持ちそうなことを訊ねたつもりだったが、彼のうんざり顔ときたら、私を申し訳ない気持ちでいっぱいにさせるほどの破壊力があった。
「星に比べてあまりに平易で面白味のない話になりますが、それでよろしいか?」
「ああ、うん。できたらお願い」
星博士は咳払いをし、つまらなそうに口早に話し始めた。
「戦争には三種類あります。会戦と争奪戦と奇襲戦です。会戦とはその国の全ての戦力同士で戦い雌雄を決するもの。年に一度だけ決行することができます。これが発動されると必ずどちらかの国が亡び、その領地は戦勝国のものとなるのです。争奪戦は特定の領地を巡り争うというもの。詳しい細則はその領地ごとに定められております。奇襲戦とはその名の通り宣告なしに敵国に攻撃を仕掛けるもの。その領地に建造された城なり砦を落とせば領地を横取りすることができますが、敗北した場合は賠償金もしくは人的資源を供与する義務が発生します。ここまで何か質問はありますかな?」
私はすぐには理解できず、この話題を振ったことを後悔した。
「うん、大丈夫。続けて」
「戦場における規則は複雑なものではありません。戦争に参加できる召喚士は四名まで。本陣に座する大将を討たれると負け。これだけです。他にも細々とした禁止事項はありますが、奴隷が把握すべきことは少ないでしょうな。ナフヌンを除く非戦闘要員を傷つけると罰金があったり、建築物を損壊した上で敗北すると修繕費用が賠償金に上乗せされるが奇襲戦の場合はその額が跳ね上がったり、会戦時は割引されたり――」
「ちょっと待って、ナフヌンって?」
「家畜です」
星博士は吐き捨てるように言った。
「醜い生き物で、知能も高くなく、会話ができません。あなたも一目見れば分かるでしょうが、この世界にはあれほど醜い生き物はおりませぬ」
「どうしてそんな生き物を家畜なんかに? 幾らでも奴隷を増やせばいいじゃない」
「理由は二つあります。一つはそれが規則ゆえに。もう一つは、奴隷と言ってもその身分はある程度保障されているからです。奴隷に家畜のような扱いはこの世界では許されていないのです」
「私、こうやって閉じ込められてるんですけど」
「家畜はもっと劣悪な環境に置かれておりますよ――見に行きますか」
「ここから出してくれるの」
「あなたの目玉だけここから連れ出します」
「嫌だ、なにそれ」
「ごくごく一般的な魔術でありますよ。少し目が乾きますが、健康上の問題はありません。あったとしても不死身なので……」
「死ぬまで視力がなくなるとか、嫌じゃない」
「あなたは不老不死の世界を誤解しているようだ」
星博士は説教臭く言う。
「首を切られたとしも、脳味噌を抉られたとしても、それでも吾輩たちは生き続ける。死にたいと思っても生き続ける。やがて再生し、これまで通りの生活ができるようになる。網膜が傷ついたくらいでは、人生を歩む上で何ら支障は現れませんよ」
「でも痛そうだけど」
「神経が通っていれば、それは痛い。当然でありましょう」
「首切られたらずっと痛いんでしょ」
「もちろん。それで精神を病む者もいます。しかし精神の傷さえ癒すのがこの世界の素晴らしい点です。一度気が触れても時間が解決してくれるのです」
「本当に? それで人格が元通りになるの?」
「この世界に『摩耗』はないのです。終わりがないということは、終わりへの一歩さえ許されないということ。あなたはこの世界に来てから排泄をしましたか。食事は?」
「え? い、言われてみれば、全然お腹空かないし……」
「吾輩は生まれたときから食事も排泄もしたことがないし、呼吸は発話の為だけに行っているので感覚が食い違うのですが、奴隷たちは口を揃えてそういった要素が欠落していることに驚くのです。しかしもしこれらの要素がこの世界に存在すれば、我々の肉体は徐々に腐り落ちていくことでしょう」
「食事も排泄も呼吸も必要ないなら、あなたたち小人には食道も胃も腸も肛門も肺も、存在しないの?」
「いいえ、あります。解剖すれば分かることですが」
平然と星博士は言う。
「何の為にあるの。だって全く使わないじゃない」
「臍は何の為にあるのでしょう」
「はい?」
「臍とは、臍の緒が取れた痕でありましょう。臍帯は胎児と母親を繋ぎ、成分の交換を行います。なくてはならないものですが、分娩された後は無用の長物です。しかしそれがなければそもそも人は生まれない」
「……ええと、それと同じだって言いたいの」
「左様。これは推測ですが、吾輩のような人間も、かつては別の世界で暮らしていたのでありましょう。そのときにこの臓腑は用いられていた」
「……発話の為だけに息を吸う、か。じゃあ今、私の肺は吸い込んだ息を蓄えて、そのまま吐き出しているだけってこと? 呼気に含まれている二酸化炭素は増えてないのかな」
「二酸化炭素なるものは知りませんが、たぶんそんな感じでしょう」
星博士はいい加減に言った。たぶん星や軍事以外のことにはさして興味がないのだろう。
「さて、どうされますかな」
「何が」
「目玉だけ連れ出すことが可能だと言っておるのです」
「……あのさ、目玉が乾くんだよね」
「左様。ついでに風に触れてチクチク痛みます」
「何か、液体の中に入れて、乾きを抑えるってことは?」
「……なるほど、しかし液体の性質によっては、眼球を刺激し、余計に痛む可能性があるのでは?」
「あなたの魔術でどうにかできないの」
「吾輩の魔術で?」
星博士はしばらく考え込んだ。やがて何か閃いたようで、
「そうか! その手があったのか!」
「何か思いついたの?」
「はい。少し席を外します」
そう言うなり、星博士は慌ただしく駆けていった。透明な壁はそのままにして。
私は目玉だけ連れて行ってもらうというおぞましい発想に恐怖を覚えつつも、ずっとここにいるのは退屈過ぎるとも思っていた。安全にこの周辺を見渡すことができれば、退屈凌ぎになるだろうし、ここから脱出するヒントだって見つかるかもしれない。
数分後、誰かが部屋の前まで来た。てっきり星博士だと思ったのだが、まるで違う人物だった。絹のドレスを纏った小柄な小人で、青い髪の少女だ。たぶん彼女を三倍の大きさにしたら私と同年代の少女と言って通用しただろうが、凄絶な美貌を誇り、とてもじゃないが私ごときでは敵わない。淡い印象の目鼻立ちで、触れると壊れてしまうんじゃないかと思わせるくらい華奢だ。ミニスカートのようなドレスから突き出た太腿の白皙が眩しい。
輝いている、という形容がぴったりの美少女だ。私は少しの間、絶句する。
少女は透明な壁を注意深く見た後で、私と視線を合わせた。女同士なのにどきりとする。それほど彼女の外貌が優れていた。
「誰がこれを?」
「えと……、何がですか?」
「この壁を透明にした人間です。まさかあなたではないでしょう?」
優しげな語り口だったが、芯の強さを感じさせる音のバネのようなものを感じ、私は萎縮した。
「えっと、名前なんだっけ……、ええと、星博士です」
「星博士? ああ、ウキデグですか」
ウキデグ、と発音するところだけ辛辣な口調になったので、私は驚いた。
そして少女は私に対してにこりと笑む。
「申し遅れました、私はウヘレズクといいます。この砦の設計責任者でして、今日はその部屋の居心地がどうかと思い、参上しました」
「居心地ですか、ええと、良いと思いますよ」
私は咄嗟に答えた。美しい彼女の顔が歪むところを見たくなかった。否定的な言葉なんて、思っていても口から出すわけにはいかなかった。
ウヘレズクは少し困った顔になり、
「しかしどうもあなたの躰には狭過ぎるように思うのですが――まあこの部屋以上に広い部屋などないので仕方ないのですが」
「もう少し広いと楽かなとは思いますけどね、はい。でも不満とかはないですよ、本当に」
「そうですか。それは良かった。……ところで話は変わりますが」
「はい」
「ウキデグはどんな用件でここに?」
穏やかそうな彼女の眼差しが鋭くなる。私は彼女の美貌とは関係なしにゾクリとした。彼女からは鋭利な刃物を思わせる危険な香りが仄かにする。
「別に――ええと、どんな話をしたかな……、星の話と、戦争の規則の話を少し……。それと目玉だけ連れ出して外に――」
「目玉だけ外に、と彼は言ったのですか? それは魔術の中でも危険な、解剖術の悪用ではありませんか。普通の人間ならそんなことは提案しません」
「そうなんですか?」
「常識的に考えて、眼球だけ外に出せば酷く痛むでしょう。しかも神経を切り離す必要がありますし、戻すときその修復に手間取れば、一時的に失明に陥る可能性だってある。痛みだって耐えられるものではありません」
「げえっ、あの野郎……」
私は思わず声を出してしまった。星博士が何でもないことのように言うので、少し乗り気になっている自分がいた。実際は、こちらの世界でもとんでもない蛮行のようだった。
「もちろん、痛みは魔術によって鎮めることができますし、この世界における傷は生命を脅かすものではありません。ですが普通はやりません。いいですか、エレズさん」
「はい?」
「ウキデグは――星博士と名乗るあの厚顔無恥な男は、我がウモヨク国のお荷物なのです。奴隷や家畜を実験台にしたいだけなのです。星を読むなどと言っては軍議に口を挟み、我々を困らせています。誰しも宿命を象徴する星を一つ宿し、その星の相性によって最適な用兵が分かるなどと世迷言を――」
「彼ってペテン師だったんですか」
そこでウヘレズクは少し躊躇し、
「ペテンとまでは言いません。彼なりにこの国の為にと思ってしていることですから。しかしその方法に問題があり、警戒が必要であることは認めざるを得ません」
「……じゃあ、あの、話したほうがいいのかな」
「何がです」
私は、目玉を乾かさずに持ち運ぶ為に目玉を液体に浸したらどうか、という話を星博士にしたところ、壁が透明になっているのも直さずに彼がどこかに行ったということを話した。
ウヘレズクは合点がいったようで、
「きっとウオィエィのところに行ったのでしょう」
「うおー、いえーい?」
「ウオィエィです。世界的にも有名な発明家で、魔術を用いた発明品を数多く手掛けているのです。才能はあるんでしょうが、失敗作があまりに多く、彼の周りはいつもゴミの山です。魔術を使えばあっという間に掃除できるのに」
「何だか、元気の良い名前ですね。ウオィエィか」
ウヘレズクは首を傾げ、少し私の知性を疑ったようだった。私は馬鹿っぽい発言は控えようと自分を戒めた。
「……星博士はどうしてウオィエィのところに?」
「自分のアイディアを発明品にしてもらおうとしたのでしょう。二人は良き協力者なんです。どちらも突拍子もないことを思いつくという点では共通しています」
ウヘレズクは嘆息し、
「もし、ウキデグに何か言われても、無視をしてください。ウカッパエが起きているときは、彼もそう無茶なことは言ってこないでしょうが」
「はあ……、分かりました。あの、もう一つ聞いてもいいですか」
「はい、何でしょう」
「私って、ここから出して貰えないんですか?」
ウヘレズクはこほんと咳払いし、少し緊張した様子で、
「戦争のとき、行軍のときは外に出ても大丈夫です。しかしそれは自由に寛ぐことができるという意味ではなく……、エレズさんの力を借りたいときなのです。戦争のときは一騎当千の戦士として、行軍の際には護衛として、働いて頂きたいのです」
ウヘレズクがおそるおそる話す様子を見て、私は疑念が湧いた。
「……私って奴隷なんですよね。随分、気を使って頂いてるみたいですけど」
「奴隷と言っても、他の世界から来たお客様のようなものなんですよ。あくまで、私の感覚ですが。この世界に元々存在していた私たち小人が、異世界の住民を連れて来た、それだけで非人道的な扱いをして良いはずがない。そうは思いませんか」
「私はそう思いますけど。でもそう思ってる小人――じゃなくて、そう思ってる人間は珍しいと思います。イゼウーズだって私のこと痛めつけて笑ってましたし」
「イゼウーズですか。彼は天才なのですが、人間の特権を過信している節があり、奴隷に厳しく当たることがあるのです。悪い人間ではないのですが」
「そうですか。私はもう、彼のこと、嫌いになっちゃいましたけどね」
ウヘレズクは苦笑する。
「それは仕方ありません。私も奴隷を何体か飼っているのですが、あまり友好的な関係とは言えませんね」
「そうなんですか。ウヘレズクさん、良い人そうなのに」
「それが気に食わないようで。電撃で従わせることも可能なのですが、その度に彼らに軽蔑されているような気がして」
奴隷に気を遣う主人。もし私がウヘレズク(彼女の美貌にこの間の抜けた名前は似合わない!)の奴隷だったら、上手くやれる気がするのに。
そのとき、遠くから足音が聞こえてきた。登場したのは星博士ことウキデグであった。液体の入った筒状の容器を掲げている。
彼はウヘレズクがいることにも気付かず、私に向かって唾を飛ばした。唾は壁に遮られたが、私は反射的に顔を背けた。
「エレズ殿! 試作品ができました!」
「試作……、何の?」
「目玉を安全に持ち運ぶ容器の、です! もちろん目玉を保護する溶液の調整もばっちりですぞ! 少し目玉をお借りしてもよろしいですか」
しかしそのとき星博士の肩を叩いたのは、ウヘレズクだった。
星博士の反応といったら、傑作だった。彼女の顔を確認するなり、容器を放り投げて尻餅をつき、顔面蒼白になったのだから。
「兵士長殿――どうしてこんな薄暗い牢獄なんかに」
「ウキデグ、実験がやりたければ自分の眼球で試しなさい」
ウヘレズクの口調は極めて厳しいもので、私までびくりとした。しかも星博士の怯えようと言ったら。彼女が実は高い地位の人間であることが分かった。
「しかし――それは、できかねます」
「どうして? 理由を述べなさい」
「い、痛くて、術に集中できなくなるからです」
「奴隷なら、それほど痛い目に遭わせても平気だと考えているということですか」
「いえ、そういうわけでは――」
「懲罰房に大人しく向かうか、その馬鹿げた発明品を投棄するか、どちらか選びなさい」
「懲罰房に入れば発明の続行を許してくださるので?」
「もちろん、私が責任を持って、あなたの発明を破却します。ウオィエィのところに言って、今度の発明の開発は中止するように告げます」
「あんまりだ! あんまりだ!」
と星博士が泣き始めた。背の高い彼が、小柄な彼女を前にしてじたばたしているのは滑稽な光景であった。
同時に、可憐な彼女が兵士長と呼ばれたのは意外だった。彼女は深窓の令嬢然とした雰囲気と恰好をしており、華奢に見える。
星博士が泣くのをそのままに、女兵士長はにこりと私に向かって天使のような笑顔を見せてくれた。
「これでもう心配ないでしょう」
「あ、ありがとうございます……」
「中には変な人間もいますが、一部ですので。近く戦争があると思います。そのときはよろしくお願いします」
「は、はあ……」
ウヘレズクが星博士を引き摺って歩み去った。透明だった壁が再び元の色に戻り、閉塞感たっぷりの部屋の本来の姿を見せた。
私は壁に寄りかかって嘆息し、ぐっすりと眠っているらしい同室の蠍を眺めた。
「でも、やっぱり、外の景色を見たかったな……」
それから、何人か小人がやってきて、私に色々と話を聞きに来た。ある者は口寄せの秘術を駆使して遠くにいる人間と私を会話させようと躍起になった。ある者は私が元々いた世界の学問について知りたがり、私の持っている浅い知識を基に、地球の文明は大したことがないと判断して見下してきた。またある者はイゼウーズなどではなく俺の奴隷になれと迫って来て、一度乗りかけたが、イゼウーズが飛んできてその者を殴り飛ばしていた。
それからちょっとした喧嘩が起きたのだが、イゼウーズの腕っぷしは小人の中では強いほうらしく、こてんぱんに相手を叩きのめしてしまった。しかし騒ぎを聞きつけたウヘレズク兵士長が一撃でイゼウーズを失神させたあたり、小人は女のほうが身体的に優れているのかもしれない。
騒がしい昼が終わり、夕暮れになった。ヒクヒクとウカッパエの尾が動き、大きく伸びをするように足を広げた。
「起きた?」
私は部屋の半分を占領するように手足を大きく広げて寝そべっていた。ウカッパエは私を見てから小さく頷き、
「退屈な一日だったようだな」
と言った。
「どうしてそう思うの」
「間の抜けた顔をしている」
「悪かったわね、間抜けなつらで。退屈はそんなにしなかったよ。騒がしくて参っちゃうくらい」
「ふむ、では貴様のその顔は、疲労の為か。大体この世界については教わったのか」
「それが、こっちばかり質問されて、まともにモノを教えてくれる人が少なかった。小人って自分勝手な奴が多いね。あんたくらい落ち着きのある人は、二、三人しかいなかった」
「落ち着いてもいられまい。巨人が軍門に下ったとあっては」
「そんなに私って凄いのかな。あんまり期待されても困るけど」
「巨人は別格だ」
「……ねえ、巨人の国って、何度か聞いたけど、そこには私みたいな巨人がたくさん住んでいるの」
「たくさんかどうかは知らないが、巨人の国と戦争になれば、巨人が何人か出てくるな」
「強い国なんでしょ?」
「強いどころか、世界で最大の国だ。とっくにこの世界は巨人の国に支配されていてもおかしくない。かの国が本気になれば数日の内に全世界を掌握できるだろう」
「……じゃあ、どうしてそれをしないの」
「昔話になるが、いいか」
「でも今に繋がっているんでしょ」
「いかにも。巨人の国は世界の中心に位置する奇妙な国で、その国に住む召喚士を、誰も見たことがない。だが扱う奴隷のほとんどは巨人であり、その圧倒的な軍事力は他国を恐れさせた。今から何千年前かは知らんが、昔は戦争にルールなどはなく、協定が結ばれては破られ、群雄割拠の混沌とした時代を送っていたらしい。そんな折、巨人の国が頭一つ抜け出し、勢力を伸ばした。次々と大国を撃破し、世界の半分を手中に収めたところで、誰もがこの世界はそのまま巨人の国に支配されるのだろうと覚悟した。しかしそこで思いがけない提案が、巨人の国の女王オテズムから出された」
「オテズム……」
なんだか分からないが、躰の奥が疼く響きだった。ウカッパエは続ける。
「巨人の国はこれ以上侵略行為をしない。代わりに他国も我が国を攻撃するな。そうオテズムは言った。他国の人間はもう敗北必至だと戦々恐々としていたから、喜々としてこの提案を受け入れた。続けてオテズムはこう宣言した――戦争に禁止事項を設ける。ルールに則り戦争を続行せよ。規則を破った国には巨人を仕向ける、と」
「どうしてオテズムはそんな提案を?」
「推測でしかないが、オテズムは戦争を愛していたのだろう。しかし極端に力を持ってしまった我が国の世界制覇は目に見えており、惜しいと思った。この世界には死もなく老いもなく、永遠の闘争を繰り広げるのに格好の舞台だ。だから彼女は世界の半分を支配したまま侵略を停止し、傍観者となることで、この世界の戦争を守ったのだ」
戦争を守る。その表現が私には不可解なものに感じる。戦争はなくすべきだ。そんな価値観で一六年間過ごしてきた私にとって、受け入れ難い言葉だ。
「オテズムは一国が力を持ち過ぎると、巨人を仕向けて国を分断し、戦力が拮抗するように仕向けた。そういう事例が幾つもある。巨人の国と同等の力を持った国が生まれてしまえば、世界統一が実現し、この世から戦争が失われてしまうかもしれないからな」
「内戦でも起こせばいいのに」
「一国の長は、従える者全てを御する力を有する。そういう儀式があるのだ。国家転覆を図るような叛乱は起こりようがない。一度でも世界が統一されれば、国王がそうと決めない限りは戦争のない世界が続くだろう」
「国王が代わることはないの?」
「国王自身が望めばあり得る。しかし、そうなることは稀だ。というより前例がない。国王として生まれた人間は、永遠に国王であり続けようとするだろう」
「どうして? 嫌気が差したりすることがありそうなものだけど」
「この世界には死がない。死とは終わりだ。終わりがないということは、終わりへの一歩さえ許容されないという意味でもある。終わる寸前までは進行するがそれから先は進行しない、というのではないのだ」
「よく、分からないけど……」
「嫌気が差すというのはどういう状態だ? 飽きたのか、倦んだのか? しかし誰かが既に説明したと思うが、精神的な傷さえも、この世界は癒すことができる。それも確実に。この世界においては狂人など生まれない。生まれついての性分を遺憾なく発揮できる。国王が国王として一定期間上手くやれていたのなら、それはもう永遠の成功を約束されたも同然だ」
「でも、何か事情があって王位を追われるとかさ、ありそうだけど」
「貴様が元いた世界でどのような常識がまかり通っているのかは知らん。儂が元いた世界では王族などというものは存在しなかったので、この点において混乱は少なかったが、できる限りの説明を試みてみよう。国王が王位を追われるというのはどういう状況が多いだろうか? 国王自身に問題がなく、これから先も生まれないとするなら、周囲の環境が激変し、国王に求められる資質が変化すれば譲位が発生するだろうか。だが、この世界における国王への期待というのは、戦争における勝利、それだけだ。国王の資質に変化などない。この世界には終わりがなく、ゆえに変化も少ない。一時的な変化は巨視的に見れば一瞬の揺らぎでしかなく、恒久的な変化、不可逆的な変化がこの世界を覆うことはないだろう」
「でも、さっきあんたは、一国がこの世界を支配するようになることは不可逆的な変化だみたいなことを言ったでしょう」
「言ったかもしれん」
「矛盾しているでしょ」
「あるいはこの世界に戦争が存在すること自体が異様なのかもしれない。死がなく、貧困もなく、飢餓もない。誰もがそれなりに豊かな暮らしを享受できる。争う理由など、誰にも分かっていない。ただオテズムがそうしなければ国を滅ぼすと言っただけで……。国を滅ぼされたところで、生きていくのに支障はないものな。いやあるいは人間は闘争を愉しんでいるのかもしれない。本来闘争とは無縁のこの世界で唯一残った闘争の可能性を潰したくないのかもしれない」
「小人は、戦争がない世界が嫌なのかな……。仲良く暮らしていけばいいのに」
「戦争のない状態が、この世界の本来の在り方だと言えるだろう。無理矢理戦争を創出している。恐らくは奴らにとってかけがえのないものだ。……ふむ、貴様にモノを教えているつもりが、儂も色々と気付くことがあった。感謝するぞ、エレズ」
「ども。あー、なんか今日一日、色々と話をして、頭がこんがらがっちゃったよ。魔術のこととか、召喚術のこととか、他の奴隷とか、戦争の詳しいこととか、知りたいことが他にもたくさんあるのに」
「少しずつ覚えていけばいい。少しずつ知ればいい。どうせ貴様はここから逃げることも、元の世界に帰ることも、死ぬこともできやしない。気が狂うこともなく、ただ淡々と日々を消化していくしかない」
「そっか……。そうだよね。ははは、段々と腹が据わってきたよ。でも、私は、絶対に元の世界に帰るよ」
「やり残したことでもあるのか」
「あの陰気な黒魔術かぶれをぶん殴ってやるまでは、こんな世界でのほほんと暮らしてるわけにはいかないの。時間なら死ぬほどあるわけだし」
「死ぬほど――死ねないのだからおかしな表現だ」
「でも、この世界で『死ぬほど』って言うのって、凄味が増す気がするよ」
ウカッパエは少し考え、
「そうかもしれん。ふふ、貴様の世界で流行ってる表現なのか?」
「最近、知り合いに言われたの」
「用例を聞きたい。どんな風に言われたんだ」
「え? あ、いや、言わないでおく」
「貴様から言ったことだぞ」
「私にとっては普通の表現なのに、あんたがしつこく聞いてきたんでしょ」
「そんなに話したくないことなのか?」
「……べ、別に話してもいいんだけどさ」
「なら、話せ」
「し、死ぬほど愛してるって言われたのよ……」
「死んだら愛せないが――具体的にどういうときに使うんだ?」
「愛してるって言葉を強調するのに使うの。……もう、説明させないで」
「よく分からん。愛するというのは性交渉という意味だろう。まさか、貴様が死ぬまで交尾を続けるという意味ではないだろう?」
「ち、ち、違うわよ! なによそのえげつない!」
ウカッパエは笑い声を上げた。
「もういい。分かった。貴様にとっては恥に通じる事柄なのだろう。不躾に訊ねて済まなかったな」
「……さ、サソリの割には察しが良いわね。そういうことだから、もういいでしょ。……どうしてこんなこと話してるんだろ、私」
「死ぬほどという表現に関わる雑談から派生した」
「……考えれば考えるほど、えげつない表現なのよね。これまで軽い気持ちで使ってたけど、先輩に言われて初めてその重みというか、叫びのようなものを感じたの」
「叫び、か。怨念のようなものか。この世界にそんなものは存在し得ないが」
「そうよね。こんな表現、この世界では成立しようがないわよね。ふふ、こっちの世界に慣れたら大変そう」
「なぜ?」
「だって、死ぬのって怖いでしょ。お腹が空くのは辛いし、便秘に悩んでる女の子は多いし、世知辛い世の中を生きていくのにカネは必要で……。こっちの世界は何もかもから解放されている気がする」
「まだこの世界に来て一日しか経っていないのに、もう馴染んだのか」
「馴染んだっていうか。あんたや小人たちの話を聞いてて、これはこれでアリかなって思えたのよ。きっと多くの人間が、この世界を楽園と呼ぶでしょうね。どんな偉人も死から免れることはできなかった。それだけでこの世界には価値がある。不死を望む人はたぶんたくさんいるでしょうから」
「しかし、それと同時に、多くの喜びを放棄している」
「えっ?」
「生命が生殖し、自己のいい加減なコピーとでも言うべき子孫を残すのは、種の存続の為だろう。いずれ自分が死ぬから、子に託すのだ。しかしここの連中は永遠の生を約束されている。壊れてもすぐに治る、そんな肉体と精神を与えられている。子孫を残す必要があるか? 永遠の生がもたらすのは性の放棄だ。人間にはきちんとオスとメスの区別があるが、実際彼らが性交渉することは滅多にない。そういう欲望がなくなっているのだ」
「そ、そうなんだ」
私はあんまりそういう話をしたくなかったけれど、変に拒否してもおかしいので、聞き流すことにした。
「我々とてそうだ。この世界に来た瞬間から肉体の時が止まっている。性衝動はほとんどないはずだ。性だけではない、死ぬからこそ得られていた長所、強み、利点が、我々にはかつてあったはずだ。儂はこの世界に長らくいて、言いようのない喪失感に包まれている。その正体は全く掴めん。貴様もいずれ実感するだろうが、死から免れた――いや敢えて言うなら『死を失った』ことによって消えていったものの中に、それは含まれているのだろう。儂はもうそれを取り戻せるとは思わんが」
「何だか、抽象的な言葉だけど。でも確かに少し分かる。いずれ死ぬからこそやる気になるのよね。夏休みが終わる直前にならないと宿題をやる気にならないのと一緒――自分が困る姿がはっきりと想像できないと、必死になれない」
「……『死ぬほど』の次は『必死』か。ふん、死を常に意識している文明でないと、そのような語彙は生まれんな。貴様の世界の住民はよほど死ぬのが怖かったと見える」
「あんたはどうなの」
「儂の世界には言語的コミュニーケションはほとんど存在しなかった。もちろん意思表示の方法はあったが」
「今、巧みに言語を操ってる気分はどうなの」
「貴様には理解できんだろうが、これほど心地良いこともない。この世界に連れて来られるまでは、自分の考えが過不足なく相手に伝わることは稀だった。誤解が生まれないことのほうが珍しかった。こちらの世界に来て最も驚いたのは、儂が話し好きだったということだ。あまりにやかましいのでずっと一人の部屋に入れられていたのだが」
「えっ、ああ、そうなの。お喋りってイメージないけど」
「儂は語るのが好きで、きっと召喚士連中は、貴様に色々と教えてくれると打算して、貴様を儂と同じ部屋に入れたのだろう」
「目論見は当たったね」
「そうかもしれん。まあそれが儂の務めだったということだろう」
「それじゃあ、心置きなく質問できるわね。一つ、いい?」
「幾らでも構わん。これからは儂の時間だ」
天井の照明が点いた。長い夜が始まろうとしている。私は蠍との対話を愉しんだ。教えてくれたことの半分は一度に覚えることができなかったけれども、ウカッパエは同じことを何度も話すことに抵抗がないらしかった。
彼は良い教師だった――しかし私はお世辞にも良い生徒とは言えなかった。昨晩熟睡したというわけでもなかったので、眠気が重く覆い被さってきた。ウカッパエは苦笑した。
「ふふ、今の貴様には何を言っても頭に入らんだろうな。そろそろ眠ったらどうだ」
「でも、あんたは起きてるんでしょ。話し相手がいなくなって暇になるんじゃないの」
そこでウカッパエは驚いたらしく、尾をびくりと跳ね上げた。
「そんなことを気にするとは、エレズ、貴様は優しいのだな。しかし心配はいらん。儂はこれまで夜はじっと瞑想に耽るのが常だった。むしろ貴様とやかましく喋っているほうが調子が狂う」
「何よそれ、さっきお喋りが過ぎて一人ぼっちにさせられたとか言ってたくせに、矛盾してる」
「一人でいるようになって気付いたのだ、瞑想しているほうが誰かと対話するよりも多くの発見がある――貴様との話が無駄とは思わないが」
「はいはい、分かったわよ、私はさっさと寝ますよ。イビキがうるさいかもしれないけど、文句は言わないで」
「いびきはなかったが歯ぎしりが少し酷かったな」
「え、本当に? ああー、ショックだな。歯ぎしりって……。うーん」
私は一瞬本気で落ち込んだが、蠍相手に何を気にしているんだと思ってからは、むしろ爽快な気分になった。別に歯ぎしりを聞かれたからって何なのだろう。この蠍に少しうるさい女だと思われたからってどうにもならない。別に構わないではないか。
「おやすみ、ウカッパエ。ははん、何度口にしてもおかしな名前」
「儂は貴様の名を褒めたのに、貴様は儂の名を褒めないのか」
「ごめん、ごめん。でも、仕方ないじゃん。嘘を言ってもさ」
「確かに世辞を言われても困るな。ふん、お粗末な感性だと言い返しておく」
ウカッパエは軽く笑い、部屋の隅で蹲った。本当に瞑想をするのだろうか。昼間は眠って、夜は瞑想? 禅寺でもこんな穏やかな日々は過ごさないだろう。最初私は、瞑想云々は私が眠るのに躊躇しないようについた軽い嘘だと思っていたので、意外だった。蠍にそんな優しさを求めても、そりゃあ裏切られるよなあ……。
私は右腕を下にして、蠍に背を向け、瞼を閉じた。眠かったのですぐに眠れると思ったが、そうでもなかった。これから私はどうなるのだろう、それを考え始めると照明の僅かな明かりさえも気になって、眠りに落ちることができなかった。
本当にこれは現実なのだろうか。死ぬことができない世界。まさに夢の中にいるようだ。けれどこれは夢ではないと全身の感覚器が主張している。牢獄の冷たい床が私の剥き出しの肌を刺激する。もし私がクラスの女子と同調してミニスカートに挑戦していたら、こんな風に横たわっても床が冷たくて眠るどころではなかったと同時に、下着が見えていないか気になって眠れなかったことだろう。どうせ向こうにいるのは蠍だし別にいいか、と悟りを開くまでにどれだけの時間が必要だったろう。
性衝動が消える、とウカッパエは言っていた。パンツを隠そうとすることはそれと関わりがあるだろうか。恥を感じるのはそれとはまた別の部分だろうか。私は自分を着飾る必要を失ったとき、どんな行動を取るだろうか。
何だかそれが一番恐ろしい気がした。私はこの世界に順応できるのか。順応とは具体的にどうなることを言うのか。順応した私はこれまでの私と同じ人間と言えるのか。全く別の人間になっているのではないか。もちろん私は、こんな世界に迷い込まなくとも、高校を卒業し、大学に入り、就職し、誰かと結婚して子供を産み育て、経験を積んでいく過程でどんどん人格が変わっていったことだろう。でもそれはある程度覚悟していたことだ。私だってめくらではない。これから自分がどんな大人になっていくんだろうと期待すると同時に諦めのようなものが少なからずあった。でもこの世界に迷い込んで、私はその期待と諦めの線を軽々と飛び越えて異様な人間になってしまう気がする。
こんな常識が狂った世界で私は生きられるのか。
そう、狂っている、この世界は狂っている。
固く瞼を閉じた。愉快でも、有意義でも、悲劇が存在しなくても、この世界にどんな光があろうとも、この世界は狂っている。私の肉体はこの世に生まれ落ちたときから死ぬことが決まっていたのに、永遠の生を享受しようと順応を始めている。
この世界に変化はないとウカッパエは言った。しかし変化はある。恒久的で不可逆的な変化が私の中できっと起こるだろう。それが完了する前に、私はこの世界から脱出しなければならない。もし脱出したいと思うのなら、だが。
私はこの世界についてもっと知る必要がある。元の世界に戻りたいと思えばこそ、知る必要がある。その為に私は何をすべきなのだろう。今は眠れ。でも朝になったら? ただウカッパエと話をし、小人たちの好奇心に晒されながら情報を収集する、それで終わり?
今は眠れ。何も考えるな。不老不死で何も食べず、息をしなくても平気な生き物が睡眠を必要としている。そのことにちょっとした疑問を抱いたけれども、でもこの眠気に抗うことはできなかった。思考が散逸し、闇に没する。私は眠った。