辰美と稲荷神社の神使 1
気候は梅雨らしい季節になりつつあり、湿った空気が漂い始めた六月。
朝方、薄暗い青の世界が広がっている。クリーム色の毛並みと鋭い爪--獣と化している左手を眺めながら、雨の日にベランダにいる辰美がいた。
何度か吸った事のある安物のタバコを眺めつつ、手を止める。
(不良の真似事も、身につかなかったな。)
タバコを吸うようになってからは、元々不仲だった親にさらに嫌われてしまった。不良娘だの、親不孝など散々な罵声をあびせられ、玄関に追いやられたりもした。
(若気の至り、ってやつかなぁ。)
-苦々しい過去に辰美はため息をついて吸殻を踏み潰す。
何の気なしに手すりを軽く引っ掻く。すると通販の刃物さながらスッパリと手すりが切れてしまったではないか。
「な、な!なによこれっ」
慌てて手すりをキャッチするも、握り潰してしまった。
「あ、あらら。」左手のとてつもないパワーに恐怖を覚える。「どうしよう……。」
(この手、尋常じゃないわ。このままこんなバケモノじみた体に変わってくの?)
ゾッとして悪寒が走る。
(そんなのやだ!何とか食い止めないと!)
握りつぶした塊をソッと床に置いてみる。
(時空をハッピーエンドにしないと………。でもハッピーエンドって大ざっぱだし、一体どうすれば…?)
--お前に関わってくる人物は皆、なにかしら不満や歪みを持っている。それを解消してやるとかな。それがハッピーエンドへの近道かもしれんぞ?
(皆を満足させる?)
辰美はその場にしゃがみこみ、深いため息をついた。
(非現実的だわ。)
頭を抱えたいが、今はやめておいたほうが良さそうだ。
―――
朝の越久夜町は閑散としている。常に人気のない町だが、雨も相まってしんと静まり返っていた。
ガムテープと包帯を買いに、町唯一のコンビニに向かうと、一匹の狐が道路に出てきた。
都心では見られなかった生物に、辰美は息を飲む。
「………?」
かの生物はこんがり焼けたキツネ色ではなく、金色の毛並みをしていた。世にも珍しい、毛色ではあるがボサボサで弱っているように見える。驚く事に尾は二本ある。
本来ならば琥珀色の眼であろうが、黄緑色に輝いていた。
人ならざる者だ、辰美は動けずにいた。
狐はジッとこちらを見据えている。
「ひきとめてすまない。」すると老人男性の声音で喋りだした。
「…自らは稲荷神の神使-使わしめだ。久しぶりに外に出たから世間がとんと分からん。見慣れない物ばかりだが-そなたに会えてよかった。探していたからね。」
辰美は焦る。脳裏に犬人間の声が蘇る。
『お前に関わってくる人物は必然的にストーリーに選ばれている。』
冷や汗がでた。
「神さまの使いが、何の用ですか?」
「本題はまだ言えない、明日の朝早くに稲荷神社へ来て欲しい。」
「えっ」
「我々には時間が無いのだ」そう狐は言い残し、消えていった。
頭にハッピーエンドの文字が浮かぶ。
(あたしにしてやれることはないのよ。神さまの使いに…。)
コンビニに足早に向かう。雨がバラバラと音を立てて、降り注ぐ。
それからは何も起こらなかった。普通の、のんびりとした田舎町の時間。
辰美は寝る支度をしながらも、今日の事を思い出す。
辰美の家族は日本ではさも珍しくない無宗教に近い家であったが、神社にはあまり行かなかった。七五三や行事には祖父母が連れていってくれた記憶はある。
"眼"が人ならざる者をとらえてからは怖くなり行かないようにしていた。心霊スポットや観光地、歴史的な場所には人も集まるが、不思議とそれ以外の者も集まりやすくなるのだ。
人と似ているのかもしれない。ただ人ならざる者に人の心があるとは断言できないが。
遊んでいるのか、布団から顔を出したイヅナを見る。
この生き物もキツネに似ている。
(お稲荷さんって聞いたことあるわね。あのキツネ、言ってたように稲荷神社の神様のお使いなのかな。)
枕元に置いてあった携帯を手に取り、ネットに繋いだ。稲荷の狐を調べようと思ったのだ。
〈稲荷大明神とは。
稲荷大明神(稲荷神・稲荷大神)は伏見稲荷神社の祭神で、五穀を司る稲倉魂命などの尊称で、翁神ともいう。親しんで、お稲荷様ともいう。…〉
(なるほど。食物の神なのね。)
〈稲荷神を祀る稲荷社・祠は日本全国津々浦々にあり、または各家の座敷神としても祀られ、その数は無数と言っていい。〉
かつて、日本にあった神社のうち稲荷社が大部分を占めていたという。
そんな大それた神の使いが、変哲もない女子大生になんの用だろうか?
心臓がゾクリとして、辰美は息を吐いた。
こちらも川口謙二著『日本の神様 読み解き辞典』を引用しました




