イズナ使いの異聞奇譚「人が永久に辿り着きはできない、異形の領域」
(丸くなれ。)
呼ぶのは日常茶飯事なので息をするようにできた。問題はイズナへ命じ、操ることだ。使い魔を操るのは呪文や印を組んだり、形式ばった事柄が伴うものだが…。生憎そのような呪法は教わっていなかった。原始的ではあるが石のように硬くなれ…イメージを念じ、伝わるかを試した。
するとイズナはごちゃごちゃと絡まり、石の如く硬化した。
叩いてみるとコツコツと硬い物に似た音がする。信じられないけれど、成功したみたいだ。
「辰美さん。これを怪しいと思う所へ投げてみてください。」
「何これ?」
イズナ石を彼女へ投げる。いきなり謎の塊を投げつけられた辰美は落としそうになりながらもキャッチした。
「イズナです。石にしました。」
「こんなこともできちゃうのっ?!」
「投げてみてください。もしかしたら、隠しているものを打破できるかもしれない。」
「わ、わかった、やってみる。」
まじまじとイズナを観察するや温室へ歩み寄る。絡まった蔦を掻き分け中を覗く。内側は植物に埋もれた植木鉢やらが手付かずのまま置かれていた。家主はある時から管理をやめてしまったのだ。
「ふんっ!」
覗き込んだ体勢で辰美はありったけの力を入れ、イズナを宙へ投げた。ピシリ、と音を立てイズナが「景色」に跳ね返る。
パシ、パシ…。不気味な亀裂が走り、崩れかけた温室にヒビが広がっていく。巧妙な鏡が割れ、崩れていくように。亀裂が現実を破壊していった。
暮れかかった空が剥がれて裏に広がる無明の闇が顔を覗かせる。鮮やかなガラス片が振り注ぎ、緑は咄嗟に頭を手で覆う。
騒々しい音を立て煌めく現実世界は崩壊した。
「あぶなったぁ~-うわっ!」
温室は跡形もなくなり、しめ縄が何重にも張り巡らされた陰暗がポッカリと口を開けている。夜の闇より重苦しく先のない…窟のような、死後の世界のような。
(これが…異界。)
人が永久に辿り着きはできない、異形の領域。
「ひ…」見水が小さく悲鳴をあげる。「進むんですか?」
「ええ、もちろん。」
ここが「悪い魔法使い」のテリトリーなのならば明朱がいる可能性がある。
大口を開けた「怪物」が目の前にいる。ライラがいたあの世界に巣食う、心を蝕む怪物が。呑まれてしまえば帰ってはこれないのだ。
(前みたいになるものか。)
明朱を見つけるため。いや、悪い魔法使いとやらに近づくため。本当は理由なんてなかった。
ただ怖気付いたら祖父に笑われる気がする。
「あたしも、進む。」
辰美が力強く宣言する。何を思うか、ぎらりと闘志と希望を滾らせて。
「私も辰美なんかに負けてられないっ!ミドリさん、行きましょ!」
一番怖がっていた衣舞さえもずかずかと遠慮なく歩み、暗がりへ挑戦する。三人は異界へと足を踏み入れていった。
この町はどこの田舎と同じく山を境に異界とする―他界信仰がある。人は人工物のない自然界を恐れ、危機感を覚え、魑魅魍魎のいる異界とした。山は人の世界ではない、という認識は古来から根ざした意識だ。
また山とおなじに暗闇というのも異界だとされた。視界が不明瞭になり、身の危険を感じ不安になる。闇は死後を連想させ、内と外の境界線を曖昧にさせるのだ。
緑は文献に書いてあった事柄は、身をもって体験してみないと分からないものだと痛感した。
のっぺりとした漆黒のはずがうねうねと蠢いて居るように思える。聞こえないはずの雑音が聞こえてくる。
窟の奥か、月のない海か。
暗闇がどんなに恐ろしいものか。
進めば進むほど視界は暗くなる。このまま進んでしまえば永久に歩き続けなければならぬような。
やはりライラに出会い、脱出した「異界」に似ている。あの世とはこういうものなのかもしれない。
イズナのぼんやりとした赤目だけが、闇に浮かび上がっている。
「この子、私に懐いちゃって。」
「あまりにしつこいようでしたら、止めさせますよ。」
イズナが憑く対象外にここまでついてくるのは珍しい。人懐っこくなるのも考えものだ。
「大丈夫よ~。ねえ、あの時みたいに案内してくれる?誰でもいいから、人がいたらさ。」
くんくんとわざとらしい仕草をして、イズナがうねりながら先頭に向かう。くるりと顔だけをこちらに向け、ついてこいとジェスチャーしてきた。
イズナは自我がないはずである。まるで思考があるような仕草に緑は驚いた。
異界が魔をそうさせているのか、普段の振る舞いは芝居なのか。もう何が本当かは検討がつかない。
「ありがとー!」
辰美が何の疑いもなくついていくのを、止めるかどうかも迷う。自分の身近な存在が変異した。それが良いのか悪いのか-信用していいのか、緑はこれといった判断を下せなかった。
「ミドリさん?」
衣舞が心配そうに覗き込んできた。
「…行きましょう。」
二人をこの黯然の闇へ連れてきたのは自分でもあるのだから。
「不気味な場所だね。」
「暗いし、何もないし…寂しいとこよね。」
歩きながらぽつりぽつりと言葉を交わす。黙ってしまえば何か恐ろしげな、「終わり」がやってきそうだからだ。
感想待ってます。




