イズナ使いの異聞奇譚「異界」
針葉樹林が太陽を覆い隠す。天をめざして伸びた木々から零れる日もついには途絶え、上も下も分からぬ暗闇に包まれた。
足を止めてはならぬ。そう感じた。
立ち止まってしまえば―得体の知れない「怪物」に食い尽くされてしまう。
薮をかき分けながら緑は前を見つめ、一心不乱に歩いた。ざわざわと葉が風に吹かれ騒ぐ。そのうち言葉になる。
言葉のなさないざわめきが四方から投げかけられた。冷や汗が垂れた。老若男女の声がこの闇に凝縮されている。
「気の毒にねえ。若くして…」
「お母さんも亡くして…次は、おじいさんなんて。不幸が続くわね」
「あの家、何か呪われているっていうじゃない。それで」
「憑き物筋だって話じゃない?嫌ね…」
この暗がりはセレモニー会場の裏手だった。独り、耐えるように壁によりかかっていた。
「こっち、こっちだよ」
「こっちにおいで」
昨日食べたカップ麺の容器がテーブルに転がって、新聞をおくスペースがない。だるさが台所まで持っていく気力を奪う。部屋は俗に言う汚部屋と化していた。
いつからかそんな風になってしまった。
いつから…。
あのセレモニー会場からだ。
「みどり、こっちにきなさい」
はっと後ろを振り返った。祖父の呼ぶ声がしたからだ。
「こっちよ。ほら」
「母さん…!」
「だめ」ふわりと耳を塞がれ、緑は相手を突き飛ばした。手応えのある肉質に驚く。
踏切警報機の音に我に返る。あの、学生時代、何もかもに絶望し、自殺未遂をしに踏切に立った日がよみがえる。
「あの子に惑わされてはダメ」
のっぺりとした空間に若い女性だけが合成写真の如く浮かび上がっていた。くせっ毛でツリ目の…虚ろな瞳が身を竦ませる。淀んだ池を連想させるそれは、このひとは、この世の者でないと告げている。
「あなたは…あの子って」
「私は仙名 ライラ。あなたは緑。…あなたが探している子は衣舞」
衣舞。そうだ、衣舞は?何故?彼女は全てを察している?
──仙名 麗羅。踏切の柵に貼られていた自殺防止のポスターに写っていたアイドルの名前だ。
しかし目の前に居るのはあの仙名 麗羅ではない。
「私はどこにでもいてどこにもいない、そういう存在になったの」
静かに、分からせるようにゆっくりという。どこにでもいてどこにもいない?「よく、分かりません…」
「分からなくていいんだ。衣舞はこの先にいる。後ろを振り返らないで。あの子に食べられちゃう」
見るなのタブーというわけか。緑は頷いてしかと前をねめつけた。
「あの子は、」
近くにいたはずの女性の気配がない。夢幻だったのだ、と勘違いするほどに。
―幻覚だったのかもしれない。それか母と祖父が助けてくれたのか…。
(都合のいい妄想だ)
無の底で再び歩み始める。ヒトの雑踏の中をぬいながら、あるべき場所へ。眼前に光の粒が見える。
あれだ。あそこに衣舞はいる。
生い茂り乱立した針葉樹の合間から陽射しがもれいでる。寂しい暗がりは冷たく緑を責め立てたが、眩いほどの太陽光がそれを追いやった。
「…衣舞さん」
ぽっかりと開け、踏みなされた薮の中央に衣舞はいた。衣服は土で汚れ、髪も乱れ、山姥のような有り体だった。
「あ…あ!」こちらに気づくやすがりついてくる。お互い疲れ果て、ただ立ち尽くすしかなかった。
「良かったぁ…わ、わたし、死んじゃうかと…!」
「山を一人で歩こうなど死にに行くようなものですよ。でも生きてて良かった」
野生動物に襲われずにすんだものだ。それに魔物にも。
(あの子…)ライラという女が口にしていた、あの子。蒼白いあの娘が浮かぶ。
「妹は…いませんでした。名前を呼んで探し回ったのに、どこにも…。たまに声がしたから、いるのかと思って」
「衣舞さん、警察に妹さんの捜索願いを出しています。あなたのことも」
「私の…?そんなに時間が…?」
疲労しきった衣舞がハッと焦点のあった瞳になる。
「謝りに行かないと…。あとお礼に」
「お礼?」
「はい。帰り道が分からなくなって動けなくなっちゃって、そしたら女の人が。道案内をしてくれて」
女の人―ライラだろうか?人でないのは一目瞭然だ。山の神…三ノ宮が零した言葉と関連があるのかもしれない。
「私も出会いました。くせっ毛の若い女性で、ライラと名乗っていました」
すると首を横に降り、
「背の高い綺麗な女の人でしたよ?」
顔を見合せ怪訝な気持ちになる。「ライラ」は背は高くなかった、綺麗というより空虚な印象を受けた。衣舞が出会った人物と異なる。
「おーい!」草をかき分けながら、警察官と辰美が駆け寄ってくる。
「やっぱりココだと思った!」
ここ?この開けた土地は用途が思いつかなかった。
「殺人現場だよ、ここ。脇田さんがもしかしたらミドリさん、ここにいるかもしれないって」
「ひっ」衣舞が地面を避けるように飛び跳ねた。女子高生が遺体となって発見された場所に出てきたというのか。
感想待ってます。




