スナッチャー 9
頭の中に、倭文神の記憶──チー・ヌーのものさえも、気持ちがなだれ込んでくる。
"倭文神"は異形の神だった。形容しがたい神霊を、神々は恐れ阻害した。今は御厨底町と呼ばれる土地へ逃げようとさえ考えていたのだった。
「苦しい。逃げ出したい。助けて」
そんな屈辱の日々に、チー・ヌーが現れた。甘い言葉で言い寄られ、挙句にはチー・ヌーに捕食された。
『ああ、哀れな人』
「私はひとりぼっちじゃなくなったんだ…」
チー・ヌーと語らう事もあった。楽しかった。
「楽しかったよ、私は受け入れられたよ」
『哀れな人』
ある時、春木に天津甕星の残骸である可能性がある童子式神を監視しろと命じられる。初めて重要な役割を課されたのだ。
嬉しかったろう。倭文神は必死に、監視に努めた。
何百年とスパイ活動をしている内に童子式神に歪んだ感情を抱き始め、自らの存在意義として執着してしまって──
『なんて哀れなんだろう』
──私の存在意義なの。童子式神だけが、私が越久夜町に居てもいい理由。
『哀れだ。可哀想。バカバカしい──なんて、オモシロイ』
「越久夜町に尽くせて良かった。私にはそれしかないから」
『わたくししか頼れない、憐れな人。わたくしが変えてあげないと──』
倭文神が歩いている。行先は三途の川か、それとも見慣れた星守邸宅か。
足を引きずり、満身創痍の彼女はゆっくりと離れていく。
「待って!アトラック・シンシア・チー・ヌー、いや、倭文神さん」
どこかへ消えようとしていた彼女が振り返る。年端もいかぬ少女は儚げな顔をしていた。
「一つ言いたいことがあるの」
「…」
「童子式神は、巫女式神と心中して無になったんだ」
「ああ…嘘…」
「もうこの世にはいないんだよ」
認めたくないと俯いていた彼女は年相応の顔をこちらにむける。
「あの人はいなくなったのね…」
倭文神が虚ろに言い放って、握りしめていた鈴を落とした。錆び付いた鈴が融解して消えていく。
「ありがとう。辰美さん。私はもう、役割をはたしたみたい」
「待ちなさい!辰美さん、あなたは何をしたの?!」
傍受していたアトラック・シンシア・チー・ヌーが慌てふためき、儚い倭文神を見る。
「シンシア、あなたはよくやった。いいよ、私たちもう、」
「ダメです!あなた──」
辰美は──倭文神へ手を伸ばし慌てふためくシンシアの手を握った。
「シンシアさん。倭文神さんを解放してあげて。アタシたちで送らなきゃ」
「嫌です!またひとりぼっちになってしまいます!」
髪を振り乱し、彼は拒絶した。ひとりぼっちを一番怖がっていたのはこの子供だったのだ。
「大丈夫。アタシがいるじゃん…あと、月世弥がいるけど…」
「アトラック・シンシア・チー・ヌー。私は、あなたを可哀想なんて思いたくない。…罪を受け入れて自分を許していかないと…また輪廻を巡れたら、あなたに会いに行くから」
「嫌です!わたくしから離れないで!」
「二人でいるの楽しかったよ、ありがとう…」
「楽しかったなんて、可哀想な人…わたくしに、そこまで…ああ…さようなら…さようなら」
シンシアは泣き笑いで顏を汚し、崩れていく倭文神を見送った。




