ユートゥー・ノーモースター・スアヲルシィとかわいそうな迷子の犬 5
囁かれ恐怖を刷り込まれる。野犬の牙が視線の隅にチラついた。食い殺せると、見せつけられているみたいだった。
「ほら、遊びは続くぜ?」
重圧が失せ、エベルムは消える。腰を抜かしていると間髪入れずに呼び鈴が鳴った。
「辰美さん?いるかしら?」
「こ…こんにちは。どしたんですか?」
春木が直々にアパートを訪ねてきた。今日も小綺麗な格好で柑橘系の香水を纏っている。爽やかであるはずの香りを、胸焼けがすると嫌悪している自分がいる。
「あら、クーラー設置していないの。この部屋」
「あ、はい。設置する手続きとかめんどくさくて」
笑ってみたが空回りで終わる。
「車でお話しましょう」
口紅を塗った唇が含みのある曲線を描く。
(あれ?)
クラリと頭が惚ける。香水のどキツイ匂いが鼻腔を満たして不快だ。
(本当に、香水なのかな…)
香水の匂いにクラクラしていると、気がつけば越久夜間山の麓にいた。助手席に座って、シートベルトに固定されていた。
「あ、れ…?」
「リネンさんの言っていた事は真実のようね」
「リネンさん?なんで」
「私とリネンさんは協力関係にあるのよ」
「春木さん…共謀してるんですか?!」
「ええ。リネンさんとは、かなり昔から」
「…あの人は、自分の事しか考えていませんよ」
未だ記憶は完全に蘇っていないが、脳は覚えている。リネンは──見車 スミルノフは信用ならないと。
「お互い自分の事しか考えていないのだからいいじゃない」
あけすけに言い放ち、山の女神はドアを開けた。
「本題──契約内容は本殿で話すわ」
「契約っ?!」
「拒否権はない。黙りなさい」
神通力で声がでなくなりジタバタしていると、便利な能力である──瞬間移動をさせられてあっという間に越久夜間神社の社殿の中にいた。
「辰美さん、貴方に命令するわ。小林 緑が坐視者へならないように、阻止して、見張っていてくれないかしら?」
神鏡を背に、黄緑色の双眸をぎらつかせた姿は人ならざる者そのものである。
「もし緑さんが私側につくのなら、禁呪兆占を使えるようになると伝えて」
「プハッ!なにそれ?」やっと喉がまともに開くようになり、息を吸った。
「神霊に呪を求め、操る魔法の事。魔法使いでは極わずかな者しか使えない。最高位の使役魔法よ」
「わ、わかった…」
春木は緑に申し分ない褒美をやるつもりなのだ。それが対等な対価なのかは分からない。もしや、その褒美を上回る結末を用意しているのかもしれない。
末恐ろしくなり、辰美は俯きがちに頷くしかなかった。
「お利口さんね。ああ、それと、断るのなら、次は私の元に来なさいとも」
「契約って事は、絶対命令ですか?」
「もちろん。叶えた暁には貴方にも褒美をやるつもりよ。楽しみにしていなさい」
(私は)
何度もパラレルワールドで使い回されている。その中で干渉者になったり、坐視者になったりしている。が、時空が救えないと白紙に戻される。
(私にできる事って…なんだろう)
──ハッピーエンドにしてほしい。
麗羅やエベルムは言った。最初に、この世界が狂いだした時に。
「ああ、私は何もできないんだ…」
絶望で未来を塗りつぶす──何もできない、そんな言葉が自然と零れた。
「私は、ヒーローでも、主人公でもないよ…」
うずくまり、瞼をつむる。




