心中 1
わりと涼しい夜が明け、野鳥のさえずりがそこかしこから聞こえてくる時間帯。辰美はベランダでタバコを吹かしながらも、透き通った青い景色を傍受していた。
「開けてくれよ」
誰かにノックされ、渋々開けると巫女式神がいた。
不気味な色をしている瞳。黄色と赤紫。絶望で淀み、頬や体には傷を負っていた。
「傷?!何があったのよ」
「喧嘩して負けたんだ」
「マジ…」
人ならざる者も喧嘩をするのだと感心しつつ、巫女式神を家にあげた。
「メンタームしかないけど、傷に塗るよ」
「ありがとう」
砂利に塗れた手をみやりながら巫女式神はため息をついた。
「あーあ。山の女神は強かったよ」
「春木さんと戦ってきたの?!」
「ああ、あたしが負けちまうなんて、始めてだ」
濡れたタオルとメンタームを手に、やさぐれた来訪者の前に座った。
「潮時なんだろーな、もう」
ヤケになり薄笑うその様子に、辰美は巫女式神へ問うた。
「あなた、詰まるところ何者?鬼神の眷属じゃないのは知ってるよ」
「いいや?パラレルワールドから来た、眷属だ」
「嘘をつかないで」
「バレちまったか。あたしはどちらでもない。どっかの犬と似たような存在さ」
「まさか…ティエン・ゴウなの?」
「ああ、食神鬼だ」
「…」
「けれどな、あたしが坐視者でも干渉者でも、自分が叶えたい事柄を手に入れるだけ」
「叶えたい…」
「あんたには無いのかよ。叶えてやりたい出来事は?!」
詰め寄られ度肝を抜かれていると、彼女はため息をついた。
「ごめん」
「…巫女式神は、それを手に入れたらどうするつもり?」
「さあ、分からない。あたしも未知なんだ。ただこの時空からは去ると思う。あの人と」
「そっか」
「…。あの人は、あたしの希望なんだ」
わずかに目の端に涙を浮かべて、巫女式神は不格好に笑う。
「あたしはあの人を愛している。愛を誓い合ったんだ。だから」
人ならざる者の浮かべる表情ではない。あれは人間だ。
「すまねえ。話しすぎた」
メンタームを傷口に塗られ、彼女は呻く。
「人ならざる者でも痛がるんだね」
「そりゃあね」
「このままだとチー・ヌーに時空を壊されちゃうんだ。そっかぁー、なにしとこうかな」
「…最高神を倒すんだ。彼女の自分勝手な諦めが時空を腐らせてる!」
「否定はしないよ」
「チー・ヌーは、山の女神に悪事を吹き込んで…ああ、馬鹿げてる…熱くなって、何してるんだか」
疲れ果てて、肩を落としてしまった。
「──あたしは、あんたに成り代わらないとあの人を救えないんだ」
「童子式神さんを?」
「っ…ああ」
「アナタはいいね、救いたい人がいて」
その言葉に巫女式神は怒った。辰美に飛び蹴りをかまし、怒鳴る。
「他人事かよ!お前はいつもそうだ!他人事で!時間が無いんだ!越久夜町は、童子式神はまた死ぬ!お前は上手くやってると思ってるがな、チー・ヌーによって町は」
「…うん」
「あたしは童子式神さえ…」
鋭い異形の歯を食いしばり、感情を飲み込むと深呼吸をした。
「ああ、だめだ。あたしらしくない。…傷の手当て感謝するよ…じゃあな」
逃げるように部屋を出ていくのを為す術なく見送る。蹴られた脇腹がズキズキしているが、血は出ていなかった。変わりに体毛が濃くなり、獣化が進んでいた。
──天の犬へのカウントダウンが進んでしまった。




