小さな村、おくやまち 5
深夜二時の静かな空気の中、自動販売機の運転音だけが響いている。どこかノスタルジックなそれに、辰美は密かに息を吐いた。
硬貨を入れ、甘い果物味のジュースを選ぶとドスンとペットボトルが降りる。
その静けさに溶け込まぬ、ジャリ、という誰かが砂利を踏む音がした。
異様な気配にハッと振り向くと、街灯にずんぐりとした塊が照らされている。
熊だ。
「ヒュッ」悲鳴をあげぬよう口をつぐむ。
「──ライラさん、こちらです。こちらに来てください」
山から降りてきたツキノワグマではない、あの人ならざる者の熊だ。
「あ、あの」
熊はのそのそと歩き出してしまった。怖がりながらも後をついていくと、魔筋にたどり着いた。
「どこへ向かってるんですか?」
堪らずクマに話しかけてみた。
「龍穴です。そこでなら、私も本来の姿になれる」
(本来の姿?この人、人ならざる者じゃないのかな)
経由して、龍穴に向かう。
くねくねと蛇行した不思議な、今までにない魔筋を通り、たどり着いたのは"神域の起点"である祭壇だった。
月世弥と対峙した時よりも風化しており、自然に呑まれつつある。
「あの」
「ここは"地球の入口"」
──龍穴とでも言えばいいか?エネルギーの起点になる。最高神はこの地のエネルギーを手にして、支配してるんだ。
辰美はエベルムの言葉を思い出した。やはり"神域の起点"はただの祭壇ではない。他の地域にとっても大切な場なのだろう。
クマは嬉しそうに握手を求めてきた。しかし凶暴な爪に、辰美はソッと触れるだけにした。
「麗羅さんが見つけてくれて、とても嬉しいです!」
(アタシは麗羅さんじゃないんだけどなぁ…今は…)
内心否定するが、どうやら彼女には自分が麗羅に見えているらしい。
「…麗羅さんは私の人生の恩人なんです。けど…悔やんでいます。麗羅さんと、もっと、まともな人生を送れなかった事を。"普通の世界"で真っ当に生きたかった…。ううっ…すいません、泣いちゃって…」
鼻声で彼女は笑って──みせているに違いない。泣き虫をはぐらかした。
「あの…ヒジョーに申し訳ないんですが、人違いをしてますよ」
「えっ?!だって!」
辰美は困惑しながらも、真実を告げる事にした。
「私は麗羅さんの記憶を持っているけど、佐賀島 辰美なんです。アナタを、知らないんです」
「ライラさんじゃない…?意味が──」
いきなり暗転し、気がつくと自販機の前にいた。白昼夢──夜なのに、幻を見ていたのか?
(私は魚子さんを認識できなかった…)
人間としての、親しみのある知人として彼女を可視できなかったのだ。悲しいような、安堵するような気持ちがわだかまっていた。
「あ、辰美!どこいってたのよ」
午前中の事だった。珍しく寄ってみたコインランドリーからの帰りに、見水 衣舞と出会った。
「見水…久しぶり」
「フィナンシェ作ってみたんだ。試食して欲しくてアパートに行ったら留守で」
紙袋を渡してくると、呑気に笑ってみせた。
「ごめん」
「いいよ、私も電話とかすれば良かったし」
二人で自販機で買ったジュースを飲みながら、黄昏ている。フィナンシェを分け合い食べた。甘くてやけにバターの風味がした。
ヒグラシのもの悲しい合唱を耳に、冷たい炭酸を喉に流し込む。山奥とはいえ暑いものは暑い。
「辰美さ、課題してる?」
「あー…まったく」
「あはは!辰美らしいや」
卒論の話をして、他愛もない冗談や世間話をする。お互い暗い話題は避けながら。
「私たち、前もこうしてた感じがするね」
空を見上げながら彼女は言った。大学で知り合い、こうして夏休みを共に過ごしたのはこの年が初めてだった。
「見水が高校にもいればよかったのに」
「…そっか。私は、そうは思わないけどな」
「なんで?」
「私たち、大学で出会えたから、辰美として会えたから良かったんだよ」
「えっ、み、見水?」
「──緑さんや有屋さんたちと花火大会しよう!」




