アトラック・シンシア・チー・ヌーと辰美ちゃん 3
「──ライラさん」
誰か、女性の声音がして辰美は目を覚ます。どこかで聞いた事がある、懐かしい声音だった。
(誰かが、麗羅さんを探している?)
昼間に見た虎が脳裏をよぎる。あの虎も、麗羅を探していた。
(麗羅さんは皆に必要とされてるんだ…)
自分とは真反対な存在なのだと、嫌でも自覚させられる。
「ヒッ!」ベランダに獣の影があった。
ずんぐりとした影だった。犬に似ているが記憶にある野生動物とも、どの部類でもない。
動物園で見た、シロクマやヒグマにとても似ていた。
「ライラさん、ここに居るんですか?」
声は影からしていた。あれはこの世のモノではない。
必死に息を潜め、目を離さぬようにクマを見つめる。いつ逃げてもいいように。
虎といい、現実では有り得ない事が起き始めている。
「おじゃましまーす」
(?!)
「わ、私は麗羅さんじゃないです!人違いです!」
「えっ、でも、貴方からライラさんの…」
「ひ、人違いですっ!!」
「…そんなぁ。どうしよう…」
ブツブツと女性と思わしきクマはベランダからゆっくり去っていった。二階というのにどこかへ、移動していく。
「怖かった〜」
全身の力が抜け、枕に顔を押し付ける。
ヒグマに似た、人でない影を見るようになるとは。共通しているのは皆、麗羅を探している。
麗羅はクマやアムールトラである人ならざる者たちに一度も顔を合わせていないのだろうか?彼らに何が起こっているのだろう?
(このままでは食われる!)
猛獣たちのご飯になる前に蛭間野町へ逃げた方がいいかもしれない。
明日、早速蛭間野町へ避難してみよう。大学のキャンパス内で野宿したっていい。そう決意し、再び睡眠する。寝れる時に寝て体力を蓄えなければ…。
アパートから出た際に、階段の下に例の干渉者がいた。待ち伏せされていたようだ。
「こんにちは。辰美さん」
少年がにこりと偽善者ぶった笑顔を浮かべた。白々しい美しい破顔に、辰美はジットリとした恨めしい視線を向けた。
「隣町に行くのですか?」
「うん。ちょっとだけ逃げようと思って」
「越久夜町から?」
「そうよ?」
「なら、交渉しましょう。──干渉者になれば、願いは叶いますわ。時空を救う事も、その苦しみから逃れる事も。意中の人を射止める事も。欲望を満たす事も」
「…そう」
交渉なんて頭の良いものではない。ただのごり押しだった。
「わたくしたちは、幻覚や幻臭、精神汚染・干渉など人間や人ならざる者に施せますのよ?対象者に望み通りに幻想を見せ、地獄のような凄惨な悪夢を見せ、惑わし、壊していく──なんと楽しいのでしょう!」
「ごめん。アタシ、もう行かなきゃ」
「死した想い人も蘇らせますわ」
チー・ヌーは秘密ですよ、と付け加える。「わたくし、月世弥を蘇らせようとした際に関わりましたから」
とんでもない事を言い出し、続けた。
あの魂呼ばいは春木だけの提案だけではない。正体をあらわしたまま接触してきたチー・ヌーが持ちかけた話だったのだ。
貴方ほどの神ならば人を造れる──どこかの国のお話にそういうのがある。神が人を作るお話が。貴方なら月世弥をもう一度、この世に蘇らせる。
囁いたチー・ヌーに、春木は言われるがまま神々や天道家に"魂呼ばい"をやれと命じたのだ。
「アナタ、人の心がないの?」
「あるわけないでしょ?人ではないのですから」
「神さまにも心はあったよ」
「わたくしはカミサマではありませんから」
疑心暗鬼のこちらへ甘く囁くが、辰美は首を縦に振らない。チー・ヌーも眼前にいる女子大生を干渉者への道へはしつこく進めない。辰美が、何度か干渉者への道を辿ったのをしっているから──




