幻像の気配 12
「あ、えっとここにこう書いてあって」
文字の在処を報告すると山の女神は駆け寄り、しゃがむなり指でゆっくりとなぞった。
「あの子…」
「山の女神は──あの娘のことなんて何にも知らないんだよぉ」
耳元で甘いハイトーンボイスがする。ハッと横を見やるも人はおらず、神殿を充満する、どんよりとした重たい空気だけが漂っていた。──あの声は少女に化けた天津甕星に似ていたのだった。
「神域の起点はもう数千年も使っていないから…見落としていたわ。もっと早く見つけていれば、この町は輝きを失わなかったかしら」
腰を上げ、蚊の鳴くような声で吐き捨てる。
「けどさ」
「─私が越久夜町の時空や歴史を改造して、めちゃくちゃにしてこなかったら…」
「えっ…」
「罪深い行為をしてきたのよ。繋げて、捨てて。今の越久夜町はツギハギの時空で成り立っている。貴方たちだって…本来この時を生きている人物でない。辰美さんは存じていると思うけれど」
「私も、そうなのですか。」
驚愕を隠しきれていない緑が問うた。
「ええ、貴女は普通ならばこの時代に生きていない。しかし私が歪めたからこの場にいる。私の勝手な感情で、恐怖で貴女は不自然な状態になっている。ごめんなさい」
謝り、爽やかで侘しい笑顔を浮かべた。
「人間とは残酷の塊。無邪気で、情け深く攻撃的で。…時に縛られ人界に紛れ、 神でなく人に近い何かに成り果てた。そう、私も同じく汚くて醜い生き物なのよ。だから期待しないで、私が気高い神であるとか聖人君子だって」
「期待、してませんよ!」
辰美は慌てふためいたが春木は悲しげに肩の力を抜いた。
「…神としての振る舞いを求めていたでしょう?時空を歪ませたと言った時貴方はどんな顔をした?」
「あ、いやぁ、その」
「…最高神と位置づけられた者に期待を抱いても仕方がないでしょう。春木さん、辰美さんを責めないであげてください。」
緑が待ったをかけ、内心ホッとする。
「…ごめんなさい。ちょっと遊んでしまったわ。」
(ドS?!)
フッと自然な破顔をした山の女神に恐れを抱く。
「神の場に長く居たら貴方たちも人でない存在になってしまうわよ。さあ」
階段があったはずの門外が極楽浄土の入口の如く、清らかに輝いている。潜ってしまったら魂が昇天してしまいそうだ。
「行きましょうか、辰美さん」
「うん…なんか、あの空間怖いけど…」
「あ、緑さん。お待ちになって」
肩に手をかけた春木に、何気なく緑は振り向く。
「何です…か……」
黄緑色の瞳が再び怪しく光り、常に死んだ目をしている緑から自我が消えたように思えた。人形のように虚ろに佇み、怪光にとらわれている。
「貴女には忘れてもらわないと」
「緑さんの記憶をいじらないで!」
イヅナ使いを無理やり引きはがそうと体を引っぱるがビクともしない。金縛りにあっているみたいだ。
「あの場は…人間が踏み込んではならない領域よ。忘れてもらって、普段通りの生活を営んでもらわないとならないわ」
「てかぁ!私も人間ですよね?!」
「…。」何も答えない春木に怒りを覚えるが、春木の前に立ちはだかった。
「なら代わりに私の記憶をなくしてっ!」
「…ダメよ。貴方は覚えていないといけないの。そう地球の神が言っている」
「これ以上私と緑さんが過ごした証を消さないで…やだよ…」
柑橘系の香りがする白いスーツに泣きついた。時空を移動し、緑や見水と過ごした奇妙な日々を無かった事にされた喪失感は自らの記憶が失われるよりも耐え難いものだった。
「貴方も、狂っているのね」
「え…?」
「…私は、何を?」
正気に戻った彼女は不思議そうにしている。
「春木さんっ!ありがとう!」
「…さ、そろそろお祭りが始まる。私も出席しないといけないと」
七月二十三日。夏の盛り。山奥の田舎、越久夜町にも夏祭りがやってくる。
都市でやっている大規模な出店もなく、お神輿やお囃子など他に神事を行う原初的なものだ。
夕方。
ゲリラ豪雨は去り、また晴れた事により蒸し暑い熱帯夜がやってきた。不快指数の高い空気が肌を湿らせる。
二人は越久夜間神社の周辺でお神輿が通るのを待っていた。ヒグラシの物寂しい合唱と熱い祭囃子が境内から聞こえてくる。
夏だ。
辰美はぼやっと祭りに湧いた町の人々を眺めながら、神殿での出来事を思い出していた。
──…時に縛られ人界に紛れ、 神でなく人に近い何かに成り果てた。そう、私も同じく汚くて醜い生き物なのよ。
(…地球上の生き物は皆そうじゃない?)
生き物とは汚くて醜くて、生きてくのに必死で。それが地球に存在している生命の特徴だ。
神が──どんな生態かは知らないが、清廉潔白なのならば──有り得るのだろうか?そんな綺麗な生き物。
生き物ではないのか、神さまというのは。
地球にいるのなら、意地汚くなければ生きていけないのに。
「大事な事を辰美さんに言い忘れていました」
「なに?」
「手記の隅に乱雑な字で月世弥は時空を壊したと書いてありました…定かではありませんし、見間違いかもしれません。けれども春木さんはそれを知っていて、あんな言葉を言ったのか…気になります」
「好奇心?」
「ええ」
お神輿の装飾がきらきらと提灯の明かりに照らされて、煌めいている。ウイサーの掛け声と共にゆっくりと遠のいていった。
「お祭り、久しぶりかも」
二人はそれを静かに見守っていた。
「帰ってアイスでも食べましょうか」
「幻像の気配」はこれで終わります。ありがとうございました。
八月の最後の日に七月の話を投稿できて良かったです(?)。




