幻像の気配 8
「邪崩って奇妙な地名だよね」
長靴に履き替えながら辰美は零す。これから足場の不安定な湿地帯を行くのだ。河岸で用意周到にレインコートも着た。
上空があからさまにどんよりしだした。雨が降るのは誰がどう見ても確実である。加えてマダニや泥よけにもなってくれると、緑が提案した。
蒸し暑いがマダニには咬まれたくない。
「蛇崩が変わっていったと言われています。元来、水気があったのでしょうね。山を流れる地下水などで度々、嵐にみまわれると土砂崩れなどもあったようです」
「それにしても字面が怖いよ」
二人はいざ荒れ野に踏み入れた。そこまで膨大な土地ではないが、ぽっかりと荒漠たる空き地が広がっていて変な感じがする。
人が長らく近寄らなかったがために、雑草がボウボウと生い茂っていた。草をかき分けながら進む。
「この荒れ野には、暴食魔神と呼ばれた荒神がいたそうですよ」
荒れ野を散策し始めた矢先、緑が悪趣味な話題を振ってきた。
「やめてよ…やっぱいるんじゃん…」
「旅人や修験者たちを食い荒らして、かつての町…越久夜間村や他のムラからも恐れられていたようです」
人食いの人ならざる者は話が通じなさそうだ。人間の生活圏の外側で、無防備に出くわしたらひとたまりもないではないか。恨めしげに辰美は緑を見つめた。
「最低」
「大丈夫ですよ。三ノ宮家の先祖が石に封じ込めましたから」
「へー。すごいじゃん」
雨がぽつりぽつりと降り出した。怪しげな曇り空からついに、大粒の雨粒がまばらに落ちてくる。
「ん…ぼうしょくまじん?」
どこかで聞いた事がある言葉だ。
(あれ…なんだっけ?)
忘れかけていた記憶が掘り起こされる。そうだ。
(あたしは、その人ならざる者に会ったんだ)
──私はかつて越久夜町の荒れ野で魔神をしていたのよ。不本意だけれども、暴食魔神なんて呼ばれていたわ。
──まあ、今はなんでもないような存在だけれどね。あなたが住んでいる町が懐かしい。終わってしまったのだから、辰美さんと出会えたのだけれど。
太虚で出会った女性はどうやら荒れ野の荒神だったみたいだ。必然性を感じながらも、強く吹き出した風にやられる。生ぬるさと冷たさを含む、危険な風だ。
「どうしよ。ゲリラ豪雨きそう」
「早めに見つけましょう」
「えっ。帰ろうよ?!」やる気満々の緑に辟易するも、止める事はできないと後を追う。
風に波打つ草原を一望し、途方に暮れた。
「あ。辰美さん、見つけました」
「早っ!どこ?」
早足にぬかるんだ地面を歩いていく彼女は、草藪の水面に浮かび上がる島を見つけたみたいだ。確かに異物がある。
辰美もそれを目指して歩き始める。
二人はやっとの事で円墳と思わしき塊にたどり着き、呆然とした。
「…これが、月世弥のお墓?」
崩れかけた、朽ちかけた小規模な円墳は草藪にまみれていた。─忘れ去られている。それもそうだ。
縄文時代に造られたのだから。
「石を積み上げられたスタイルなのですね…まさか、いとも簡単に発見できるとは」
デジタルカメラで写真を撮って、近づいた。この地域が手付かずだったのも功を奏したのかもしれない。ただ気味が悪い。
見つけて欲しかったようで。
「そうだね。でもさ、縄文時代に造られたのが残ってるなんてすごくない?」
すると緑は微妙な反応をした。
「この規模の、墳高が高めの円墳は古墳時代の後半に造られたはずです。縄文時代には、このような墓は造られていないのですから。…弥生時代から古墳時代前期には方形周溝墓という前身になるものがありますが…いや、辻褄が合いません」
「おじいさんはこれが月世弥のものだって、書いていたんでしょ?」
「けれども…豪族の古墳は山の中にあるんです。豪族がもし、巫女を言い伝えていても同じように作らせるはずです。この円墳だけ、不自然です…庶民の墓にしても…」
豪族─星守一族と天道一族の墓は山の中にあると、彼女は言う。
「どういう事よ?」
その時だった。
鮮烈な光と共に爆音が鳴り響く。太鼓を間近で聞いたような、爆発音のようなそれは空から降ってきた。
「ぎゃあああああああああ!」
かなり近い落雷に辰美は悲鳴をあげる。抱きつかれた緑もわずかにびっくりしている。
「辰美さん、しゃがんで」
「ああああ!」
「辰美さんっ!山裾に行ったらあぶないですよ!」
いきなり走り出した辰美に危機感を覚え追いかけた。
円墳に少しだけ調べたりしました。間違えていたらすいません。
雷の描写は、数週間前に家のすごい近くで落雷がありまして…怖い思いをしたのを反映しました(?)。




