山の女神と越久夜町の昔日 5
サラリと言い放つ婦人に二人は凍りついた。眼前にいる妙齢の婦人は確かにこの場にいて、微かに香水の匂いさえ漂ってくる。山の神にしてはあまりにも人であり、人界に馴染んでいた。
「山の神をご存じないのかしら。言い換えれば、町を形作っている時空の支配者よ」
「あ、あ、うん。山の女神は知ってる。春木さん、なんて事もないように言うから」
「そう。別に仰々しく宣言する必要もないもの」
素っ気ない返答にさらに唖然とするも、辰美は気を取り直した。
「えっと…」
「ああ、でも秘密にしてね。本来は私の正体を人間が知ってはならないのよ。辰美さんと小林さんだけの秘密よ」
「…どうして私も許されたのですか?辰美さんは…知っていそうですけれど…」
「えっ、何言ってんの?!」
緑は鉄仮面のように変化のない顔をキープしている。冗談なのか、本音なのか判別がつかない。
「私は小林さんのおじいさん─光路さんを知っているもの」
「知ってたの!」
「ええ、越久夜町の歴史や民俗などを熱心に調べていたわ。何度か会って話した事もあるし、私が山の神であるのも突き止めていた。それに町の魔法使いの連盟でもお会いしていたから」
「そんな…」愕然とした緑を他所に、彼女はまた言ってのける。
「そうね。込み入った話でもあるし、暑いし、車の中で少し休みましょうか。まだ時間もあるから、気にしないで」
「は、はい」
アイドリングしていた車に招かれて、乗せてもらう。二人は後部座席で気まずそうにしているが、山の女神である春木はお茶を飲んで気にもとめない。
「辰美さんには不思議と打ち明けてしまう何かがあるのよね。どこかでお会いしたかしら?遠い昔に…」
「い、いや、ないですっ」
夢の中で巫女と対面したけれど、辰美には幾千年の内容は持ち得ていなかった。二十代の少しの記憶と時間しかないのだ。
「もしかして神官の巫女の生まれ変わりかも」
神官の巫女。その言葉に必然性を感じる。
「神官の巫女って昔ムラにいたっていう…」
「そう、そこまで調べたの?さすがね。巫女は──彼女は私の特別な人だった。数少ない神の声を聞ける人間でもあったわ。優しくて、可愛げのある子だった…懐かしいわね」
春木から穏やかな気色がくみとれる。懐かしみ、楽しかった記憶を噛みしめているのだ。
「もう一度会いたい。昔のように、話がしたいの。心残りがあるから。…ああ、ごめんなさい。感傷に浸ってしまって」
「いえ、巫女は確かにいたのですね」
緑が祖父の手記の内容を確かめたがった。食いつき気味な彼女の目はぎらついている。
「ええ、確実にいたわ。確実に、たくさんの名もない人が存在していた。貴方の祖父も」
「…」
「…何万年も、私は生きてきた。人の時間に縛られてから─俗の空間に縛られて、神の力も弱まっている」
山の女神は諦めを含んだ声音で言う。
「辰美さんが越久夜町にやって来た事、何かが変わったのを私には…対応できるほどの神力がない。光路さんのように私も守りきれないかもしれない。先に謝っておくわ」
「待ってください。守りきれないとは?私は何も──」
「いいのよ。人間が知るべきものじゃない。緑さん、彼の二の舞になってはダメよ?良いわね?」
納得できないのか緑は押し黙る。それに何も口を出さずにいた春木の胸ポケットから着信音が鳴り響く。
「少し話してくるわね」
そう言うと外へ出ていく。「緑さん…。」
「はい…私は」言いかけて、彼女は口をつぐんでしまう。
「骨董屋まで送っていくわ。これから隣町へ向かうから、ついでに。」
「良いんですか?」
「ええ、じゃあ行きましょ。」
早々と戻ってくると、間髪入れずに発車しだした。あまり人の意見を聞かない人のようだ。
図書館から商店会からさして離れていないため、車だとすぐに着く。あれよあれよと人気のない骨董屋の前に停車した。
ついでにと電話番号と名刺を緑へ渡した春木は、何かあったらよろしくと、辰美へ言う。
「これからまた何か起こりそうな予感がするから」
二人は商店会に残され、しばし無言だった。蝉の合唱だけが町に響いている。辰美はちらりと緑を見やった。
「…辰美さんとまだ、町の事を調べたいです」
「うん」
「祖父が何を調べたかったのかを知りたい。なぜ死んでしまったのかも。…それには私がどうなろうと、死のうがどうなろうが」
「死ぬなんてやだよ。」
「辰美さん、これは私の──」
「緑さんは私を受け入れてくれた数少ない、大切な人なのに!死ぬなんてやだよ」
その言葉に緑は微かに固まり、まじまじとこちらを凝視してきた。気まずい空気になる。やらかした。
息が苦しくなり、立ちつくした。
「どうして私を大切な人だと言うのです。私はそんな人では」
心がズキリと傷んだ。否定されたみたいで神経が逆だった。咄嗟に緑の腕を掴み、握りしめた。
敬慕。偶像化──自分の中身が客観視されたような、気持ちの悪い感覚に見舞われ、頭がぐちゃぐちゃになる。
「嫌だよ、私を拒絶しないで…」か細い声で訴えるしかない、情けなさに歯噛みする。自分から離れてしまうのがとても怖くて、許せなかった。まるで子供みたいじゃないか。
「…辰美さん、落ち着きましょう。私も今、気持ちが平生ではないのです。お互い落ち着いて、お茶でも飲みましょう。」
「うん…」