山の女神と越久夜町の昔日 2
うっかり口を滑らせ、困りはてる。己の軽率さに恥じながらも視線を泳がせた。
「お願いします。教えてください」
「け、けど!秘密にした方がいいかな?!」
「確かに…私に話したら、伝播していきますね」
「でしょ!」
「しかし…」
好奇心にぎらついている店主を前にたじろぐも、堪忍して頷く。
「わ…分かったよ…ある人ならざる者から聞いたんだ」
その時代はある人々からしたら神世、あの世とこの世、神世と人界、神と人が近かった時代。人間は神々のありがたい言葉を聞き、従順に従っていた。そんな時代の越久夜町もまた、最高神を頂点にムラとしてでき始めていた──
巫女式神から聞いた神話もどきを覚えている限り、緑へ説明する。それを耳にして彼女はうんうんと興味深そうにしていた。越久夜町で起きたとされる昔の話を。
「なるほど。鬼神のくだりは手記で知りましたが…そんな出来事があったとされているのですね。けれど、それを得体の知れぬ"ある人ならざる者"から聞いたとなると信憑性が…」
「ま、まあ…そうだよねえ」
普通ならそう思うだろう。
「祖父の手記をもう一度見てみましょう。町の、その神話とやらが書いてあるかもしれないですし」
「おじいさん、前から不思議だったけどさ。なんでそんなに知れたんだろう?」
「分かりません。何か特殊な魔法で調べていた、とか」
「おじいさんも魔法が使えたの?」
緑は町で魔女と呼ばれ──事実魔法使いだったのを存じている。今はイヅナ使いだけれども彼女もまだ魔法を使えるかもしれないのだ。
辰美にとっては、高校三年生まで魔法などフィクションやファンタジーの世界だった。だが越久夜町に越してきて、星守の式神や三ノ宮、リネンが魔法やマジナイを使っているのを目撃している。この世界に神秘をまとう魔法は存在していた。
「町の連盟に加入していたくらいですから、魔法も使えたのでしょうね。でもこのような全てを見通せる魔法は…実在していません」
「…うーん。不思議だね」
部屋の奥へ案内され、書斎へ通される。
「では、書斎へ」
「私の家にある書斎は、祖父と母が集めてきた大切な文献や書物、知識の集大成なんです。本人たちはまだだと言うでしょうけれど」
ゴミやらが放置された廊下を歩きながら彼女は言う。足場に気をつけながら、緑を見やる。相変わらずの無表情で本心は伺えない。
「すごい数の本だったね」
「祖父が調べ始めてから、母も一緒になって文献や伝承を探しましてね。…生憎、母は途中で自殺してしまいましたが。二人は何かに向かって、必死でした。─私にとっては形見なんです。手記が見つかってから、その思いは強くなりました」
「そ、そっか」
「大切な書斎ですが…辰美さんなら、好きに調べても良いかな、とも…」
隣に辰美の知っている緑がそこにいる気がした。最初に会ったのは、あの緑だ。
最初の時空──元の世界で会った彼女はこちらの小林 緑より、自我があるような気がする。あの黒い瞳の下に強い意志や感情があり、町や、見水 衣舞たちへの思いがあった。自分を百鬼夜行から救ってくれた時、イズナ使いとして覚悟を決めた時。
ものすごく彼女は格好良かった。
「嬉しい!私…緑さんのために時空を──」
「時空?」
「あ、あはは!なんでもない!」
例の書斎は中庭にある。まだ越久夜町にもチラホラ残っている蔵の一つだ。
荒れ果てた中庭を歩き、書斎の扉を開け、二人は薄暗い室内に入る。ひんやりとした空気と、埃と酸化した紙の匂いがして辰美はわずかに緊張する。
「手記にはたくさんの事柄が書かれていました。最初は絵空事だと気にしていなかったのですが、今ならあれが本当に起きた出来事なのだと信じてしまいそうです」
古めかしい金庫の前に立つとダイヤルを回し、中から数冊の擦り切れた手記を取り出した。
「もし神話の出来事が書かれていたら、私は…この書斎を守らなければならない」
(前の時空の緑さんって……まさか)
「手記を見ましょう」