月世弥という巫女
誰かが走っている音がする。ひどく息を切らし、ざわめきから逃げている。幾人もの高揚した罵声が背後から聞こえ、彼女は振り返りながらとある山へ逃げようとしていた。
神が坐す越久夜間山へと。
『逃げなければ、あの方の元へ』
『──見つけたぞ!』
たくさんの手が乱雑に女性の衣や髪を掴み、彼女は悲鳴をあげた。
『裏切り者の巫女を──この女を焼き殺せ!』
『偽の神託を民に広め、惑わした悪魔だ!』
ムラの民たちが口々に罵詈雑言を放つ。女性は無理やり祭祀の場であったはずの川べりに連れていかれる。
『私は…民に尽くしたのに!!何故?!』
『どうして!』 手を伸ばす先には─幸せだった頃の光景が見えた。朗らかな昼の日差しの中にムラを支配し、守る女神がおり、神官の服をまとったその女性と何かを話していた。二人で楽しそうに会話している。他愛もない、穏やかな空気が流れている。
二度と戻らない幸せな時間だった。
もう、二度と。返ってはこない。
──どうして?どうして?ワタシはナニカ悪いことをしたノカ?
(これは…誰の記憶?)
辰美は没入していた思考や心を取り戻し、我に返る。夢にしてはあまりにも生々しく、残酷で後味が悪い。匂いや痛覚、感触。五感がまだ先程の出来事を記憶している。まるで誰かの記憶を追体験しているようだった。
「辰美さん、私を見つけて」
清らかな女性の声がした。その響きは一度耳にした気がする。あの、紫色の不思議な和装の──。
「私の名前はツ…ヨミ…月世弥。…裏切られ…惨殺された神官の…お飾り。─そしてこの地に縛り付けられ、ずっとさまよっている者」
崩れかけた顔面に過ぎる、含みのある微笑に背筋が凍る。まるで波長の合わないラジオ放送を感受しているみたいだ。
ちぐはぐな女性は一転して、鮮明になった。
「…辰美さん、私に会って」
そこには美しい長髪の女性が現れた。よく知る二十代後半の緑よりは歳上にみえる。焦げ茶の瞳には優しい光が宿り、穏やかな顔つきをしていた。
肩がけの麻布の上着や衣服は不思議な模様で彩られた…はるか昔の原始的な雰囲気を醸し出していた。まるで教科書や博物館でみる古代の衣服のようだ。
辰美は脳裏に再生された記憶にクラクラしながら、摩訶不思議な女性を見やる。
「アナタ…だれ?さっきの人とは違うの?」
「…私は…神の声を民に届ける者。私を山の女神に会わせて、そうしてこの魂を輪廻に戻して」
「えっと…」
月世弥と名乗った人物はわずかにこちらに歩み寄ってきた。なのに全く近づいてこない。まるでお互いの空間がズレているみたいであった。地続きの夢ではなく、異なる意識が無理やり接続されている─そう感じた。
「とある理由でこの魂は封じられてしまった。それを解いて欲しい…それには誰かに思い出してもらわなければならない。…私は忘れられているから」
「…まさか」
──私は巫覡をし、民を支えたが、それを良くないと思う者もいたのさ。例えば…元からムラを支えていた政の人々、その側近。神官ら。巫女。
鬼神が言っていた、ムラの巫女なのではないか?
「それには、辰美さん。貴方が必要」
「ど、どうして?私なんですかっ?」
「貴方は山の女神に近づける人間。ミーディアムの素質を持っている数少ない者だからだよ。それに魔法使いたちが手を出せないのも知っている」
「はあ…」
「山の女神に会いたい。それをずっと、望んできた…」
悲痛な顔で彼女は俯いた。その顏をやはりどこかで目にした事がある。
純粋な光を灯した瞳はこちらを切実に見つめてきた。
「お願い。私を見つけてほしい、そして山の女神ともう一度話を─」
おかしい。
「うわっ!」
視界が揺らめき、あまりの目眩に辰美は目を閉じる。ユラユラと平衡感覚がおぼつかなくなった。
「残念、時間みたい」
暗闇から月世弥の声がする。声が遠のいていき、やがて囁きに変わる。
「これは二人だけの秘密」
再び異なる気配を纏わせた声音が届く。先程の娘とは別人のような。
「──絶対に邪魔者どもに知らせてはいけないよ。タツミ」
聖なる微笑みが邪悪に歪んだ気がした。
辰美は目が覚め、体を起こしぐらぐらする頭を小突いた。
ふと、テーブルの上に置いてある土器の破片を見やった。骨董屋から買ったブローチに似た素焼きの破片だった。
それはつい最近の事だ。
いつものように『小林骨董店』で掃除をしている時だった。棚にあった変哲もないアクセサリーがカタリと落ちる。
素焼きで造られたブローチだった。
(うわ、何か念がこもってそ〜)
「緑さん。これ、落ちたよ」
「ああ。そこら辺に置いといてください」
「そこら辺って、売り物でしょ?」
「値打ちはあまりないんですよ。そこら辺の物は」
「はぁ…」
ブローチに似た破片をまじまじと眺め、辰美は触った。
(アチッ!)静電気のような衝撃が走り、指を引っ込める。冬場でもないのに。
もう一度拾おうとして、悲鳴をあげそうになった。
破片から血が湧き出て血溜まりを作っている。悲鳴を上げそうになり、口を押さえる。これは現実ではない。
幻だ。
「そんなに見つめて、気に入りましたか?あげますよ」
「へ?!え、あ、うん!」
緑はブローチを拾う。血溜まりはなく、そこにはただの床があるだけ。
ホッと安堵していると店主は辰美のポケットに入れた。
「あ、ありがとう。大切にする」
「ええ。別に…礼なんていりませんけど」
「いやいや、タダでもらえるなんてさ〜」
「タダほど高いものはない、と言いますがね…」
「怖い事言わないでよ!」
ブローチを眺めていたが、気味が悪くなりテーブルの隅においやった。




