第一章、正義の魔女 1
目の前で少女が泣いていた。
少女のぬいぐるみが切り裂かれている。腹から綿をこぼして両方の目玉が引き抜かれてみるも無残だ。
どこからか子供たちが少女へと小石を投げつける。
子供たちは口々に少女を非難する。
まじょめ。このまじょ。あくまのこ。おにごのシンシア。まじょのこ、シンシア。
俺はそれを眺めていた。
地面に揺蕩う黒髪が顔から腰のあたりまでを覆い隠しているので、少女の姿はまるで真っ黒い一つの影だ。
見覚えがある、少年が舞台に降り立った。
少年は子供たちを突き飛ばすと少女と子供の間に割って入った。
やめろ、シンシアをいじめるな
少年は叫んだ。
見えない子供たちを振り払って、少女を立たせてやる。
おびえた顔の少女は少年にすがるようにしている。
シンシアはなにもわるいことをしていない
でも、まじょだ。
姿の見えない子供の声がする。
まじょはひとをまどわすわるいやつだ
シンシアはまじょにえらばれた、まじょのこだ
このまちからでていけまじょめ
うすきみわるい、けがれたおんな
しんでしまえ
きえろ
子供の声に交じって大人の声が響く。
うるさい、シンシアはすごくいいこだ わるいまじょになんてなるわけがない
少年は少女を背に隠すと怒鳴るようにいった。
少女はおびえたのか、がたがたと震えながら少年の手を握る。その思いにこたえるように少年はひたすらに強く握り返した。
ぼくは騎士になるから。きみをまもる騎士になるからね。だから、シンシア。心配しないで。
少年は少女の手を握りしめて、やさしく諭すように言う。
ぼくがきみをまもる騎士になってあげる。だから、きみはここにいていいんだ。
…
……
………
「結界内の天気はいつもこうなのか」
「そっすねー、まあ師匠、雨の魔女なので」
雨除けの外套からソフィは笑顔をのぞかせる。
ソフィの持つランタンが夜の森を浮かび上がせ、その明かりに揺らぐ影はゴッデス山脈からの強風を受け生き物のように絶えず変化していく。
ぼたぼたと葉の隙間からしずくがぬかるんだ土の上に滴る。森に入ってから唐突に降り始めた雨と風は勢いを増すばかりであった。
「もうすこし進めば結界の影響が強くなって風はやみます」
鉱物の街、ロクスウェアを発ったのが昼ごろ。四時間ほど歩きっぱなしだが、このソフィという女には疲れが存在しないらしい。
ぬかるみをすいすいと歩くソフィに比べ、軽装とはいえ騎士団正装備に身を包んだローガン=マルコスは遅れがちであった。土砂降りの雨が降る夜の森で案内人に遅れた騎士が遭難など笑い話どころではない。
金属製のブーツにプレートメイルを羽織り、ガントレットまで装備した自分が恨めしい。というかこのソフィという女があまりにも軽装すぎるのだ。外套の下は胸を覆うハチュウ系モンスターの素材からつくられたハードレザーと、圧倒的な短さでもはや穿いているだけというのが一般的な感想であろう腰巻とレザーのパンツ。そのほかの装備は一切身に着けていない。いわばアマゾネスのような恰好である。
それでいて彼女自身の体格といえば非常に女性らしいというか、肉質的な曲線を持っている。
ランタンの明かりを頼りにする夜の森では、必然的に彼女を視界に入れざるを得ないので余計に困る。
「どうかされましたか?」
上目使いで顔を覗き込まれてドキリとした。白というよりは銀に近い、柔らかそうな髪が揺れてそれをソフィはやさしくかき上げる。
あわてて視線をそらしてみるけれど、月明かりもない森の闇は十歩先も見えない。木の根に引っかかってすっころびそうになる。
「お疲れでしょうか?」
「いや、ああ、少し」
ようやく彼女は心配そうにして歩くペースを落としてくれた。隣に並んでくれれば彼女の尻に目を奪われるようなことはなくなるだろう。
「雨は苦手ですか」
ぽつりとソフィはつぶやいた。
「…僕の出身地では雨はほとんど降らなかったからね、その代り、守護魔女がいてくれた。水の調達は彼女だよりだった」
「あーなるほど。お師匠もそんなこと言ってました。地脈に詳しい魔女だったとか。うらやましいですよ」
「うらやましい?」
気が付くと今度は彼女と肘が触れそうなほど近づいていた。視線誘導から解放され、ほっと胸をなでおろしたのもつかの間、笑顔の半裸美女に寄り添われてどうにも落ち着かない。
「師匠は地に縛られない 放浪の魔女 ですからね。固定の依頼があるわけでもなく、大陸をぶらぶらと根無し草。一番ひどかったのは西側を旅してた時です、あのときは依頼もなく、食べるものを買うお金がなくて死ぬかと…」
魔女も大変そうだ。
「俗世からの干渉を絶ち、朝露を飲み霧を喰う。魔女のイメージってそんな風だったけど実際そうでもないんだな…」
「あは、そういう魔女もいますけどね。うちの先生は唐突に肉が食べたいとか、魚が食べたいとか、言い出すんですよ。備蓄なんてほとんどしない癖に…。野菜嫌いかと思えば次の日には『肉はいらない、ニンジンが食べたい』とか言い出して…まったく…、おかげで買い物に行かされることが多くて…本当『子供』なんですよねえ」
ソフィの心労は相当なものだろうとうかがえた。
昔、子供の頃、彼女の家で食事したときのことが思いだされる。あのとき彼女は夕餉に出された魚のスープを頑として口にしなかった。彼女の好物だというスープをいらないと突っぱね、鹿肉の塩焼きが食べたいと言って聞かなかったのである。しまいには説得していた母親が折れて鹿肉を探しに行ったのだ。自分はその時、口を開けてぽかんとしていることしかできなかった。あの時の彼女はまさに暴君というしかなかった。
「子供か…」
その言葉が魔女にとって真に意味する事象をローガンは知っていた。
「そういえば、ソフィはどこの生まれなんだ?どんなところだった?」
「雨の降らない日が一週間続いて、その間は地面がひび割れるくらい日が照るんですよ。そうして一日土砂降りの日があってそれからまた日照りになります。変なところでしょ?」
「ふざけた天気だ」
クソ真面目な返事が面白かったのか、ローガンさんは面白い人ですねェとソフィはくすくすと笑った。表情がころころ変わる娘だな、ローガンは口に出さずにつぶやいた。
「まあ、かんかんに照りつける太陽も、忘れたころに降り注ぐ雨も私は好きでしたよ…っと」
ソフィが急に立ち止まった。
森にさえぎられていた視界が開けて広場のような空間に出る。ちぎれた雲の間から月明かりが垂れて、濡れた葉に反射した光がうっすらと輝いている。そこには小さな小屋があった。
ランタンの明かりを消し、外套を脱ぎさると彼女は後ろに手を組んでローガンへと向き直った。
「ようこそ、雨の魔女の住処へ」
偉大で暴虐で高慢といわれる、魔女の巣窟はつつましい小さな家だった。
ついにたどり着いたのであるかの者のところへ。
空には星は出ていない。月だけが唯一の支配者みたいだった。
「雨は嫌いだ」
ローガンはソフィに聞こえないようにぽつりと、ようやく降りやんだ雨への憎悪を、どうしてもこらえきれなかった言葉をひところつぶやいた。