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放課後の廊下に響くのは、吹奏楽部の奏でる楽器の音、運動場で走る野球部のコーチの怒号、チアの掛け声。まとまりのない音に耳を傾けながら、旭拓真は購買部で買ったばかりのアンパンにかぶりついた。夕焼け色に染まる校舎を進む足取りは軽い。
昨日買ったばかりのテレビゲームが家で待っている。もう何年も続いている人気シリーズの新作だ。インターネットで予約して、発売日である昨日のうちに手に入れた。まだ初めのダンジョンをクリアしただけだったが、続きが気になって仕方がなかった。授業中も内容などひとつも頭に入ってこない。ゲームの続きばかりを想像して過ごした。
「旭君!」
オレンジ色の廊下に、自分のものではない長い影がひとつ伸びる。一刻も早く帰りたい拓真は、呼び止められて渋々振り返った。長い前髪が目にかかる。
拓真のことを呼んだ人物は、小学生の頃からの顔なじみだった。黒々とした髪を、両耳の下でしっかりとくくって胸元まで垂らしている。
「旭君ってなにか部活に入ってたっけ」
髪と同じく黒くて大きい目でしっかりと拓真を見つめながら、距離を縮める。拓真はアンパンから口を離して、後ずさった。
「入ってないけど……」
じゃあ、と両手に抱えた紙切れを一枚拓真に差し出す。拓真はその紙を一瞥して、「ダサ」とこぼした。
「は?」
ついさっきまで明るく接してきていた彼女の声にドスがきく。しまったと思った時にはもう遅かった。拓真の体は冷たい瞳で射抜かれた。
「これ、私がデザインしたんだけど」
「わ……、悪かったよ。ダサいっていうか、その、斬新だな」
言いかえると彼女の怒りもおさまり、拓真はほっと胸をなでおろした。彼女はその地味めな外見に似合わず沸点が異様に低く、パワフルだ。
「あ、そうだ! チラシのデザインにケチつけられて怒ってる場合じゃなかった! 旭君、部活に入ってないんなら、コーラス部に入らない?」
ぐいぐいとビラを拓真の胸に押しつけながら、「嫌とは言わせない」と目で語る。
「に、西谷……、俺、今日は帰んないと……」
チラシを押しつける手は今やグーになっており、パンチを繰り出されている。
「ああ、べつに今すぐに入部しろって言うんじゃないの」
西谷が急にジャブをやめる。
「今日はチラシもらってくれるだけでオッケー。返事は今度聞かせてくれたらいいよ」
じゃあね、と言いたいことだけ言って西谷は廊下を軽やかに走って消えていった。
食べかけのアンパンと押しつけられた大量のビラを両手に抱えて、拓真は校舎を後にした。
*
カチリ、とゲームのスタートボタンを押すと、おなじみのオープニング曲が流れる。
拓真は帰宅してすぐ、私服に着替える間も惜しんでゲームにいそしんだ。同級生に無理矢理渡されたチラシも、今日出された課題も放置して、ただひたすらにダンジョンを進んでいく。武器も防具も、その時点で最高のものを装備していないと気が済まないから、進みが遅い。
「ご飯できたわよ」
階段の下から母の声が聞こえると、口だけで返事をする。コントローラーを握りしめた手にはじわりと汗が滲んでいる。
「拓真、ご飯」
二回目の声かけに、拓真は名残惜しげにコントローラーを離す。
「今日はあんたの好きな野菜炒めよ」
「ん……」
母の言葉に曖昧な答えを返して、拓真は食卓についた。
最近、母と話すことがむずがゆくなっていた。元より引っ込み思案で、どちらかといえば無口な拓真は、誰かと話す機会は多くなかった。しかし、最近はそれに輪をかけて両親との会話を避けるようになった。
「最近学校はどう?」
味噌汁をよそいながら、母が尋ねる。それにも拓真はぼそぼそと言葉になっていない言葉をこぼしただけだった。
高校に入学して一ヶ月。同じ中学校から今通っている高校を受験した人数は少なくない。顔見知りもたくさんいる。
拓真の友人である杉浦正人も、同じ東高校に進学している。クラスが分かれてしまったために、以前ほど交流することはなくなった。
しかし、一番の理由は、高校に入って正人に新しい友人とガールフレンドができたことだ。それは仕方のないことだと拓真自身も思っていた。それでも、数少ない友人を、高校の奴らに取られたようで心中は穏やかではなかった。
「正人君、サッカー部に入ったって正人君のお母さんから聞いたよ」
「それが?」
よそってもらった味噌汁を啜りながら、拓真は無愛想に答えた。
「あんたもサッカーとかしないの?」
「うっせぇな。正人と一緒にすんなよ」
拓真がさらに不機嫌さを滲ませて言うと、母は黙りこんでしまった。こんこんと時間だけが流れていく。
父は最近仕事が定時であがれないのか、夕飯は母と拓真の二人でとっていた。
重苦しい空気のなかの食事を早々に済ませて、拓真はやりかけのゲームを迎えにニ階への階段を駆け上った。
「ゲームばかりやってないで、宿題もちゃんとやりなさいよ」
階段の下から母の声が飛んでくる。知ったことかと胸中で返しながら、今日の帰り際に持たされたチラシの束をゴミ箱に突っ込む。
拓真はゴミ箱からはみ出した、淡いピンクの用紙に顔のついた音符が描かれた奇妙なチラシを睨みつけて、ゲームのスイッチをつけた。