case3# バスボム -2/8
バスボム。
バスタブに投入すればぶくぶく泡を吹いて湯船をたちまちパステルカラーに変えるお風呂の友。それが昨晩観た次回上映作品のタイトルだった。
そこから連想される物語があるならメルヘンチック、もしくはファンタジックな内容だろう。だが実際の作品はR指定。監督は作品を発表するたび話題を呼ぶ巨匠、スタンリー・ブラックで、主演はこれがデビュー作となる謎の新人、ナタリー・ポリトゥワという、芸術と謳うからこそモザイクなしのめっぽう過激な作品だった。
真夜中、知った顔と並んで見る映画でないことだけは間違いなく、明かりの灯ったシアターでひたすら百々は乾いた笑いを放つこととなっていたのである。
「あ、あは。こんな映画だったんだぁ」
前回同様、田所はそんな百々の隣にいた。
「ポスター、道に貼れるのか」
言う目は、手元のチラシを吟味している。百々も急ぎ、わいせつ物陳列の罪に問われないようタイトルを配置したそれへ視線を落とした。
だがこの映画、彩る光がとにかく美しい。その中を自身の思うままに跳ねまわる主人公は妖精のようで、おかげで時代を先行く異端者となるシナリオには始終、ハラハラし通しだった。果てに周囲との溝は深まり生死を問うまで追い詰められたなら、散りばめられた美しい映像は主人公の純粋さを際立たせると、自由と解放、偏見といわれなき集団からの圧力を意識せずにはおれなくなってくる。気づけば上映も終盤、どっぷり彼女へ感情移入してしまうあたりなど、己が価値観の棚卸さえ迫られる感動作だった。
「あれだな」
田所が口を開く。
「え、ど、どれっ」
「タイトルがまだこれで助かった」
「ああ、タイトルか」
じゃなきゃ何なんだ。
「あれ、どうしました」
入ってきたのは例のごとく水谷である。
「今日は鑑賞後の会話が弾まないみたいですねぇ。なかなかの名作だったじゃないですか」
一言多いが事実なのだから仕方ないだろう。
「はいはい、じゃ、預かりますよ」
メモを回収すると、ペラペラめくって内容へ目を通す。最後にぽん、と手のひらへ打ち付けた。
「ハイ、お疲れ様。帰り道にでもちゃんと話し合っておいてくださいね。ただのポルノ映画だと宣伝されちゃ困りますから」
それは分かっているのだが、なかなか目に焼きついたものがそうはさせてくれそうにない。
「セ、セクハラだ」
きっとセクションCTのことを漏らさないからに違いない。
確信は拭えず、抱えて百々は帰り支度をすませる。帰り道、ヘルメットを抱えた田所と並んで歩いた。
「ああ、上映はじまっちゃったらあの映画、最低でも二週間は流れるんだぁ。辛いなぁ」
「まぁ、それが飯の種だからな」
「けっこうみんなには見に来てって宣伝してんだよ。けどこれじゃ言えないしさ。選ぶのは支配人だって分かってるけど、うちは普通の映画館じゃなかったっけ」
『20世紀CNEMA』を出てすぐ、表通りを駅側へ渡る。通りに面して建つ雑居ビルとビルとの間へ入れば、すぐの所に自動販売機が明々と光を放つガレージの入り口は見えた。その『20世紀CINEMA』専用スペースの片隅には、ずいぶん無理をして買ったという田所のスポーツ二輪は立てかけられている。
「けど良いことは良い映画だと思うな。オスカー初のR指定候補だって話だし。支配人の読みは間違ってないと思うな。ただ……」
バイクへ歩み寄った田所がフルフェイスのヘルメットへ頭をねじ込む。いでたちは宇宙にでも行きそうで、そんな田所へと百々は眉をひそめた。
「ただ、なに」
「それで賞でも取ったりしたら凱旋上映とかあるかも、ってこと」
「ええっ」
のけぞり握り合わせた手で放つのは、ありったけの呪いだ。
「当たるな。当たるな。当たるなぁっ」
「それ、営業妨害」
投げて田所はバイクにまたがる。
「だって主人公が、ぁ……」
言いかけるが、その先は不意に飛び出したあくびに遮られていた。
「ぁふ。今日こそ寝よ」
バイクへ挿したキーをひねりかけた田所の手が、止まる。握りなおすと改めひねった。すくい上げるように、スタンドもまた足で跳ね上げる。軽く身震いしてバイクは熱いガスを吐き出していた。
「お前だって、そうも言えないんじゃないの?」
「ん?」
不意にこぼした田所に、聞き違えたようで百々は目尻に浮かんだ涙を拭うと首を突き出す。
「……今、俺さ」
言う田所はそこでアクセルをふかせていた。目はそのたびに振り上がるタコメーターをじっと見ている。
「映写、教えてもらってるんだよな。昼間はカウンターがあるし。朝、早い時間帯に。今日も同じ」
「えっ。それってスゴイじゃん」
そう、「20世紀CINEMA」専属の映写係、松川が一手に扱うフィルムは、肝心要の大事な商品だ。触れることは水谷が認めた者しか許されない。
「じゃ、今日、遅番だけじゃなくて中抜けシフトだったんだ」
お疲れ様。
百々は頭を下げる。
「お前さ」
脳天へぶしつけと、言葉は投げつけられていた。
「昨日の朝、駅前で車から降りてたろ」
響きに百々は、おずおず顔を上げてゆく。
「俺、バイクで前、通ったんだよ。送ってやるっていったのに断ったのは、そういうことだったんだよな」
言う田所をまじまじ見つめた。
「運転してたの、ストーカー騒ぎの時の男だろ」
タコメーターから逸らされた田所の目と目はそこで合う。
「あれだけの騒ぎ、あんまり話さないからおかしいな、とは思ってたんだ」
その通り。春山の件は居合わせたそれぞれへ百々目当てのストーカーだったと説明されていた。そんなウソでさえ蒸し返さなかったのは、蒸し返したところで言えない事だらけであったし、言えないなら早く忘れてもらいたかったからに他ならない。
「知って驚いた。やっとひと月、経ったくらいの話だしな」
だが続ける田所は明らかに様子が変だった。そもそもである。百々には田所が何に驚いているのかすら分からなかった。おかげで瞬きは増え、飽和したところでようやく像のピントは合う。光景に、百々こそ声を上ずらせた。そう、田所が言わんとしているのは「男の車で朝帰り」だ。
「俺も馬鹿だからさ、間抜けた後輩が気になって就職の話、蹴って残って、映写までやる気になってさ」
だというのに田所は止まらない。
「それはそれでいいんだ。何も言わなかったのは俺だし」
きっと今、地球は全力で逆回転していた。
「けど俺、わりかし古いみたいで。映画じゃないなら正直、お前にがっかりした」
打ち消して正転中とバイクのライトは灯される。灯した手で田所は、ヘルメットのサンバイザーをカシャリと下ろしてみせた。そうして派手に吹かせたエンジンは二度。
「じゃな、気をつけて帰れよ」
放されたブレーキにタイヤが空回る。白煙は吹き上がり、ひきずりバイクはガレージを飛び出していった。
「ちょ」
追いかけたのは、せめてその一言だけでも聞いてもらいたかったからだ。
「ちょっとタドコロ、それ……」
「ちがーうっ!」
叫んでいた。
大声に弾かれたレフが隣で振り返る。怪訝を越えたいかつい視線は明らかな警戒モードだ。解くことなく、懸命と文字を書きなおす百々の手元をのぞきこんだ。
「字を間違えたくらいで叫ぶな。驚く」
「そうですね。これじゃ検定会場にもいられないもん」
なにしろ悪い事など、後ろめたいことなどしていなかった。むしろあの夜は悪党と闘っていたのであ。だからといって対テロ組織に加わっているなどと、あの朝に至ってはテロリストを捕まえるために夜っぴいて工事現場でクレーンをぶっ倒し、挙句、テログループが明日にも重要なプロパガンダを公表するかもしれないくだりを知ったのだ、とは言えはしなかった。そもそも口外することは許されていなかったし、加えて信じてもらえるよう説明できる自信こそ百々にはなかった。
幸いにも次に田所と同じシフトへ入るまでまだ数日ある。動揺の始末をつけるにはギリギリの、それは期間だといえた。だが、これから田所へどんな顔を向ければいいのか。それが全く分からない。
「そのうえ反省文って」
ついぞ独り言はもれていた。
「あたしは……」
その口へかませる栓があれば欲しいところだが、ないのだから前後なき咆哮は再び放たれる。
「悪いことなんてして、なぁーいっ!」
と、本を閉じる音は隣から聞こえていた。
「……一度、休め」
下ろしたまぶたでレフが諭す。
部屋のドアはそのとき開いた。
「喜んで、ここでの仕事は一旦保留よ。今すぐ高速に乗って」
ヘッドセットを装着した曽我だ。放つや否やレフめがけ、携えていたホルスターごと銃を投げる。
「高速?」
車のキーもおっつけ放物線を描いた。
「詳細は移動中に」
それも宙からむしり取ってレフは、ホルスターから抜いた銃の動作を確かめる。
「それって SO WHAT ですか」
百々も咄嗟に身を乗り出した。
「ここはそれ以外では動きません」
「恩に着る」
上着でも羽織るような具合だ。答えた曽我の前ででレフがホルスターを背負い込む。
「わたしはオフィスで遊んでいる人員がいることを進言したまでです。判断はチーフが」
立ち上がればドアまでひとまたぎもなかった。曽我の傍らをすり抜けると部屋から出てゆく。
「あっ、自分だけズルいっ」
見逃せやしないと百々もまた、掴み上げたトートバッグを振り回した。
「いえ百々さんは……」
頭数に入っていない。言いかけた曽我の脇を脱兎のごとくくぐり抜ける。
追いかけ曽我が通路へ出た頃にはもう、レフと共にエレベータの中にいた。
どうしたものか。
思案して曽我はしばし空を睨む。
「ま、いっか」
吐き出しマイクを口元へ引き寄せた。
「聞こえてる? 春山の仕掛けがまだ残っていたわ」
テーブルには書きかけのレポートと、漢字検定の問題集が残されている。ドアを曽我は後ろ手に閉めた。




