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今回は、優しさって何だろう? という事を考える話の前編になります。
マリアンの修学旅行における、大浴場での入浴問題は意外なことにあっさりと決着が付いた。
指定された日に学園に向かい、応接室で学園長と小学部長にマリアンが話した内容通りの事情の説明を受けた後、三十代中頃の女性が入室してきた。
「西園寺さんのお母さん、こんにちは」
とマリアンがすぐに挨拶したので、件の西園寺絵里香の母親だと言うことが部長の紹介前に知れたのだが、部長の方から再度紹介されると、
「今回は、ご迷惑をおかけしました」と彼女は深々と頭を下げた。
子供とは云え、男女間の性の問題なので、女子生徒の母親側から抗議の一つもあるだろうと考えていた巧は、まずは一つの問題が片付いたことを知って心の中で安堵の溜息を吐く。
巧は、こちらは気にしていないと云うことと、”今後はマリアンにも自分の意見をはっきり言えるように教育します”と言葉を返し、『お互い様です』という雰囲気を作って和解した。
どちらか一方が悪いという形にして『痼り』を残すのは良くないのだ。
こうして和解が成ると、西園寺は急に恥ずかしそうに、しかし言わずには居られなかったであろう事を吐きだした。
「いえね。柊さんには申し訳ないんですけど娘の気持ちも分かっちゃうんですよ。
だってねぇ、私だって例え男の子だとしても、子供の頃に同級生にこんな綺麗な子がいたら、『男に裸を見せるなんてとんでもない』とか思っちゃったかも」
と言って笑う。
親子だなぁ、と苦笑いの巧をよそに彼女は話し続けた。
「あ、今回のような件は起こさせないように、きつく言っておきましたが、何しろ私の娘ですから、万が一のことがあった場合、加害者は間違いなくこちらだと思います」
『万が一』とは何かを想像するだに恐ろしい巧であったが、マリアンはきょとんとしている。
学園長が西園寺に「冗談でもその様な話はご勘弁を」、と軽く諫めたが会話は概ね和やかに進んだ。
さて、入浴自体の件に入ったのだが、学園側は「個室」を強制しているわけではなかったので、マリアンの希望通り他の生徒と同じ扱いにして貰いたいと希望を伝えたところ、職員会議の前後に休んでいた男性教諭が既に『個室案』に対して反対を唱えており、白紙に戻った状態だという。
彼の言葉に依れば、
「せっかくの修学旅行である。確かに『修学』という言葉通り、まずは見聞を広めることが重要ではあるが、子どもたちにとっては『友達と寝食を共にする』と言うことが何よりの『学び』ではないのか?
入浴に関しては男子生徒、女子生徒に関わらず不埒な行為に及ばないようにきちんと対応策を考えればいい。それが我々の仕事だ。
何より、これだけ騒ぎになったのだから、逆にマリアン君の安全は保証されたようなものだ。
女子生徒達もきつく指導されてとっくに頭も冷えている」
と理路整然とまくし立てたのだそうだ。
挙げ句は、入浴監督を受け持つとも言ってくれたそうで、巧の言うことは何もなくなってしまっていた。
そう云う訳で、マリアンの入浴に関しては彼の希望通り、「みんなといっしょに」で片が付いたのだ。
なお、当の修学旅行中に「風呂でのぼせて鼻血が出た」と訴える男子生徒が一クラスだけから連日で出たことを巧は知らないままとなった。
問題を片付けて家に戻ると、杏が出迎えた。
姉の杏は今年二七歳になる。巧に似ず、顔は悪くない。
いや、控えめに言っても美女の部類に入る。
美形の父親と違い巧は平凡な母親似だった
家事は一通り出来る上にドイツ語の翻訳技能という仕事も持っている為、様々な男達から言い寄られているようなのだが、
「マリアンと一緒に生活できる人でないとね」
と品定めの真っ最中である。
「マリアンは俺が引き取って宿舎から出るからさっさと嫁に行け」
と巧は言うのだが全く聞く耳を持たない。
要は姉弟でその弟を取り合っている状態なのだ。
「で、結局どうなったの」
二日前に急に帰ってきた巧を訝しんだが、久々に休みが取れたという一言で誤魔化しておいて、昨晩初めて事の次第を話した。
自分も連れて行け、と騒いだが、今回は「男の子」に係わる問題だからプライバシーを尊重しなさい、という一言で引き留めた。
結果をそわそわして待っていたようだ。
「無事完了。何の問題もなく、男子友人と大浴場に入れるよ」
巧がそう答えると、杏は露骨に不満げな顔をして来た。
「なんで?なんでよ!マリアンは女湯が似合うでしょ、って言うか女湯でしょ?なんで男に裸見せないといけないの?」
馬鹿げて真面目な顔で詰め寄って来る。
どうやらマリアンが、杏を騙してまで巧を訪ねた判断は間違っていなかったらしい。
本人は「おかえり」と杏に抱きしめられながら、大きな溜息を吐いていた。
こんな事なら軍隊なんか入るんじゃなかったなぁ。と思うこともあるが、軍に入ったのはマリアンの希望でもあった。
そう思うと、巧はこの三年間のことを思い出していた 三年前から昨日までのことをほんの今過ぎた時間のように思い出せる。
濃密な三年間だったのだ。
三年前、父も母もまだ生きていた頃のことである。
当時、計画が発表されたばかりのASの存在を雑誌で知ったマリアンが就職で悩んでいた巧に向かって、意図せずにではあろうが、
「おにいちゃんが、こんなのに乗ってたらかっこいいんだろうね」
と何気なく言ったのである。
それから、ASの完成予想図の載ったページを開いて巧に向けるとにっこり笑った。
不意打ちだったので、その笑顔にノックダウンされそうになったが辛うじて踏ん張る。
毎日抱きしめている巧ですらこうなのだから、他人はたまったものではあるまい、と優越感に浸りつつも平静を装い、
「これ好きか?」と巧が訊くと、少しの間の沈黙があって、
「ぼく、女の子みたいだってよく言われるから、カラテとかやりたいけど、そういうこと言うと、みんなが怒るよね?」
と、巧の問いに答える代わりに訊きかえして来た。
「うん」
巧は頷くしか無い。
当たり前である。当時、小学二年生のマリアンが空手をするなど想像できなかった上に、何より暴力の嫌いなエルフリーデがショックで倒れてしまうだろうと思った。
マリアンは体が細すぎる。
鍛えるのはもう少し大きくなってからでも良いだろうというのが、家族の総意だったのだ。
「だ、だからね。これだったら強そうだけど、ぼくがのっても、だれも怒らないんじゃないかな、と、おもうんだけど……
おにいちゃん、これ『うんてん』できる? できたらのせてくれない?」
マリアンが遠慮がちに発したのは、巧の人生を決める言葉だった。
マリアンは巧にとても懐いてくれている。父親が捻くれそうになる程だ。
弟が純粋に可愛いと言うこともあるが、新婚の両親二人が互いだけの時間を持てるように出来るだけマリアンと一緒に過ごしたのだから当然である。
大学にも連れて行きサークルにも一緒に出入りして、いつの間にかマリアンは大学のマスコットにすらなっていた。
小学校に上がってからは流石にそうはいかなくなったが、三~五歳の刷り込み時期をエルフリーデに及ばないまでもマリアンは巧と共に過ごしたのである。
そんなマリアンが期待に満ちた目で自分を見ているとなれば、巧は後先を考えなかった。
巧自身もさほど筋力のある方ではない、細身でケンカすらしたこともない。
どちらかというといじめられっ子の部類に入る方だったであろう。
軍隊など恐ろしくて、仕事として考えたこともなかった。
だが、巧の中の「マリアン命」機構に点火がなされた。
自分を鍛える。そしてマリアンを守る事の出来る尊敬される兄になる。
何よりASの「運転手」になってマリアンを乗せてやらなくてはいけない。
非常に短絡的な動機で彼の進路は決定した。軍もよくこの男を採用したものである。
入営から半年間の二等兵としての訓練期間はさておき、一等兵になってからは、余程長期の演習でもない限り、彼は週末には必ず実家に帰ってマリアンと過ごした。
宿舎に戻る日はマリアンは寂しがったが、
「おにいちゃん。『えーえすのうんてんしゅさん』になるために頑張ってくるから、また来週な!」
と巧が言えば、笑顔で送り出してくれた。
何事もなく過ぎるはずだった毎日の、なにが悪かったというのだろうか……。
彼が入営して一年を過ぎた頃、その悲劇は起きた。
両親が死んだ。
マリアンが四年生に上がろうかという春先のことであった。
今時珍しい飲酒運転のトラックに乗用車は側面から突っ込まれた。
事故防御の為のエアバック等、各種のバリアは全くの無力だった。
両親の乗った車を前に引っかけたまま、トラックはビルの壁に激突した。
時速百二十キロを超える速度で突っ込んできた十トンのトラックに挟まれた凄まじい衝撃。
両親は意識する間もなく死んだのだろう。
苦しまなかったであろう事ぐらいしか慰めにならなかった。
人は死んだ時に初めてその価値が判るという。
エルフリーデは本国に身寄りがないと聞いていた為、チェコから訪れる人こそいなかったが、地域の人々は彼女の人柄を偲び、一人の元外国人に対するものとは思えない程に、人が集まった。マリアンの同級生の両親は元より、学校関係者、近隣の人々、商店街のパートのおばちゃんに至るまで手をあわせに来た。
父に対しては、年配・若手の会社関係者のみならず、町中の外国人まで多数参列してくれた。
商社マンである父親は発展途上国に出張した際、出会った若い技術者達に、
「日本に来たら、出来る範囲ででも手助けしよう」
と約束し、会社に関係あるなしにして、それを律儀に守っていたのだ。
遺体の損傷が激しいため、決して開けることの出来ない父母の棺に取り付き泣き続けるマリアンの姿に声も出せず胸を痛めるだけしかできない様々な肌の色の人たちが、彼と彼女との永遠の別れを惜しんだ一日が過ぎた。
納骨までを終えてしばらくの弔休の間、巧は軍を辞めることを考えた。
マリアンを一人にしておけない、と感じたからだ。
正確には杏が両親とマリアンと同居していた為、マリアンが一人になると言うことはない。
しかし、それでもその時はマリアンを置いて軍に戻る気持ちにはなれなかった。
そのことを杏に告げると、
「生活は大丈夫だから無職一人ぐらい養えるわよ。家族三人でひっそり暮らすのも良いかもね」
と力なく笑った。
辛いことがあったとしても、こんなに弱々しい笑い方をする姉だっただろうか。
家に戻ろう。杏を、姉を、弟を守らなくてはならない。
そう考えた。
一等兵が一人辞めたところで、分隊にそれほど迷惑も掛けるまい。
決めるなら早いほうが良い。
辞職願を書く前に父母に報告をしようと考え、巧は仏壇に向かう。
ふと、仏壇の前棚に置かれている封筒が目に入った。
弔問客代表の弔辞が書かれた封筒である。
ひとつは父の会社の上司であり親友である広田氏から、そして、もうひとつは母エルフリーデと町内で最も仲の良かった市ノ瀬さんという若い上品な女性からのものだった。
父と母が、どのような人物と評されていたのか。
葬儀中は全く耳に入らなかった言葉を確かめたくなり弔辞を読み進めた。
読み進めていく巧の顔色がみるみる変わっていく。驚くような泣き出しそうな、そして不安ながらも何かを決意するような顔になる。
ひとつの弔辞を読み終わるがそれでもまだ不安の色は消えない。
次の弔辞を読み進める。先に読んだものはエルフリーデ宛であり、今度は父宛のものだ。
黙々と読み進める。
そして読み終わった時、彼の顔立ちは変わっていた。
二三歳など子供だったのだ。
彼は姉共々、悲しみに押しつぶされ道を間違えるところであった。
父から何を学んできた。母達から何を受け取ってきた。
側で見る人がもし居たならば、その時の巧が自分に対する怒りと、そして、今度は間違えない。
という強い決意を表した顔立ちに変わっていたことがはっきりと見て取れただろう。
『立ち直らなくちゃならない。俺も杏も、そして時間は掛かるだろがマリアンも』
彼はそう決意していた。
家族の絆、人の命、これが前半のキーワードになります。
今回のサブタイトルは、大変迷いました。
困っていたところ、本棚にある広瀬正先生の「マイナス・ゼロ」が目に入り、そこから、ヒントを得ました。
さて、家族2人を失って柊家は5-2=0になってしまうのか?
な~んてね。 もう2年後の描写終わってますしお寿司。




