4:月は無節操な腐の女王
あ、今回は女の子は怖いの話です。
ルナティックって「狂気」って意味だそうですね。
先程、電子タブレットによって制圧完了されたはずの案内嬢がほとんど走るように早足で近付いてきた。
頭には包帯を巻き、元は純白だったであろうが今は一部赤く染まったハンカチで鼻を覆っている上、男ならつい目を向けてしまいそうな豊かな胸元にまでどす黒いシミが出来ている。
池間中尉の前に立つと、
「桜田美月、一等兵であります。現在会計課で給与事務も担当しております。
今のお話の件ですが、ワタクシも歓談に交えて頂きたく、お願いいたします」
と敬礼しながら息巻いた。
また、ややこしいのが(戻って)来た。と分隊全員が息をのむ。
マリアンが、「お姉さんかわいそう」と呟くのが聞こえ、タブレットを投げた石岡一等兵は飲んだ息を更に詰める。
マリアンに嫌われるのを恐れたのだ。
ほとぼりが冷めるまで静かにしていようと思う石岡であった。
石岡の妙な不安感とは無関係に目の前の池間と桜田の会話は続く。
「時間がない。理由を」と池間。
桜田の言い分は、柊軍曹の被保護者の項目に判りづらい点があるため、家族からの確認を取りたい。と云う内容だった。
「ああ、手当受給に不正があるとか、そう言うことではありません。
あくまで確認のみです」と、いかにも尤もなことを言う。
そこで巧は、
「何ら隠すことはない。此処で質問したまえ、もしくは後程文書で頼む。時間がない」
と鮸も無い返事を返した反面、池間中尉に対しては、
「中尉と訓練以外の話が出来るのは光栄です。どうぞ、ご一緒に」
談話室に手の平を向けた。
「さっきの嘘です。お願いします。 ごめんなさい軍曹。
迂闊なことは喋りませんから御一緒させて下さい~~」
桜田が半泣きの声を張り上げる。
無視して全員が先に進んだが、マリアンが引き返して桜田の手を取り、
「おねえさんも一緒じゃだめなの? みんな仲良くしないとだめだよ」
と言ってきた。
悔しいがこうなるとどうしようもない。巧は桜田の耳元で殆ど脅しに近い念押しをして、マリアンに向かっては、
「時々耳を押さえるかも知れないけど気にしないでね」
と予防線を張っておいた。
マリアンに手を握られ、桜田のハンカチが完全に朱の色に染まったのを見たからだ。
石岡もタブレットを掲げて牽制しておいたのが効いたのか、桜田は息が荒いままだが基本的にはおとなしくなった。
「はあっ」
本日二度目の「剃刀」のイメージに似合わぬ発言?である。
「え~と、マリアンちゃん。じゃなくマリアン君、なのかい?」
信じられないという顔で訊いてくる。
すかさず、桜田が立ち上がって右手の拳を肩の高さで握りしめ、
「こんな可愛い子が女の子のはず有りません!」
と叫んだので、巨漢の石岡に足を踏まれて床を転げ回ることになった。
因みに巧はと云うと、鼓膜を破らないように髪の毛の上からそっとではあるが、急ぎマリアンの耳を押さえている。
桜田はおかしな事を言うまえにポーズを決める癖があるようなので、マリアンを守るのは容易いようだ。
談話室での会話は、最初のうちは巧とマリアンのみが喋り合って、周りがそれを和やかに聴いているという不思議な光景が暫く続いたが、一息吐いたところで「剃刀」池間がマリアンに頼みたいことがあると言いだした事で話の転換が起きた。
「マリアンちゃん」
と池間が話しかけると、マリアンは直ぐさま恥ずかしそうに、
「すいません。ぼく、男です」と答えた。
そこで、先程の「はあっ」である。
(ざま~~見ろ、ロリコンが)
と何人の隊員が思ったかは知らないが、池間の頼み事というのは変わっては居ても常識の範疇のものだった。
おもむろに池間が携帯電話の待ち受け画面を開くと、二人の小さな子供とその母親らしき立体映像が現れた。
因みに情報漏洩を防ぐ為、携帯電話の所持が基地内で可能なのは許可された一部の人間のみである。
池間より階級が上の人間でも所持許可が下りていない人間が圧倒的に多い。
巧としては少し気になったが、池間の話で思考は遮られその事は流すことになる。
「君が男の子でも女の子でも良いんだ。家には今度、小学校に上がる双子の息子と娘が居てね。お兄ちゃんとして目を掛けてやってくれないかな?」
じっとマリアンを見る。
「えっと、でも、おなじ学校かどうかわかりません。ぼくの学校は『星観の丘学園』です」
戸惑いつつ答えるマリアンに対して池間は、たたみ掛けるように話を続ける。
「おお、それならうちの子達も其処に入学させようじゃないか。変わった子が多いそうだが、良い学校だと聞いて居るぞ。
そしたら時々、家に遊びに来てくれないか? 君のように礼儀正しく育てたいんだが、うちの子達は何故かおそるおそるとしか喋らないんだよ」
『そりゃ、あんたのせいだろ』とマリアンを除く全員が心の中で突っ込んだ。
池間の言葉は更に続く。
「君は、さっき自分に責任があると言い。すぐに頭を下げて周りの人たちを守った。
大人にだってなかなか出来る事じゃない。勇気のあるその点を見込んでいるんだよ。どうだろう?
勿論、お兄さんの許可を頂いての話だけどね」
ほほう、と全員が声を出す。池間中尉が結婚していることは何人かが知ってはいたが、子供がいることまでは此処にいる誰もが初耳だ。
その教育に心を砕いているとは、良い父親ではないか。というのが全員の感想である。
考えてみると、部隊においても訓練中に天候など状況が変化すると、緊急でもなければ、いきなり指示を出すのではなく分隊長全員から意見を募り考えさせる。
その時、良い意見が出るようならそれに修正を加えて実行に移すのだ。
部隊指揮官と言うより、教員向きのような気がすると常々考える隊員も少なくなかった。
但し、これは多くの人物が誤解をしている。
軍の訓練は予定を何よりも優先させる事が重要だ、と考える指揮官は未だに多いが、池間は常に実戦を想定して動いているに過ぎないのだ。
ともかく、巧としてはマリアンが好むのなら好きにさせて上げたいし、厭なら断るだけだ。
上官との関係など知ったことではない。
この中尉なら断ったところで根に持つような人間でないことも知っているため、尚更安心してマリアンの意見を聞ける。
と、その時、巧はあることを思い出して先手を打つ。
「中尉殿、申し訳ありませんが、マリアンが引き受けるにせよ、勉強までは見てあげられないと思います。
この子は少しばかり言葉遣いに難があるので、中尉殿のお子さん程の小さな子に勉強を教えるのは向いていないと思うものですから」
嘘である。彼が少々幼い口調であるのは単なる特徴であり、マリアンは日本で殆どを過ごしている為、チェコ語やドイツ語の方が片言である。
隠したかったのはその数学的才能だ。算数ではない。マリアンは十歳にして既に高等数学や物理の殆どを身につけていた。歴史についても巧との会話からか小学生にしては造詣が深い。
学校では目立つのを嫌い、普通の試験ですらわざと間違えるようにしている。
ただでさえ目立つ自分を隠す癖が付いているが、本人にすれば当然のこととして家族は敢えて口を出さない。
巧の口添えはそんなマリアンの気持ちを酌んでのものである。
余談だが、ポーランドやチェコには昔から数学の天才が良く現れるというので、
『血統かも知れない』、などと柊一家ではその様な話をしたこともある。
さてマリアンの返事はというと、巧の口添えに一旦明るい顔をして頷いた為、全員、彼が池間の頼み事を引き受けるかと思ったが、ふと何かを思い出すかのように急に顔が暗くなり俯いてしまった。
「ぼく、勇気なんかありません。おにいさん代わりにはなれません。
いつもかっこわるいし……」
声が消え入るようである。
巧の顔色が変わる。
「マリアン、お前もしかして学校でいじめられているのか?」
帰国前の厭な予想が当たったと思った。勿論、名前を変えておけば良かったなどとは露とも思わない。兄として絶対に守ってみせるという心意気だけである。
「四十年式かミトラを装備して殴り込みに行きましょう」
正式小銃の名とベルギー製の高速機関銃の略称を出して、いきなり物騒なことを言い出したのは桐野一等兵である。
分隊唯一の女性隊員だが、実際のところ分隊内では彼女が一番の過激派である。
先程までおとなしかったのは彼女が単に最も若くて口の出しどころを弁えていたからに過ぎない。
「「「「こら!」」」」
何人かが声を合わせるが、冗談であることは判っているということと、万が一、イジメの話が本当ならその気持ちも分からんでは無いため軽い窘めである。
国防軍になってからは数十年前の旧隊の頃と比べて兵器の扱いについての自由度が高いとは云え、大人が民間人の子供を脅す為の道具ではない。
それ以前に素手でやったとしても子供、大人にかかわらず人を脅すのは歴とした犯罪である。
それに軍人の冗談は、一般市民からどのように受け止められるか判らない。
ましてや悪意を持って利用する人間まで居るのだから、冗談にせよ、同じような調子で軍の外で迂闊なことを言って貰っては困る、という意味を込めて釘を刺した訳だ。
基礎訓練を終えたばかりの十八歳というのは、発言一つ取ってもまだまだ子供である。
「おねえさん。だいじょうぶだよ!いじめられてないよ!みんなやさしいよ!」
顔を上げて必死で抗弁するマリアンだが、巧を始め全員信用する顔ではない。
「じゃあ、なんでそんな事を言うのかな?」
巧は努めて優しく問いかける。
そして、帰ってきた答えは納得は出来るが想像の範囲を遙かに超えるものだった。
マリアンの話が進むにつれ、一人を除いた残り全員の顔が蒼白になっていく。
マリアンはその可憐と言っても良い容姿が人目を引きつけることはもちろんだが、勉強は出来る上に運動神経も悪くない。その上、優しい口調ながらイジメを許さないところもあり、学校では男子からも女子からも人気者である。
殆どの女子生徒は、
「名前の通り、マリア様みたいだよね」などと言ってファンクラブに加盟している。
学年が上がるたびにマリアンと同じクラスになれた、なれなかったで騒ぎが起こる程であり、その為か教師にとって彼は優秀ながらも問題児扱いでもあった。
そんなマリアンには怖いものがある。「恐怖」といっても良い存在達だ。
そのファンクラブの女子生徒達である。
日頃から追いかけ回されるのはもとより、登校時には毎日、家の門からぞろぞろと付いてくる。
お陰で近頃は、姉の杏が学校に談判して禁止されている車での送り迎えをしている程だ。
教室移動中の廊下で飛びかかられて抱きつかれたこともあり、実行犯の女子生徒が周りのファンクラブ女子に袋だたきに遭い、その側でマリアンが泣き崩れるという訳の分からない光景が繰り広げられたことも一度では済まない。
この様なマリアンの日常では本人が自分を情けなく感じるようになるのも無理はあるまい。
女の子にもてて嬉しいと、プレイボーイになれるような性格の彼ではないのだ。
そんなクラスのファンクラブが一昨日、とんでもない騒動を起こした。
マリアンの学校では小学部の修学旅行が五年生の二学期に行われる。小グループ編成も騒ぎを起こしながらも終わり、担任教師は胃を痛くしながらも一息吐いていた。
数日後、すなわちこれが一昨日のことであるが、クラスではマリアン達の修学旅行班が他愛もない会話をしていたが、事はここから大きくなる。
「タオル? タオルは駄目だよ。旅行の栞にも湯船にタオルは入れちゃあいけないってあるだろ」
「先生達が浴場まで入れないから脱衣所でタオルは全部置いていくように言われるぞ」
「でも恥ずかしいよな、垢すりで隠すか」
「ぼくだって持ちこみに賛成してるわけじゃないよ。ただちょっとはずかしいかな、と……」
「ばっかだな。そうやってお互いを知ることが大事なんだよ」
「入浴係としては垢すりを湯船に浸けるのは認められないね。後で怒られる。抜き打ちで検査があるって先輩が言ってたよ」
などと入浴時に、下半身をタオルで隠すか隠さないかという当人達にとっては重大な問題となる会話を進めていたが、もとより仲の良い生徒同士で班を組んでいるため和気藹々としたものである。
だが、これをクラスの一人の女子が聞きつけ学級女子のボスである学級長の西園寺絵里香に御注進したのだ。
その後、昼休みにクラスの女子全員が集められ、
「クラスの男子がマリアンの全裸を見たがっている」という形で話が広がってしまった。
ここから女子生徒達の『恐るべき』と言って良い程の暴走が始まる。
生徒だけでいきなり学級会を開くことを西園寺は宣言し、放課後教室に残るように全員に伝えた。
男子は女子が持つ意図が分からないながらも、修学旅行に関することと言われれば渋々ながらも従って放課後を迎える。
そこで、西園寺はいきなり爆弾発言をしたのだ。
「男子達はマリアン君とお風呂に入るのにいやらしい感情を持っています。だから、マリアン君は女子と一緒にお風呂に入って貰います」
女子の歓喜の声が学級に響き渡った。
体育の着替え時に男子は、あの天使の上半身だけでも見ることができている。
「許せない、憎い!」という感情は女子の間に日頃から積もっていたのだ。
仮にマリアンが女の子だったとしても、
「おい、何かおかしいぞ」
と呼べる感情であることは言うまでもないのだが、血迷った女子生徒達には通じなかった。
また、弾劾された男子生徒達も毅然としていれば良かったのだが、誤解は実のところ正解であったのかも知れない。
「あ、あ、アホか。男子が男子同士で風呂に入るのは当たり前だろ」
「そ、そうだ。お前らこそ。いやらしいぞ」
などと吃っていては、説得力も半減である。
当のマリアンと言えば、頭真っ白、としか表現できない様子で惚けているうちに、女子達に拉致され教卓で議長を務める西園寺の隣に座らされてしまった。
最早、男女の討議の「賞品」扱いである。
揉めに揉める学級会に最後の爆弾が落ちた。
最初の西園寺の発言が千ポンド爆弾級だとすれば、これは更に破壊力の高い燃料気化爆弾級のものであった。
昼休みに彼らの近くに座って最初に話を聞きつけた花園ルナが立ち上がって伊藤柚木という生徒を名指しして人差し指を突きつけた。
いきなり指された柚木という少年は普通の男性生徒としては充分美形に入る顔立ちであり、女子からの人気もマリアンの次に当たる。
一位と二位の差が光年単位で離れているという問題は置くとしてもだ。
サッカーのJrユースにも選ばれるスポーツ少年でクラス男子のリーダー格でもあり、マリアンと同じ班を組んでいるメンバーの一人。
当然、昼休みの会話の中心にいた。
「伊藤、あたし確かに聴いたわよ。あんたマリアン君に向かってこう言ったわよね」
一息おいて、ルナ本人も恥ずかしさを必死でこらえるように頬を染めながら声を絞り出した。
「あ、あんた、お風呂の話の時、確かにこう言ってたわ。『お互いを知り合おう』って!」
「アホか、そりゃ意味が違うだろ!」
柚木は嘘でも良いから「言っていない」と完全に否定すべきだったのだ。
彼の返答は「その言葉」そのものを発した事実だけは認める発言になってしまった。
彼の真意は違うにしても、だ。
次の瞬間、教室の女子は大パニックになった。阿鼻叫喚とはこのことであろうか。
最初は「キャー!」という悲鳴だけであったが、一人の女子生徒が泣き出すと収拾が付かなくなった。
子供の、特に女の子のパニックや泣くという感情の伝播性は凄まじいものがある。
教師ですら叱責の際には、その点には気を遣って発言を進める程だ。
あれよあれよという間に、女子生徒は全員が泣きながらもマリアンに背を向ける形で彼の座る椅子を取り囲み、聖なる天使を『邪悪で変態な男子生徒』から守るための完全防衛体制に入った。
男子全員に明確な敵意を向ける。
マリアンはその中心で、
「ぼくは、みんなといっしょにお風呂に入るからいいよぅ……」と 情けない声を出していたのだが、
その意味を、女子生徒は自分たちの都合の良いように捉えた。
対象主語を曖昧にしたマリアンも悪いのだが、女子生徒達はマリアンが女湯に入るのを了承したと解釈したのだ。
「やった~~!! マリアン君OKだって!」
一人が叫ぶと、女子全員が、鬨を上げる。
「嘘吐くな!すぐにマリアンを解放しろ」
男子生徒もすでに姫を奪還する聖騎士にでもなったかのような気分である。
子供のノリは恐ろしい。
存在しない「いじめっ子」に対して冗談にせよ襲撃を提案した桐野一等兵の幼さが、その「冗談」抜きでそのまま発露されたようなものだ。
結局のところ、帰りのホームルームが長引いた他のクラスの担任が通りかかって一触即発の状態を見咎められ、事態は一旦収束した。
詰まり詰まりに、やっと此処までマリアンが話した時、桜田は両頬に掌をあてながら、うっとりとした表情で、
「素敵……」と呟いた。
マリアンは恥ずかしさで半泣きである。
巧が桜田を睨み付けると、彼女はそのまま下を向く。
場の空気は最悪で、どうしたものかと誰もが思う。
実を言うとマリアンの訪問の目的は単に兄に会いたいという事の他に、この件に関わる学校からの連絡であった。
巧と二人きりになって話したかったのであるが、会えたうれしさで後回しになってしまっていたため、このように人前で話すことになってしまった。
彼にとっては痛恨のミスである。
この事件で学校側は臨時の職員会議まで開かざるを得なくなり、結論としてマリアンの入浴を個室で行うように求めることに決定した。
その話し合いの為、保護者に学校に来て欲しいという文書を発行したのである。
マリアンはその文書を巧に届けに来たのだ。この時代になっても役所は紙を残したがる。
「あの、すいません。宜しいでしょうか?」
一人の変態を除いて全員がどう反応して良いのか困って声も出せない状況の中、いつものごとく面倒見の良い岡崎兵長が、空気を変える為におずおずと手を挙げる。
「なんだ?」
歓談中である為、巧が口語で促すと岡崎は巧とマリアン以外の全員が持っている疑問を口にした。
「何らかの事情があってそうしているのでしょうから無理かとは思いますが、マリアンちゃ、いえマリアン君の髪は短くすることは出来ないんでしょうか?
少しはイメージが変わると思うのですが?」
至ってまっとうな疑問である。
だが、その疑問に対しては、
「だめだ」
と、巧は簡潔に答えるだけで済ませた。
巧達の両親である柊夫妻は二年前、交通事故でこの世を去った。
マリアンの髪はいつも母親であるエルフリーデが切っていた。
生まれ故郷の風習を口にして、
「男の子でも子供の頃は肩までは伸ばしておきましょうね」と常々言っていたことを覚えている。
巧もよく切りそろえて貰ったものだ。
白人に比べ髪質の堅い東アジア人の髪は切りづらいらしく、『残念妖精』の本領を発揮されて酷い目にあったこともあるが、それでも彼女に髪を整えられるのは心地よかった。
お互いが『家族』を感じていたからだろう。
樹木の生い茂る庭先でマリアンがエルフリーデに髪を整えられる光景は、まるで絵画に描かれた中世の農村の一風景のようであり、美しく優しげで、何時までも見ていたいものだ、と思わせてくれた。
――そんな太陽のような、春風のような彼女が消えた。
精神的にも力強い、頼りになる父までも共に、突然に。
三人の子供達だけが残された。
二人は既に成人しているとは謂え、家族としてまだ始まったばかりだったと云うのに……。
幸せな五年間。
その思い出のひとつがマリアンにとっては母に整えて貰った髪なのである。
彼は前髪を杏に切って貰う以外は髪を切らない。
彼が髪を短く切りそろえるには未だ時間が足りない。
その様なことは当然ながら知らない分隊員達ではあるが、巧とマリアンの表情に唯ならぬ理由を察したのは確かである。
再び、静寂の時が訪れた。
「そろそろ一時間たった」
徐に池間中尉が口を開く。
隊員達は訓練の為、屋内訓練場に向かわなくてはならない。しかし、全員の動きは鈍かった。
池間がいつもの冷徹な口調に戻る。
「第四小隊第四分隊は午後の訓練を開始したまえ」
こうなってはどうしようもない。
今度こそ全員が勢いよく立ち上がり、命令受領の敬礼を行う。
巧は、マリアンには杏が迎えに来る時間まで基地ゲート前で待っているようにして貰おう。中尉も電話の時間ぐらいは待ってくれるだろう。
と考えて口を開こうとした処、池間は思わぬ言葉を接いできた。
「柊軍曹、今、この時点から休暇を取り給え。ここのところ働き過ぎでもあるし、三~~四日は家庭のことを処理する時間も必要だろう。
休暇の事務処理は桜田一等兵に委任することを此処で認める」
何とも粋な提案をしてきた。
その言葉に最初に反応したのはマリアンである。
「ありがとうございます。池間のおじさん!」
二八歳の池間の中で何かがポキリと折れたが、表情は変えずに、
「大人に向けた言葉への理解力もしっかりしているね。トラブルが解決して自分に自信が持てたら、我が家の子どもたちのことも、もう一度考えて欲しい。
良いかな?」
と、再交渉する。
マリアンはいつでも巧が側にいてくれるなら勇気が出てくる気がしていた。
実際に今も、自分にとっては恥ずかしい話を頑張って終わらせることが出来たのだ。
巧がいれば何も怖くない、これがマリアンの持論である。
となれば池間への返事は元気よく、
「はい!」の一言だった。
隊員達は一連の流れに安心して足取りも軽くジムに向かう。
巧は敬礼で池間中尉を見送った。桜田がその後に付いていく。
時々振り向いてマリアンに小さく手を振るので、巧は手の甲を振って追い返すジェスチャーをした。
久々の実家に戻る車の中、ふと気付いて、巧はマリアンにある質問をした。
視線は前から動かさないが、左手がマリアンの髪を撫でる。
「なあ、来てくれたのも頼ってくれるのも嬉しいんだけど、なんで杏に相談しなかったんだ。
あいつ、お前のことでよく学校に行ってるだろ。PTA活動までしてさ」
姉の杏はドイツ語書籍の翻訳を生業としており、その業界では期待の若手である。
基本的に家庭内で出来る仕事なので、マリアンの日常生活の世話や学校への送迎などで完全に彼女が母親代わりになっている。
当然の疑問だ。
だが交差点の赤信号で車を止めた時、マリアンは巧の目を見ながら泣きそうで、それでいて真剣な表情でこう答えたのだ。
「だって、杏ちゃんにしられたら、女子の意見に賛成しかねないよぅ……」
サブタイトルは、R・A・ハインラインの名作より。
アレも暴動というか革命の話でしたね。




