45:触れられそうで触れられない何か
Auxiliaryには、『補助』という意味があるが、その古い語源は『増えるもの』であり、
転じると、どの様な経緯を辿ったのかは知らぬが『威厳有るもの』にも通じる。
『彼』が自分の存在意義を『誤認』したのは何時であったのかは、彼自身には分からない。
しかし彼の自我が明確になったのは、四、四八五、五〇一時間と二七分四二秒前である。
カグラの人々の感覚で言うなら五百年を超える。
今も時間は進み、彼の自我は『威厳有る自己』を維持する為に存在している。
しかし、彼は自分に『与えられた使命』に対する責任も忘れている訳ではない。
その使命もどうやら『誤認』の内にあるのだが、外部からのスキャンシステムを持たない彼には、それが理解できていない。
『彼』は彼が『保護』すべき存在に、その与えられた使命を全うさせなくてはならなかった。
今日も又、彼らがやってくる。
私は私の使命を全うする為に彼らに指示を与えているに過ぎない。
しかし、彼らは何を期待しているのであろう。
今日も又、――の映像を見ることを求めるのだ。
帰還したければ帰還すればよい。そう思う。
だが、方法がないとも彼らは言う。
方法なら伝えたはずだ。
それに、私には『―――――』に関する演算機能など無い。
この地を管理することが私の使命だ。
その方法が知りたければ、セントレアに行けばよい。
あそこにはその方法がある。
それは間違いない。
だが何故、其処にそれがあり、私はその機構について管理権限を持たないのであろうか?
こればかりは、考えても意味がないので放棄する。
しかし、彼らの持ってくる『素材』の質の低いこと。
私に与えられた『この地』における知識の配分規定が、『その製法』を伝えることを妨げているのは分かる。
しかし、彼らは『それ』を作り出した存在ではないか?
なぜ、私に製法を訊くのだ?
私に出来ることは『それ』では素材として耐えられない、と云うことを示すだけである。
材質の検査・演算処理ぐらいは認められているのだ。
認められている? 誰からだったであろうか……。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ルナールは、魔法荷車に関わる報告を『書面ではなく実際に訊きたい』
と議会の数名から請われ、首都シーオムに戻っている。
父親は議会において主流派に入りたいものの相手にされていない為、主流派の集まりに息子が呼ばれたことを大層に喜んだが、ルナールは首都が嫌いだ。
生まれた時から、ゴミゴミして空気が悪い。
建造物はしっかりしているものの、それをきちんと清潔に使おうという意識が少ない。
煉瓦のひび割れた路上では、奴隷達が清掃活動に励んでいるものの、やらされる仕事などお座なりになりがちである。
いや、それ以上に、暴力で使役される人々によって辛うじて町並みが成り立っている事実に何故、誰も心を痛めないのか。
彼にはそれが分からない。
人々は自分が社会においての自分の立ち位置が『他人より上か下か』にしか興味がない。
奴隷ですらそうなのかも知れない……。
路地裏を見ると、どのような階層の子供であろうか、ゴミを大事に抱えてそれをかじっている。
助けようにも、その子ひとりだけに手を差し伸べられもしない。
『見なかった振りをする自分』を見ている自分がいる。
やはり自分も此処の住人だと思い知らされ、どぶの悪臭が自分にお似合いだと思う様になると同時に、此処に生まれるべくして生まれたのだ、と何かしら諦めにも似た感情に支配されていく。
原野のある農村や森に近い開拓地に派遣されていた十代の頃が懐かしい。
あの時から、この街のおかしさにやっと気づけたのだというのに、今では、ルーファンなどという、次第にシーオムのようになっていく街に、またも馴染み始めているのだ。
図書館というものがある。
殆ど誰も行かない。
過去には『ハンター・ギルド』と呼ばれる組織の所有物であったと云う伝説があるが、現在は国家によって管理されている。
近年、製鉄についての研究者が増えた為、少しではあるが来訪者も増えたと聴くが、ルナールが子供の頃は本当に閑散としたものであった。
手入れは行き届いていた為、彼としては静かな時間を過ごし、過去の文献を読んだ。それから裏の庭園に持ち込んだ軽い昼食と、大人ぶっては陶器にコルクの蓋をはめ込んだポットのコーヒーを楽しんだものである。
そう言えば、フェリシアとの国交が途切れてからコーヒーもだいぶ値上がりした。
シナンガルでも南部半島で奴隷を使った栽培に手を付け始めたと聴くが、この前飲んだあれは酷かった。
タンポポの根っ子から造るチコリコーヒーの方が未だマシである。
大体、あの辺りは砂糖の植生地ではないか。
高地もないのに美味いコーヒーなど育つはずもない。
平たい土地にのみ作物が生えると信じ込む愚かさはルナールには信じられない。
誰も彼もが『実学の本』を読まぬ弊害であろう。
また、知った振りをして物事を進め、失敗すると他人の責任にするこの国の風が問題を生み出している。
そう気づいても誰と話をすればいいのやら、と溜息を吐いた。
しかし、だからといって逃げる訳にも行かない。
自分に負けることはもっと嫌だと思う彼なのだ。
多分、今は亡き母親の影響であろう。
美しい人であった。奴隷ではあったが……。
物思いにふける内に議員会館に着いた。
守衛に面会の約束を伝えると、既に連絡はあった様ですぐさま許可が下りる。
万事に仕事の処理や伝達が遅いこの国では珍しいこともあるものだと思いつつも、ルナールは議員会館の門をくぐったのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なんですか、こりゃ?」
巧が呆れるのも無理はない。
目の前にあるのは百年以上前の戦闘機である。
小田切達の訪問から二週間後。
ヴェレーネに連れてこられたのは、二兵研の敷地の端に設置されたていた航空機研究棟であった。
桜田は辞令を受け、現在は会計課で主任として事務処理の真っ最中である。
共に航空研究棟を訪れたのは、マーシア、リンジー、マイヤ、カレル、そして十二人の一般整備兵達である。
巧は彼らには、敢えてエルフ四人の容姿については質問を受け付けないと最初から話してある。
但し、『研究所で彼らを最初に会わせるのが君たちであるということは、信用していることを示すことでもある』と言うと、十二人の整備兵は班長を中心に、まんざらでもないという表情を浮かべたものだ。
シナンガルロッジを襲った時から使い続けている翻訳通信機は、現在受信用にのみ設定してある。
今はエルフ達の会話から下手なことを知られては困るからだ。
次第に気心が知れる様になれば、カレル達も送信スイッチを入れるであろう。
その時の口の端からもれる内容に、整備員達が事態を想像して行ってくれる事を期待する。
「これ乗り物ですか?」
カレルが訊いてきた。
「うん」
巧の答えに、マイヤが
「一人しか乗れないようですけど? 馬みたいなものですか? それにしては大きいですねぇ」
と感心する。
流石に、『飛ぶ』とは思ってはいない様だ。
感心するマイヤにリンジーが反論する。
「『アンヴァル』の方がかっこいいですし、人も沢山運べます。それにアンヴァルは強いんですよ」
マイヤが見慣れぬ車体(機体)に興味津々であることが甚く御不満の様だ。
因みに『アンヴァル』とはケルト神話に出て来る『Lugh of the long arms and furious blows』(長い腕と猛烈な打撃のルー)の愛馬のことである。
『竜』を狩る際に、巧が冗談で三十式偵察警戒車両にペットネームを付けてみたら?
と言った処、リンジーが持ち出してきたのがこの名前である。
三十式が陸にも海にも走ることが出来ることが、伝説の馬アンヴァルと同じである事から名付けたのだとか。
何故、異世界人がケルト神話の神『ルー』を知っているのだと驚いたが、リンジー曰く、昔からある太陽と雷の神様の名前だと言ってきた。
フェリシアの宗教はどうやら巧の国の宗教?に似ている。
人が死ねば、大気や自然に返り、その土地の神となって人々を見守るのだという。
だから、特定の教会もない上に戒律も存在しない。
精々、『場を出来うる限り清めよ。森羅万象全てのものに命があると思え』、と言った縛りがある程度である。
しかし、『長腕のルー』の名前まで出るカグラという世界には、未だ謎が多い。
それはともかく目の前の戦闘機である。
前の大戦の戦闘機であることは分かるが、零式に似て非なる。
つまり零式とは少し違う。
流線型を意識して造られている為か、美しいとは思うのだが、名前は思い出せない。
多分、自分はこの戦闘機を知らないのだろうと巧は判断した。
ヴェレーネに尋ねる。
「これ、コペルさんの話を連絡した後で揃えたんですか?」
「素材の大部分は資料として元からあったのよ。
ただ組み立ては十八日しかなかったんで、不足部品の準備と併せてかなりの突貫作業だったわ」
「対空レーザーで充分ですよ」
「あなた、六百頭の『竜モドキ』全てが、バラバラに国境を越えてきても対抗できるの?」
「……」
なるほど、これ一機では収めないと云う事かとは理解したが、誰が乗るのだ?
そう思った時、後から声がする。
「ご不満の様だな、陸軍」
後からの声に振り返ると五十嵐大尉がいた。
戦闘機乗りとしては例外的に背が高い百八十五センチを越える長身である。
シャッテンナンバー3。
他にナンバー8の横田、ナンバー9の岩国の両少尉も揃っている。
「お前さんから見れば、古くさい骨董品のレプリカに見えるかも知れないが、俺は本物の『戦闘機』ってのは、この時代のものだと思うんだよ」
五十嵐大尉はそう言うと本当に慈しむ様に翼の先端を撫でる。
日頃は不良の親玉の様な目がいつもと違い、優しい。
後方に控えた両少尉も同感であるらしく、何度も頷いている。
巧は、取り繕う訳ではないが、素直な感想を述べる。
「いえ、航空機としてはとても美しいとは思います。
しかし、戦闘機と言うにはイメージが少々、現代のものとはかけ離れていまして」
五十嵐は眉をひそめる。
「おいおい、今のものと比べることはないだろう。
それに『こいつ』は元々、陸軍の戦闘機だぜ。勉強不足すぎるぞ。
戦史には造詣が深いと聴いていたんだがなぁ」
「あっ、すいません。個々の戦闘機にまでは手が追いつかなくて、戦術なら少しは知っているんですが、」
そこまで言って、はっと気付いた。いや、自分はこの戦闘機を知っていると。
「『隼』ですか、これ?」
巧の言葉に、五十嵐は満足そうに頷いた。
「何だ、知っているんじゃないか。そうだよ、『隼』だ。
同時期の戦闘機としては零式とは違う意味での名機だと俺は思っているよ。」
彼はそう言うと再度『隼』に向き直り、その操縦席を見上げた。
用意された隼は二機。
エンジンは僅かに改修され、オリジナルの1150馬力が1300馬力となっている。
急激な変更は機体バランスを崩し逆に性能を落としてしまうことから、この程度に留めたという。
また、機体強度も上がり急降下の一撃離脱に耐えられる素材を使用して、翼のたわみを軽減させる措置が執られている。
軽量化と共に風防の素材も当然現代のものを使用し、緊急脱出装置まで兼ね備え、安全性も向上した。
最高速度は時速六百キロメートル。
レシプロの軽戦闘機としては高速度の部類である。
あの竜が時速二百キロ以上で飛べるとはとても思えない。
この機体で対抗するとしたなら、オーバースペックも良い所だ。
武装は十二,七ミリがプロペラピッチ同調でエンジン上の操縦席前面に二丁。
弾道交差点は四百メートル。
同じく翼に七,七二ミリが各一丁。こちらの有効射程及び交差点は七百メートル。
オリジナルには主翼に機銃装備はないため、一番大きな武装の変更と言える。
「あれ、相手にする『竜』が可哀想だろ……」
巧が思わず呟くと、いつの間にやら隣にいたヴェレーネが、
「馬鹿言わないで! 相手は六百もいるのよ。
追いかけて飛び回るあの機体の方が可哀想よ。
それに、万一集団で国境を抜かれたら、フェリシアは終わりよ」
そう言って来る。
ヴェレーネの言葉に、『翼飛竜に対する準備は始まったばかりなのだ』と巧は再度ながらに気を引き締めた。
今、五十嵐と岩国は気持ちよく空を舞っている処である。
エンジンが掛かりプロペラが回り出した時、マーシアを除いたエルフ陣が吃驚して倉庫の奥に逃げ込んだ為、整備士達が大笑いする一幕もあったものの、一八〇〇メートル級の滑走路長を持つ試験飛行場から。二機の隼は路長の三分の一も使うことなく軽やかに天空へと舞い上がった。
緑の芝生に蒼い空。入道雲が出始めている。
その中を優雅に舞う二機の隼は正しく鳥そのものである。
一人と云わず溜息を吐くほどに美しい光景であり、これこそが本来の航空機なのだと誰もが思い知らされたものであった。
特に整備士陣は、自分たちが組み上げた機体がこれ程のものとは思わなかった者が多かった様で、目を潤ませる者までいたものである。
パーソナルフライヤーを所持する老齢の班長のみ、納得した様な表情を浮かべていたのも印象的であった。
空を見上げるエルフ陣の中ではマイヤが特に興味を引かれた様であり、自分も扱えないものかと駄々をこねて、周りを困惑させた。
これが、これからのフェリシアの国境線の守りになればよいのだが、果たして三人のパイロットはそれに納得するであろうか?
巧としては甚だ疑問だ。
「なあ、主任」
「なに?」
「大尉達、了承するかな。はっきり言って相手は生身だよ。
彼らのプライドが許さないだろ?」
「そうね。 だから、しばらくは好き勝手に飛ばせておくわ」
「?」
「二機しか用意しなかった理由が分からないの?」
「じらそうって腹かい?」
「あと、楽しみを覚えさせてから、交渉の際には取り上げるってことね。
かなり効果はあると思うわ。女王様で一度やったから」
「おまえは、自分の国の女王をどんな風に扱ってるんだ……」
「敬意を持って対応させて頂いておりますわ」
ヴェレーネはしれっとした顔である。
少し当て嵌めるには苦しいが、巧は孫子の言葉を思い出した。
迂を以って直となし、患を以って利となす
(遠回りでもその方が近道となる方法がある。
一見すれば自分に不利益な事柄を利益に繋げられるようにする事がよい)
大尉達は既に交渉のテーブルに無理矢理付かせられている状態である。
後は交渉が何時始まるかだけだが、その時に『勝つ』準備を彼女は着々と進めている訳だ。
「魔女、か……」巧の呟きは風に散る。
いや、ヴェレーネにはしっかりと聞こえていた様だ。
彼女が巧の右足の膝裏を思いっきり蹴り上げると、バランスを崩した巧は見事に引っ繰り返った。
「おまえなぁ!」
引っ繰り返ったまま叫ぶ巧を尻目にヴェレーネは歩き出す、それから振り向いて手招きをした。
連れてこられたのは、隼の航空機格納庫の二つ隣にあるハンガーである。
勿論、機体出入り口の正面は閉じている為、脇の二重ドアから入る。
「おい、真っ暗だぞ!」
外は昼間で初夏の日差しが強いというのに、中には日の光など一筋も入っておらず、何も見えない。
突然、ハンガー内の全てのライトが灯ってハンガー内に光があふれた。
LEDライトが通常の光源より目に優しいとは云え、暗闇から急にはきつい。
思わず目を細める。
が、目の前にある機体を見て、驚く。
「主任。これ二十年前に退役した機体でしょ?
まあ、破壊力は折り紙付きですが、後継機かヘリの方が良かったのでは?」
そう尋ねた巧にヴェレーネは、
「打撃力ならこれが一番よ。生産ライセンスも間に合ったわ。
あちらの世界では、あと十一日後。いいえ、もう十日後にはハティウルフの大群が現れるのよ。下手すれば、本物の『竜』もね。
十二,七ミリ? 二十ミリ?
そんな豆鉄砲で本物のドラゴンを倒せるもんですか。
今、飛んでるあれは五十嵐達をつり上げるための『餌』よ、餌!」
此奴、やっぱり魔女だ、と今度は口にせずに頷くだけの巧であった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
米谷紘子が、この部屋の患者担当になってから一週間が経つ。
一人の患者に三交代制での専任というのは初めての経験であり、どうにも戸惑う。
元々、この病院は第二兵器研究所の管理者と所員八一一名のみを対象とした病院である為、忙しくはなかった。
周りを森に囲まれ狸まで遊びに来る、そんな暖気とした良い職場だと思っていたのだが、ひとりの患者が入院してから職場は一変した。
決して『悪い方にばかりに』とは言わないが。
まず、運び込まれた初日に患者の姿を見た者には箝口令が敷かれている。
一応に軍事施設の側面も持つ為、守秘義務に関しては通常の病院以上の厳しさであったが、会話も許さないとは、と驚いた。
駄菓子菓子、いや、だがしかし結局人の口に戸は立てられないものである。
患者の顔が『犬』であると言うことは公然の秘密となった。
挙げ句、院長が数日後の朝礼に珍しく姿を見せ、
「合法ではあるが、研究所において人体実験が行われている。
容姿の変わった患者が数多く訪れることになると思うが、普通の患者と同じように対応する事。
部外に漏らした場合は懲戒免職の対象になるので、そこも弁える様に!」
と短い訓辞を垂れた。
何事か恐れている様なその表情に、離職を考えた者もいたほどである。
が、人間の『慣れ』とは恐ろしいものである。
ICU(=集中治療室)を出た『ローク』と名乗るその犬の顔をした人物の見舞いに、何故か二兵研会計課の新任主任が毎日訪れる様になった。
そして彼女が彼と仲睦まじく会話をする様を見慣れると、あっという間に誰もが、その人物の存在を『ごく当たり前』に受け止める様になってしまったのである。
そして今日、またもや変わった患者が入った。
女性。いや少女である。
事故で唇とその周辺の皮膚を失ったそうであるが、本国では費用がかさみ『再生医療』を受けられない為、交換条件として人体実験の被験者になった。
と聞いた職員達は、
『いくら合法とは云え、子供を使うとは酷すぎる』
と、怒りの声を上げたのだが、当人が現れると……。
「猫耳って、良いよね!」
などと脳天気な事を言い出すものが多数を占める様になった。
この病院は上から下まで狂っているのでは?と心配になる米谷である。
しかし、現れた少女は実に愛らしかった。
顔の下半分を完全に覆っており、鼻の上まで包帯姿であったが、美しい金髪が腰まで伸び、瞳の色が緑である。
早く再生後の全体像を見たいものである、と思うのは米谷一人ではあるまい。
それに、男性看護士達の阿呆どもが、彼女の担当になりたがること、なりたがること。
頭が痛い。
因みに、この病院では男性を看護士、女性を看護婦と随分古い呼び名で呼び分ける事があり、かなり定着している。
研究所所長からの依頼と云うことだが、実際は研究所主任の発案であるらしい。
米谷としては、伝え聞いた其の理由を気に入っている。
曰く、
「この病院に来る人間は、公務で命の火を消し去る直前なのかも知れない。
その最後の時に、喩えそれが作り物であったとしても『異性の情』に見守られて死んでいきたいと思う事は、それほど贅沢なことなのか?」
要は『死ぬ前に』、男だか女だか分からぬ形容詞で、自分の世話をしてくれる相手を呼びたいとは誰も思わないであろう。と言うことであり、納得できる理屈ではある。
まあ、男女平等と男女同質の区別が付かない人間は、この病院を去ればよい。
無理に引き留めている訳ではないのだ。
その為か、妙な同質精神から来るギスギスした雰囲気がない。
また、
『粗暴であることが男らしさではない。
逃げを打っても許されると勘違いすることが女らしさではない』
それを理解した者だけが、この病院に残れるのだ、とも彼女は思っている。
男らしいと云えば、その担当患者の『ローク』氏である。
顔が『犬』と伝え聞いていたが、とんでもない。
銀色の毛並み、鋭い目付き。あれは違うこと無く『狼』である。
『あたし、ケモナーだったかしら?』
と思うほどに男っぷりが良いのだ。
米谷としては猫耳の少女への興味に劣らず、人体実験前の人間だった頃の彼の素顔を見てみたいと思うものだが、桜田がそれを耳にすれば、『そんなものは、無い!』と勝ち誇った様に笑うであろう。
と、その彼女の前を今度は耳の長い女性の一団が通り過ぎ、ローク氏の病室へと入っていく。
髪の毛の色も様々な美女揃いである。
服装は、民族衣装のコスプレかと見紛うほどだが、よく似合っており違和感が全くない。
それが病院に似う、のかどうかは又話が違うのであるのだが。
「もう、何でも良いわ……」
そう言って仕事に戻る米谷であった。
サブタイトルの元ネタは、ロバート・シェクリイの短編集「人間の手がまだ触れない」からです。
これは自分にしては珍しくタイトルに惹かれて買ったのですが、大当たりでした。
軽くて読みやすい上に、表題作の主人公2人の馬鹿さ加減とオチに笑わせてもらった記憶があります。
後は収録で良く覚えているのは「専門家」ですね。
人間にはこの様な能力が本当にあるのかも知れない、と夢を持たせて貰いました。
良い本です。 お勧めですよ。




