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星を追う者たち  作者: 矢口
第七章 愛に生まれ、殺戮に育つのは『世界』
103/222

102:鳥は霧の彼方に

 

 巧が目を醒ましたのは五時を半分程廻ったところであり、朝日がカーテンの隙間からベッドサイドに一筋の糸を投げ込んでいる。

 アイランドの真下、防弾ブロックに包まれた艦長室を()けて彼は一般士官用の窓際の部屋を寝所(しんじょ)に選ばせて貰った。

 (もっと)もこの部屋ですら一寸(ちょっと)したホテルのセミスイートレベルの豪華を保って居るため、巧としてはやや落ち着かない。

 だが彼が質の悪い部屋を使えば部下も遠慮して自ら待遇を下げてしまいかねない以上、此処が落としどころだとあきらめて多少の贅沢を楽しませてもらった。


 遮光カーテンを開くと海と空の紺碧は水平線の彼方で一体になっている。

 海鳥が一羽、広い窓辺を横切ると甲板方向の風に乗ったのか翼を動かさずに上昇していった。


 ふと、静かな唄が聞こえた気がする。

 どうやら寝ぼけているようだ、と頭を振ってシャワールームに向かう。



 ブリッジではオベルンがウキウキと舵を握っていたが、レーダー手の桜田は一晩中の頑張りで既に夢うつつである。 

 桐野にレーダー手の交代するようにダイナミックマイクで艦内通信を行い、彼女がサンドイッチを頬張りつつ、更にその手に二つ三つ同じものを抱えながら姿を現すのを確かめた後は上部甲板へ出た。


 昨夜の戦闘の痕跡など何処にも残って居らず、正面に登り切った朝日に少し眼を細める。

 と、見た事もない人物が甲板中央にいる事に驚く。


 十~十一歳程の女の子である。どこから乗り込んだのだ。

 金色の刺繍に彩られた真っ赤なマントに身を包み、その下の服装は全く分からない。 

 だが見事なまでの金色の髪と碧い瞳の横顔に、いつかどこかで見たような想いが浮かんだ。


 誰であろう。

 小さな体に似合わぬ裾幅(すそはば)の広いマントはその身をすっぽりと覆ってしまっており、何やら幻影の様な存在にすら思えた。

 手を伸ばせば淡く消えてしまいそうな、そんな存在……。

 此処から自分の部屋まで声など届きようもない筈なのに、あの歌声は彼女だったのではと、何故かそう感じる。


 ふと背後に気配を感じ振り返ると、またも息を呑む羽目になる。

 目の前の少女に瓜二つの少年が居たのだ。

 瓜二つながら少年と思えたのは、服装の為であろう。

 ハンチング帽、アンダーフレームの眼鏡、そしてきちんと揃えられたベストとパンツ。

 但し、彼は上着の代わりに白衣を着ていた。


 その姿から巧はいつかのマリアンとの通信に直ぐさま思い当たった。

「あんた……、もしかしてコペルさんか?」

 巧の問いに少年は緩やかに頷くと、

『彼女をそっとしてやってくれないか?』

 そう言ってくる。


 巧は頷く事も出来ずに(きびす)を返すと黙って艦橋(アイランド)へ向う。 

 そっと振り返ると少女は巧に気付くことなく海鳥と戯れる一方で、コペル改めコッペリウス少年は巧に附いて来た。



      ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 その後、戦闘が一度。そして、回避が二度行われた。

 弾薬はあふれかえっているが、乗組員八名いや実質七名では苦しい。

 何より、オベルンは戦闘に参加できない以上、やはり分遣隊員六名で闘うしかない。

 逃げられるなら逃げるに越した事はないのだ。

 一度などは、真北に百キロ以上逃げてから又、南に戻るという大回りまで行っている。


 しかし、おかしいのは魔獣が現れる方向だ。

 単に南からと言うのならば話は分かる。基本的に魔獣は北上しているからだ。

 処が、最初の戦闘もそうであったが五度の襲来の内、三度は東に向かって九時方向、つまりは北からわざわざ南下して輸送艦を襲ってきたのだ。


 どういう事なのだ? と誰しもが首を傾げたのは此処(ここ)である。


 そうして海峡を抜け、安全と思われる海域に至るまで遂にコペルは動かなかった。

 そう、結局は一度も戦闘に参加する事はなかったのである。

 


 コッペリウスは言っていた。

『君達の能力(ちから)は知っている。今、僕が手を貸す時ではない』


 そして、二度目に少女が現れた時、彼は巧に秘密を打ち明けるように“こう”も言った。

『君を利用している。済まない。 

 だが、昔の(よしみ)だ。許してもらえると信じているよ』と。


 どの様な意味か尋ねると、困った顔をして、

『僕も次第に元に戻りつつあるのは嬉しいんだけど……。

 そのせいかな、どうにも君に対しては口が軽くなる』


「昔からの知り合いのような言い様だね?」

 巧としては素直な疑問だったのだが、コッペリウスは不思議な言葉を返す。


『そうだね。君から見れば数ヶ月の付き合いだ。 

 でも、あの時も最初は会話も何もなかったんだから、やはり数ヶ月なのには変わりないかな。

 前回も今回も悪いのは此方(こちら)なんだけどね。

 君にはいつも辛い思いばかりさせる。

 また、そのうちそうなるけど今度は失敗したくない』

 

 “辛い思い”という言葉が一瞬にして巧の心を締め上げ、殆ど反射的にコッペリウスの胸ぐらを掴んでいた。

「また、誰か死ぬって言うのか?」


 睨み付けるがコッペリウスは慌てる風でもない。

 事実、巧はコッペリウスの胸ぐらを掴んでいる自分の手が何も掴んでいないように感じる。

 何より、彼の瞳は見た目通りの子供の“それ”ではない。

 何処かで見た気がする。

 眼鏡を外せば思い出せそうなのだが、其処までする気にもなれない上に、今はコッペリウスの『言葉』の方が気に掛かるのだ。


『戦争なんだ。誰かが死ぬのは当然。君の近しい人だけが“人間”って訳じゃない』

 その言葉を聴いて巧の手から力が抜けた。

 自分たちを守る為に人に手を掛ける。おかしなことではない。

 正しい事は分かってはいるのだ。 

 そして、敵だけでなく味方にも犠牲が出るであろう事も、だ。


 だが、巧はその事に何時(いつ)も苦しむ。


 巧は山崎が思うような『強い男』などではない。

 家族を、仲間を守りたいだけの小さな男だ。


 形としては体を自由に“して貰った”コッペリウスは襟元を始め服のしわを伸ばす様に身繕いをしながらも、申し訳なさそうに続ける。

『其処が君の良い所であり、悪い所だ』

「?」

『誰をも平等に愛するというのは、実際の処、”誰をも愛していない”

 と云う事に繋がりかねないんだよ!』

 コッペリウスの言葉には珍しく感情が籠もっている気がする。

『だから、僕は彼女を一番目に置く』

 そう言って甲板上に佇み海を眺め見る少女に眼差しを向けた。

 迷いのない視線に圧倒される気がする。


 困惑して声も出ない巧に対して、コッペリウスは更に問い掛ける。

『君にとって一番は誰?』

「それは、勿論……」

『勿論?』


 コッペリウスが尋ねているのは一般論ではない。

 命が掛かった瞬間の話をしているのだと巧は知って、答えが出なくなる。


 コッペリウスはコペルの時と違ってやや感情が豊かだ、クスリと笑うと巧に心からの忠告だとばかりに囁いた。

『できればだけどね。その席、少なければ少ない程良いよ』

「何故?」

『さっき言った通り、その分愛情が薄くならずに済む。 

 いや、何より迷いが無くなる』

「迷い無く敵を殺せる、って訳かい……」

 嫌味を交えて返す巧をあきれ顔でコッペリウスは眺めた。

『君、彼女作った事無いの?』

「へっ!」

 巧から妙な声が出た。

「あ、いや、うん」

 そう、巧はどうにも女性に縁がない。

 顔立ちは別段悪い訳ではない。良いと言う程でもないが。

 問題は、この男には男“性”としての何かかが不足しているのだ。

 そうとしか言いようが無かった。


『う~ん、やっぱり、これはあれだな』

「なんだって言うんだ! ああ、モテ無いよ!」

 少し惨めな気分と共に当然ながら、“何故こんな目に合わなくてはなら無いのだ”と、巧としては(いきどお)らざるを得ない。


『そうじゃなくて、君、女性に壁を作ってるね』

 どうにもコッペリウスはドキリとする事ばかり言う。

 その通りであった。

 巧は家族には恵まれたものの子供の頃の友人関係に恵まれず、他人と壁が出来ていた。


 今でこそ軍では重宝されるが、思考の方法が普通の子と違っていた為であろう。 子供の社会になじめない子供であったのだ。

 異性を意識させにくい存在になった事にも関連しているのかも知れない。


 ともあれコペルが国家レベル、軍事レベルの驚きを巧に与える存在だとするならば、コッペリウスは、プライバシーレベルで彼を驚かせる存在と言えた。

 まあどちらも、同一人物である筈なのだが、どうにもつかみ所がない。

 まるで、まるで……、巧は今、誰かを思い出そうとしていたが、どうにも思考がクリアにならない。

 その事を考えると(もや)が掛かったようになる。


『危ない、危ない。悪いけどその部分だけは“時”が来るまではロックさせて貰ったよ』

「思考を読んだのか!」

『ヴェレーネだけの得意技だとは思わないように』

 澄まし顔で、やや自慢げな少年の笑みが憎らしさを倍増させる。

「しかも操った!」

『其処は詫びる。思い出されちゃ困る事も有る』

「廃人にされるかも知れなかったのに許せるか!」


 巧の怒りは柳に風の如く流された。

『あのね。僕はそんなヘマはしない。いや、出来ないんだよ』

「能力が段違いって訳か」

『そう云う問題じゃなく、事実を答えた』


 巧としてはこれ以上の会話をするのは嫌になったが、最後に聞いて置かなくてはならない事がある。


「最初に言った“俺を利用する”って言うのはどういう意味だ?」

『ありゃ、誤魔化し切れていなかったか』

「危ない処だったがね」

『言葉通り』

「それじゃあ分からないな」

『色々だよ。唯、最低でも四人は助けたいんだ』

「それ、俺一人の犠牲で済むのかい?」

『妙な事を聞くね。どうして?』

 お前こそ妙な事を訊くではないか、とでも言わんばかりの表情で巧は答える。

「一人で四人が助かるのなら“計算上問題は無い”、そうだろ?」


 初めてコッペリウスはあっけにとられた顔をした。

 それから、声を出して笑ったのだ。

『そうだ。柊巧って奴はそう云う奴だった。 

 だから()は、初め君を憎んで、そして信頼した!』

 何やらひとり納得するかのように二度三度と頷いた後、彼は人差し指を立て、そうして付け加える。

『助ける人間にもう一人加える。文句ないね』

「出来るだけ良い奴を救ってやってくれよ」

『もちろん!』

 コッペリウスは、ニヤリと笑って今度は親指を立てた。



      ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 ポルトのVIPルームの待遇は悪くなかったが、(くつろ)ぎに来た訳ではない。

 今後の方針を本部から受ける事、それから輸送艦の搭乗員の増強と北部哨戒用攻撃ヘリの搭載が目的なのだ。

 

 だが一同がポルトの魔導研究所の迎えを受けたのは、到着してから5時間も経ってからであった。

 背嚢型(はいのうがた)無線機の中継施設はフェリシア国内には未だ少ない。

 北部の整備が優先されている為である。


 魔導研究所のポルト派遣所に行かなくては本格的な無線交信は不可能だ。

 その為、輸送艦から其方(そちら)に向かうので迎えをよこすように連絡してから巧達は上陸した。

 ようやく現れた迎えの魔術師が遅れた事を詫びたが、話を聞いて巧達は迎えが遅れた理由と共に、敵の本格的な侵攻が今日明日にも開始される事を知ることになった。



      ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 JTPS三次元レーダーの弱点は、やはりその効果範囲であろう。


 現在はデフォート城塞頭頂部及び、ライン山岳部に充分な数が設置されているが、地平線の向こう側までは届かない。

 デフォートからなら距離五十キロメートル、高度四千五百メートルまで。

 ライン山脈からならおおよそ距離百五十キロで高度六千メートル前後までと云う事になる。


 本来、航空機などで使用して地上と連携を取らなくては高度一万メートル以上のレーダー測定は難しいのだ。

 よってF-3Dの出番である。

 半径一千キロをカバーできるC-2Wを使いたい処であるが、一機は北部を警戒しており、もう一機はガーインとの往復に忙しい。

 予備機体まで持ち出す訳にはいかず、少々能力に不満があるとは云え、F-3Dの電子機器は狭い範囲ながらも警戒活動を続けていた。



 パトロール地区はシエネから南東に四百キロメートル

 東部穀倉地帯から見て真西に当たる高度一万メートル地点であった。

 ようやく見つけたジェット気流の通り道である。


 搭乗員は前席に西井中尉、後席は魔術師ではなく正式なレーダー員である篠塚中尉である。 

 この高度まで魔獣が現れる可能性は低く、何よりレーダー員及び記録員としての技能が後席のナビゲータに求められたからだ。


「来たね」

 篠塚の言葉に、西井は“見えんが?”と答える。

 だがそれもその筈で、目標まで未だ百四十キロ以上の距離があるのだ。

 篠塚に其れを指摘されると、西井はばつが悪そうになったが、取り敢えず本部に通信を入れる。

 手順通りの対処を求められたが、数が問題だ。

 ペアが離れている為、同一行動を取れるかどうか怪しい。


「あいつ等、何処行ったんだ」

『下に居るよ』、と無線からは低空警戒を行っている僚機が返事を返してくる。

 あちらの後席は魔術師が搭乗しており、高度三千までは上がるであろう竜への警戒を行っている。

 カレシュの遭難以来、今まで以上の能力のある竜が現れる可能性を捨てきれないのだ。

 上空まで昇れる竜の出現可能性は確かに低い。

 だが皆無ではないと云う事である。


 よって目標への対処は西井-篠塚機のみで行わなくてはならない。


「数は?」

 西井の問いに篠塚は明快に答える。

「四!」

「実験か?」

此奴(こいつ)が様子見か、侵攻の口火かは分からんがナビとしては見逃がす気はないね」


 篠塚の言葉に西井も異論はない。

 だが、何処で撃墜()とすか、其れが問題だ。

 十分程で目標が見えてくる。高度は八千を切った。

「あれが爆弾だとすれば、此処で撃ち落とす訳にもいかん」

 西井が言う『あれ』とは風船爆弾の事である。

 気球の直径は凡そ十メートル前後であり、撃ち落とす事それ自体は難しくない。

 しかも中に詰まっているのは水素であろう。

 一撃で火だるまだ。


 だが目視して“やはり”と心配していた予想が当たった事が無念である。

 おそらくは爆弾であろう本体の木箱は、気球から五十メートルは下につり下げられていたのだ。


 機銃で気球は爆発するだろうが、爆弾は落下する。

 自由落下していく二メートル四方の物体を追いかけて撃墜するなど、映画版の『の×太』でもなければ、不可能な話だ。

 流されて落ちた先に村でもあれば、大問題である。


「爆弾なら良いんだけどね!」

 ナビの篠塚は慎重である。

「“あれ”の可能性も有るからな風上からだな」

 西井も其れには同意し、攻撃高度の決定を求める。

「高度は?」

「五千以下でなければ拙い。上は気流がやや渦巻き気味だ」

「なるほど」


 ひとつめの気球の高度が五千メートルを切った。

 風上から狙いを付ける。 

 木箱を吊り下げている紐を切りたくないと、やや目標の下を狙った。

 落下する物体に対してもセオリー通りである。

 が、西田は久々の実弾射撃にやや慌て気味になったようだ。一撃目は外れた。


 旋回してポジションを取り直す。

 第二射。命中! 爆発が起きた。黒色火薬の爆発である。


 現在位置を確認すると周囲百キロメートルに民家はないという。

 ここからなら気球を撃ち落としても良かったかも知れない。

 だが、命中した事で西井も篠塚もやや気が高ぶっていたようだ。

 搭載物を全て撃墜()とす事に決めた。

『爆弾であるなら怖くはない』、そう考えたのだ。


 だが、二人は間違いをふたつも(・・・・)犯した。

 一つは四つの内一つが爆弾だったからと言って、残りが“それ”でないという保証は無かったという事だ。

 もうひとつは、何故サイドスラスター等を使って射撃軸と進行方法にズレを作らなかったのか、という事だ。


 F-3Dは第五世代戦闘機の例に漏れず、水平斜め飛行が可能な機体なのだ。

 そうすれば、少しは被害は防げたのかも知れなかった。

 あくまで結果論に過ぎなかったのだが……。



 爆発の煙から、二つめもやはり黒色火薬を使った爆弾であったことが分かる。

「信管はどうなっているのかねぇ?」

 篠塚の疑問は当然で有るが、この風船爆弾に搭載されている信管は地球で使われるような『感圧式信管』ではない。


 シナンガル南部で得られた小型魔獣の首の骨から作られた『魔法石』がアネロイド気圧計と連動して簡単な発火能力を持つようになっていたのだ。

 魔法石の製造は簡単なものでは無い。

 しかしルーイン・シェオジェはその初期問題の突破に成功し、議会に報告された内容だけでも『発火』、『通信』の2点に於いて大きな研究成果を生み出していたのである。


 その上、問題はフェリシアの一部バロネット達の行為である。

 彼らが交流地でシナンガルに流していたゴミのような魔法石。

 其れですらも爆弾の導火線に火を灯す程度の『発火能力』は持ち合わせていた。

 この数年でどれ程の数が、シナンガルに流れたのであろうか。

 バロネット達は知らず知らずのうちに、母国を危機に(さら)し続けていたと言える。



 そして西井、篠塚にとって運命の第三射が行われた。

 先の二度と同じく木箱に命中する。


 その瞬間、空中に真っ白い霧が現れた。

 重み(バラスト)を失った気球は一機に上昇して行く。

 その上昇の際に引き起こされた気圧変化さえも其の霧を一面にまき散らした。


「しまった! こいつだ!」

 西井の叫びは遅きに(しっ)したとしか言えなかった。

 (わず)か三百メートルの距離。

 撒き散らかされる“白い霧”


 いや、それは霧ではなく“粉”である。

 普通ならば無害な代物だ。

 もし小さな子供が『其れ』が空から降ってきた場に居合わせたなら、喜び、飛び跳ねるであろう。

 だが、『甘美と死は隣り合わせ』とはよくぞ言ったものである。


 其の霧を、いや撒き散らかされた粉をF-3Dのエンジンは充分に吸い込んだ。

 反面キャノピーに張り付いた粉は、大気に紛れた水蒸気で見る見る液化して視界を塞ぐ。

 いや、本来は視界を守る為の露滴凍結(ろてきとうけつ)防止装置までもが、逆に『それ』をキャノピーにしっかりと貼り付けてしまう有様で最早、前方は何も見えない。


 反面、エンジンに飛び込んだ“粉”は一時は多少の水分を含んだものの機体の熱によって其の水分を再度奪われ、タービンファンによって攪拌(かくはん)されると再び純粋な粉に戻って行く。


 エンジンに飛び込んだ“粉”、それは地球では“スクロース”と呼ばれる物質である。

 水に溶けやすいが、完全に乾燥した中での燃焼速度は純粋炭素の約二倍。

 粒子の大きさは二十ミクロン前後であり、その分子構造は炭素が大部分を占めるが、粒子が通常の炭素より小さい為、燃焼速度が通常のそれを上回るのだ。


 早い話が、限定された空間に於いて僅かな火種があれば燃焼速度の極端な速さから、凄まじい爆発を起こす代物である。


 そして驚く無かれ、その正体は『パウダー化した白色砂糖』であった。

 ケーキなどに使われる“それ”と全く同じものである。


 余り知られていないが、砂糖は水分を含まない純粋な『炭素化合物』であり、同一条件下に於いての粉塵爆発時の爆圧は石炭のそれを軽々と越えてしまう。


 霧に突っ込んだ西井-篠塚機のエンジンは二基ともほぼ同時に爆発した。

 吸収量から爆発圧力は差程(さほど)のものでは無かった。

 しかし、内部の動力ポンプを破壊するには充分すぎる威力であり、燃料である通常航空燃料(ケロシン)及びラムジェット用液化水素は一気にエンジンに流れ込む。

 安全装置の中和剤タンクは真っ先に吹き飛んだ。


 引き起こされた二次爆発は機体後方の右半分を見事な程にもぎ取ることに成功している。

 激しくロールする機体を持ちこたえる(すべ)など、如何(いか)に熟練のパイロットと言えども、もはや持ち得ない。


「篠塚! 篠塚! 脱出しろ!」

 背後から前席まで飛び込んできた血糊と肉片、そして何より篠塚からの返事は無い。

 それでも最後まで西井は篠塚に声をかけ続け、機長として脱出を命じる。



 緊急時信号エマージェーシー・コールの発信から二人の中尉の殉職まで僅か十数秒間の出来事であった。





今回のサブタイトルはパトリック・オリアリーの「不在の鳥は霧の彼方へ飛ぶ」より頂きました。

幽霊の絡むSFってなんだか精神的量子理論にからんだ感じがして好きですね。

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