「かみさまのお花見」
駅前にある行きつけの花屋。ここで私は神棚に供える榊を買う。店の人も私の顔を覚えたのか、入るとすぐ「榊一対ですね」と声をかける。仏花とか母の日のカーネーションとか買うかもしれないじゃ無いかと思うが、実際はそれしか買ったことがないのだから仕方がない。
一対の榊を手に家に帰り、神棚に供えようと包んでいる紙を剥がす。濃いめの青緑をした固めの葉を裏返すと、表とは違ってくすんだ色合いの裏面が現れる。表の鮮やかさと裏のくすみ具合は、まるで舞台のセットのようだ。その裏側、茎の部分に小さな白い球のようなものを見つけると、思わず顔がほころびる。
(春が来たなぁ)
私が春の訪れを感じるのは、街路樹の梅や桜の花では無い。唐突に目のかゆみと鼻水をもたらす花粉症でも無い。この榊の葉の裏側にちょんとついてくる、白い、小さなつぼみである。
この小さな白玉に気がついたのは、神棚に榊を供えるようになって最初の春だ。最初の印象は「なんだこれ?」という身も蓋もないものだった。特に気にしなかったのだが、毎日水を取り替えるうちに、その白い小さな球は綻びはじめ、やがて小さな花となった。ここで私ははじめてこれが榊のつぼみであり、花であることを知った。花の存在に驚いたのは2度目、100円ショップで買ってきたテーブルヤシが成長し、花を咲かせたとき以来だ。テーブルヤシの花は、葉の部分とはあまりにも違いすぎて、最初は別の植物が絡みついているのかと思ったが、これはどこからどう見てもこの植物の花だ。白い花びら、先端が黄色い花弁。のぞき込むと「いや、おじさん見ないで」とか言いそうなぐらい小さな子供感がある。
そんな感想を持ってしまうぐらい、榊の花は隠れるように咲く。隠れると言ってもかくれんぼのような隠れ方では無い。書いたように、榊のつぼみは葉の裏側につく。そして神棚には葉の表側を外側に向くように供える。だから神棚に供えると、人の目には鮮やかな葉ばかりが目に入り、裏側は全く見えない。だからつぼみは人の目に触れることは無い。しかし神棚(神様)側からは丸見えだ。まるで人見知りの子供が、突然の来客に慌てて物陰に隠れるような感じ。しかしここには「ほら、そんなとこにいないでお客様にご挨拶しなさい」と言う家族はいない。
人の目からは隠れたつぼみは、日が経つにつれ綻び花を咲かせる。多いときには10以上の花が寄り添うように固まって花を咲かせる。その可憐さは、華やかな桜とは対照的だ。満開になった榊を神棚に供え直すとき、思わず「綺麗に咲きましたよ」と神棚に報告する。神棚からは花がよく見えるのに。
もしかして、榊の花が葉の裏側につくのは、神様に見てもらうためなのかも知れない。表側に咲いては神棚からは見えないからだ。神棚は家の中、それも高い場所にあるため、外の様子が見えない。窓があっても神棚の位置からでは外はほとんど見えないだろう。考えてみると、随分面白みのない位置にある。神棚にはその家の守り神が住んでいるというのに、ずいぶんな話である。そんな神棚に住む神様に、少しでも楽しんでもらおうと榊は神棚からよく見える位置に花をつけるのかもしれない。
神様、年に数日の榊の花見、ゆっくり楽しんでください。
と書き終えてふと気がついた。榊が鮮やかな葉を人間達に見せるのに、花をその裏側で隠すよう、神様にだけ見えるよう咲かせるのは人間に対する小さな嫌がらせかもしれない。
(人間さん。私の葉っぱの綺麗なところはあなたたちに見せましょう。でも、1番綺麗な花は神様だけにお見せします。これを人間達に見せるなんてもったいないですから)
……なかなか良い性格しているじゃないか。榊さん。
(おわり)




