04 処女の匂い
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温かい波の上を、ゆら、ゆら、とたゆたうような心地好い感覚の中、ルチは、はっと我に返る。
(あれ、俺、いつ、“いい”って返事したっけ……?)
触れていいかって聞かれて、それで……。
記憶の元を辿るも、もやもやとした白い霧に覆われて、求める答えは何も見えない。
けれどすぐに、そんなことどうでもよくなる。
ルチはいつの間にか仰向けになり、美しい男に見下ろされていた。
――夢……じゃないん、だよね……?
ユリウスとのこういった夢は、今までに何度も見たことがある。しかし実際に行為をしたことのないルチにとっては、なんとなく気持ちがいいとは感じながらも、その感覚すべてが、ぼんやりとした曖昧なものでしかなかった。
なのに、今は――。
――夢の中と、全然、違う……。
「ルチ……」
薄闇の中、ユリウスは手の甲で自らの口を拭う。その溢れ出るような色気に、ルチはたまらず喉を鳴らした。
ルチを見下ろすユリウスの空色の瞳には、ギラギラとした熱が滲んでいる。
こんな自分に欲望を感じてくれているのが嬉しくなり、ルチの腹の底が、じわ、と熱を持った。
ユリウスが微笑み、ルチの下腹に手のひらを置いた。そして、そっと、愛おしげにするすると撫でる。
「ルチはもうすぐ、処女じゃなくなるな。この中の形は、もう一生、今の形には戻らない」
嬉しそうに話すユリウスの言葉を聞き、「え?」とルチの胸がビクリと跳ねる。
そんなこと、当たり前だ。
わかっていたはずなのに、今更、思い出す。
そうか、そうか、俺、これから……。
目線を上げて、ユリウスの頭の上のユニコーンの角を見つめる。
ユリウスはユニコーン獣人で、言い伝えどおり処女が好きなはずだ。嫁にと望むその人に、たったひとつだけ条件をつけるくらいに。
そんなだからきっと、こんなルチでも嫁にと受け入れてくれたのだ。
もしも自分が、このまま処女でなくなったらどうなるだろう?
処女の匂いのなくなった、ただの男など価値はないと、興味がなくなって、嫌われてしまったら……?
想像しただけで、ルチはゾッとした。
……それはかなり、つらい。悲しくて、たまらない。
自分はやっと、会いたくてたまらなかった人に、ようやく会うことができたのに……。
ルチは急激な不安に駆られ、ユリウスを見つめる。
「……ユリウス様、お、俺……処女……じゃなくなるの……やです……」
ユリウスの瞳が、驚いて大きく見開く。その顔に一瞬浮かんだ悲しげな色が、みるみるうちに獰猛な何かに変わっていく。
「……ルチ……なぜだ……?」
今までにない強い力で肩を掴まれる。
初めて見るユリウスの燃え上がるような表情に、ルチは恐怖で背筋が凍った。
「ルチ、どうしてだ……? やっと、本物のルチに、触れられたというのに……どうか……俺を、拒まないでほしい……」
「……だって……」
本当は、一刻も早くユリウスに触れてほしかった。
でも、きっと、そうしたら……終わってしまうのだ、すべてが。
ユリウスを失う恐れが込み上げて、胸が張り裂けそうになった。
視界が勝手に滲んできて、感情が波打ちわけがわけがわからなくなる。溢れ出す思いをそのままに、ルチは思い切って言葉を吐き出した。
「あっ、お、おれ、ユリウス様の好きな、しょ、処女じゃ、なくなるの、やなんですっ……」
「……っ?」
「すっ、好き、なんですよね? 処女の、におい……」
ルチは潤んだ瞳で、震えながらユリウスを見上げる。
驚くように目が見開かれると、険しかったユリウスの表情が、ふっと緩む。
ルチが不思議に思うと、その美しい空色の瞳の中に、雲間から光が差すような安堵の色が浮かんだ。
「ルチは、俺のことが嫌なわけではないのだな?」
「……いやな、わけ、ないです……だって、おれ、ずっと、ずっと……好きでっ……」
ユリウスは、愛おしげに微笑んで、ルチの体に腕を回した。そして、力いっぱい抱きしめた。
「処女かどうかなんて、もう関係ない。だって、俺が心から愛おしいと思うのはルチだけだ。匂いだって、ルチのものだから好きなんだ。別に、処女だからというわけではない」
ぴたりと触れた肌から、ユリウスのトクトクと鳴る鼓動を感じる。
ユリウスの温かな体温がしみ込んでくるにしたがい、ルチの体の強張りが、ゆっくりと溶けて消えていくのを感じた。
「……え……じゃあ、この後、俺のこと捨てないですか……?」
「当たり前だ! ルチはそんなことを心配していたのか?」
「はい。だって、俺には、それしかないし……」
ユリウスの空色の瞳が細められる。長い指が、ルチの髪をゆっくりと撫でた。心から愛おしいというかのように、優しく。
「俺が処女と村の者に伝えたのは、たとえ離れていても、ルチが俺だけのものであって欲しかったからだ。他の者が、ルチに絶対に触れることがないように。だから別に、処女だからという理由だけでルチを娶ったわけではない」
どういうことなのだろう?
さっきから言葉の端々に、まるで自分が嫁に来るのを待っていてくれかのような台詞が混ざる。
自分がそうだったように、ユリウスも自分のことを、ずっと想っていてくれていたのだと。
処女だから、じゃないのか。
処女でなくなっても、大丈夫なのか。
こんな幸せなことがあっていいのだろうか。
好きな人に、想われて。
そしてこうして、触れることができて。
ルチの胸に、たまらない気持ちが込み上げる。
ユリウスが、この上なく嬉しそうな笑みを浮かべた。
「この先も一生、大切にすると誓う。だから安心して、処女を捧げてくれ。ルチ」
甘い言葉と共に、頬に柔らかく口付けられる。
ユリウスの腕の中で、ルチは静かに頷いた。
ーー俺はこれから、何か変わるのかな?
どうなるのか、まるでわからなかった。けれど、これから先もずっと、ユリウスのものでいられるならば、それならもう、何でもいいや……と思えた。
そしてユリウスの温かな胸に、ルチはただ身を任せたのだった。