03 処女とユニコーン
はっと気が付くと、ルチは大きな寝台の端に腰かけていた。
何かの魔法なのだろうか? 一瞬で周りの景色が様変わりしたことに、ルチは驚きを隠せなかった。
森の匂いを纏った心地良い夜風が、開け放たれた大きな窓から入ってくる。その先には煌めく泉と、夜空に浮かぶ三日月、そして無数の星々が輝く。
そしてなぜか自分の膝の上にはユニコーン獣人の顔があった。本当に獣人なの? と疑問に思うくらい、人らしき要素は何一つ見当たらない完全なユニコーンだ。頭に真っ直ぐな角をもつ、純白の美しい馬だった。
うっとりと気持ちよさそうにルチの膝に頭を載せて、ぐりぐりと腹に頬を擦り付けている。
それにしても美しい馬……じゃなかったユニコーンだ。睫毛は長く透き通るようなのに光の粒が入ったみたいにキラキラとしていて、たてがみは撫でるたびに色相が変わる淡い虹色、身体は真っ白なツヤツヤとした体毛で覆われて、見ているとチカチカと目がくらみそうだった。
しかもさすが幻獣というべきか、通常の馬のような獣臭がまったくしない。何か朝の森の中にいるような、清らかないい匂いがする。
長い睫毛がぴくぴくと震え、うっとりと細めた瞼がゆっくりと開くと、煌めく空色の瞳が現れて僅かに光の粒を弾いた。
きれいなだなあ、と思わず見惚れた瞬間、ルチの視界はくるり、と反転した。
視線の先に見えた天蓋で、寝台に押し倒されたと気づき、ルチは大きく目を丸くする。
ユニコーンの鼻先が近づいて、頬を長い舌でべろりと舐めあげられた。そのままおでこを、耳を、口を、湿った長い舌でべろべろと舐められる。
「へ……? あ、あの? 待って……ちょっと、待って、ください……うぅ」
声を上げるも、ユニコーンはやめる気配がない。
顔中を舐められて、うまく呼吸ができない。「うっ、あっ」と情けない声が漏れる。口の端からとろ、と垂れてしまった唾液すら、大切なものであるかのように丁寧に舐めとられる。
それは今まで馬たちに手や頬にされたことのある戯れな舐め方とは明らかに違っていた。その執拗な舌の動きには、発情期の牡馬が雌馬に向けるような、性的な欲望が滲んでいた。
ルチは焦った。
ええと、俺はもう、このユニコーンの、嫁なんだよな? ということは、この流れは、やっぱり“あれ”なのかな……?
いや困る。この姿のまま“あれ”をされるのはとても困る。
馬は大好きだけど、自分にそのような趣味はないと思いたい。
ああ、でも、でも、このままでは、何かとてもまずい気がする。
獣人と聞いていたので、できればもし可能であれば、せめて人の姿になってはもらえないだろうか……。
大きな舌を受け入れながら「ううっ」と涙目になっていると、ユニコーンは突然、すっとルチから身体を離した。
ルチはようやく解放され、ぷはっと大きく息を吸う。荒い呼吸を整えながら、潤んだ瞳をぱちぱちと瞬いた。
次の瞬間、ユニコーンがまばゆい光に包まれる。
長い顔は徐々に縮み、前脚の蹄は5本指に分かれ、被毛は空気中に溶けていくかのように消え、つるりとした色白な人肌に変わっていく。
まっすぐでサラサラな淡い虹色の長髪と空色の瞳はそのままに、すらりとした人間の男がルチの目の前に姿を現した。
「わっ……あっ、貴方は……? え? ユニコーン様……?」
人と違う事と言えば、頭の上に真っ白でピンと立った馬の耳が生えていること、背中の下から髪と同じ淡い虹色の毛のサラサラとした尻尾が生えていること、そしておでこの少し上から、銀色のまっすぐな角が生えていること。
ユニコーン獣人というのは、こんな風に人の身体に幻獣の特徴が合わさったものだったのかと、ルチは初めて知る。
「あっ、えっ? うそ……」
その姿を見て、ルチの心臓が早鐘のようにドクドクと脈打つ。
それは目の前のユニコーンが突然人の姿に変わったからでも、その男がまるで神話の彫像に命が吹き込まれたような恐ろしく美形の男だったからでもなかった。
ルチは、この美しい人を知っていた。
もしかして、もしかして、この人は……。
「ユリウス様……?」
見間違えるはずもない。この空色の瞳も、色素の薄い髪色も、子供の頃に一度だけ会ったルチの輝く初恋の人だった。
(うそ……うそ……こんな、ことって)
ルチが驚いて目を見開いていると、美貌の裸の男は優雅に寝台の横に手を伸ばし掛けられた薄衣を軽やかにふわりと羽織った。ゆったりと腰紐を結ぶと、長い睫毛の生えた瞳で、嬉しそうにルチを見つめて微笑む。
「俺の名を知っていたのか? 嬉しいな」
寝台の上で身体を起こしたルチに、美しい男がふわりと腕を回す。
「わっ、なんですか!?」
「ルチのおかげなんだ。この姿に戻るのは何年ぶりだろう? これでやっと、こんなふうに本物のルチを抱きしめることができる」
先程ユニコーンにされたのと同じように、ユリウスにすりすりと頬を擦り付けられる。その動きからも、先程のユニコーンと目の前のユニコーン獣人が同一人物なのだとルチは実感することができた。背の高いユリウスはルチより一回り大柄で、抱きしめられると広い胸の中ですっぽりと抱き込まれてしまうかのようだった。
――夢、じゃないの……?
実際ルチは夢の中で、子供の頃からこうして何度もユリウスに会ってきた。
しかしその夢は、思春期に差し掛かるにつれルチの欲望が混ざり合ったものへと徐々に変化していった。こんなことをしていいものかと思いながらも、止めることができなかった。
その強烈な夢のせいで、大人となった今となってはルチの欲望はすべてユリウスに起因するものとなってしまったほどだ。この肖像画に描かれた人は目元がユリウスにどことなく似ているなとか、この布地はつやつやとしてユリウスの髪色に似ているなとか、彼の面影を微かに感じるだけで、顔が熱くなり、ドキドキと胸が高鳴った。
そして今、そんなルチの理想そのものである本人が、目の前にいる。
――しかも、俺の結婚相手として。
こんなに幸せすぎる状況があっていいのか? と心配になるほどだった。ついに現実と夢の区別がつかなくなってしまったのかと、ルチは自分自身の認知力を疑う。
しかし抱きしめられたユリウスの胸の中は温かく、頬に湿った呼吸を感じ、肌からは朝の森林のような清らかないい匂いもした。
それは夢の中の朧気な記憶を元に作られたどこか曖昧なユリウスとは明らかに違っていて、はっきりとその姿を見ることができ、声を聞くことができ、温もりを感じることができた。
「……あの……ユリウス様……本物、なんですか?」
「本物……? ああ、もちろんそうだが?」
なんでそんなこと聞くの? とでも言いたげに、ユリウスは小首をかしげてルチを見つめてくる。
だって何度も夢で……と言いかけてぐっと言葉を呑み込んだ。だめだ、こんなこと突然言い出したら、変な奴だと思われてしまう。
質問の意図を少しずらして、もう一つの気になっていることを聞くことにする。
かつてルチが見たユリウスは人間で、今のように耳や角は生えていなかったはず。
「あの、ユリウス様は、以前は人のお姿でしたよね? 今は獣人で……姿を変えることができるのですか?」
「そうだ、ルチが触れさせてくれたから、ルチの持つ気の力で、こうして人に近い姿に戻ることができた。これでようやく話もできる。もう少ししたら、完全な人の姿にもなれるぞ」
抱きしめられながら、顔中に形の良い唇が、ふに、ふに、と雨のように降ってくる。無数の口付けを受け止めながら、ルチは「あ、あのっ」と堪らず声を上げた。
「……本当に、俺で大丈夫なんでしょうか? 処女……処女? って感じですし、若くもない男です。純潔の方はもう、絶対的に自信を持って保証できるのですが」
「もちろんだ。ルチは、とてもいい匂いがするな。俺の大好きな匂いが」
「そうなんですか……?」
ユリウスはスンスンとルチの首筋に鼻を寄せては、恍惚とした表情を浮かべている。
伝説によれば、ユニコーンは処女の匂いに吸い寄せられると聞いた。こんな自分からも、もしかしてその“処女の匂い”とやらがするのだろうか?
一体どんな匂いなのかと顔を顰めるルチにはお構いなしに、ユリウスはぎゅっと抱きしめる腕に力を込める。
そして歌うように、ルチの耳元で囁いた。
「ルチ、ルチ。愛しい、愛しい、俺の嫁。この日をどんなに待ち侘びていたことか」
楽器でも奏でるように、ルチの胸から腹にかけてをするすると撫でながら、ユリウスはその先にある下肢に長い指を伸ばした。
「……触れてもいいだろうか? ルチが俺のためにずっと守ってきてくれた、この大切な場所を」
そう言ってユリウスは、熱の滲んだ空色の瞳で、嬉しそうにルチを見つめた。