02 処女の名は
ルチは童貞処女だった。
清い身体……と言えば聞こえはよいが、ただ単にそういったことにまるで縁がなかっただけだった。これまでの30年の人生ずっと。それはもう、悲しいほどに。
これといった特徴のない地味な見た目と、身体は小柄寄りの中肉中背、しかも裕福でもなんでもない質素な暮らしの農夫だ。体格が良く地位のある美男子を好む者からしたら、惹かれる要素なんてまるでない。
そしてルチは、実は昔から男が好きだった。そのことに気づいたのは、初恋の人が男だったからだ。
その人のことを、ルチは密かに想い続けていた。一度きりしか会ったことがなく、決して結ばれることはないとわかっていても、心の中でその想いを大切に抱き続けていた。
だから他の相手を探す気になれず、その上声をかけられることも一切なかったため、誰ともそういった関係を持たないまま、いつの間にかこの年齢にまでなってしまっていた。
しかしこの無駄に持て余していた純潔が、まさか役に立つ日が来ようとは。
村長という地位は祖父がそうだったからという理由で引き継いだだけだ。農夫をやる傍ら無償でこなす損な役回り。他に誰もやりたがらないからやっているというだけで、おそらく自分がいなくなれば、そのまま叔父か従兄弟に何の問題もなく引き継がれるだろう。
今までもこれからも、孤独に生きて、華やかな事なんて何一つ起こらず、働いて、働いて、死んでいくだけだと思っていた人生に、 突然降って湧いた大事なお役目。
“ユニコーン獣人に嫁ぐ”なんて、信じられないくらいの重責だ。
不安に駆られながらも、相応しいと言われて特に断る理由が見つけられなかったルチは、一族のためこの村のため、二つ返事でこのお役目を引き受けたのだった。
◆
ルチは山道を歩いていた。
この村の花嫁が結婚式で身につける伝統のレースがあしらわれたドレスはいるかと相談されたが「似合わないので」と丁寧にお断りして、代わりに長年肉体労働に勤しんできた身体に真っ白な繻子の長チュニックを身に着けている。普段よりスースーする足元を心許なく思いながら、底の薄い革靴をぺたぺたと踏みしめ石ころだらけの坂を登っていく。
後ろからついて来るのは村の代表20人で、その手には夜光花と呼ばれる光る花が一輪ずつ握られている。無言でぞろぞろと厳かに歩く様を、ルチはチラリと横目で覗き見た。
ユニコーン獣人の嫁に選ばれたわけだから、ルチが童貞処女であることはこの場にいる全員が……というより村人全員が知っているのだよなあ、という事実がふいに頭をよぎり、胸の中に猛烈な羞恥が襲ってきた。思わずその場に「あ――っ」と叫びながらうずくまりたくなったもののそんなことは許されない。ルチは日が沈むまでに、村人を率いてこの山のてっぺんに行かなければならないのだ。
村が襲われた時の記憶は、当時まだ赤子だったルチには何一つない。
ユニコーン獣人が人である時の姿は、昔祖父が話すところによれば大変な美形であるらしい。一方で幻獣の姿へと変化したユニコーンはとてつもなく獰猛であったとも聞いた。村を襲った翼竜の固い鱗も一突きで貫くほどの強靭な角を持ち、神秘的な力で翼もないのに自由に空を駆けることができたのだという。
書物の伝説によると、ユニコーンは処女の匂いを好み寄って来るが、違うと分かれば怒り狂って食い殺すこともあるらしかった。
その話を思い出し、ルチはゾッとした。
自分の身体の清らかさについては、悲しいことに、この世のすべての人に胸を張れる。
ただ「処女」であるかと問われれば自信がなかった。
だって自分は正真正銘の男だ。
「ルチ、着いたぞ」
山の上の祭壇は、緑の木々の間に聳え立つ白い大理石の建物だった。眼下には峰々が連なる絶景が広がる。
ちょうど今は西の山頂に、太陽の端が接したばかりの夕焼けの時間。
ルチは屋根のない祭壇の大理石の床の中央に跪くと、村人から夜光花を一本ずつ受け取った。すべてをまとめて両手で抱くと光り輝く花束ができた。
完全に陽が沈み夜の帳が降りた時、この花束の光を目印にユニコーン獣人がこの場所に降り立つのだという。
「ここでお別れだ。ルチ、本当にありがとう。本当に」
村人たちは口々にお礼の言葉を告げ、静かに山を下りて行った。
ぽつりと山頂に残されたのは、ルチ一人。
白い大理石の床の上に座り込み、太陽がゆっくりと山の中に沈んでいく様をぼんやりと眺めながら、ルチは思った。
自分の人生は、もしかしたら今日、終わるのかもしれない。
村からユニコーン獣人に嫁ぐのは自分が初めてだ。このあと何が起こるのかまるでわからなかった。
こんなにも心細い気持ちになるのかと、涙がにじむのを感じた。
他人事としてこの残酷な役目を年若い娘に押し付けようとした無神経な過去の自分を殴り飛ばしてやりたくなった。
今ここにいるのが自分で、本当に良かったと心から思う。
ユニコーン獣人に会った暁には、この三十年に一度のお役目がなくてもなんとかしてもらえないか交渉してみよう。
もしも自分を気に入ってもらえなかった場合も、村にだけは被害が及ばないように全力で頼み込もう。
この不幸な風習は自分で最後にするんだ。絶対にそうしよう、何がなんでもそうしよう。殺される前にどうにかして。元村長として、様々な問題を解決してきた経験を活かして。
しかし呆気ない最後になってしまうかもしれないが、これまでの人生そう悪いものでもなかったと思い直す。
こんな自分だが、たった一人だけ恋をした人がいた。
その人は祖父の客として家に来ていた、空色の瞳をもつ年上の美しい青年だった。
こんなに綺麗な人がこの世に存在するのかと見惚れていたら、柔らかくそっと微笑んで、まだ子供だった自分の頭を撫でてくれた。綺麗なだけじゃなくて優しいなんて、と一瞬で夢中になった。
後日、祖父にあの人は誰だとしつこく聞き続けていたら、はじめは教えてもらえなかったもののしばらくすると折れてくれて、他の情報を一切聞くなという条件で名前だけ教えてもらえた。
その人の名前は“ユリウス”。
音の響きまでなんだか美しく感じられて、ルチは呪文のように毎日何度も口の中で唱えた。けれどそのユリウスとは、それきり会うことはできなかった。
あんなに美しい人だ。きっとどこかのお貴族様か何かの高貴なお方に違いない。もう会えなくても仕方がないと思いながらも、会いたいと強く願っていたからだろうか。ルチが眠りに落ちたあとの夢の中に、ユリウスは何度も会いに来てくれた。
両親を事故で亡くした日に泣きながら眠った夜も、夢の中でルチの頭を優しく撫でて「俺が家族になるよ」と微笑んでくれた。
それは自分が勝手に見たただの夢だったけれど、もしも現実だったらどんなに良いだろうとルチは夢の中でも再び涙を流した。
暮れゆく夕焼け空を眺めながら、そんな淡い恋心を最期に思い出せたことを、ルチは心から嬉しく感じる。
自分が好きになれたのはあの人だけだ。あの人でないならば、嫁ぐなら誰でも同じだ。人間であっても、ユニコーン獣人であっても。
いつの間にか太陽は完全に沈み、辺りは濃い暗闇に包まれていた。周囲に一切の光源はなく、見えるのはルチの手の中の夜光花の花束のみ。
その先に広がる吸い込まれそうに真っ暗な夜空を、ルチはただ、ぼんやりと眺める。
すると突如、山頂に嵐のような強風が吹き荒れた。
目を開けていられず、堪らず手で顔を覆う。
風が弱まり、指の隙間から恐る恐る覗き見れば、その先の夜空に見えたのは、光り輝くユニコーンの姿だった。
――本当に、来た。
周りには激しく風が吹き荒れて、七色に煌めくたてがみが空気の流れに合わせサラサラと靡いていた。
はじめて目にした神秘的な美しさに、思わず目を奪われる。
「……ユニコーン様、でしょうか?」
恐る恐る問いかけるも、返事はない。
ユニコーンが大理石に音もなく降り立つと、一歩、また一歩と近づいてくる。ルチはその恐ろしくも美しい姿に恐れ慄き、身体が勝手にガタガタと震え出した。
(男の俺に、怒っている? 俺、やっぱりここで食い殺される?)
す、と鼻先を目の前に寄せたユニコーンを直視できず、ルチは思わず、ぎゅっ、と目を瞑った。