第9章 全てを洗い流す刃は、最初から血で濡れていた?
夜の色は、まるで潜流の奥深くでまだ目覚めぬ旧き夢のように、そっと都市の上空へと沈み込んでいった。
北城区の潜流シールドが上空で低周波の振動を起こし、青銀色の膜がゆるやかに流れるオーロラのように地表に映り、肉眼ではほとんど見えない微かな波紋を広げていた。
念安と澄川は、廃墟となった住宅ビルの屋上に立っていた。風はシールドの縁から吹き下ろし、潜流粒子を含んだひんやりとした空気を運んできた。
二人は、最も端に位置する一室をドリフトノード(Drift Capsule)として借り、仮設の潜流解析装置を組み立てていた。
薄暗い光の中、机の上にはあの小さな共鳴ペンダントが置かれている。
念安はしゃがみこみ、そっとそれを両手で包み込むように持ち上げた。指先にひやりとした感触が伝わる。
脳裏には、あの午後、沈以安の母がそれを手渡してくれた時の情景が、まだ微かに響いていた。
—
あの日。
彼女は軍部のマークが入った携帯ショッピングバッグを手にし、標準的な灰白の私服をまとい、髪をきちんとまとめていた。
都市によくいるごく普通の中年女性のように見えた——整っていて、清潔で、波風一つない。
だが、念安がその家の扉の前に立ったその瞬間、違和感をはっきりと感じ取っていた。
——それは、ほとんど本能に近い感覚だった。
彼女の潜流核の外縁には、細かく脆い亀裂が無数に走っていた。押し殺され、凍りつき、それでも崩れまいと必死に震えていた。
「……以安は最近とても忙しいのよ」
「たまに帰ってきても、決まって笑顔でね、ちゃんと……いい子にしてるわ」
沈の母は、微笑みながらそう言った。完璧な笑顔、完璧な声の調子だった。
けれど、念安はその一瞬に見たのだ——
彼女の瞳の奥に、深く沈んだ影があった。潜流の裂け目の底で、音もなく溺れていくかつての光のように。
彼女の手はかすかに震えながら、袋の中から小さな箱を取り出した。
開けると——
そこにあったのが、このペンダントだった。
「……あの子が、私の誕生日にくれたの」
「これは……お母さんを守るお守りだって」
沈の母は微笑んだまま、ペンダントを念安の手のひらに乗せた。その指先は、凍りついた石のように冷たかった。
何か言いたかった。抱きしめたかった。慰めの言葉を探したかった。
でも沈の母は、ただそっと念安の指を押し返した。その仕草は、絶望に近いほど優しかった。
「もし……あの子が何か残していたなら、」
「お願い、託します」
その瞬間、念安ははっきりと悟った——
彼女はただの物を手渡していたのではなかった。
彼女は、自分に残された最後の希望と、最後の記憶のかけらを、極めて密やかに、そして尊厳をもって、二人の手に託していたのだ。
——もし、それでもなお、あの子が「彼女の子供」であるなら。
——もし、まだ「信じている」気持ちが彼女の中にあるのなら。
彼女は泣かなかった。
だが、念安が背を向けたその瞬間——
扉の向こうから、氷の層がひび割れるような、かすかな嗚咽が聞こえた。
—
ここまで思い出したところで、念安はまつげを伏せ、指先でそっとペンダントの表面をなぞった。
ペンダントは解析装置のプラットフォームの上で静かに横たわっていた。小さく、まるで都市の深海に凍りつかずに残った最後の光粒のようだった。
澄川はその背後に立ち、黙って彼女を見守っていた。彼の視線は夜のように静かだった。
彼は手を伸ばし、そっと解析ボタンを押した。
—
装置は、極めて低い周波数の微かな音を立てながら作動を始めた。
スクリーンには、混沌とした潜流粒子の雲が現れ、小さな光点が無数の波紋のように宙を漂っていた。
表層のデータは、極めて「きれい」だった。
——通常の共鳴物質による記録、標準的な祝福カーブ波帯、異常は見当たらない。
だが、澄川の眉間にはわずかな皺が刻まれた。
彼は低い声で呟いた。「きれいすぎる」
念安は深く息を吸い込み、深層スキャンプログラムを起動した。潜流粒子の雲がゆるやかに回転し、内部がわずかに歪み始める。
次の瞬間——フィルタが自動で除去しかけた、極めて微細な痕跡がそっと浮かび上がった。
——異常曲率碎片(Drift Anomalous Shards)。
—
念安の目が輝いた。すぐにそれをロックし、指先で光のスクリーンをすばやく操作する。
手動フィルターを呼び出し、バックグラウンドノイズを一層一層、丁寧に剥ぎ取っていった。
異常碎片は次第に鮮明になっていく。
断裂した曲線、歪んだ波帯、不規則に揺れる振幅。
——まるで、裂けた古傷のように。
あるいは……
澄川が低く呟いた。「潜流核が崩壊する直前の曲率残響だ」
念安の胸に、微かな緊張が走った。
これらの残片は、既存のどの標準テンプレートにも当てはまらなかった。
汚染でもない。
通常の同期異常でもない。
それらには、どこか奇妙で古い、律動があった。
—
澄川は比較システムを起動し、残片の曲率データを現行都市の標準テンプレートと照合した。
結果は、明白だった。
•現行標準同期テンプレートとの一致率:17%(極めて低い)
•五年前の旧型テンプレートとの一致率:9%(さらに低い)
•十年前の予備テンプレートとの一致率:4%(ほぼ無関係)
さらに深く——
データベースの奥底から、一つの古い、すでに「廃棄」とマークされた潜流テンプレート資料が浮かび上がった:
【Baseline Drift Manifold 0.91 Beta】
【稼働年代:31年前】
【ステータス:使用不可/アクセス不可】
一致率:94%。
—
部屋が静まり返った。
解析装置がかすかに低く鳴り続けているだけだった。氷の下で震える深海の流れのように。
念安は膝をぎゅっと抱え込み、指先が白くなるほど力を込めていた。
澄川は光のスクリーンを凝視しながら、骨に染み込むような低い声で言った:
「三十年前に使われていた旧型テンプレートだ……すでに失われたはずの」
—
空気には、潜流の裂け目の前夜に漂う気配が満ちていた。
言葉は交わさなかったが、二人の心臓は確かに同じ震え方をしていた。
念安はそっと目を閉じ、そして静かに口を開いた:
「以安……
自分が狙われていると、気づいてた。
でも、誰が敵かまでは分からなかった。
だから、未来に……誰か、読み取ってくれる人のために、
このひび割れた波紋を、残したんだ」
その声は、氷河に触れる風のようにかすかだったが、言葉の一つ一つが胸を貫いてきた。
澄川は身を屈め、額を念安の額にそっと重ねる。声は、ほとんど聞き取れないほどに小さい:
「彼は……最後の自由で、一つの灯火を燃やそうとしたんだ」
—
解析光が当たる中、机の上のペンダントは微かに震えていた。
まるで、彼らの囁きに応えているかのように。
まるで、最後の力を振り絞って、
こう語っているかのように——
——まだ、裂け目はある。
——まだ、自由はある。
——まだ、追い求めるべき道がある。
—
夜はますます深まり、ドリフトノードの外では、都市上空の潜流シールドが低く、静かに呼吸していた。
まるで眠る巨獣が身じろぎするように。
部屋の中では、解析装置が発する青白い光が、念安と澄川の影を壁に映し出していた。
二つの影は重なり合い、わずかに揺れながら、一枚の揺らめくシルエットとなっていた。
机の上では、異常曲率碎片が今も回転を続けている。
その曲線は歪み、波帯は細かく断裂し、まるで壊れかけた旧時代の信号が、静寂の中で断続的に呻いているかのようだった。
—
澄川はシステムを操作し、碎片の中に潜む潜流パルス特性をさらに再現しようとしていた。
念安は、机にもたれながら、一方の手で頬を支え、もう一方の手でスクリーン上に漂う波紋の図形を静かになぞっていた。
二人とも、言葉は交わさなかった。
だが、呼吸のリズムは、いつの間にか静かに、そして自然に、まるで同じ流れに溶けるように、ぴたりと重なり合っていた。
深海の中で、そっと交わる二本の潜流線のように——
—
データの再構築は、ゆっくりと、重く、進んでいた。
澄川は眉をひそめ、碎片からつなぎ合わされた曲率パルスの波形を見つめていたが、ふいに低く呟いた:
「……おかしい」
念安は驚き、すぐさま顔を近づけた。
光のスクリーン上には、断続的なパルスの波形が、静かに浮かび上がっていた。
それは、普通の潜流同期の曲率波帯には見えなかった。
むしろ——
それはまるで、何かの「旋律」のようだった。
澄川は素早く波形解析モードを呼び出し、パルスを聴覚スペクトラムに変換した。
解析装置が微かな電子音を立てたあと、部屋にはひとつの、極めて奇妙な旋律が流れ始めた。
ドン——ドン——ドンドン。
打音のようで、鼓動のようでもある。
テンポはゆっくりで、音程はわずかに歪んでいた。
何とも言えない、不気味な懐かしさを帯びていた。
念安ははっとして、その場に固まった。
目を閉じ、静かに耳を澄ませる。
ドン——ドン——ドンドン。
そして——
彼女はぱっと目を開き、息を詰まらせた:
「……この旋律、聞いたことがある」
澄川が身を乗り出す。「どこで?」
念安は記憶を探るように、長い沈黙のあと、遥か昔の、ぼんやりとした光景を思い出した。
それは、彼女がまだほんの小さな子どもだったころ。潜流基礎訓練の授業で、教官が一曲の奇妙な旋律を再生していた。
教官は言った——
それは、「城市精神统一颂歌(City Drift Unison Hymn)」。
潜流同期反射を子どもに訓練させるために作られた、古い曲だった。
その旋律は、歌というよりも、ある種の繰り返される潜流曲率の波形に近かった。
ゆっくりで、圧迫感があり、極度に「標準化」された響きを持っていた。
子どもの頃の念安は、こんなふうに思ったことがある:
——これは歌なんかじゃない。
——これは、「魂の調律」だ。
そして今——
沈以安のペンダントから再現された、この断片的な旋律は、あの「統一颂歌」の主旋律と、驚くほど一致していた。
—
「澄川」
念安が振り返る。彼女の目は、夜の火花のように、細く、鋭く、燃えていた。
「これは、ただの異常じゃない」
「これは……三十年前、第一次大規模同期浄化のときに使われた——
標準化潜流基底曲率テンプレートだったのよ」
—
澄川の指先がわずかに震えた。
光のスクリーンに触れた手が、ほんの一瞬、動きを止めた。
彼は低く呟いた。
「……もし、この碎片に使われていたのが初代テンプレートなら——」
すぐに、彼は潜流の歴史アーカイブを呼び出し、伝説とされていた「統一颂歌」の曲率スペクトルを抽出した。
二つの曲率曲線が、スクリーン上で徐々に重なっていく。
ドン——ドン——ドンドン。
旋律の重なり度:96%。
—
空気は、一気に凍りついたかのようだった。
念安は、服の裾を強く握りしめ、小さな声で言った:
「つまり……
仮生体を操り、以安を“すり替えた”存在は——」
「——初代の同期浄化テンプレートの曲率を知っていた人間じゃないと、できないってこと」
澄川はゆっくりうなずいた。
その声は、喉の奥で砕けそうなほど、低く、重い。
「それに……潜流基底システムを、実際に操作した経験がある者でなければならない。
じゃなきゃ、あれほど隠密かつ精密な同期侵蝕核は、埋め込めない」
—
二人は、短く、しかし極めて重い視線を交わした。
次の瞬間、澄川は即座に軍部の現行・最高権限保有者リストを呼び出した。
フィルタ条件を次々と重ねていく:
•三十年前、初代テンプレート設計に関与した者
•旧式の同期指令システムに精通している者
•現在も軍部中枢で活動中
•潜流操作資格ランクS以上
検索結果が浮かび上がる。
——名前は、ただ一つ。
スクリーンに、その名が淡い青の光を放ちながら、静かに表示された。
—
その瞬間、潜流解析装置が、極めて小さな「カチッ」という音を立てた。
まるで、氷河の下に走る微かな亀裂音のように。
都市の深部に眠っていた傷痕が、そっと開かれたようだった。
—
念安はゆっくりと指を伸ばし、その名前に触れた。
その声は、柔らかく、けれど、消えることのない決意を宿していた:
「——見つけたよ」
—
軍部北翼、封印アーカイブ区。
ここは長年にわたり潜流の遮断層で包まれており、外気よりも数度低い。
空気には低周波の潜流振動音がかすかに満ちており、まるで死海の底をゆっくりと流れる深流のように、重く冷たい。
历怀谨は杖を突きながら、薄明かりの長い廊下を一人歩いていた。
その一歩一歩、軍靴が床を打つ音は、潜流の緩衝層に吸収され、ほとんど無音に近い。
ただ、ときおり浮かび上がる感知光の帯が彼の横を通り過ぎ、影のように寄り添っていた。
男は、極めて簡素な灰色の軍服を身にまとっていた。
その肩章には、都市で最も古い銀の紋章が静かに光っていた。
都市の最深部——潜流の心臓部にて、彼はまるで倒れぬ記念碑のように、そこに在った。
—
封印アーカイブの扉の前、二人の潜流警備兵が機械のような無表情で立っていた。
历怀谨は腕に装着された認証核を静かにかざす。青い光の帯が彼の掌紋を走査する。
【権限認証完了——歴史特級アクセス許可・G1-Alpha】
重い金属の扉がゆっくりと開き、極寒の潜流気が押し寄せてくる。
アーカイブの内部には、半透明の潜流浮遊キャビネット(Drift Archive Pods)が静かに漂っていた。
まるで、深海に沈まぬ氷山の破片のように。
その中央には、一枚の巨大な崩れかけた標識プレートが、ひとつだけ取り残されていた。
そこには、かつての刻印がかすかに残っている——
【第一次全都市同期実験・残留データ区】
—
历怀谨は杖を頼りに、ゆっくりとこの「死んだデータの海」に足を踏み入れた。
彼の歩みは遅かったが、一歩一歩が異様なほど確かだった。
彼が探しているのは——
あの頃、慌ただしく封印され、ついぞ裁かれることのなかった「残響」。
—
キャビネットの中で、光の筋のようなデータの流れが次々と展開される。
そこには、かつて都市の潜流シールドが引き裂かれた痕跡が、克明に記録されていた。
潜流リンク崩壊曲線。
同期制御の逸脱点の追跡。
局地的なbasin異常膨張の軌跡。
そして——
早期の標準テンプレート操作記録。
历怀谨は一枚一枚の記録を丁寧に開き、指先で一つ一つのデータをなぞっていく。
急がず、ただ静かに。
封印された傷口を、ひとつひとつ開き、見つめ直すように。
—
ついに、極めて不鮮明なログの断片に、彼は立ち止まった。
それは初期の同期指令ログの一つだった。
大部分は意図的に破壊されており、残っていたのは断片的なタイムスタンプと、一連の判読困難な同期オペコードだけ。
だが、その破片の中に——
历怀谨の目が細められた。
彼は、見つけたのだ。
極めて微細な潜流指令のシグネチャー碎片。
湾曲の角度、パルスの幅、エコーの周波数……
すべてが、先日仮生体から検出された潜流侵蝕碎片の異常指紋と、驚くほど一致していた。
彼はそっと手を伸ばし、キャビネットの冷たく凍ったような表面に触れた。
その眼差しの奥に、ごく微かだが確かな裂け目のような光が灯る。
指先では、潜流粒子がかすかに震えていた。
それは、ただの振動ではなかった。
それは、都市の骨格——その最深部が、静かに泣いている音だった。
—
彼は知っていた。
あの男は——
三十年前から、この裂け目を、静かに仕込んでいたのだ。
そして今も——
彼は生きている。
軍部の中に、都市の「完璧に偽装された心臓部」に潜みながら。
静かに、次なる“供物”を待っている。
—
历怀谨は指先をそっと握りしめ、拳を作った。
喉がわずかに動いたが、何も言葉は出なかった。
ただ、ゆっくりと背を伸ばし、杖を支えに、踵を返す。
出口へと、静かに歩み始めた。
崩れた標識の前を通りかかった時、彼は一瞬立ち止まり、それを見つめながら、ひとつ咳をした。
それは、誰かに向けて——
あるいは、自分自身に向けた言葉だった。
「この都市が壊れるのを、俺は一度見た。
……だが今度は、貴様らの好きにはさせん」
—
彼が封印区を出たその瞬間——
遥か遠く、軍部作戦塔の頂きで、潜流シールドが、微かに脈打つ異音を発した。
それは、まるで——
警告のように。
あるいは、宣戦のように——
—
軍部最高指揮ホール、閉鎖モード起動。
潜流シールドは戦時振動周波数に切り替えられ、光は幽かな藍に近づき、空気は氷層下の水流のように薄く冷たくなっていた。
全ての通信・記録・監視は自動封鎖。
会議卓の中央には、全都市の潜流ネットワークが立体投影され、静かに、奇妙な光紋を回転させていた。
十五人の最高指揮官が、長いテーブルの両端に分かれて座っていた。
その一人一人が、極度に冷静な「標準化された」表情を湛えていた。
だが、潜流の振動ログは、それぞれの心中で密かに渦巻く「波」を、逃さず記録していた。
羅琦は第三席に座り、整った軍服に身を包み、穏やかな表情を保っていた。
彼の指先は机の下で、同期令牌の表面をわずかに撫でていた。
誰にも見えなかったが、その目の奥に、危うい光がわずかに灯っていた。
壇上、白瑾秋が冷静に口を開いた。
「仮生体の侵入および逃走事件は、極めて重大な性質を持つ。
潜流核の侵蝕は既に確認され、拡散のリスクは明白。
民間にも大規模な感染兆候が出ている。
全都市ドリフトリセット(Global Drift Reset)、これ以上は待てない」
その声は鋭く、反論の余地を与えない。
それはもはや提案ではなく、宣告に近かった。
—
历懐谨は目を半分閉じ、杖を握り、黙っていた。
その側に座る蘇遠征は、姿勢正しく、氷のような表情をしていた。
二人は沈黙した岩のように、会場の空気を圧していた。
だが、その沈黙の下では——
ひとつの見えない網が、密やかに張り巡らされつつあった。
—
表決プロセスが開始される。
各指揮官の同期令牌が光幕上に浮かび、承認待ち状態に入った。
羅琦はゆっくりと視線を上げ、会議室を見渡した。
その目は、冷静な顔を装う老練な者たちを、鋭くなぞる。
彼の唇の端が、ほんのわずかに、持ち上がった。
誰も気づかなかった。
ただ、潜流振動の記録装置だけが、彼の心拍がその瞬間、微かに加速したことを記録していた。
—
一票、承認。
二票。三票……七票……
次々とスタンプが落ちる。
白瑾秋は指先が白くなるほど力を込めてその様子を見つめていた。
历懐谨は沈黙のままうつむき、表情には一切の波がなかった。
蘇遠征は目を伏せ、何も語らなかった。
誰も異議を唱えなかった。
誰も反対しなかった。
すべてが——
恐ろしいほど、順調に進んでいた。
—
羅琦の指先が、自身の令牌に触れた。
掌には微かな汗がにじんでいたが、彼は意に介さなかった。
彼は知っていた。
自分は「勝った」と。
ボタンを押せば——
都市の潜流基底は、全体同期命令の下に再構築される。
すべての異常碎片、すべてのパルス偏移、すべての残された波紋——
すべて、ゼロに戻る。
すべて、消える。
その中には——
目覚めかけた魂さえも。
この都市に潜む、小さな自由の波紋さえも。
彼は、それらすべてを「洗い流す」のだ。
この都市を、自らが練り上げた熵合の軌道へと引き戻す。
—
今度こそ、失敗はない。
今度こそ、容赦はしない。
今度は、自らをもろとも——
自由熵流の中で、都市と共に、焼き尽くすのだ。
羅琦は深く息を吸い、その目に一瞬、抑えきれぬ狂気の火が宿った。
彼は手を上げ、指先を令牌の上にそっと置いた。
そして、都市の外縁に配置した潜流侵蝕核に、起動命令を発した——
—
その瞬間、会議ホールのすべての者が、息を飲んだ。
空気が張りつめ、裂けそうなほどに引き絞られる。
潜流シールドが頭上で低く震え、海が割れる直前のような音を響かせた。
羅琦は、笑った。
静かに——
その令牌を、押した。
【同期ゼロ化指令・認証確認】
—
指令信号が発信され、都市の潜流主脈に、極めて微細なプレ同期パルスが走る。
それは、導火線に火がついた火薬庫のようだった。
まさにその刹那——
历懐谨が、顔を上げた。
老人の目は深く、冷たい海のように澄み、声は凍りつくように低く鋭かった:
「羅琦——
お前、焦りすぎたな」
—
ドン——!
会議卓の中央、全都市潜流ネットワーク図が再構築される。
その上空に、暗号化された同期データの対照分析が浮かび上がった。
•仮生体の潜流侵蝕核指紋
•三十年前の災厄における潜流崩壊指紋
•潜流同期テンプレート改竄のログ
•旧型同期指令のパルス特性——
すべての曲線、すべての指紋、すべてのパルスが——
ひとつの出自に、重なった。
ひとつの名前。
あの災厄の現場から、決して離れなかった名前。
【Ruo Qi】
—
そのとき、羅琦が発した潜流侵蝕核の起動命令は完璧に阻止され、証拠群の最下部に投影された。
——逃れようのない、確証だった。
—
羅琦の身体がこわばった。
彼の手は、令牌の上で静止したまま。
時間が、凍りついたかのようだった。
—
全場、沈黙。
ただ、上空の潜流シールドが、低く軋む音を立てた。
まるで、ついに仮面を裂いた獣が、夜の中で咆哮するように。
—
羅琦は、ゆっくりと手を引いた。
その指先は震えていた。
だが、唇には、未完成の「微笑み」がまだ残っていた。
その笑みは、もう、崩れていた。
砕けていた。
空虚に成り果てていた。
彼は、呟いた。
その声は、氷を砕いて潜流に沈めたかのように、冷たかった:
「なぜだ……
なぜ……
お前たちは……抗うのか……」
彼は突然、顔を上げた。
その目には、狂気が宿っていた。
「この都市は、熵合へ還るべきだ!
自由に堕ちるべきだ!
延命など、無意味だ——
無意味だ! 無意味だ!!」
—
历懐谨が静かに立ち上がる。
杖を支えに、ゆっくりと羅琦へ歩み寄る。
一歩ごとに、その足音は、潜流シールドを叩く鉄槌のようだった。
蘇遠征は背後で、手を腰の同期抑制器に置いた。
白瑾秋の目は冷たく光り、戦いの気配に満ちていた。
羅琦はその場に立ち尽くしていた。
その体に、微かな潜流の亀裂が走っていた。
まるで崩壊寸前の氷の上に立つ孤島のように。
—
历懐谨は彼の前に立ち、静かに言った:
「羅琦。
ゲームは、終わった」
—
一瞬のうちに、潜流抑制ネットが起動され、会議ホール全体が封鎖された。
羅琦の潜流核は強制的に凍結される。
彼は、最後の呼吸さえ絶たれたように、立ち尽くしていた。
その目の奥には、死んでも消えない狂気の光が、微かに燃えていた。
—
その頃、都市の外縁にある軍部の外で、澄川と念安は静かに佇んでいた。
彼らの視線の先——
会議ホールの上空に浮かぶ潜流シールドの光が、
ゆっくりと、深く、安定した藍へと戻っていった。
—




