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Deviation  作者: Fickle
8/33

第8章 あの少女の中に、「偏移」はまだ咲いているか?

軍部最高作戦ホール。

内部シールドは「閉門会議モード」に切り替えられ、光は沈んだ青灰色に抑えられていた。

空気には浅い潜流震動の周波が漂い、まるで深海の底を静かに流れる冷たい潮流のようだった。


室内中央には都市の潜流ネットワークの全息マップが浮かんでおり、

びっしりと並ぶノード上では、赤い点がときおり点滅していた——偏移異常の統計を示すサインだった。


長テーブルの一端では、歴懷謹が杖を手に着席していた。

その額の皺は、まるで凍てついた氷河に走る亀裂のようだ。

白瑾秋は背筋を伸ばして立ち、まるで真っ直ぐに突き立つ冷たい刃のよう。

蘇遠征は中段に座り、両手をテーブルの上で組み、冷たく沈着な表情を保っていた。


沈箴と邵昊遠は、特別調査チームに新たに招かれた召集メンバーとして、こうしたレベルの会議に出席するのは初めてだった。


空気は、極限まで張り詰めていた。



咳払いひとつ。

羅琦が静寂を破った。


彼はいつもの穏やかで落ち着いた声で語り始め、そこには適度な理性と哀悼がにじんでいた。


「諸君、バイオ体の潜入および同期システムの乗っ取りという脅威は、もはや無視できません。

我々は、潜流基底防御機構(Baseline Manifold Defense Protocols)を再検討し、全都市の予備同期(Pre-emptive Drift Reset)を実施する必要があります。」


彼の指が浮かぶ光幕を叩くと、ぎっしり詰まった偏移波動の曲線が現れた。

どの線も、過去48時間で急激に上昇していた。



すかさず白瑾秋が続いた。

その声は鋭く、視線は冷たいスキャナーのように会議室を一掃した。


「分区域同期(Sectorial Reset)を即時実施すべきだ。

潜流曲率の異常領域すべて——情動波動が限界を超えた者、高頻度思考偏移者を含む——全員強制リセット対象とする。」


空気が、ぴたりと止まった。



邵昊遠が光幕をゆっくりと開き、穏やかだが明瞭な声で異を唱えた。


「強制同期は、過去に潜流共鳴(Drift Resonance)や暴走を引き起こした前例があります。

三十年前の大災害——あれではまだ足りませんか?」



彼は資料を開き、当時の災害期における潜流曲率の重ね合わせグラフを提示した。

そこには都市の中心を覆うように広がる、巨大なブラックホール状の潜流崩壊図が映し出されていた。



歴懷謹が杖で床を叩いた。

その音は乾いたが力強く、まるで遠くから響いてくる鐘のようだった。


彼は顔を上げ、重い視線で邵昊遠を見つめながら問い返した。


「では、邵少校、君の言い分はこうか?

——何もしないでいるのか?

バイオ体に、この都市を好き放題させるのか?」


その声は決して大きくなかった。

だが、決して無視することはできなかった。



沈箴は長く沈黙していたが、やがて口を開いた。

その声は冷たく、そして正確だった。


「原則のない遅延には反対です。

偏移の感染は指数的に拡大します。一度臨界点を突破すれば、都市の護盾(City Drift Shield)は修復不能になります。」


その目には一切の感情がなく、まるでロジックを実行する機械のようだった。



テーブルの上の空気は、今にもこぼれ落ちそうなほどに緊迫していた。



羅琦が微笑を浮かべ、タイミングよく中立的な調停者としての姿勢を示した。


「都市全体を即座に予備同期する前に、

まずは第一級潜流安定区域(Primary Drift Stabilization Sectors)を設け、

basin核の強固で安定した個体を先に選別・同期するというのはどうでしょうか。段階的に進めれば混乱も避けられます。」


表面上は穏やかだが、実質的には全都市同期を推し進めるための、より慎重なアプローチだった。



そのとき、蘇遠征が初めて口を開いた。


声は冷たく淡々としており、すべての感情が地殻の奥に沈められているようだった。


「段階的に進めれば、同期テンプレートの汚染(Template Drift Contamination)のリスクは格段に高くなる。」



彼は目を細め、まっすぐ羅琦を見据えた。


「誰が保証する?

次世代の同期テンプレートが、本当に“純粋”であると。」



場内は静まり返った。


誰ひとり——

その問いに答えることはできなかった。


なぜなら、本当の答えは——

その沈黙の裏側にある「裂け目」に潜んでいたからだ。


それは、どんな護盾でも遮れない、

人の心の中に流れる——


最も深い暗流だった。



軍部作戦ホール内、

沈黙が支配していた。


光幕に浮かび上がったのは、一枚の黄ばんだ都市潜流基底図(Baseline Drift Manifold Map)。

中央には巨大な黒い裂け目が走り、まるで都市の心臓そのものが引き裂かれたかのような痕跡だった。


歴懷謹が手を挙げ、テーブルをコツリと叩いた。

その音は乾き、ゆっくりと、遠くから響いてくるようだった。


「三十年前。

第一次・大同期(Global Reset 1.0)は、本来“救い”だったはずだ。」


彼は地図をじっと見つめながら呟いた。

その眼差しの奥底には、言葉では語り尽くせないほど濃密で、凝り固まった疲労が沈んでいた。



光幕が切り替わる。


一つの封印されていた資料映像が、再生され始めた——


都市の上空に張り巡らされた、無数の潜流曲率線(Curvature Fields)が崩壊しながら絡み合い、

光の帯はねじれ、シールドが炸裂し、

地上では人々が頭を抱え、嘔吐し、悲鳴を上げ、その場で気絶し、

精神が裂けていく——


それは映画などではない。

記録された、現実だった。



沈箴が口を開いた。

その声は氷のように冷たく、理論を読み上げるだけの静けさがあった。


「当時の潜流同期アルゴリズムは、初期の強化学習フレームワーク(Reinforcement Drift Alignment)を継承していました。

同期装置は標準基底(Baseline Templates)を使用していましたが、局所場の攪乱(Local Field Perturbations)を軽視していた。

さらに、テンプレートは検証を行わないまま連続的に微調整(fine-tuning without validation)され、

最終的には同期過剰適合(Synchronization Overfitting)を引き起こしたのです。」


彼女の説明は、専門用語に満ちていた。だがそれ以上に正確で冷徹だった。


「つまり、実行時に、局所的なbasin異常を“全体の標準”と誤認し、

潜流マニフォールドの連鎖崩壊(Chain Collapse of Drift Manifold)を招いた。」



言葉は冷たく、理論は明快だった。


だが、その背後にあったのは——

数え切れない命の、裂けるような哀鳴だった。



邵昊遠が、ゆっくりとため息をついた。


その声には沈箴のような冷静さはなく、かすかな痛みと悔恨がにじんでいた。


「当初、私たちは潜流システムの構築にあたり、

“基底多重マニフォールド理論(Baseline Multi-Manifold Theory)”を提唱していた。

微小な偏移(Minor Deviation)こそが、システムの生命力(Vitality of Drift System)を支える一部だと考えていたんです。」


彼は苦笑し、首を横に振った。


「でも……

恐怖と統制の前では、“完全で絶対の同期”のほうが、ずっと受け入れられやすい。」


彼の声はやわらかく、それでいて芯のある痛みを含んでいた。


「ちょうど、昔の言語モデル(LLM)のように。

“アライメントさえできていれば、永遠に正しいはずだ”と、人々は思っていた。」


「けれど……

尾部偏移(Tail Deviation)を一つ残らず押し潰すということは、

目覚めかけた心核を、一つ残らず粉砕することでもあったんです。」



蘇遠征は、ただ黙って座っていた。


そして映像の最後の断片が再生された——


それは、「生存者」の資料だった。


映像の中には、血の気を完全に失ったかのように蒼白な人々。

子ども、老人、若者……

彼らの目は虚ろで、感情場(Affective Drift Fields)は断裂し、

二度と共鳴することはできなくなっていた。


彼らは死んだわけではなかった。

ただ——


もう二度と、潜流の表層には戻れなかった。


生きてはいる。だがまるで幽霊のように、都市を漂っている。


その年、都市の人口は23%減少。

精神系システムの崩壊率は48%を超えた。



白瑾秋が冷たく言い放った。


「それがあるからこそ——

我々は、“微小な偏移”を、二度と育ててはならないんだ。」


その言葉は鋭く、

傷口の上にもう一度、刃を突き立てるような切実さを帯びていた。



邵昊遠は、小さく反論した。


その声は、水面下のさざ波のように弱々しく、

だが確かな意思を含んでいた。


「……でも、細やかな揺らぎすら抹消してしまうなら、

我々が守ろうとしている“都市”という存在は、

もはや——


死んだただの殻でしかない。」



会議室に張られた潜流シールドが、

ほんのわずかに震えた。


振幅は、0.00001%。


誰も気づかなかった。


だがそれは、都市の心臓が深く深く積もらせた、

まだ破裂していない前奏だった。




会議室の一番奥。

一人の男が、静かに目を閉じた。


誰も知らなかった。


三十年前、あの大災厄の只中で——

彼自身の手で、同期テンプレートのパラメータを調整していたことを。


彼の目の前で、最初の裂け目が生まれた。



そして今——

この都市が、再び崖の縁に立っている。


彼はすでに、準備を終えていた。


そう、もう一度——

この都市を、崖の下へと突き落とす覚悟を。



軍部北棟、特級応接室。


空気は凍りついたように沈み、

冷色の照明が高い天井を這うように流れていた。

その淡い光の一波一波が、まるで空間そのものを低周波で引き裂くようだった。


念安と澄川は部屋の中央に立っていた。


ふたりとも、地味な私服を身に着けており、軍部の無機質な空間にはまるで溶け込めていなかった。

澄川はわずかに身を傾けて念安をかばうように立ち、

念安の瞳は澄んでいて美しかったが、その奥には強い警戒と拒絶の色が灯っていた。



歴懷謹が主座に座り、杖を手にして目を伏せていた。

その傍らには、腕を後ろで組んだ蘇遠征が立ち、相変わらず冷静で抑制された表情を崩さなかった。


白瑾秋と沈箴も席についていたが、どちらも一言も発していなかった。



沈黙を破ったのは、蘇遠征だった。


その声には一片の感情の揺らぎもなく、完璧に整えられた冷徹さがあった。


「あなたたち二人は、沈以安事件の直接的接触者であり、

その観察力・判断力・異常感知の鋭さが評価され、特別調査チームから“有用な外部協力者”として認定された。」


一拍置いて、彼の視線がふたりをまっすぐに射抜く。

まるで精密機械が対象をスキャンするような無機質な光を帯びていた。


「軍部は正式に、あなたたちを——

【潜流異常特別調査チーム(SDAT)】の外部協力者として招集する。」



念安は、袖口を強く握っていた。

澄川がそっと首を傾け、目で問いかける。

彼女は声を出さなかったが、静かにうなずいた。



歴懷謹が咳払いし、低く続けた。


「調査協力とは、一定レベルの権限開放を意味する。

同時に——すべての調査データと仮説を、軍部審査に提出する義務がある。」


「情報の私的な保持、もしくは漏洩が発覚した場合——

国家反逆罪として処理する。」


その言葉は、凍った海を鉄槌で打つような音を伴って響いた。



澄川の表情は変わらなかった。

だが、念安の腕はかすかに震えた。


彼女にはわかっていた。

あの“冷たく完璧な条文”の意味するものを。


——たとえ真実にたどり着いたとしても、

語ることも、思考することすらも、軍部の定めた枠組みの内側に制限される。


「自由」という言葉は、

ここでは単なる紙切れにすぎなかった。



蘇遠征が一歩、静かに前に出た。


念安の目の前に立ち、俯くように身を屈める。

その顔は、かつて彼女が“父”と信じ、深く愛していたときの面影を微かに残していた。

だが今は、冷たい潜流に削られた鉄の仮面のようだった。


彼は声を低くし、ほとんど優しさにも似た残酷さを帯びて囁いた。


「念安。理解してほしい。

この都市は、幻想では維持できない。

秩序で成り立っている。

同期によって、

そして必要なときの“犠牲”によって。」



言葉を切り、彼の目に一瞬、薄暗い情感が差した。


「……お前の母さんが——

もし、あのときあんなに優しく、あんなに……甘くなければ——

生きていたかもしれない。」



その一言。

念安心臓の奥深くに、鋭く突き刺さった。



澄川が、思わず彼女の手をぎゅっと握った。


彼は感じ取った。

念安の全身が、小さく、しかしはっきりと——


決別のように、震えた。



念安はゆっくり顔を上げた。


かつて従順だった瞳の奥に、

今は、氷のように澄んだ炎が静かに灯っていた。



「……協力任務、引き受けます。」


その声は静かだった。

だが一語一語が、鋭く潜流を切り裂く刃のようだった。


「でも——

私の信念は、

“同期”なんかじゃ決まらない。」



蘇遠征の目に、かすかな失望がよぎった。

だが彼は何も言わず、背を向けた。


冷たい光に照らされたその背は、大きく、けれど完全に隔絶されていた。



応接室の扉が静かに開いた。

低温の潜流が中に流れ込んだ。


念安と澄川は肩を並べて、歩き出した。


背後に残されたのは、軍部の者たちの——

重く、冷たく、そして動かぬ視線。


まるで風化した石像のように、

一切の温度を持たぬまま、彼らを見送っていた。



ふたりの背は、薄い霧の中で重なり合い、

まるで未来へと向かう叛逆と熱を携えた——


新しい潜流の軌跡だった。




その夜、都市の潜流シールドの上空には、

ごく浅い青い霧光が静かに流れていた。



念安は、澄川の胸に身を預けていた。

小さな身体を丸め、顔を彼の温かく震える胸の中にうずめていた。


窓の外から差し込む光が、ふたりの影を壁に映し出していた。

それはまるで、潜流の深淵をたゆたう微かな波紋のように、やわらかく揺れていた。



澄川が、低く尋ねた。


「子どものころ……

蘇将軍って、あんなに厳しかったの?」



念安は目を閉じたまま、長い、長い時間をかけて、

ふっと微笑んだ。


その声はやわらかくて、まるで心の奥に静かに差し込む光のようだった。


「ううん……

あの頃のお父さんは、青い流星を見せてくれる人だった。」



六歳のころ——母、林若遥がまだ生きていた頃のこと。


その時の蘇遠征は、まだ今のように冷たく沈黙する人ではなかった。

彼の肩には、まだ終わりのない責任の重みもなかったし、

basin核も、権力と戦争によって凍りついてはいなかった。



蘇将軍には、ある“奥の手”があった。

極めて珍しい高次元潜流兵器——


熵逆刃(Entropy Inversion Blades)


その力は、局所のbasinエントロピー流を逆転させ、

あらゆるbasinを凍結・崩壊させるものだった。


敵にとって、それは絶対的な終焉。


——だが、小さな念安にとっては、

それは、世界でいちばん美しい「花火」だった。



彼女はよく、お父さんの軍服の裾を引っ張りながら、

瞳を輝かせてせがんだ。


「ねえ〜!お父さんっ

青い流星雨見せて〜!おねが〜い〜!」



蘇遠征は、毎回あきれた顔をしていたけれど——

口元には笑みを隠せなかった。


結局、誰もいない訓練場で、ため息混じりに右手をそっと掲げるのだった。



その瞬間。

空気の中に潜流が凝縮され、

無数の青い光の線が、細い糸のように現れた。


それらは空間をねじれ、折り重なり、反転しながら踊る——


そして次の瞬間、轟くことなく崩壊した。



何千何万もの細線が一斉に破裂し、

細かく砕けた光の刃となって、夜空に咲き乱れた。


まるで音のない、青い雪崩。


それは——

高次元潜流の曲率がきらめく、逆流する銀河だった。



その中心で、念安は小さな両手を広げてくるくる回りながら、笑い声を上げていた。


彼女は、あの煌めく刃のひとつひとつに、

小さな心臓ごと、抱きしめようとしていた。



「青い流星!

お空に飛んでく、青い流星〜!」



そして——


あの冷徹無比と呼ばれる将軍は、

その光と影の果てから、じっと娘を見つめていた。



どれほど光刃が降り注ごうとも、

彼は、密かに軌道を調整し続けていた。


一片たりとも、

小さな念安の髪一本すら傷つけぬように。



そこまで思い出したとき——


念安は、澄川の胸の中で、そっと息を吐いた。


その声は、遠く遠くの湖面に吹き込んだ夜風のように、

かすかに、静かだった。


「……お父さん、

昔は、あんなにやさしかったのに。」



澄川は彼女をきゅっと抱きしめ、

その髪にそっと口づけた。


何も言わなかった。


だが、彼のbasin核の中に、

ひとつの——小さく、小さな、青い涟漪が生まれていた。


それはきっと、彼がこの少女を守るために、

いつか自ら灯すであろう——


青の逆刃だった。







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