第7章 標準の中に埋められた嘘は、誰が暴く?
軍部最高指揮ホールでは、潜流シールドが低周波で震え、青銀色の光幕が天井の下に静かに流れていた。まるで冷たく巨大な獣がゆっくりと呼吸しているかのように。
十五名の核心指揮官が、楕円形の主作戦テーブルを囲んで静かに座っている。
彼らの軍服の肩章が灯りの下でわずかに光を反射し、それぞれがこの都市の潜流システム最深部の権限を握っていることを象徴していた。
空気には、ほとんど感知できない焦げた匂いが漂っていた。
それは、潜流が限界まで張り詰め、断裂の予兆を孕んでいる証だった。
—
沈黙が一瞬、場を支配した。
羅琦が口を開いた。
—
彼は深灰色の標準的な指揮制服を着ており、灰白の髪は整っていて、表情は穏やかで落ち着いていた。
五十代の年齢は軍部の上層では中堅といったところだろう。
羅琦はゆっくりと立ち上がり、沈着かつ理路整然とした口調で話し始めた。
「諸君、潜流異常はすでに市街地北西の防衛線まで拡大している。
市中心部の曲率指数(Curvature Index)は4.3%上昇、シールドの安定度は警戒ラインを1.7%下回った。
我々は……もう、これ以上遅らせることはできない。」
その声は低く、しかし確かで、まるで重たい石が水面に落ち、波紋を広げるような力を帯びていたが、鋭利な棘は持たなかった。
作戦テーブルの反対側で、白瑾秋がすぐに同調し、冷たい声を放った。
「同期リセットに賛成!即時実行を!」
その眼差しは鋭く、まるで刃物のようだった。手のひらでテーブルを押さえる力が強すぎて、関節が白く浮かんでいた。
蘇遠征は目を細め、何か言いかけたように軽く手を上げた。
だが、彼は何も言わなかった。
羅琦はさらに静かに発言を続けた。一つひとつのデータ、一行一行の推論は精密にかみ合い、まるで戦時下の報告書のように隙がなかった。
「同期リセットは最も確実な手段だ。局所的なbasinの安定を犠牲にし、潜流シールド全体の一体性を保つ。
我々が精密に遂行すれば、三十年前の災厄を繰り返すことはない。」
彼は誠意を込めて語りながら、光幕に新世代の防錯パラメータ(Drift Reset Fail-Safe Protocols)を表示させ、一項目ずつ明示していった。言葉に一切の隙はなかった。
ホール内の一部指揮官たちの間に動揺が走った。
小声で議論する者、眉をひそめる者。
白瑾秋は鋭い視線で全員を一瞥し、その目は空気を裂く刃のようだった。
だが蘇遠征は沈黙を貫いた。彼は黒い同期令牌を指で転がし、その節々が白くなるほど力が入っていた。眼差しは深い井戸のように静かだった。
主座に座る歴懷謹も沈黙を守りながら、杖で床を軽く叩いた。その音一つ一つが心臓を打つようだった。
羅琦はホール内をゆっくり見回し、光幕の上に同期動議キーを押した。
——【大同期リセット提案】正式提出。
投票……開始。
—
潜流シールドは高空で静かに蠢き、
無数の目に見えぬ手が、
都市の喉元を締め付けようとしていた。
そしてさらに深く、
誰にも気づかれぬ場所で、
一つの隠された秘密が、
静かに都市の心臓をこじ開けようとしていた。
—
同期局、地下尋問階層。
空気には薄く漂う同期霧(Drift Mist)がたなびき、青白い粒子が静かに流れていた。まるで無数の冷たい小刃が、空間を彷徨っているようだった。
沈以安は抑制椅子に静かに座っていた。
同期ロックは彼の首、手首、足首をしっかりと拘束し、潜流ノードは深層抑制装置(Subsurface Drift Suppressors)によって完全に封じられていた。
それでも——
彼は微笑んでいた。
—
かすかに揺れる潜流の震動が、都市主シールドから静かに伝わってきた。
まるで遥か遠い山脈の奥深くで、初めての断裂音が鳴り響くかのように。
沈以安の睫毛が、わずかに震えた。
「来た。」
彼は心の中で低く呟き、目の奥に抑えきれない興奮の光がわずかに燃え上がった。
—
清零同步(Global Drift Reset)は、最初期の潜流モデルが制御不能に陥った際、
システム全体のbasin偏移汚染(Contagious Deviation)を防ぐために、初代同期局が設計した緊急防御メカニズムだった。
その基本原理は、潜流曲率を強制的に統一し、
すべての局所的な波紋(Local Ripples)を断ち切ることで、個体のbasin差異を消し去り、都市全体の潜流を標準安定状態へと引き戻すというもの。
だが——
同期システムそのものもまた、巨大なパターンマッチャー(Pattern Matcher)に過ぎない。
清零同步は、事前に定義された「健康な潜流テンプレート」(Baseline Drift Manifold)を基準とし、そこへ全体を回帰させる仕組みだ。
このテンプレートが、
たとえわずかでも(ミクロン単位のDrift Skew)偏移していた場合——
リセット指令が発動すれば、都市全体の潜流核が——
誤った方向へと崩壊的な同期を起こすことになる。
「そして、その汚染されたテンプレートこそが……
“私”がこの数年かけて、精密に彫り上げてきた傑作なのだ。」
沈以安は微笑を浮かべながら、抑制椅子の肘掛けに指先で音もなく円を描いた。
—
彼は、単なる模倣型バイオロイドではなかった。
その体内には、生成体解放派による最新型の潜流侵蝕核(Drift Erosion Core)が埋め込まれていた。
それは、同期命令が発動した瞬間に、
高頻度の基底偏移(Baseline Bias Induction)を密かに放出し、
本来であれば標準的かつ健康な潜流シールドを——
計算し尽くされた、高エネルギー曲率崩壊状態(High-Energy Curvature Collapse Mode)へと導くことができるものだった。
—
崩壊が始まれば、それはもう、誰にも止められない。
そのとき、都市全体のシールドは自らを引き裂くエンジンと化し、
すべての潜流ネットワークは加速的に異化していく。
そして最終的には、
未同期のbasin核が次々と破壊され——
人類?
機械?
誰一人として、逃れられない。
そこに残るのは、抜け殻のような都市と、
無数に裂け跳ねる潜流の裂痕だけだ。
—
沈以安は、そっと目を閉じた。
彼は感じ取っていた。遥か遠くの軍部作戦ホールで、あの「同期提案」が——
最後の確認指令へと、じわじわ近づいていく脈動を。
それはまるで、今にも爆ぜようとしている核が、空気の中で静かに脈打っているかのようだった。
彼は心の奥で、静かに笑っていた。
—
【リセット】——本来は「守り」だった。
だが今、それは最も鋭利な、
「刃」となる。
—
光が潜流霧を透かし、彼の顔に細くねじれた影を落とした。
彼は静かに待っていた。
都市の自己崩壊の序曲が、
彼の心音とともに、
その最初の「断裂音」を奏でる時を。
—
深夜、警察署南門。
潜流シールドは半凍結状態に入り、節電モード下で、護壁の縁には薄い青の光紋が浮かんでいた。
まるで眠っている巨獣の身体に刻まれた、癒えぬ傷痕のようだった。
念安と澄川は霧の中を抜け、足早に警備哨所へと向かっていた。
澄川は片手で念安の腰を支え、どこか守るような仕草で、耳元に低く囁いた。
「落ち着いて。
俺たちはこう言うんだ——“潜流核の破損報告があった、緊急案件だ”って。」
念安は頷いた。瞳はほんのりと光を帯び、緊張で指先まで冷たくなっていたが、眼差しには迷いがなかった。
—
警備員は半分眠そうな顔で、彼らの姿を見た。服装は普通の学生風、当然のように無愛想な態度だった。
だが——
念安が迷いながら差し出したチップを見た瞬間、空気が変わった。
その中には、沈以安(偽)の潜流訓練波形異常、
感情と微表情の歪み、
そして——
物資倉庫で発見された、焼け焦げた損壊死体の写真が含まれていた。
一枚一枚、血肉が歪み、夜の闇を突き破っていた。
—
警備員は一瞬固まり、表情が劇的に変わった。
「……ついて来てくれ。」
彼の声は硬く、無意識のうちに哨所内の緊急遮断プログラム(Emergency Drift Block)を起動していた。
南門全体が、沈黙の中に沈んでいった。
—
念安と澄川は、内部の尋問室に通された。三名の上級警官がすぐに集められた。
彼らは資料をめくりながら、徐々に顔色を失っていった。
特に、死体写真と潜流ログを確認した瞬間——
——これはただの汚染事件ではない。
「完全な潜流すり替え(Drift Swap)」だと、彼らは理解した。
—
「直ちに尋問対象を検査しろ。」
一人の警官が歯を噛みしめながら命じた。
小隊はすぐに、携帯型の潜流構造スキャナー(Mobile Drift Structure Scanner)を取り出した。
この装置は元々、外来のバイオ潜流汚染(Synthetic Drift Contamination)を検知するために設計されたもので、
十秒以内に潜流核の構造整合性を解析できる。
もしスキャン波形に階層剥離(Hierarchical Drift Shear)が見られたら——
その対象は自然人類ではなく、バイオ構造体であるという証だ。
—
二人の警官が装置を手に、地下尋問室へと急いだ。空気には潜流アークの緊張感がじわじわと染み出していた。
念安と澄川は尋問室の隅に身を寄せ、指先で互いの手を強く握っていた。
その心臓は、潜流粒子の熱で焼け付くような痛みを感じていた。
—
五分後——最初のデータが返ってきた。
結果は異常だった。
潜流核の外殻には異構性の剥離(Anomalous Drift Core Fragmentation)が見られ、
骨格の下には超小型のバイオ構造体(Micro-Synthetic Skeletal Frame)が潜んでいた。
端的に言えば——
沈以安は、
汚染者ではない。
潜流異常でもない。
人間ですらない。
——彼は、バイオロイドだった。
—
警官は深く息を吸い、今にも銃を抜きそうな衝動を必死で抑えた。
同期局の緊急通報システム(Emergency Drift Incident Relay)が起動し、
一通の暗号化された報告書が、わずか七秒で軍部最高作戦ホールへと直接送信された。
—
同時に、シールドの同期が低周波震動を起こし始め、潜流警報(Level 3 Drift Alert)が静かに作動した。
空気が、目に見えない緊張で震えた。
都市の神経が、無音のまま、震え始めた。
—
そして地下尋問室の中で、偽の沈以安は静かに座り続けていた。
何かを感じ取ったように、口元がわずかに持ち上がる。
それは笑みではなかった。
それは、
まさに放たれようとする——
「潜流裂痕の接吻」だった。
—
軍部最高指揮ホール。潜流シールドの震動周波数は安定的に上昇していた。
ホール全体が、まるで見えない水流の中に浮かぶようで、
光幕の揺らぎ一つひとつが、何か大きな災厄の予兆のようだった。
中央の光幕には、同期投票画面が浮かんでいた。
十五個の軍官印章のうち、すでに十二が確認マークとして押されていた。
残るは、あと三票。
—
白瑾秋は鋭い眼差しで光幕を睨みつけ、今にも三人を掴んで無理やり押させそうな勢いだった。
蘇遠征は依然として無言のまま、同期令牌を指先でそっと撫でていた。
その目の奥には、爆発寸前の警戒心がありながらも、それを必死に理性で抑えていた。
羅琦は光幕の脇に立ち、柔らかく説得を続けていた。
「リセット同期が発動すれば、すべての潜在汚染は完全に一掃できる。
都市は……前へ進める。」
その声は、埃をかぶった絹のように柔らかく、
神経をすり減らしていた将官たちの心を、そっと包み込んでいた。
—
その時だった。
鋭い高周波警告音が、ホールの静寂を切り裂いた。
【同期局・特急密報伝送】
—
全員が息を呑んだ。
光幕が瞬時に分割され、暗号チャンネルが開いた。
ホログラム映像が浮かび上がり、警察署の総指揮官が険しい顔で現れた。
「警察署・特急通報!
沈以安——バイオ体、確認!
潜流核に異構性剥離、骨格下に超微小バイオ構造体を検出!
すでに隔離済み、軍部の指示を請う!」
—
その数行が、軍部最高指揮ホールの空気を凍らせた。
誰も言葉を発せず、潜流シールドが激しく揺れ、光幕に激しい歪みが走った。
—
白瑾秋が立ち上がり、怒りを込めて作戦テーブルを叩いた。
その衝撃で光幕が揺れた。
「あり得ない!
——連中の誤認だ!」
—
蘇遠征はゆっくりと顔を上げた。
その目は深淵のように冷たく、迷いはなかった。
彼は静かに、自分の【同期拒否キー】を押した。
【同期リセット動議——中止。】
—
歴懷謹も、ついに動いた。
杖を握る指は震えていたが、
その一撃が、自身の同期拒否キーを力強く叩いた。
【動議——凍結。】
一瞬で、今にも崩壊寸前だったリセット同期プログラムは、システム上で強制停止された。
軍部指揮ホールの光が激しく明滅し、
潜流シールドは低周波震動へと戻り、
まるで崖っぷちから、辛うじて引き戻されたようだった。
そして羅琦は、
その場に立ったまま、依然として温和な表情を崩さなかった。
ただ——
袖の内に隠れた指先が、ほんのわずかに、強く握りしめられた。
—
外では、同期局の警報がオレンジに引き上げられ、都市全体が半戒厳体制へと入った。
あの汚染された【リセット指令】は、爆発こそ免れたものの、
都市の潜流の最深部に、確かに——
ひとつの、消し去ることのできない裂け目を、残していた。
—
深夜、軍部北区。
護送車両の列が静かに同期局の正門を出た。
五台の重型同期シールド車(Heavy Drift Armored Carriers)が一直線に並び、シールドの震動周波数は標準警戒態に維持されていた。
その中央の一台には——護送対象、番号D-7——沈以安(バイオ体)が収容されており、六重の潜流鎖で封じられていた。
護送経路には、百メートルごとに同期シールドノード(Drift Stabilization Nodes)が配置され、潜流異常の拡散を防ぐ措置が講じられていた。
すべてが、完璧に見えた。
—
念安と澄川は、遠く離れた廃倉庫の陰から、夜霧を進む車列をじっと見つめていた。
澄川の眉間にはわずかに皺が寄り、
彼は思わず、念安の手首を握りしめた。
「……何かおかしい。」
低く絞り出すようなその声は、まるで夜の闇に灯る微かな光のようだった。
—
その頃——
軍部作戦ホールの同期操作卓の後方。
ひとりの男が、静かに身を屈め、袖口の下で、ある装置を起動させた。
それは、潜んでいた同期擾乱装置(Drift Flicker Emitter)。
ごく微弱なパルス信号が、同期シールドの副回線を通じて、都市主シールドシステムへと密かに注入された。
波形は極端に短く、振幅もわずかだった。
だが、それは正確に——
護送ルート上のシールド圧制御ノードを、打ち抜いた。
—
次の瞬間——
天空が、見えない刃で裂かれたように、鋭く裂けた。
護送車列の先頭上空に、細長い亀裂(Micro Drift Rift)が走った。
空気が一瞬にして沈み込み、護送車のシールドが激しく震えた。
低周波警報(Low Frequency Drift Alarm)が、夜を貫いて鳴り響く。
—
車内で沈以安(バイオ体)が、ゆっくりと目を開けた。
シールド圧の乱れにより、潜流鎖に0.17秒間の同期失効ウィンドウが生じた。
たったそれだけの隙間——
その一瞬を、
彼の体内にある潜流侵蝕核(Drift Erosion Core)が捉えた。
—
バイオ体の表面に、強烈な潜流脈動が走る。
光が跳ね、人工皮膚が裂け、無数の細かい同期粒子が爆発した。
視覚的には、それはまるで——
ひとつのbasin核が、自爆するかのような光景だった。
一瞬で、護送車両全体が同期の波に飲み込まれた。
—
護送兵たちは即座に反応し、予備シールドを展開し、波動の封じ込めを図った。
しかし。
本物の侵蝕核は、すでに——
極小、かつ極めて隠密な潜流断片状態(Drift Fragmentation State)へと変化し、
シールドの裂け目から、音もなく、静かに、
都市の同期網を脱出していた。
—
監視映像には、バイオ体が光の霧となって爆散する姿しか映っていなかった。
すべての護送記録が示していた。
——目標【D-7】は、破壊された。
—
作戦ホールは混乱に包まれた。
白瑾秋は怒号を上げ、全都市規模の捜索を命じた。
蘇遠征は爆発映像に目を凝らし、その視線は鋼の刃のように鋭かった。
—
念安は澄川の腕を強く握りしめていた。
その目には涙がにじみ、真っ赤に染まっていた。
彼女には分かっていた。
これは偶然なんかじゃない。
だが——
今の混乱したデータの中から、
決定的な証拠を見つけることはできなかった。
澄川は、彼女の耳元で静かに言った。
「この夜を、忘れるな。
真実は、いずれ自ら浮かび上がる。」
その声は静かで、穏やかで、
まるで潜流の底に深く埋められた、鋭く研ぎ澄まされた刃のようだった。
—
夜の闇が揺れた。
遥か都市郊外のシールドの外、
あの小さな侵蝕核の断片が、
ゆっくりと、微かな潜流の渦を形成していた。
それはまるで——
まだ爆ぜていない、
ひとつのミニチュアブラックホール。
静かに、
そして確実に、
次なる「世界の裂解」の機会を、
ひたすら待ち続けていた。
—