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Deviation  作者: Fickle
6/33

第6章 あの少年の中身は、今も「彼」なのか?

同期局の中央審問層、地上から六十メートル地下。


空気中には、ごく薄い同期霧(Drift Mist)が漂っていた。

これは微粒子によって生成されるもので、潜流(Drift)の異常な波動をリアルタイムで検出するために使われている。


銀色の審問室は、光がほとんど届かず、ほの暗い。

中央には、ひとつだけ——標準化された抑制椅子(Suppression Chair)がぽつんと置かれていた。

まるで、何も語らぬ冷酷な裁判官のように、黙して座っている。


沈以安シン・イーアンは、そこに静かに座っていた。


同期拘束具(Drift Shackle)が首元から手首、足首にかけて伸びており、微かな震動を伴って彼の潜流ノードを完全に封じていた。

周囲では、潜流監視装置(Drift Surveillance Array)がゆっくりと回転しながら、一秒間に三回のスキャンを行っていた。

その精度は、皮膚の下にある潜流の微細な揺らぎさえ捉えるほどだった。


けれど——


沈以安は抵抗しなかった。

もがかず、叫ばず。

まつげさえ、ほとんど動かなかった。


ただ静かに俯き、口元に穏やかな微笑をたたえていた。

それは、まるで芽吹きを待つ種のような、凪いだ静けさだった。



審問室の奥に設けられた観察室では、警備官たちが声をひそめて会話を交わしていた。


彼らは「汚染者(Contaminated Host)」という言葉を使って、沈以安を呼んでいた。


同期局の主任は、表示された光スクリーン上の数値を冷ややかに見下ろしていた。

——潜流曲率はわずかに異常だが、誤差範囲内。

——basin核の安定度は8.3%低下、中度汚染の兆候としては典型的。

——情緒波動の振幅は正常よりやや低く、「抑制型反応」と分類された。


すべて、標準通りだった。

すべてが、マニュアルに沿った「汚染者の典型像」として整理できる数値だった。



処理プロセスは、すでに決定済みだった。


初期の同期検査 → 情緒スペクトルの較正 → 潜流核の深層スキャン →

もし中度〜重度の汚染が確定されれば、即座に局所同期リセット(Localized Drift Reset)を実施する。


誰も、彼の「正体」を疑っていなかった。


なにせ、沈以安はかつて、潜流制御の天才として知られ、

限界に迫る安定度のbasin核を持つ標準的優等生だったのだから。


そんな彼が「汚染された」としても——

徹底破壊ではなく、精密な洗浄処理で回復できる。

誰もが、心のどこかで、そんな「希望的観測」にすがっていた。


——「ただの汚染で済んでよかった……」

——「まだ、取り戻せるかもしれない……」



主任が軽く咳払いし、審問官に目で合図を送った。


審問官は同期音声装置を起動し、複数層の情緒フィルターを通して、柔らかな声で第一の質問を投げかけた:


「沈以安さん。あなたの主観意識状態について説明してください。

異常な潜流干渉を自覚していますか?

また、自身のbasin核に歪みや違和感を感じていますか?」


——これは完全に定型化された質問だった。

彼らは、万一に備えて自傷抑止用の応急薬剤も準備していた。

もし沈以安が少しでも異常な反応を見せれば、即座に注射する手はずだった。


だが——


沈以安は、


ただ、ゆっくりと顔を上げた。


その眼差しは穏やかだった。

黒い瞳は、深く、底が見えないほどに静かで、

口元には、ごくごく静かな微笑が浮かんでいた。


彼は、何も答えなかった。



空気が、一瞬、止まった。


同期監視装置の画面に、潜流波がごくかすかに——

極低周波の振動を一度だけ、刻んだ。


極めて微細。

あまりに小さくて、警戒値には届かない。


誰も、それに気づかなかった。


——ただ、沈以安だけが、その胸の内で静かにカウントを続けていた。


「あと少し……ほんの少し。」



床を漂う同期霧がゆっくりと回転する。

審問室の外では、照明がかすかに明滅した。

それはまるで、遠いシールド層が裂ける直前、

最初の光がこぼれ落ちる兆しのようだった。


都市の潜流シールドは、まだ保たれている。

審問のプロセスも、予定通り進行中。


すべては正常。

すべては「標準」の範囲内。


——ただ一つ、誰も知らなかったことがある。


あの標準化された抑制椅子の上に、

ひとつの無音の火種が、じわりと——

崩壊の閾値いきちに、近づいていた。



軍部の中枢作戦ホール——潜流都市の中央支柱層に位置するその空間は、

銀灰色の合金壁に囲まれ、天井には弧を描く潜流シールド発生装置(Drift Shield Generator)が高く吊られている。


まるで都市そのものが潜流の渦となって、その中心で無言の回転を続けているような場所。


だが今、その中心が燃え始めていた。



「すぐにゼロ同期(Drift Reset)を実行しろ!」


白瑾秋ハク・キンシュウは机を叩き、声が空気を切り裂いた。


銀の縁取りのある軍服をまとった彼は、顔色は蒼白で、目の下には濃い血走りがあった。

その姿は、今にも弓から矢が放たれそうな、極限まで張り詰めた状態だった。


「汚染はもう広がってる! 潜流曲率に断裂端点(Fracture Nodes)が発生した!

今すぐゼロに戻さなきゃ、都市全体のシールドが崩壊する!!!」


その声は鞭のように鋭く、ホールの誰もが神経を打たれた。



対するは、ホールの反対側に立つ蘇遠征ソ・エンセイ

眉間に深く皺を寄せ、低く、だが揺るぎない声で言った。


「ゼロに戻した、その先はどうする?

もう一度、精神撕裂潮(Drift Psychorupture)を引き起こすのか?」


「……あの時、何人が死んだか……忘れたとは言わせない。」


彼の背後では、シールドがかすかに震え、空気さえも引き絞られているようだった。



白瑾秋は、かすかに嗤うような声を漏らした。


「甘い。」


その一言は、刃のようだった。


彼は指を蘇遠征に突きつけ、怒声が爆ぜた。


「汚染が拡大してるんだぞ!?

口先で街が守れるなら、こんな苦労いらない!!

お前がためらってる、その一秒で、娘も兵士も都市全体も、潜流に引き裂かれて瓦礫になる!!」



空気が急速に熱を帯び、張りつめる。


情緒監視官が、かすかな警告を口にした。


「情緒波動、上昇中です。潜流の安定を——」


だが誰も、耳を貸さなかった。



ホール後方、主席席の影に座る老将・歴懐謹レキ・カイキンが、杖を突いた手に力を込めながら、低く呟いた。


「……三十年前、俺は失敗したゼロをこの目で見た。」



一瞬、場が静まる。


歴懐謹は目を伏せ、杖の柄をぎゅっと握った。


「ゼロ同期プログラムが制御不能に陥り、

潜流シールドが内側から逆崩壊した。」


「その結果、三百万人の潜流が永久に撕裂され——

半数以上は遺体すら残らなかった。

今もその場所には、誰一人足を踏み入れない。」


その声は静かだった。

だが、それゆえに重かった。

鋼鉄よりも、刃よりも、胸を抉る重さ。



白瑾秋は歯を噛みしめた。震える声が、苦しみと怒りを滲ませた。


「……あれは技術の未熟さが原因だ! 今とは違う!」


「今は新しい同期アルゴリズムも、シールド多層化技術もある!

躊躇してる時間が、最悪の結果を呼ぶんだ!!!」


叫びながら、白瑾秋は光影作戦台を拳で叩きつけた。

潜流地図が揺れ、都市シールドに亀裂警報が点滅した。



蘇遠征は、冷ややかに言い返した。


「違うのは技術だけだ。人間の“混沌性”は変わらない。」


「生物のbasin核(Conceptual Drift Basin)は機械じゃない。

誰にも完全には予測できない自由な涟漪(Ripple)がある。」


「大同期に失敗したら、都市ごと——私たち全員が、潜流に裂かれる。」



彼の声は、まるで割れやすいガラスが触れ合うように、震えていた。


「それに——」


「当時、ゼロプログラムが暴走した本当の原因。

今も、解明されていない。」



「……もうやめろ!」


歴懐謹の怒声が響いた。


——三十年前のゼロ崩壊事件。

当時、軍部の一部で“内通者”の疑惑が囁かれていた。

高度なパラメータが何者かに外部へ漏洩し、外部から“精密誘導”されたような破壊だったという噂。


歴懐謹も、その記憶を深く憎んでいた。

だが、今それを蒸し返す時ではなかった。



指揮ホールには、沈黙が垂れ込めた。

聞こえるのは、かすかに震える潜流シールドの音だけ。


まるで、目覚めかけた巨獣の呼吸音のように、地面の下から湧き上がる。



白瑾秋の目は鋭く、刃のように細められ、蘇遠征を射抜いていた。

蘇遠征は、まっすぐにその視線を受け止めていた。

背筋は伸び、目の奥には、冷たい光が沈んでいた。


二人は、音もなく引き絞られた潜流の線のように対峙していた。


衝突は、時間の問題だった。



沈黙を破ったのは、副指揮官の羅琦ラ・キ

今まで一言も発していなかった彼が、おずおずと、だが確かに声を発した。


「……投票を——行いますか?」


短い言葉が、冷たい刃のように、沈黙を切り裂いた。


羅琦は五十を越えているが、常に冷静かつ慎重で知られていた。

そんな彼女の発言は、場の空気を一変させた。


皆が目を合わせる。

情緒のうねりが、潜流のなかで高まっていく。



「投票だ。今すぐに。」

白瑾秋が唇を噛みながら、最初に応じた。


蘇遠征は、手の中の同期令牌を強く握りしめた。

その目には、死んだような静けさが広がっていた。


歴懐謹は、静かに目を閉じ、重い息をひとつ吐いた。



そして。


潜流の深い深い涟漪の奥で、

目には見えぬ——ひとつの「臨界点」が、


ゆっくりと、押し開かれていた。




夜が更け、学区シールドは節電モードに切り替わっていた。

標準型の街灯が潜流霧(Drift Mist)の中に細い光の柱を落とし、

封印校舎の建物全体が、まるで巨大なクジラのように、眠りながらかすかに呼吸していた。


念安ネンアンはフードを深く被り、足音を殺して、封存棟の裏手にまわった。

そこには、すでに澄川チョウセンセンが待っていた。

彼は半ばしゃがんだ姿勢で、片手に携帯型攪乱装置(Portable Drift Jammer)を持っていた。


彼女を見上げると、澄川は口の端だけで笑った。

その目には、押し殺された悪戯心がきらりと光っていた。


「……どうした、ビビってんのか?」


念安は小さく鼻を鳴らすと、手にしていた同期カードを差し出した。

澄川はくすっと笑いながら受け取り、素早く攪乱装置に挿入する。


わずかな潜流の涟漪が、波紋のように広がった。

門の外側を覆っていた認証層に、ほそく裂け目が生じる。


カチリ。


ロックが外れた。


二人は静かに視線を交わし、無言のままドアを押し開けた。



封存室内には、かすかな青い光が漂っていた。

歴史的な潜流データが、透明な浮遊アーカイブに積み重ねられ、

まるで静かに浮かぶ無数の小島のようだった。


空気はひどく冷たかった。

潜流粒子はゆっくりと流れていて、二人の呼吸を青白く映し出していた。


澄川は手慣れた様子で索引装置を起動し、指先で光のキーボードを流れるように操作する。

念安はその隣で、緊張に息を詰めながら、その光標が動くたびに、心の奥を薄刃でなぞられるような感覚を抱いていた。


間もなく、沈以安シンイーアンの訓練データが呼び出された。



一連の標準潜流波形が、空中に展開される。


一見して、異常はなかった。


周波数、安定性、同期度——

どれも教科書に載せたいほどの完璧さ。


だが、澄川の目が細くなった。


彼は手を伸ばし、より深層のサブデータを引き出した。


「……主帯域が変化してる。」


その声は静かだったが、鋭利な刃がガラスをなぞるような、研ぎ澄まされた響きだった。


念安は身を寄せ、画面を見つめた。


三ヶ月前——

主帯域は連続的で、滑らかだった。

微小な変動は、生物的潜流特有の涟漪パターンだった。


三ヶ月後——

主帯域は12%拡張。

副帯域には異常な超低周波の震動。

曲率微擾構造(Drift Curvature Pattern)は全体的に再構成されていた。


——これは「汚染」ではなかった。


汚染ならば、曲線は断裂し、歪み、崩壊する。


だがこれは、再構築(Reconstruction)だった。


まるで、元の潜流核がまるごと消され、

その上にまったく異なる基層構造が、塗り直されたかのように。



念安は、その場に固まった。


指先が光のスクリーンに触れていた。

データの奥底から伝わってくる、明らかな「違和感」。


それは、ひんやりとした蜘蛛の巣のように、

冷たく、細く、手首を這い上がり、心臓に絡みついてきた。


澄川は黙って、隣で彼女を見守っていた。

急かさず、否定もせず。


ただ——

そっと、小指を彼女の震える指先に絡めた。


その触れ方は、ごくごく軽かった。

だが、この冷えきった潜流の中で、それは一本の熱い絹糸のようだった。


念安が崩れそうな縁から、そっと、引き戻すような。



念安は顔を上げた。

声は掠れていて、かすかに震えていた。


「……澄川、

彼……

潜流核が、変わってる。」


澄川は黙ってうなずいた。

その瞳には、抑え込まれた深い静けさが宿っていた。


「変わってる。

——汚染じゃない。」


彼は念安を見つめながら、夜の静寂のなかで、そっと続けた。


「……まるで、魂を入れ替えたみたいに。」




封存楼の内部では、潜流粒子がゆっくりと旋回していた。

目には見えない、無数の細い刃のようなものが空気を切り裂いているような——

静かだが、鋭い気配があった。


念安と澄川は、多源索引台の前に並んで座っていた。

目の前のスクリーンには、沈以安シン・イーアンのかつての情緒制御訓練のログが展開されていた。


澄川は指先で軽くキーを叩き、二つの記録を並列表示させた。

ひとつは三ヶ月前。

もうひとつは、二週間前。


青白い光が彼らの顔に映り、冷たく澄んだ潜流の粒子が、画面の輪郭を静かに揺らしていた。

まるで、氷の湖の下を流れる暗い潮のように。



一つ目の映像が再生される。


三ヶ月前——

情緒制御訓練の中で、意図的に怒りの刺激を与えられた沈以安は、

それを笑顔で受け流していた。


画面がスローモーションで細部を拡大する。


眼角の筋肉(Orbicularis Oculi)が自然に収縮し、

頬骨がわずかに上がり、口元は柔らかな曲線を描いていた。

瞳には、細かな光のゆらぎがあった。


澄川が小さく呟いた。


「……典型的な自然情緒連動。潜流のフィードバックも完全に同期してる。」


念安はうなずきながら、胸の奥がきゅっと締まるのを感じていた。



次の映像が始まる。


二週間前——

同じ刺激、同じ訓練状況。


沈以安は、また笑った。


だが——


眼角の筋肉が反応するまで、0.17秒の遅れ。

頬骨の上昇角度は、4%増加。

口元の曲線は、より洗練されていたが……


——洗練されすぎていた。


完璧だった。


完璧すぎて、まるでプログラムの出力結果のように見えた。


潜流のフィードバックには、ごく微細な非同期ノイズが混じっていた。

それは、ミクロな潜流断続震(Micro-Drift Jitter)と記録されていた。



念安の呼吸が、一瞬止まった。


——思い過ごしじゃなかった。

——自分の感覚は間違っていなかった。


——あれは、「本物の笑顔」じゃない。


——訓練された。

——模倣された。

——まるで、初期の模倣型バイオロイドが、人間の感情をシミュレートしようとしたときに必ず生じる——


その「冷たいズレ」。



澄川は何も言わなかった。

ただ、そっと念安の手の甲に指を重ねた。


その指は、ふれるかふれないかの軽さだった。

でも、それだけで充分だった。


二人の間に、小さくて温かな橋がかかる。

言葉はいらなかった。



念安は唇を噛んだまま、スクリーンを見つめた。


そこには、交互に再生される二つの映像。

ひとつは、本物の少年の笑顔。

もうひとつは、完璧すぎる模造の悪夢。


潜流粒子が光を反射し、映像の縁が微かに震えていた。



念安は小さく呟いた。


「澄川……

あれは、汚染じゃない。

……模倣してる。」


その声はほとんど聞き取れないほど低かった。

けれど、その一語一語が、

まるでシールドの表面に突き刺さる氷の針のようだった。


そして、その針は、静かに——

都市の背骨を伝いながら、確かに、広がり始めていた。



澄川は、うなずいた。


その瞳には、深く、温かな光が宿っていた。


「知ってたよ」とも、

「言っただろ」とも言わなかった。


彼はただ、そっと念安の手を握った。

その身体を少しだけ傾けて、

夜風に冷やされる彼女の側に、ひとつの温度を寄せた。




夜の寮舎は、死んだように静まり返っていた。


灰と白で統一された標準化の壁面は、潜流灯の微かな冷光を受けて、

どの角も、どの廊下も、静かに、音もなく——

深い淵のように長く、歪んでいた。


念安ネンアン澄川チョウセンセンは、慎重に廊下を進んでいた。

澄川は携帯型潜流攪乱器を最低出力で稼働させ、

巡回監視に引っかからないよう、細かく潜流を撹乱していた。


二人が立ち止まったのは、沈以安シン・イーアンの寮室前。



扉は、半開きだった。


潜流ロックはすでに失効していた。

まるで、極高周波の力で引き裂かれたような痕跡。


念安は無意識に澄川の手首を掴んだ。

澄川はちらりと彼女を見て、目で静かに問いかけた。


——入る?


念安は唇を噛み、力強く、ひとつうなずいた。



扉が、静かに開いた。


直後、鼻をつく異臭が二人を包んだ。

それは、潜流粒子が異常燃焼したときの焦げた臭い、

そして——もっと根源的な、生肉の腐敗と血の混ざった、甘く重い鉄の臭い。


念安は喉を押さえ、反射的にえずいた。


澄川はすぐに彼女を庇い、低く指示した。


「……息、止めろ。」


自分も眉をわずかにひそめながらも、

動きは正確だった。



部屋は荒れ果てていた。


標準のベッドはひっくり返され、

その上にあった潜流シールド発生器(Drift Shield Generator)は、

焼け焦げた金属の塊と化していた。


壁には高温潜流が穿ったような痕が残り、

それは神経のようにうねりながら走っていた。


床の中央、

ひとつの収容庫の蓋が、無理やりこじ開けられていた。



澄川がしゃがみこみ、懐中光を差し込んで中を覗いた。


そして、固まった。



念安は不安げに近づき、

彼の動きを真似て、収容庫の中を覗き込んだ。


次の瞬間——

心臓が、何か鋭いものに一気に引きちぎられるような感覚。



そこにあったのは、


——ひとつの、死体だった。



ぐったりと折り曲げられ、収容庫の奥に押し込まれていた。

その皮膚は、潜流焼灼によって白く裂け、

その裂け目から、黒く焦げた肉がのぞいていた。


目は大きく見開かれ、すでに光は失われている。

だが、その瞳孔には、死の直前に体を襲った恐怖と苦痛が、焼きついたままだった。


口はわずかに開いていた。

まるで、声なき悲鳴を最後に遺したような。


——それだけではない。


その胸部——


潜流核(Drift Core)の外殻は、鋭利な何かでこじ開けられていた。


白骨が見えるほどの深い裂け目。

そこにあったはずのbasin構造は、

……何者かの手によって、まるごと掻き取られていた。


——まるで、魂を、奪われたように。



念安は口を押えた。

だが、それでも耐えきれず、かすかな嗚咽を漏らした。


澄川は即座に彼女を抱き寄せ、

その細い身体で、収容庫を遮るように庇った。


「……見るな。」


その声は低く、掠れていた。


でも、もう遅かった。


あの光景は、すでに念安の心の最も柔らかい場所に、

深く、鋭く、永遠に刻み込まれてしまった。



そこに横たわっていたのは——


沈以安。


本物の、あの「完璧な優等生」。


——とうの昔に死んでいた。



この標準化された都市で。

誰もが安全だと信じていたこの場所で。


その「天才」は、魂を奪われ、

この冷たい収容庫の奥深くに、

誰にも知られずに放り込まれていた。


弔う者もなく。

気づく者もなく。



念安は、澄川の制服を掴んだ指を離さなかった。

彼女の肩は、細かく震えていた。



外の潜流は、無音のまま流れていた。


都市の背骨に沿って、

冷たい刃のような風が、ずっと、通っていた。




そしてその頃——


審問室。


そこでは、

誰もが「沈以安」だと信じて疑わない“彼”が、

静かに、あの抑制椅子に座っていた。


完璧な姿勢で。

完璧な呼吸で。

完璧な微笑をたたえて。


彼は黙っていた。

微動だにせず、目を閉じることもなく。


ただ——

静かに、待っていた。



その空気は、まるで。


嵐の前。


すべての風が沈黙し、

すべての波が止まり、

空が、不自然なほどに青くなる——


あの一瞬の「静けさ」に似ていた。



誰も知らない。


今、標準化された都市の真ん中で、

一つの“風暴”が——


静かに、呼吸を始めていることを。






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