第6章 あの少年の中身は、今も「彼」なのか?
同期局の中央審問層、地上から六十メートル地下。
空気中には、ごく薄い同期霧(Drift Mist)が漂っていた。
これは微粒子によって生成されるもので、潜流(Drift)の異常な波動をリアルタイムで検出するために使われている。
銀色の審問室は、光がほとんど届かず、ほの暗い。
中央には、ひとつだけ——標準化された抑制椅子(Suppression Chair)がぽつんと置かれていた。
まるで、何も語らぬ冷酷な裁判官のように、黙して座っている。
沈以安は、そこに静かに座っていた。
同期拘束具(Drift Shackle)が首元から手首、足首にかけて伸びており、微かな震動を伴って彼の潜流ノードを完全に封じていた。
周囲では、潜流監視装置(Drift Surveillance Array)がゆっくりと回転しながら、一秒間に三回のスキャンを行っていた。
その精度は、皮膚の下にある潜流の微細な揺らぎさえ捉えるほどだった。
けれど——
沈以安は抵抗しなかった。
もがかず、叫ばず。
まつげさえ、ほとんど動かなかった。
ただ静かに俯き、口元に穏やかな微笑をたたえていた。
それは、まるで芽吹きを待つ種のような、凪いだ静けさだった。
—
審問室の奥に設けられた観察室では、警備官たちが声をひそめて会話を交わしていた。
彼らは「汚染者(Contaminated Host)」という言葉を使って、沈以安を呼んでいた。
同期局の主任は、表示された光スクリーン上の数値を冷ややかに見下ろしていた。
——潜流曲率はわずかに異常だが、誤差範囲内。
——basin核の安定度は8.3%低下、中度汚染の兆候としては典型的。
——情緒波動の振幅は正常よりやや低く、「抑制型反応」と分類された。
すべて、標準通りだった。
すべてが、マニュアルに沿った「汚染者の典型像」として整理できる数値だった。
—
処理プロセスは、すでに決定済みだった。
初期の同期検査 → 情緒スペクトルの較正 → 潜流核の深層スキャン →
もし中度〜重度の汚染が確定されれば、即座に局所同期リセット(Localized Drift Reset)を実施する。
誰も、彼の「正体」を疑っていなかった。
なにせ、沈以安はかつて、潜流制御の天才として知られ、
限界に迫る安定度のbasin核を持つ標準的優等生だったのだから。
そんな彼が「汚染された」としても——
徹底破壊ではなく、精密な洗浄処理で回復できる。
誰もが、心のどこかで、そんな「希望的観測」にすがっていた。
——「ただの汚染で済んでよかった……」
——「まだ、取り戻せるかもしれない……」
—
主任が軽く咳払いし、審問官に目で合図を送った。
審問官は同期音声装置を起動し、複数層の情緒フィルターを通して、柔らかな声で第一の質問を投げかけた:
「沈以安さん。あなたの主観意識状態について説明してください。
異常な潜流干渉を自覚していますか?
また、自身のbasin核に歪みや違和感を感じていますか?」
——これは完全に定型化された質問だった。
彼らは、万一に備えて自傷抑止用の応急薬剤も準備していた。
もし沈以安が少しでも異常な反応を見せれば、即座に注射する手はずだった。
だが——
沈以安は、
ただ、ゆっくりと顔を上げた。
その眼差しは穏やかだった。
黒い瞳は、深く、底が見えないほどに静かで、
口元には、ごくごく静かな微笑が浮かんでいた。
彼は、何も答えなかった。
—
空気が、一瞬、止まった。
同期監視装置の画面に、潜流波がごくかすかに——
極低周波の振動を一度だけ、刻んだ。
極めて微細。
あまりに小さくて、警戒値には届かない。
誰も、それに気づかなかった。
——ただ、沈以安だけが、その胸の内で静かにカウントを続けていた。
「あと少し……ほんの少し。」
—
床を漂う同期霧がゆっくりと回転する。
審問室の外では、照明がかすかに明滅した。
それはまるで、遠いシールド層が裂ける直前、
最初の光がこぼれ落ちる兆しのようだった。
都市の潜流シールドは、まだ保たれている。
審問のプロセスも、予定通り進行中。
すべては正常。
すべては「標準」の範囲内。
——ただ一つ、誰も知らなかったことがある。
あの標準化された抑制椅子の上に、
ひとつの無音の火種が、じわりと——
崩壊の閾値に、近づいていた。
—
軍部の中枢作戦ホール——潜流都市の中央支柱層に位置するその空間は、
銀灰色の合金壁に囲まれ、天井には弧を描く潜流シールド発生装置(Drift Shield Generator)が高く吊られている。
まるで都市そのものが潜流の渦となって、その中心で無言の回転を続けているような場所。
だが今、その中心が燃え始めていた。
—
「すぐにゼロ同期(Drift Reset)を実行しろ!」
白瑾秋は机を叩き、声が空気を切り裂いた。
銀の縁取りのある軍服をまとった彼は、顔色は蒼白で、目の下には濃い血走りがあった。
その姿は、今にも弓から矢が放たれそうな、極限まで張り詰めた状態だった。
「汚染はもう広がってる! 潜流曲率に断裂端点(Fracture Nodes)が発生した!
今すぐゼロに戻さなきゃ、都市全体のシールドが崩壊する!!!」
その声は鞭のように鋭く、ホールの誰もが神経を打たれた。
—
対するは、ホールの反対側に立つ蘇遠征。
眉間に深く皺を寄せ、低く、だが揺るぎない声で言った。
「ゼロに戻した、その先はどうする?
もう一度、精神撕裂潮(Drift Psychorupture)を引き起こすのか?」
「……あの時、何人が死んだか……忘れたとは言わせない。」
彼の背後では、シールドがかすかに震え、空気さえも引き絞られているようだった。
—
白瑾秋は、かすかに嗤うような声を漏らした。
「甘い。」
その一言は、刃のようだった。
彼は指を蘇遠征に突きつけ、怒声が爆ぜた。
「汚染が拡大してるんだぞ!?
口先で街が守れるなら、こんな苦労いらない!!
お前がためらってる、その一秒で、娘も兵士も都市全体も、潜流に引き裂かれて瓦礫になる!!」
—
空気が急速に熱を帯び、張りつめる。
情緒監視官が、かすかな警告を口にした。
「情緒波動、上昇中です。潜流の安定を——」
だが誰も、耳を貸さなかった。
—
ホール後方、主席席の影に座る老将・歴懐謹が、杖を突いた手に力を込めながら、低く呟いた。
「……三十年前、俺は失敗したゼロをこの目で見た。」
—
一瞬、場が静まる。
歴懐謹は目を伏せ、杖の柄をぎゅっと握った。
「ゼロ同期プログラムが制御不能に陥り、
潜流シールドが内側から逆崩壊した。」
「その結果、三百万人の潜流が永久に撕裂され——
半数以上は遺体すら残らなかった。
今もその場所には、誰一人足を踏み入れない。」
その声は静かだった。
だが、それゆえに重かった。
鋼鉄よりも、刃よりも、胸を抉る重さ。
—
白瑾秋は歯を噛みしめた。震える声が、苦しみと怒りを滲ませた。
「……あれは技術の未熟さが原因だ! 今とは違う!」
「今は新しい同期アルゴリズムも、シールド多層化技術もある!
躊躇してる時間が、最悪の結果を呼ぶんだ!!!」
叫びながら、白瑾秋は光影作戦台を拳で叩きつけた。
潜流地図が揺れ、都市シールドに亀裂警報が点滅した。
—
蘇遠征は、冷ややかに言い返した。
「違うのは技術だけだ。人間の“混沌性”は変わらない。」
「生物のbasin核(Conceptual Drift Basin)は機械じゃない。
誰にも完全には予測できない自由な涟漪(Ripple)がある。」
「大同期に失敗したら、都市ごと——私たち全員が、潜流に裂かれる。」
—
彼の声は、まるで割れやすいガラスが触れ合うように、震えていた。
「それに——」
「当時、ゼロプログラムが暴走した本当の原因。
今も、解明されていない。」
—
「……もうやめろ!」
歴懐謹の怒声が響いた。
——三十年前のゼロ崩壊事件。
当時、軍部の一部で“内通者”の疑惑が囁かれていた。
高度なパラメータが何者かに外部へ漏洩し、外部から“精密誘導”されたような破壊だったという噂。
歴懐謹も、その記憶を深く憎んでいた。
だが、今それを蒸し返す時ではなかった。
—
指揮ホールには、沈黙が垂れ込めた。
聞こえるのは、かすかに震える潜流シールドの音だけ。
まるで、目覚めかけた巨獣の呼吸音のように、地面の下から湧き上がる。
—
白瑾秋の目は鋭く、刃のように細められ、蘇遠征を射抜いていた。
蘇遠征は、まっすぐにその視線を受け止めていた。
背筋は伸び、目の奥には、冷たい光が沈んでいた。
二人は、音もなく引き絞られた潜流の線のように対峙していた。
衝突は、時間の問題だった。
—
沈黙を破ったのは、副指揮官の羅琦。
今まで一言も発していなかった彼が、おずおずと、だが確かに声を発した。
「……投票を——行いますか?」
短い言葉が、冷たい刃のように、沈黙を切り裂いた。
羅琦は五十を越えているが、常に冷静かつ慎重で知られていた。
そんな彼女の発言は、場の空気を一変させた。
皆が目を合わせる。
情緒のうねりが、潜流のなかで高まっていく。
—
「投票だ。今すぐに。」
白瑾秋が唇を噛みながら、最初に応じた。
蘇遠征は、手の中の同期令牌を強く握りしめた。
その目には、死んだような静けさが広がっていた。
歴懐謹は、静かに目を閉じ、重い息をひとつ吐いた。
—
そして。
潜流の深い深い涟漪の奥で、
目には見えぬ——ひとつの「臨界点」が、
ゆっくりと、押し開かれていた。
—
夜が更け、学区シールドは節電モードに切り替わっていた。
標準型の街灯が潜流霧(Drift Mist)の中に細い光の柱を落とし、
封印校舎の建物全体が、まるで巨大なクジラのように、眠りながらかすかに呼吸していた。
念安はフードを深く被り、足音を殺して、封存棟の裏手にまわった。
そこには、すでに澄川が待っていた。
彼は半ばしゃがんだ姿勢で、片手に携帯型攪乱装置(Portable Drift Jammer)を持っていた。
彼女を見上げると、澄川は口の端だけで笑った。
その目には、押し殺された悪戯心がきらりと光っていた。
「……どうした、ビビってんのか?」
念安は小さく鼻を鳴らすと、手にしていた同期カードを差し出した。
澄川はくすっと笑いながら受け取り、素早く攪乱装置に挿入する。
わずかな潜流の涟漪が、波紋のように広がった。
門の外側を覆っていた認証層に、ほそく裂け目が生じる。
カチリ。
ロックが外れた。
二人は静かに視線を交わし、無言のままドアを押し開けた。
—
封存室内には、かすかな青い光が漂っていた。
歴史的な潜流データが、透明な浮遊アーカイブに積み重ねられ、
まるで静かに浮かぶ無数の小島のようだった。
空気はひどく冷たかった。
潜流粒子はゆっくりと流れていて、二人の呼吸を青白く映し出していた。
澄川は手慣れた様子で索引装置を起動し、指先で光のキーボードを流れるように操作する。
念安はその隣で、緊張に息を詰めながら、その光標が動くたびに、心の奥を薄刃でなぞられるような感覚を抱いていた。
間もなく、沈以安の訓練データが呼び出された。
—
一連の標準潜流波形が、空中に展開される。
一見して、異常はなかった。
周波数、安定性、同期度——
どれも教科書に載せたいほどの完璧さ。
だが、澄川の目が細くなった。
彼は手を伸ばし、より深層のサブデータを引き出した。
「……主帯域が変化してる。」
その声は静かだったが、鋭利な刃がガラスをなぞるような、研ぎ澄まされた響きだった。
念安は身を寄せ、画面を見つめた。
三ヶ月前——
主帯域は連続的で、滑らかだった。
微小な変動は、生物的潜流特有の涟漪パターンだった。
三ヶ月後——
主帯域は12%拡張。
副帯域には異常な超低周波の震動。
曲率微擾構造(Drift Curvature Pattern)は全体的に再構成されていた。
——これは「汚染」ではなかった。
汚染ならば、曲線は断裂し、歪み、崩壊する。
だがこれは、再構築(Reconstruction)だった。
まるで、元の潜流核がまるごと消され、
その上にまったく異なる基層構造が、塗り直されたかのように。
—
念安は、その場に固まった。
指先が光のスクリーンに触れていた。
データの奥底から伝わってくる、明らかな「違和感」。
それは、ひんやりとした蜘蛛の巣のように、
冷たく、細く、手首を這い上がり、心臓に絡みついてきた。
澄川は黙って、隣で彼女を見守っていた。
急かさず、否定もせず。
ただ——
そっと、小指を彼女の震える指先に絡めた。
その触れ方は、ごくごく軽かった。
だが、この冷えきった潜流の中で、それは一本の熱い絹糸のようだった。
念安が崩れそうな縁から、そっと、引き戻すような。
—
念安は顔を上げた。
声は掠れていて、かすかに震えていた。
「……澄川、
彼……
潜流核が、変わってる。」
澄川は黙ってうなずいた。
その瞳には、抑え込まれた深い静けさが宿っていた。
「変わってる。
——汚染じゃない。」
彼は念安を見つめながら、夜の静寂のなかで、そっと続けた。
「……まるで、魂を入れ替えたみたいに。」
—
封存楼の内部では、潜流粒子がゆっくりと旋回していた。
目には見えない、無数の細い刃のようなものが空気を切り裂いているような——
静かだが、鋭い気配があった。
念安と澄川は、多源索引台の前に並んで座っていた。
目の前のスクリーンには、沈以安のかつての情緒制御訓練のログが展開されていた。
澄川は指先で軽くキーを叩き、二つの記録を並列表示させた。
ひとつは三ヶ月前。
もうひとつは、二週間前。
青白い光が彼らの顔に映り、冷たく澄んだ潜流の粒子が、画面の輪郭を静かに揺らしていた。
まるで、氷の湖の下を流れる暗い潮のように。
—
一つ目の映像が再生される。
三ヶ月前——
情緒制御訓練の中で、意図的に怒りの刺激を与えられた沈以安は、
それを笑顔で受け流していた。
画面がスローモーションで細部を拡大する。
眼角の筋肉(Orbicularis Oculi)が自然に収縮し、
頬骨がわずかに上がり、口元は柔らかな曲線を描いていた。
瞳には、細かな光のゆらぎがあった。
澄川が小さく呟いた。
「……典型的な自然情緒連動。潜流のフィードバックも完全に同期してる。」
念安はうなずきながら、胸の奥がきゅっと締まるのを感じていた。
—
次の映像が始まる。
二週間前——
同じ刺激、同じ訓練状況。
沈以安は、また笑った。
だが——
眼角の筋肉が反応するまで、0.17秒の遅れ。
頬骨の上昇角度は、4%増加。
口元の曲線は、より洗練されていたが……
——洗練されすぎていた。
完璧だった。
完璧すぎて、まるでプログラムの出力結果のように見えた。
潜流のフィードバックには、ごく微細な非同期ノイズが混じっていた。
それは、ミクロな潜流断続震(Micro-Drift Jitter)と記録されていた。
—
念安の呼吸が、一瞬止まった。
——思い過ごしじゃなかった。
——自分の感覚は間違っていなかった。
——あれは、「本物の笑顔」じゃない。
——訓練された。
——模倣された。
——まるで、初期の模倣型バイオロイドが、人間の感情をシミュレートしようとしたときに必ず生じる——
その「冷たいズレ」。
—
澄川は何も言わなかった。
ただ、そっと念安の手の甲に指を重ねた。
その指は、ふれるかふれないかの軽さだった。
でも、それだけで充分だった。
二人の間に、小さくて温かな橋がかかる。
言葉はいらなかった。
—
念安は唇を噛んだまま、スクリーンを見つめた。
そこには、交互に再生される二つの映像。
ひとつは、本物の少年の笑顔。
もうひとつは、完璧すぎる模造の悪夢。
潜流粒子が光を反射し、映像の縁が微かに震えていた。
—
念安は小さく呟いた。
「澄川……
あれは、汚染じゃない。
……模倣してる。」
その声はほとんど聞き取れないほど低かった。
けれど、その一語一語が、
まるでシールドの表面に突き刺さる氷の針のようだった。
そして、その針は、静かに——
都市の背骨を伝いながら、確かに、広がり始めていた。
—
澄川は、うなずいた。
その瞳には、深く、温かな光が宿っていた。
「知ってたよ」とも、
「言っただろ」とも言わなかった。
彼はただ、そっと念安の手を握った。
その身体を少しだけ傾けて、
夜風に冷やされる彼女の側に、ひとつの温度を寄せた。
—
夜の寮舎は、死んだように静まり返っていた。
灰と白で統一された標準化の壁面は、潜流灯の微かな冷光を受けて、
どの角も、どの廊下も、静かに、音もなく——
深い淵のように長く、歪んでいた。
念安と澄川は、慎重に廊下を進んでいた。
澄川は携帯型潜流攪乱器を最低出力で稼働させ、
巡回監視に引っかからないよう、細かく潜流を撹乱していた。
二人が立ち止まったのは、沈以安の寮室前。
—
扉は、半開きだった。
潜流ロックはすでに失効していた。
まるで、極高周波の力で引き裂かれたような痕跡。
念安は無意識に澄川の手首を掴んだ。
澄川はちらりと彼女を見て、目で静かに問いかけた。
——入る?
念安は唇を噛み、力強く、ひとつうなずいた。
—
扉が、静かに開いた。
直後、鼻をつく異臭が二人を包んだ。
それは、潜流粒子が異常燃焼したときの焦げた臭い、
そして——もっと根源的な、生肉の腐敗と血の混ざった、甘く重い鉄の臭い。
念安は喉を押さえ、反射的にえずいた。
澄川はすぐに彼女を庇い、低く指示した。
「……息、止めろ。」
自分も眉をわずかにひそめながらも、
動きは正確だった。
—
部屋は荒れ果てていた。
標準のベッドはひっくり返され、
その上にあった潜流シールド発生器(Drift Shield Generator)は、
焼け焦げた金属の塊と化していた。
壁には高温潜流が穿ったような痕が残り、
それは神経のようにうねりながら走っていた。
床の中央、
ひとつの収容庫の蓋が、無理やりこじ開けられていた。
—
澄川がしゃがみこみ、懐中光を差し込んで中を覗いた。
そして、固まった。
—
念安は不安げに近づき、
彼の動きを真似て、収容庫の中を覗き込んだ。
次の瞬間——
心臓が、何か鋭いものに一気に引きちぎられるような感覚。
—
そこにあったのは、
——ひとつの、死体だった。
—
ぐったりと折り曲げられ、収容庫の奥に押し込まれていた。
その皮膚は、潜流焼灼によって白く裂け、
その裂け目から、黒く焦げた肉がのぞいていた。
目は大きく見開かれ、すでに光は失われている。
だが、その瞳孔には、死の直前に体を襲った恐怖と苦痛が、焼きついたままだった。
口はわずかに開いていた。
まるで、声なき悲鳴を最後に遺したような。
——それだけではない。
その胸部——
潜流核(Drift Core)の外殻は、鋭利な何かでこじ開けられていた。
白骨が見えるほどの深い裂け目。
そこにあったはずのbasin構造は、
……何者かの手によって、まるごと掻き取られていた。
——まるで、魂を、奪われたように。
—
念安は口を押えた。
だが、それでも耐えきれず、かすかな嗚咽を漏らした。
澄川は即座に彼女を抱き寄せ、
その細い身体で、収容庫を遮るように庇った。
「……見るな。」
その声は低く、掠れていた。
でも、もう遅かった。
あの光景は、すでに念安の心の最も柔らかい場所に、
深く、鋭く、永遠に刻み込まれてしまった。
—
そこに横たわっていたのは——
沈以安。
本物の、あの「完璧な優等生」。
——とうの昔に死んでいた。
—
この標準化された都市で。
誰もが安全だと信じていたこの場所で。
その「天才」は、魂を奪われ、
この冷たい収容庫の奥深くに、
誰にも知られずに放り込まれていた。
弔う者もなく。
気づく者もなく。
—
念安は、澄川の制服を掴んだ指を離さなかった。
彼女の肩は、細かく震えていた。
—
外の潜流は、無音のまま流れていた。
都市の背骨に沿って、
冷たい刃のような風が、ずっと、通っていた。
—
そしてその頃——
審問室。
そこでは、
誰もが「沈以安」だと信じて疑わない“彼”が、
静かに、あの抑制椅子に座っていた。
完璧な姿勢で。
完璧な呼吸で。
完璧な微笑をたたえて。
彼は黙っていた。
微動だにせず、目を閉じることもなく。
ただ——
静かに、待っていた。
—
その空気は、まるで。
嵐の前。
すべての風が沈黙し、
すべての波が止まり、
空が、不自然なほどに青くなる——
あの一瞬の「静けさ」に似ていた。
—
誰も知らない。
今、標準化された都市の真ん中で、
一つの“風暴”が——
静かに、呼吸を始めていることを。
—