第5章 完璧なあの少年は、どこかおかしい。
朝の学区ビル二階。
潜流シールドはまだ完全に収縮しておらず、校舎の上空には淡い青い光がふわりと漂っていた。
苏念安は、つるりとした標準型の通学カバンを背負い、校門をくぐった。
門を通るとき、潜流IDが読み取られ、枠がほのかに光る。確認完了のサイン。
それは、指先を一滴の光がすべるような、かすかな感触だった。
すべてが、いつも通り。
すべてが、規格通り。
——けれど、念安の心の奥に、ほんのわずかな違和感があった。
それはまるで、靴の裏に目に見えない小さな砂粒がくっついているような、不快にも満たない、微細なざらつきだった。
—
教室に入ると、窓の外では潜流ランプがまだ低周波で揺れていて、机の表面は天井に映る護盾光の残像を映し出すほどにぴかぴかだった。
生徒たちが次々と席に着き、教室内には朝の潜流同期に伴う微細な振動が漂っていた。
その感覚は、水面に風が吹き抜けたあとのさざ波のように、ほんのりとしたかゆみを含んでいた。
先生が時間ぴったりに教室に入り、笑顔でうなずいた。
けれど念安は、つい目を凝らして見てしまった。
——その笑顔には、一瞬だけ、不自然な間があった。
角度も表情も、まるで教科書の挿絵のように完璧だったけれど、
顔の筋肉の動きに、ほんの少しだけ、引っかかるような硬さがあった。
まるで、ガラス板に描かれた笑顔の上を、風がそっと押しなぞったような——そんな微かな歪み。
念安はまばたきを一度して、その違和感を心の奥に押し込んだ。
……きっと考えすぎだ。
—
点呼の時間、念安は何気なく教室内を見回した。
そして、彼を見つけた。
沈以安。
どの教科の先生も自慢にする優等生。
潜流制御能力に優れ、自身のbasin核は極めて安定している。
彼は窓際の三列目に座っていた。
制服は標準通り。白いシャツの襟は型押しされたように整っていて、ネクタイの結び目は寸分の狂いもなかった。
髪はきちんと整えられ、背筋はまっすぐ。
机の上に置かれた学習端末は、画面の角度までもが、まるで角度差分まで計算したかのように正確だった。
名前を呼ばれると、彼は顔を上げて、澄んだはっきりした声で返事をした。
ためらいなど一切ない。
緩みもない。
その声音は、下手をすればシステム訓練の標準音よりも——むしろ完璧だった。
念安は、ほんのりと身の内が緊張するのを感じた。
潜流の同期度が——高すぎる。
通常、人間ならば、たとえトップレベルの同期生であっても、返事の瞬間にはわずかな乱れがあるはず。
呼吸のリズムや、感情のさざ波が、潜流にほんのりと影を落とすはず。
しかし沈以安には、それが——なかった。
彼の同期は、あまりにも静かで、あまりにも滑らかだった。
まるで、極限まで磨き抜かれた湖面に、そよ風すら触れていかないような——そんな静謐。
—
午前中は基礎潜流微調整(Drift Tuning)の授業だった。
課題はシンプル。教師から配布された同期棒(Drift Tuning Rod)を使い、自身の潜流(Drift)細波を調整して、さまざまな情緒場(Emotional Field)の変化に適応するというもの。
念安は同期棒を手に取り、自分の潜流流速を少しずつ整えた。
棒を握ると、そこから伝わってくるのは、ぬるま湯の中で花びらがふわりとほどけるような、柔らかく微かな振動だった。
周囲の生徒たちは、それぞれに速かったり遅かったりと、調整の仕方にばらつきがある。
それが普通だった。
——けれど、彼女の視線の端に、沈以安の姿が入った。
彼は同期棒を握り、調整の動きは異様なまでに滑らかだった。
目立った潜流の涟漪(Ripple)は一切発生していない。
まるで——
同期棒が、彼の潜流流場に「自然に吸収された」のではなく、
直接「呑み込まれた」かのようだった。
その瞬間、同期棒の表面に灯る微光の振動が——肉眼ではほとんど見えないほどに——
ほんのわずか、たった一ミリだけ、沈んだ。
まるで、もっと高密度の潜流に引っ張られたように。
まるで——
何か異質で、音もなく渦を巻く力に、そっと引き込まれているようだった。
—
チャイムが鳴り、光がふわりと揺れ、教師が手を叩いて授業終了を告げた。
沈以安は席を立つ。その動作は正確で、ゆっくりとしていた。
指の関節一本一本、首の角度ひとつひとつまでも、まるで精密な計算によってのみ許可された動きだった。
念安は無意識に自分の胸元を押さえた。
心臓が、少し速く震えている気がした。
それは恐怖ではなかった。
もっと別の、名づけようのない不安。
嵐の前に葉が静かに裏返るような——そんな、本能的なざわめき。
—
廊下では、念安が光の中を背負って、他の生徒たちと一緒に並んでいた。
列の先には、潜流清浄門(Drift Cleansing Arch)が待っている。
そこから吹き出す霧は、標準的な微冷香を帯びており、まるで雨上がりのビニール温室の空気のようだった。
まわりの生徒たちは、笑い声を交わしながら、いつも通りの軽やかさを見せていた。
——でも念安は、思わず後ろを振り返ってしまう。
そこには、列の真ん中に立つ沈以安がいた。
穏やかな表情で、澄んだ目をしていた。
外見だけを見れば——
彼はこの「標準都市」の理想的な少年のテンプレートそのものだった。
隙がない。
音もない。
完璧すぎるほどに完璧で——
だからこそ、怖かった。
—
潜流護盾(Drift Shield)は、空の高くで低くうなりをあげていた。
それは、目には見えない幕のようなもの。
だが今、それは何かに内側から、密かに押し裂かれているように思えた。
—
午後の実験棟。
光は柔らかく、空高くのシールドがほんのりと収縮し、半透明の層になっていた。
教室内には潜流操作台が一列ずつ整然と並び、やわらかい光をまとって静かに佇んでいた。
まるで水面下に浮かぶ銀色のクラゲのようだった。
今日の授業は潜流微制御実験(Drift Fine Control Practical)。
課題は、同期棒(Drift Tuning Rod)を使って、局所的に安定した微型潜流漩渦(Micro Drift Vortex)を生成すること。
——そう、いまや学校での知識伝達は、何十年も前のような教科書や暗記に頼るものではない。
代わりに、生徒たちの脳内にある生物潜流場に対して微弱な干渉を加えることで、知識の概念盆地(Concept Basin)を形成し、そこから潜流漩渦を誘導してbasin同士の流場地形(Landscape of Field)を調整し、推論通路(Reasoning Path)を作り出していく。
知識の吸収速度は過去の十倍以上にも達し、この学習法が普及して以来、人類は何度も飛躍的な技術進展を遂げてきた——
念安は標準実験制服を身に着け、ほかの生徒たちとともに操作台の前に立った。
制服の表層には、細かな同期繊維(SynFiber)が織り込まれており、すべての動作がリアルタイムで潜流システムにモニターされ、情緒流場の乱れを防いでくれる。
念安は慣れた手つきで同期棒を接続し、呼吸を微調整して、潜流の涟漪をゆっくりと沈めていく。
指先には、細やかな潜流粒子の振動が伝わってきた——
まるで、目に見えないぬくもりのある光の糸をそっと撫でているような感覚だった。
—
教室内は静まり返っていた。
時折、同期棒が発するごく小さなブーンという音だけが響く。
操作台の上には次第に微型潜流漩渦が形を取りはじめ、銀青の光点が空中にふわりと浮かび、回転し、呼吸し、柔らかい涟漪を放っていた。
念安の調整は順調だった。
彼女はそっと顔を横に向けて、隣の操作台を覗いた。
——そこには、沈以安。
動作は、驚くほどに正確で無駄がなかった。
同期棒は彼の指先で浮かび、潜流の光輪が規則正しく回転していた。
その軌跡は、標準的な示範動画とまったく同じように完璧だった。
完璧すぎる。
一度の揺れもない。
一瞬の乱れもない。
呼吸のわずかな上下さえ、同期流場にはまったく影響を与えていない。
まるで彼の呼吸が、生物として自然に起こるリズムではなく、
——超高精度なアルゴリズムによって自動制御されているかのように。
念安は眉をわずかにひそめた。
—
そのとき、背後からごく微かな呼吸音が聞こえた。
教室の最後列、窓際の席に澄川はもたれかかっていた。
片手で同期棒を無造作に回しながら、目はまっすぐ沈以安の操作台を見つめていた。
いつもの気怠く笑う少年の表情はそこになく——
ほんのわずかだが、極めてはっきりとした「警戒」の光が瞳の奥に浮かんでいた。
—
開いた窓から一陣の風が吹き込んだ。
それに合わせて、潜流の涟漪がふわりと揺れる。
ほとんどの生徒たちの微型漩渦が少し乱れ、調整が必要になった。
だが、沈以安の漩渦は——
動かなかった。
外的な乱れの痕跡すら、なかった。
それは単に技巧が優れているという話ではない。
それは——潜流が、外界との接続を断たれているということ。
念安の胸が、どんと沈んだ。
いくら同期が高いといっても、自然界からの擾乱に対して完全な無傷でいられるはずがない。
潜流とは、そもそも生物的な涟漪。
生物にはノイズがある。混沌がある。それが当然なのに。
けれど、沈以安は——
まるで「絶対安定モード」に入った、
——機械のようだった。
—
教師が歩きながら見回り、満足そうにうなずいていた。
ほかの生徒たちはそれぞれの操作に集中しており、誰も異変には気づいていない。
気づいていたのは、念安だけ。
そして、澄川だけ。
念安はそっと唇をかみしめた。
胸の底に、ぷくりと膨らむ不安があった。
まるで、潜流シールドの下で密かに育っていく小さな泡のような感覚。
澄川の指が一瞬だけ止まり、彼女と目が合った。
ごく小さな角度での視線の交差。
言葉はなかった。
けれど、念安にははっきりとわかった。
——彼も、気づいている。
—
窓の外、遠くのシールドは太陽の光を受けて、かすかに青く光っていた。
すべてが、まだ標準的な同期の範囲内。
すべてが、一見すると、安定していた。
けれど——
この静かな潜流実験の授業のなかで、
念安と澄川のふたりだけが、シールドの奥底から聞こえてきたのだった。
——かすかな、砕ける音を。
—
放課のチャイムが鳴る頃には、空のシールドがすでに自動調整を始めていた。
夕陽は高空の潜流層を透かして斜めに差し込み、教室棟の銀色の床にゆっくりと揺れる光の輪を落としていた。
生徒たちは三々五々と教室を出ていく。
標準制服は微風にゆらりと揺れ、談笑の声もシールドの下で柔らかく抑えられ、まるで醒めきらない夢の中のようだった。
苏念安は本を抱えて、廊下をゆっくりと歩いていた。
その視線の端では、前を行く沈以安の背中を時折追っていた。
——それでも、完璧すぎるほど完璧だった。
歩幅は標準通り。呼吸は安定。
その歩行リズムさえ、まるで潜流の同期テンポと完全に一致していた。
念安は思わず鼻をひくつかせた。
そのとき、背後から聞き慣れた、気だるげな笑い声が聞こえた。
「ちぇっ、小安安、そんなに見つめたら——目ぇ、取れちゃうよ?」
澄川がゆっくりと追いついてきた。
片手は実験制服のポケットに突っ込み、もう一方の手では同期ペン(Drift Stylus)をくるくると無造作に回している。
口元には、陽をたっぷり浴びたずる賢い猫のような、ほんの少し意地悪な笑みが浮かんでいた。
—
念安は「ふんっ」と鼻を鳴らし、顔を横に向けて彼を睨んだ。
声は低く押さえられていた。
「真面目にやってよ。……あんたも感じてるでしょ? あいつ、どう考えてもおかしい。」
「感じてるよ?」
澄川は飄々とした調子で肩をすくめると、念安の肩にそっと寄りかかるようにして言った。
「だからさ、大探偵様について来たんじゃん〜?」
彼はわざと語尾をのばし、少しだけ艶っぽくささやいた。
苏念安の耳の先がぽっと赤くなり、手を伸ばして澄川を押し返そうとするが、彼は軽やかに避けてみせた。
その顔には、からかうような笑み。
だが、次の瞬間——
その瞳に宿る薄い光がすっと陰りを帯び、真剣さが顔を覗かせた。
「でもね——」
澄川は声を潜め、体をほんの少し前に傾けて、念安の耳元すれすれに唇を寄せた。
「……気をつけろよ。」
その声はとても静かだった。
潜流の震えを帯びた微細な囁きが、あたたかな潮風のように耳殻を撫でていった。
—
念安の心が、一瞬だけ震えた。
彼女は顔を上げずに、低く「……うん」とだけ応えた。
ふたりは前後に距離を保ちながら歩き続けた。
見た目はただの偶然の同行者のように振る舞いながら、心の潜流は、いつの間にかそっと同じ周波数に同期していた。
—
校舎の出口に差しかかると、沈以安がふと立ち止まった。
彼はシールド灯の下に立ち、ゆっくりと顔を上げて空を見つめていた。
その唇には、かすかに笑みのようなものが浮かんでいる。
普通の生徒なら、こうした夕陽と潜流シールドがきらめく光景を前にすると、
その潜流場には自然な揺らぎ——感性と生物性がもたらす、ごくわずかな波動——が現れるはずだった。
だが、沈以安には、それがまったくなかった。
彼の潜流反応は、恐ろしいほどに滑らかだった。
まるで、ずっと前に死んでしまった脈が、いまだにプログラム通りに動いているかのような、奇妙な蠕動。
—
念安の背中を、冷たいものがすっと走った。
そのとき、澄川がすっと距離を縮め、低く笑って言った。
「ね、見た? 優等生が空を見てるよ。
……たぶん、同期信号を待ってるんじゃない?」
念安はふっと吹き出して、緊張が少しほぐれた。
そして肘で澄川を小突き、低く返す。
「同期信号待ってるのは、あんたでしょ、大きな尻尾のオオカミさん。」
澄川は肩をすくめ、シラッとした顔で流す。
その目の奥にある笑みは、潜流の微光のようにやわらかく、それでいて燃えるように熱かった。
その笑みの奥にある、もう一つの光——
それは笑いの下に隠された刃。
今にもこの穏やかな潜流シールドの幕を、鋭く裂こうとしているような——
—
遠くの都市シールドが、低くうねっていた。
光は穏やか。
空気も安らか。
すべてはまだ、標準同期曲線の上にあった。
—
翌日の実験授業。潜流操作室の空気は、表面上はいつも通りの静けさに包まれていた。
標準仕様の銀灰色の実験台、白色に統一された照明、
そして空気中には潜流フィルターが発する微かな冷たい匂いが漂っていた。
生徒たちは各グループに分かれて実験台のまわりに立ち、今日の課題に備えていた。
課題は、簡易潜流節点(Simplified Drift Node)の構築をシミュレーションすること。
念安は自分のグループの位置につき、目の端では沈以安の姿を何度も確認していた。
彼の動きは今日も変わらず、優雅で正確だった。
その一挙一動には、まったく隙がなかった。
周囲の生徒たちは、誰一人異変に気づいていない。
けれど、念安の指先は、いつの間にか同期ペンを強く握っていた。
そして感じていた。自分の潜流場の外側に——
明らかに「ここに属さない」ものが、静かに、確かに存在している感触を。
それは、まるで空気の中に何かがいる。
静かに、ゆっくりと。
潜流シールドの繊維を一本ずつ、音もなく引き裂いていくような。
無音。無臭。
ただ、細く密かな糸が骨の奥に絡みつき、静かに締めつけ、やがて——砕く。
—
カチン。
ごく微かな音がした。
まるで、誰かがガラスの針を床に落としたような、乾いた響き。
—
全員が反射的に顔を上げた。
そして目にしたのは——
沈以安の隣にいた女子生徒が、彼から同期ペンを受け取った、その瞬間だった。
彼女の動きが、ぴたりと止まった。
彼女は手の中の同期ペンをじっと見つめ、瞳に浮かんだのは——
痛みと狂気が入り混じったような、異様な光。
体が小さく震え、潜流の同期指数が一気に跳ね上がる——
だがそれは上昇ではなく、むしろ急激な「断裂帯(Fracture Bands)」としての爆発だった。
次の瞬間、彼女は何かに理性を引き裂かれたように、完全に制御を失った。
—
彼女は手を伸ばし、机の上の小型潜流安定器(Micro Drift Stabilizer)を掴んだ。
それは精密な同期調整のための機器で、細長く鋭利で、先端には強力な震動を発生させる針がついていた。
誰もがまだ何も反応できないうちに——
彼女はその先端を、自らの胸元に向けて、勢いよく突き刺した。
—
バシュッ。
潜流の涟漪が一瞬にして引き裂かれ、空気が金属を裂いたような鋭い音を放った。
血が噴き出した。
標準の白い制服に、鮮やかな赤が飛び散る。
それはまるで、潜流シールドに走った裂け目のように、生々しかった。
彼女の口元はぶつぶつと呟き始め、それは狂気に満ち、次第に叫びへと変わっていった。
その声は次第に尖り、割れて、破滅的な調子を帯びていた。
「……見つけなきゃ……見つけなきゃ……!」
「私の……basin核(Conceptual Drift Basin)が……」
「汚染された……浄化しないと——!」
彼女は血に染まった手で自分の胸をかきむしり、
骨と肉の間から、存在しない「魂の核」を、素手で引きずり出そうとした。
—
教室が、一瞬だけ凍りついた。
そして次の瞬間、誰かが叫び声をあげて後退し、
誰かが転倒し、
誰かが必死で警報ボタンを押した。
—
潜流警戒線(Drift Emergency Net)が天井から即座に展開され、局所的に空間を封鎖しようとする。
だが、女子生徒の潜流場はすでに深刻に歪みはじめ、周囲の微涟にも感染を始めていた。
同期曲率指数が跳ね上がり、教室内の空気全体が、まるで水面下でうねる暗流に引き込まれるように揺れ始めた。
—
念安は反射的に澄川の袖を掴んだ。
小さな手は震えていたが、必死に歯を食いしばり、声をあげなかった。
澄川は彼女の肩をしっかりと押さえ、もう片方の手で素早くポケットから携帯型潜流抑制器を取り出すと、
ふたりの周囲に局所シールドを展開し、拡散する撕裂波から彼女を守った。
—
教室の外では、急ぎ足の音がこちらへ向かってきていた。
警備部隊。
軍直属の同期チーム。
誰もが、状況の深刻さに気づき始めていた。
——だが、その場にいる誰も気づいていなかった。
沈以安が、教室の中央に、静かに立ち続けていたことを。
その顔には——
温和な表情と、ほんのわずかな、静かな——笑み。
まるでそれが、最初から決まっていた終焉を、ただ静かに見届けているかのようだった。
—
警報が潜流シールドの上空を鋭く切り裂き、警備部隊が突入してきた。
銀黒の戦術潜流スーツ(Tactical Drift Suit)をまとった彼らは、無駄のない動きで教室内に進入する。
動きは一糸乱れず、潜流場抑制器(Drift Dampener)は最大出力で作動し、
実験棟内には半径二十メートルに及ぶ小型同期抑制区域(Localized Inhibition Zone)が形成された。
空気全体が、凍るような圧力を帯び始める。
潜流粒子は高周波圧制下で、水分子のようにぎゅっと縮み上がっていた。
—
沈以安は教室の中央に立ったままだった。
彼の標準制服は、潜流抑制波に撫でられて、かすかに揺れていた。
だが、彼は一切動じなかった。
突入してきた警備部隊を、穏やかなまなざしで見つめ、
その口元には、まだ微笑が残っていた。
まるで、これこそが予定通りの結末であるかのように——
—
部隊指揮官が短く手を振って合図を出す。
二人の同期警備員が前へ進み、携帯型潜流拘束具(Portable Drift Shackle)を持ち上げた。
微型同期束(Micro Drift Beam)が、沈以安の神経ノードに正確に照射される。
沈以安は、抵抗することなく、ゆっくりと両手を上げた。
同期束はその全身を覆い、潜流核(Drift Core)の周囲反応を封鎖していく。
終始、沈黙。
まるで、標準操作の一手順のように、冷静で整っていた。
—
念安は、生徒たちの群れの後方に立っていた。
心臓は高鳴っていた。
その横で、澄川がシールドの縁に手を置き、じっと沈以安を見つめていた。
その表情は静かで、普段と変わらぬように見えたが、きゅっと引き締まった顎のラインが、彼の内心の警戒の深さを物語っていた。
—
周囲から、小さなざわめきが漏れた。
「……潜流汚染……?」
「彼って、昔めちゃくちゃ潜流能力高かったんだよね……」
「どうして、急に……?」
—
そう。
沈以安は、かつて学区内でトップ5に入ると評された潜流制御の天才だった。
彼のbasin核(Conceptual Drift Basin)は、同年代の中で群を抜いて安定しており、
標準化スクリーニングでは、潜流曲率がほぼ理論限界に達していた。
「絶対同期者(Absolute Synchronizer)」——そう呼ばれた存在。
教師たちは、彼が将来、中央都市の潜流開発局に進み、次世代の潜流構造師になると信じて疑わなかった。
生徒たちも、あらゆる実技競技で彼が当然のように優勝していくのを、当たり前のように見ていた。
完璧。
静謐。
優雅。
—
——そして、今日。
亀裂が、走った。
—
同期ロックが完了すると、警備隊長が短く命令を下した。
「中枢同期局(Central Drift Bureau)に移送。
basin核の汚染度を精査。
必要に応じて、同期修復もしくは——消去プロセスへ。」
その声は一片の感情も含まない、
ただ教室に残った日常の残響を、容赦なく断ち切る冷たい刃のようだった。
—
沈以安は静かにうなずき、警備員に付き従って歩き出した。
そして——
念安と澄川のそばを通り過ぎる一瞬、彼はほんのわずかに顔を傾け、
誰にも聞こえないような、ごくごく小さな声で呟いた。
潜流抑制の歪んだ空気のなかで、ふたりにだけ聞こえたその言葉。
「……汚染じゃ、ない。」
その声は、夜の裂け目から垂れ下がった糸のように、儚く、壊れかけていた。
—
澄川の眉がわずかに動いた。
だが、彼は追いかけなかった。
念安の心臓が、ぎゅっと締めつけられるように震えた。
制服の裾を握りしめるその指先には、背骨の奥から響いてくるような感覚があった。
まるで、沈黙の中で、
潜流シールドの下に、もっと深く——
もっと静かに、
裂け目が開いていくのを、感じていた。
—
廊下の突き当たりで、シールドが再び波打った。
銀と黒の影たちは、拘束された少年とともに、
暮れゆく都市潜流の光に、すべり込むように消えていった。
世界は、表面上、再び標準同期へと戻った。
あたかも、何事もなかったかのように。
あたかも、
血と潜流が交錯した、あの引き裂きは——
ほんの些細な、
一時の「小さな暴走」にすぎなかったかのように。
—