第4章 完璧の笑顔に、命は宿るのか?
夜の闇は、ぐっと低く垂れ込めていた。
廃棄された工業地帯の上空、
潜流シールドの光膜は、ゆっくりと収縮しながら波打っていた。
それは、透き通る皮膜のように見えながらも、
どこか濁っていて、病的な光を帯びていた。
かつてこの場所は都市のエネルギー中枢だった。
今はただ、歪んだ鉄骨が風に軋むだけの骸だった。
崩れた高架橋には錆びた鋼索がぶら下がり、
冷たい風がそれを無言で揺らしている。
空気には、はっきりと言えない不穏な振動が漂っていた。
それはまるで、死にかけた生き物が、遠くで微かに息をしているようだった。
—
林澤は、第九暗線小隊を率いて、
この廃墟の中を進んでいた。
隊員たちは全員、潜流遮断ヘルメットを装着し、
手には同期スキャナを構えている。
その青白い光が、黒い空間の中で淡く点滅しながら、
破れた都市の輪郭を一筆ずつ描き出していく。
ときおり、スキャナが微かに「キィィ…」と鳴った。
それは、潜流曲率の局所ズレが発生したときに響く、
まるで骨が奥で軋むような、かすかな不協の音だった。
—
小隊は訓練通り、扇状に散開しながら、
静かに、しかし確実に前進していく。
足元を吹き抜ける風には、潜流の漏れたような生臭さがあった。
まるで、どこか地下の腐敗した記憶が、ふいに地表に浮かび上がってきたようだった。
—
林澤は、手元の波形を確認していた。
そのとき、視界の端で、前方にある半壊した工場の影が動いたように見えた。
……人影。
汚れたつなぎ服を着た背中が、
猫背のままゆっくりと動いていた。
その動作は不自然に遅く、ぎこちない。
まるで壊れかけた機械が、規則を忘れてうろついているようだった。
林澤は手で合図を送り、全隊を静止させる。
彼はスキャナの光を超低周波に切り替え、
そっと、その人影に向けて照射した。
—
スキャン光が、その人物の体をかすめた。
けれど返ってきたデータは、限りなく“空白”に近かった。
——標準潜流との同期反応、なし。
——代わりにあったのは、かすかで無秩序な震えだけ。
それはまるで、
接続されたことのない“死んだ物体”を読み取ったような感触だった。
—
そのとき。
その人影が、ぴたりと動きを止めた。
まるで、誰かに見られていることを察知したように。
そして——
ものすごくゆっくりと、首を回し始めた。
最初はごくわずかに。
次に、「ギリッ」と耳障りな音と共に、
首の角度がぐらりと崩れた。
——断裂した関節のように、頭がねじれながら、
ぐるりと振り向く。
—
暗闇の中に、その“顔”が浮かび上がった。
表情は、なかった。
瞳孔は凍ったガラスの下に閉じ込められたようで、光をまったく反射しなかった。
口元には、奇妙な笑みのようなものが浮かんでいた。
けれど——それは筋肉の動きと一致していなかった。
まるで無理やり貼りつけた仮面のように、ただそこに“笑っている形”があるだけだった。
—
林澤は、思わず半歩、後ずさった。
すぐに戦術サインを出す。
——警戒態勢。
その瞬間、“拾荒者”が動いた。
ぎこちなく、けれど異様な速さで、彼らに向かって突進してくる。
脚の関節は、まるで外れたまま無理やり跳ねているようで、
動きの全てが人間らしくなかった。
林澤は反射的に銃を抜き、三発撃った。
標準弾が、相手の胸を正確に貫いた。
「ドン、ドン、ドン。」
廃墟に銃声が響いたが、血は——出なかった。
—
全隊が即座に包囲体制へと移行。
拾荒者はその場で止まり、首を傾けた。
その視線には、恐怖も、怒りも、痛みも、何もなかった。
ただ、まるでそこにあるのが“生物”ではなく——
観察対象以下の、“雑音”だったかのような目。
そして彼は、何事もなかったように踵を返し、
ふらつきながら、工場の影の中へと消えていった。
その靴底が地面を擦るたび、
きぃ…きぃ…と、骨を引きずるような音が鳴った。
—
林澤は、スキャナに目を落とす。
さきほどまで異常数値を示していた座標が——
まるで何もなかったかのように、
一瞬で標準値に戻っていた。
……まるであの存在自体、最初からいなかったように。
—
背後で、隊員が小さく毒づいた。
「な……何なんだ、今のは……」
林澤は答えなかった。
ただ、背中を撫でるように這い上がってくる“見えない冷気”に、
全神経がざわついていた。
—
遠く、廃墟の奥で、小さな足音がした。
一歩、また一歩——
暗がりの中から、別の“拾荒者たち”が、
ゆっくりと、都市の中枢へと向かって動き始めていた。
—
都市内層、二区。
朝が始まったばかりの時間帯。
潜流ライトはまだ消えきっておらず、
空気には、微細な同期振動が淡く漂っていた。
ある中層エンジニアの男——姓は劉。
彼は、毎朝のルーチン通り、目を覚まし、
無意識のまま洗顔し、着替え、潜流同期コードを確認する。
——標準化された潜流生活。
その脚本の中で、すべては“正しく”進んでいた。
—
キッチンには、妻がいた。
静かに朝食を準備している。
吐き出されるコーヒーの蒸気。
パンが焼ける香り。
加熱パネルに浮かぶレシピコード。
すべてが、完璧だった。
床は暖かく、画面にはニュースキャスターの微笑。
彼女の声は明るく、穏やかだった。
テーブルには、トースト、卵、ホットミルク。
牛乳の表面には、ほんの少し、泡が立っていた。
—
エンジニアは、椅子に座り、食卓を眺めた。
手を伸ばし、塩のボトルに触れた、そのとき——
ふと、動きが止まった。
塩の位置が——いつもと、違う。
わずかに、五センチ。
それは、ごく小さな誤差。
けれど、彼の中で、何かがきしんだ。
妻は、絶対に位置を間違えない。
彼女は、間違わない人だった。
—
「おはよう。」
背後から、妻の声がした。
いつも通り、清らかで、やさしい。
彼は反射的に微笑み、
「おはよう」と返した。
振り向いたその瞬間——
妻の顔が、視界に入った。
—
笑顔は、完璧だった。
角度も、口元のカーブも、
標準潜流教育で習った模範写真と寸分違わぬレベル。
だが——完璧すぎた。
その“笑顔”は、人の顔ではなかった。
そこには、筋肉の細かい震えも、
潜流の情動共振も、一切なかった。
—
彼は、塩のボトルをそっと置いた。
その動作は、ぎこちなく、まるで壊れかけの人形のようだった。
胸の奥で、心臓が異常なリズムで跳ね始める。
—
妻は、首を傾げ、静かに見つめていた。
笑顔は、動かない。
まるで“やさしい妻”という脚本に、
永遠に閉じ込められたような、固い仮面。
—
エンジニアは、迷いながら、立ち上がった。
一歩、また一歩——
妻に近づくたびに、
潜流同期インジケーターが小さくノイズを発していた。
それは、警告だった。
“この人間は、同期していない。”
—
妻は、動かなかった。
ただ、笑っていた。
その目には、怯えも、困惑も、温度もなかった。
ただ、空っぽだった。
—
彼は手を伸ばし、妻の頬に触れようとした。
その指先は、しばらく空中で止まった。
そして、そっと、肌に触れた——
—
震え。
細かく、かすかに、
まるで限界ギリギリで動いている、
死んだ機械のモーターのような微振。
笑顔は、変わらない。
目元も口元も、まったく動かなかった。
ただ、右目の端が、ほんの一瞬、ピクリと震えた。
それは、壊れた義手が最後に痙攣する時のような、無意味な信号だった。
—
彼は叫びもせず、
ただ崩れ落ちた。
—
ミルクのカップが倒れ、床に砕ける。
白い液体が飛び散り、壁に貼られたスローガンにかかる。
【標準こそ、生存。】
その文字に、牛乳がじわじわと染みこんでいく。
雫が、床に“ぽた、ぽた”と落ちる音が響く。
—
心臓の音のように。
崩壊の音のように。
そして——裂け目の始まりの音のように。
—
朝の光が、潜流シールドを通して部屋に差し込んでいた。
その光に照らされた妻の笑顔は——
まるで完璧に作られた“仮面”だった。
けれど彼女は、その仮面のまま、
台本通りに、穏やかにこう言った。
「あなた、ごはんできたわよ。」
その声には、
潜流共振の“ゆらぎ”が、ひと欠片もなかった。
—
エンジニアは、頭を抱え、震えていた。
同期装置のエラー音が、耳元で響いていた。
——今すぐ報告すべきだ。
それが、標準マニュアルの指示だった。
けれど、彼は動けなかった。
逃げたい。逃げ出したい。
でも、何かに——
この都市の根底に埋め込まれた“恐怖”に、
その場に縫い止められていた。
—
“狂っている”のは誰だ?
自分か?
目の前の“彼女”か?
——わからない。
彼女は、ただ、笑っていた。
静かに、
“彼”の選択を、待っていた。
—
遠くから、低周波の警告音が響いた。
どこかで、潜流シールドが、
微かに揺れた。
——まるで、静かな水面が、
何かに突き刺されたように。
—
潜流中央ノード(Central Drift Core)のモニターには、
無数のエラーメッセージが並んでいた。
一つ一つの曲率波形、
一つ一つの座標点。
それらすべてが、標準同期プログラムの「自動修復」に失敗した痕跡だった。
—
午前3時。
潜流異常指数(Drift Anomaly Index)が、わずかに上昇。
午前7時。
二度目の上昇。
正午12時には、中央ノードに300件を超える匿名の異常報告が届いていた。
—
【異常報告 No.D-11452】
報告者:匿名
場所:東三区 住宅街
内容:隣人の笑顔が不自然。動作に遅れあり。潜流反応のラグ 0.72秒。情動微波に異常。
【異常報告 No.D-11491】
報告者:匿名
場所:西五区 商業通り
内容:店員の歩き方にズレ。声調が固定化され、突発質問に自然反応できず。曲率データに+0.14Hz の偏移。
【異常報告 No.D-11508】
報告者:匿名
場所:南二区 学区
内容:子どもの笑い声にループ傾向。動きがパターン化しており、潜流同期に局所フリーズを確認。
—
軍部・中央指揮室。
空気は、もう完全に変わっていた。
蘇遠征は浮動作戦台の前で、
険しい表情を浮かべながら、最新の報告を次々と確認していた。
白瑾秋は、分析端末に寄りかかるように立ち、
表情ひとつ変えず、眼差しは凍てついた海のように静かだった。
—
巨大な同期監視スクリーンには、
都市の地図が回転しながら表示されていた。
そこに浮かぶ無数の小さな赤い点。
最初は、ぽつん、ぽつんと離れていた。
だが今——
赤点は、都市の各地でゆっくりと繋がり始めていた。
火花のように。
無音の炎のように。
ひとつ、またひとつと、
静かに燃え広がっていた。
—
「市民の動揺が急速に広がっています。」
情動制御官(Affective Response Manager)が報告した。
その声には、明らかな焦りがにじんでいた。
「匿名通信の流量が、3時間で6倍に。
負の潜流共鳴(Negative Drift Resonance)が高まり、
このままだと——」
「シールドが“逆流汚染”される。」
白瑾秋が、淡々と引き取った。
その声は、まるで天気予報でも語るような平坦さ。
指先でターミナルをトントンと叩くたびに、音が棺の蓋を閉めるようだった。
—
「だが、今この状態で全都市同期(Mass Drift Reset)を実行したら、
恐慌が一気に爆発するぞ。」
蘇遠征の声は、冷静を保ちながらも、鋭かった。
—
白瑾秋は横目で彼を見た。
その目の奥には、薄氷の下に宿る鋼鉄の光。
「崩壊する前に、
“幻想”を剥がさなきゃいけない。」
—
遠く、潜流シールドの奥で、かすかな“異音”が響いた。
それは——
主潜流管(Primary Drift Artery)に、ごく微細な裂け目が生じた時の音。
ガラスが、誰にも見られないうちに、
「ピキッ」と音を立てて割れるような。
—
都市では、一般市民たちが、
“何か”に気づきはじめていた。
—
市場では、八百屋の店主が同じ挨拶を5分以上繰り返していた。
公園では、ある子どもがブランコの上で、
まったく同じ角度で笑い続けていた。
地下鉄では、警備員たちの足取りが完全に揃っており、
まるで一本の透明な糸に操られているようだった。
—
人々は、視線だけで合図を送り合い、
声をひそめて話していた。
——でも、誰も、大声では言えなかった。
なぜなら、標準同期訓練のせいで、
「疑問を持つこと」にすら、恐怖を感じるようになっていたからだ。
それでも——
恐怖は、潜流の底で、静かに膨らんでいた。
—
「……ねえ、あの人、なんか変じゃない?」
「笑い方が……真似してるみたいに見える……」
「あの駅員、昨日まで左利きだったのに、今日突然右利きになってた……」
—
その囁きの一つ一つが、
都市の中に張られたガラスのような“標準”に、
小さなヒビを入れていく。
—
夕方。
潜流シールドが、一度だけ、
目に見えるレベルで“揺れた”。
ほんの一瞬のズレだった。
すぐにシステムによって修正された。
けれど、あの瞬間——
都市全体が、
息を止めていた。
—
裂け目は、まだ完全には開いていない。
けれど、
誰もがすでに——
その空気の中に、
破裂寸前の“異常”の匂いを感じていた。
—
軍部・中央指揮ホール。
昏い照明の中、潜流モニターが淡く青白く輝いていた。
その光が、まるで手術室のライトのように、冷たく静かに場を照らしている。
蘇遠征は中央に立ち、
軍服の襟を正しながら、
都市全域の同期指数グラフを睨みつけていた。
その曲線は、
まるで極限まで張り詰めたワイヤーのように、
少しずつ標準軌道から逸れていっていた。
—
白瑾秋は、戦術端末の前に立っていた。
背筋を一分の隙もなく伸ばし、
表情ひとつ動かさず、指先だけが淡々と操作を続けていた。
画面上では、最新の異常分析データが次々と展開され、
曲率モデルが彼の掌の中で、青く燃えるように回転していた。
—
会議室の左右には、
潜流情報統括官、都市運営官、情動波観測官など、主要部門の代表が列席していた。
誰の顔にも、緊張が浮かんでいた。
ここは、
“封鎖するか、しないか”の境界線。
—
「封鎖を。」
白瑾秋が、低く、静かに言った。
その声は、硬く、冷たく、まるで鋼鉄が擦れ合う音のようだった。
「このままでは——
四十八時間以内に、シールドが崩壊する。」
言葉に一切の装飾はなかった。
それは「予測」ではなく、
「決定事項」のような響きを持っていた。
—
「落ち着け。」
蘇遠征が静かに返した。
その声は冷たさの中に、かすかな“温度”を孕んでいた。
「異常体の“伝染性”はまだ確認されていない。」
—
都市運営官が補足する。
「現在までのデータでは、異常体の潜流汚染半径はごく小規模。
拡散性は見られません。市民の恐慌は、主に負の共振の自己増幅です。」
—
蘇遠征は、画面上で拡がる赤い斑点を見つめながら、
眉間に皺を寄せた。
“異常体”は、人間だ。
都市の潜流システムが乱れたときに発生する、
“個別的な曲率異常”による同期障害者。
理論上、それは“浄化”可能な存在だった。
全域に大規模な再同期(Mass Drift Reset)をかければ、
潜流フィールドは再校正され、異常源は洗い流される。
だが——その代償は、あまりにも大きい。
—
•潜流感受性の低い市民は、精神ショックを受ける可能性がある。
•潜在的な異常者に強制同期をかければ、脳に損傷、最悪の場合は死に至る。
•都市全体の情動フィールドが最低レベルにリセットされ、社会機能は一時凍結する。
—
白瑾秋は、画面に指を走らせた。
過去の災害シミュレーションが展開される。
数十年前、小規模な偏移事故——
対処の遅れが全域汚染に繋がり、
結果:都市規模の潜流崩壊と消失。
—
「待つのか?」
彼の声は低く、冷たいが、
そこには火のような、凍った怒りが潜んでいた。
「裂け目がシールドを引き裂くまで?
潜流が逆流して都市を飲み込むまで?」
—
蘇遠征は、拳を握った。
白瑾秋の言葉は正しい。
原則においても——「先に封鎖、後に調査」が正解だった。
だが、何かが、ひっかかっていた。
—
異常者たちは、ただの潜流誤差にしては“違いすぎる”。
動きが硬直しすぎている。
表情が“演技”のように感じられる。
潜流反応が、まるで別構造で動いているように見える。
まるで——
「何か別のもの」が、“人間”のふりをしているようだった。
—
蘇遠征は、ちらりと白瑾秋を見た。
その横顔は鋭く、整いすぎていた。
規律と原則の化身。
彼に“例外”はない。
今この場で「全都市同期」が許可されれば、
彼は必ず、迷いなく実行する。
そして——
異常の疑いがある人々を、
すべて、削ぎ落とすだろう。
—
「……24時間、様子を見るべきだ。」
蘇遠征は、重く口を開いた。
「局地同期場(Localized Drift Isolation Field)を設置し、異常区域を封じ込める。
だが、都市全体への強制同期は、今は避ける。」
—
部屋に、一瞬、沈黙が落ちた。
運営官たちは、顔を見合わせ、ほっと息をついた。
—
白瑾秋は、異論を挟まなかった。
ただ、まっすぐ立ち上がり、静かに頷いた。
——争うつもりはない。
彼の目は、都市全体のマップをじっと見つめていた。
ゆっくりと広がる、赤い涟漪。
わずかに曲がる曲線。
壊れた歯車のように、確かに“そこにあるズレ”。
—
彼は、心の中で、ゆっくりと囁いた。
「……裂けろ。
できるだけ、深く、汚く。
お前たちが手遅れになるほどに。」
—
そのとき——
都市の彼方。
潜流シールドの深層で、
「ピシィッ」と、小さな音が響いた。
それは、誰にも聞こえないほど微細な“割れる音”。
けれど、それは確かに——
“裂隙”が、開いた音だった。
—