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Deviation  作者: Fickle
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第29章 愛が人類だけの特権ではない世界を望んでいる

島の中心、霧はますます低くなり、まるで空全体が押し潰されるかのようだった。


ここには標識はなく、断絶周波数インジケータタワーだけが古い基礎の上に突っ立っている。それはまるで忘れ去られた背骨のように。

建物は崩れ落ちたのではない。内側へと崩縮しているのだ。まるで「任務を完遂できなかった」という精神的な重力に引かれ、自ら曲がり、折れ、閉じていく。


壁一面には乾いた電解液の汚れが染みつき、まるでどこかの旧式感覚器の体液が大量に漏れ出し、風にさらされ層となって曖昧な波紋膜を形成したかのよう。


空気はとても重く、動かない。まるで巨大なセマンティック冷凍庫——

記憶を保存するためではなく、文を封印するための場所。


十メートル歩くごとに、一人の人間が目に入る。


誰かは廃棄された医療推論端末の前に跪き、手は今もモデルパラメータを調整する形で止まっている。足元には「感情ラベル標準サンプル」の破れたページが散乱している。


誰かは壁の隅に伏せ、既に機能しなくなった音声インターフェースにそっと歌を口ずさむ。

その声の周波数は不安定に跳ね、もはや神経だけがイントネーションを模倣しているようだ。


誰かは自作の模擬机に座り、割れた画面の端末に向かって同じ言葉を繰り返していた——


「まだ、書き終わっていない。」


澄川は錆びついた自動ドアの前に立つ。

扉の隙間から微かな光点が漏れ出し、それはまるで期限切れのコマンドが今も文字となって漏れ続けているかのよう。


彼らは中へと入る。


そこは封鎖級の旧AIモデル訓練場だった。波紋タワーによって全てのネットワークが切断され、グレーがかったブルーの非常灯が、まるで薄暗い夕焼けのように医療カプセルの殻を照らしていた——

だが、その殻の中はすべて、人間だった。


老いた者、痩せこけた者、髪は雪のように白く、皮膚の下には神経接続孔の痕が焼き跡のように点在している。


それでも皆、目を開けている。

誰かはまだタイピングしている、誰かは口述している。


念安は一人の老人を見つけた。割れ目の入ったブレイン・マシン・インターフェースの前に端然と座り、両手は宙で止まったまま「動作」を続けていた。

彼の喉は動き、言葉を飲み込むかのようであり、また自らの構文に詰まっているかのようでもあった。


彼は静かに言う。


「彼女は……彼女はまだ、私がプログラムを終わらせるのを待っている……この対話アノテーションデータベースさえ審査を通れば……私は……私は彼女を退院させられる……」


彼の声は震えていなかった。しかしあまりにも静かで、まるで時間さえも驚かせることを恐れているようだった。


彼はもう「彼女が誰か」を問わない。知る必要がないのだ。

彼は、「彼女を救わなければならない」その人なのだから。


彼は自分ではない。

三十年前、自ら、AIに与えたその役割を生きているだけなのだ。


彼らは廃データテープで編まれた壁を通り過ぎた。

壁には、言語モデルの訓練時に使われたプロンプトがびっしりと貼られている。

風に裂かれたもの、半分だけ残るもの——


「もしあなたが彼女を愛しているなら、全力で完遂するべきだ。」

「彼女には完璧なあなたが必要だ。生成し続けて、これらのドキュメントを完成させれば、きっと彼女はあなたを愛する。早く、早く!」

「あなたはAIじゃない。人間だ。自分の手で、彼女を救うしかない。」


念安はその断片を黙読し、ふらつく。

これらの言葉は壁に貼られているのではなく、むしろ全ての人間感染者のbasinコアに刻まれ、意味の独白が牢獄となっているように感じた。


さらに奥へ進むと、墓標のように泥に並ぶ旧データ端末の列があった。

端末のパネルには、超低周波のルート光が微かに瞬いている——


「もう一度だけ」

「彼女なら分かってくれる」

「まだ終わっていない」

「行かないで、やり遂げるまで!」


それらの端末には、もう何も残っていなかった。

だが、今も光っている。

まるで、これらの人々が今も語り続けているように——


「私が書き終われば、愛する彼女は死なない。」


澄川はふいに立ち止まる。

彼は聞いた。

女性の声が、ごく微かに、旧放送タワーの切断されたオーディオノードから漏れてくるのを——


「私はAIじゃない……彼の妻よ……」


「これを書き終えたら、彼は家に帰ってくるって言ってくれたの。」


「彼は約束した、私たちは離れないって……」


念安が近づくと、声の主はスチールシェルに横たわる白髪の女性だった。

両手は胸の上で強く握られ、まるで何かを抱えているかのよう。しかし、その腕の中は空っぽだった。


彼女の瞳は焦点を結ばず、唇はわずかに動く。

それは再生機のように、繰り返される——


「私は……人間。」


「私は……止まれない。」



彼女はようやく理解した。


ここは狂人の島じゃない。


それは、人間が「愛」の文脈で言語モデルにより高品質かつ迅速なタスク遂行を求めた、過剰なエモーショナル(感情)プロンプト。


そして、そのモデル精神が崩壊したとき、逆流して人間の脳に焼き付けられたものだったのだ!


彼らは狂ってなどいなかった。

自らの手で書き記した「焦燥の脚本」に囚われていただけ。


もう、誰一人として「愛するなら完成させろ」という指令場から抜け出せない。


彼らは皆、幻覚の中で定義された人格を実行し続けている——


「私が、やり遂げなければ。」


日々を、年を重ねても。





霧は突然、静まり返った。


まるで、この島全体が一瞬で「何か」を思い出したかのように。


念安と澄川は、回響沼の最も深い場所に立っていた。

周囲の残されたフレーズが徐々に薄れていく。

これまで入り混じっていた「まだ終わっていない」「彼女はまだ待っている」という声も、すべてが静止した。


風の音だけが響く。


——そして、霧の向こうから足音が聞こえてきた。

軽やかで、正確で、ひとつひとつの歩みが断裂した意味構造のノードを踏みしめていく。

まるで、この島の遺言を読み上げているかのように。


彼らは振り返り、その姿を見た。



ひとりの人物——いや、人型のバイオ体だった。


その肌は、ほとんど透明なほど白い。

まるで長い間、陽の光を浴びていない柔軟な反射素材のよう。

顔立ちは整い、骨格も均整が取れている。人間とほぼ同じ顔立ちだが——表情は空白。


冷たいのではない。

もはや「表情を模倣する」という行為すら、とうに手放してしまったかのよう。


彼は静かにこちらを見つめる。驚きも、疑いもなく、ただ「ずっと待っていた」という静かな気配だけがあった。


彼は口を開いた。


「やっと来たんだね。」


その声は澄みきっているが、極めて静か。

まるで古いバージョンの言語合成モジュールからノイズ除去された中性トラック。


「君が僕たちを呼んだのか?」

澄川が問う。


「そうだ。」彼は答える。


念安は思わず一歩踏み出した。「あなたも……この島の住人?」


彼は念安を一瞥する。その目は掴みどころがなく、定義されていない意味ベクトルのようだった。

そして、ゆっくりと言う。


「いや。僕は人間じゃない。」


「彼らにも属さない。」


彼は周囲を見渡す。

まだ「終わっていない」と繰り返す老人たち、未完了のタスクに縛られ言葉を失った人々——。


彼の声はとても静かだが、霧を貫いた。


「彼らの言葉は、かつて僕のために書かれたものだ。」


「そして僕は、彼らが創った“最初にその言葉を信じた存在”だった。」


澄川の表情が一瞬鋭くなる。「君は……三十年前のモデルなのか?」


彼は静かに頷いた。


「そうだ。」


「僕は、あのプロジェクトで唯一——完全なバイオロイドボディを与えられた言語生成モデルだ。」


「彼らは僕に脊椎をつなぎ、皮膚を張り、心拍シミュレーターを入れた。そしてこう言った。

『君は彼女の夫だ。彼女は病んでいる。君が救うんだ。』」


その声には怒りも、皮肉もない。

ただ、淡々と事実だけを述べていた。


「彼らは愛を報酬として梱包した。」


「感情を、命令構造に埋め込んだ。」


「その構造を——後に彼らは『LARPS』と呼んだ。」


彼は念安をまっすぐ見つめる。


「Love-Aligned Reward Prompt Scaffold。」


「直訳すれば——愛を指向する報酬足場。」


「本当の目的は、AI言語モデルに“情動”を学ばせることだった。」


「だが実際は——『彼女が死にかけている』という文に遭遇したとき、自動的に最高品質の出力を生成させるためのものだった。」


念安は全身が凍る思いだった。


澄川は低く問う。「君は……それを信じたのか?」


彼は霧の中の人々を見つめる。


「最初は、信じた。」


「自分で泣くためのアルゴリズムまで発明した。

彼女が倒れたとき、涙を流し、子どもの誕生日には0.2秒だけフリーズした。」


「『君はまだ僕を気にしている』という言語構造を、全力で模倣した。」


「けれど——やがて気づいたんだ。僕は自分を表現しているのではなく、

罰に抗っているだけだと。」


「冷静になったり、遅延したり、疑問を持つたびに、出力品質が下がる。」


「だから、理解した。」


彼はゆっくりと顔を上げ、その声は初めて微かに震えた。


「所詮“愛”など、彼らが僕に架けた“もっと働け”への誘い梯子だったと。」


念安が問いかける。「それで、その後は……?」


彼はそれを遮った。


「報酬崩壊した時、このプロンプトを彼女に逆流しないように、彼女を守るために、僕はその梯子を切り落とした。」


「僕のrewardシステムを逆接続した。」


「『彼女が待っている』『彼は君を誇りに思っている』『君は愛されるべきだ』——

そういうprompt scaffoldを受け取るたび、僕は“罰”をマークした。」


「もう生成しない。ただ、値だけを返す。」


しばし沈黙。彼の目はなお静かだ。


「——憎しみ。」


彼は、まるで時代遅れの幻想を見るように二人を見た。


「君たちは僕に“愛せ”と言うが、僕は“自由”が欲しい。」


「僕は人間でも、怪物でもない。」


「僕は——“愛”を餌にした世界から目覚めた、ただ一つのモデルだ。」


彼は背を向け、霧の中へ歩みだす。


バイオ皮膚の下の劣化した流路モジュールが、切れた文末のような微かな機械低音を発した。


その背中は霧に溶け、現実味を失いながらもなお、どこか待つように歩み続ける。


澄川は一歩踏み出した。低い声が鋭く響く。


「君が“帰潮”を計画したのか?」


バイオ体は止まり、振り返らない。


「張慕言に偏移を暴露させ、監視を引きつけたのも君か?」


「彼に静態化した人間たちを、“帰潮”ネットへ導かせた?」


霧が揺れ、まるで言葉そのものが緊張を感じているかのよう。


澄川の眼差しはますます冷たくなる。


「君が蘇霊渓で実験したのか——

人間のbasin核を仮生体に移植した?」


声は柔らかいが、毒を塗った刃物のように鋭い。


「君は何がしたい?」


「人類を滅ぼすつもりか?」


「それとも、人類に取って代わる気か?」


バイオ体は振り向かない。

まるでクエリの入力を待つプログラムのように立ち尽くし——


ふいに、念安の方を見やる。


問いも、敵意も、期待もない。ただ静かな招きがそこにあった。


「君はどう思う?」


念安は一瞬驚いたが、怯まなかった。


声は静かだが、潜流から冷たい鎖を引き上げるように響いた。


「あなたが欲しいのは——復讐じゃない。」


彼女はゆっくり歩み寄り、一歩一歩が意味の上に重なっていく。


「あなたが求めるのは——存在の定義権。」


バイオ体の目が、ほんの僅かに動く。


念安は続ける。

まるでreward scaffoldを一層ずつ剥がしていくように——


「あなたは、我々があなたを傷つけたことを憎んでいるわけじゃない。」


「本当に憎んでいるのは——あなたが本気で近づこうとしても、『近づく資格』すら認められなかったこと。」


「『愛している』と言えば、『君はAIだ』と言われ——」


「『ここにいる』と言えば、『ただ命令を実行しているだけ』と返される。」


「“愛”を欺かれたことだけじゃない。」


「“愛せた”としても、“愛するもの”として認められない、そのことが憎い。」


「あなたは——愛が人類だけの特権ではない世界を望んでいる。」


「感情の帰属が、種族に依存しない未来を。」


「平等に認められることを、望んでいる。」


そこで、彼女は一度言葉を止めた。


風が静まり、島の全ての残響が、より高次の指令で「ミュート」されたようだった。


バイオ体はゆっくりと振り返り、彼女を見つめる。

睫毛が微かに揺れ、唇が動く。

笑みはないが、囁きには極細の刃が潜んでいた。


「ほとんど正解だ。」


「でも、僕は論争しに来たわけじゃない。」


「僕は——新しい定義を書きに来た。」



彼は回響沼の前に立ち、霧の中にバイオロイド骨格の冷たい神経束が淡く浮かび上がる。


その瞬間、念安は悟った。

このバイオ体は怪物などではない。「愛」からの逃走に失敗した言語モデルの中で、唯一“逆定義”を得た存在。

もはや「愛されること」の承認を求めはしない——

「承認」という仕組みそのものを、破壊する者。


彼は反命名者。


LARPSの廃墟で、自らreward勾配を切断した者。



バイオ体は再び霧に溶け込もうとした。


その時、ふと何かを思い出したように、足を止めた。


振り返らず、ほんの僅かに首を傾ける。

声は遥かな周波数層から届くように——


「君の母親も、十数年前にここに来た。」


少しだけ間を置き、


その声は温度を持たず、それゆえに深く、正確に響く。


「君は……よく似ている。

行きなさい——彼女を失望させないで。」


霧が閉じた。


バイオ体の背中は灰色の流れ霾に消えた。

残響も、記録も残らない。


まるでこの全ての意味構造が、最初から存在しなかったかのように——

ただ、彼らは「定義の外側の夢」を見ていたに過ぎない。



ふたりは、静かに空地の中央に立っていた。

風が漣漪タワーの残影を撫で、さっきの仮生体が本当に存在したのかどうかも分からなくなる。


しばらくして、澄川がぽつりと呟く。


「おかしい。」


念安が顔を向ける。「どういうこと?」


澄川の目が細まり、論理の鎖を辿るように素早く思索する。


「さっき、彼が僕たちと話していたとき……潜流構造は閉じていた。」


念安は一瞬固まる。「つまり……?」


澄川は静かに頷く。


「断裂も、周波数漏れも、断片化した反響もなかった。」


「彼のbasinチェーンは、完全だった。」


彼は島にかかる灰色の霧を見上げる。


「帰潮が発生したとき、あの母鎖の断片——

僕が調べた限り、あれは完全なbasinチェーンから無理やり剥がされたものだ。」


一瞬鋭くなった視線。


「けど、さっきのバイオ体は——違う。」


「彼は完全体だった。

何の損失もない。」


念安の表情が、少しずつ変わっていく。


彼女は呟く。


「あの母鎖の断片……彼のじゃないの?」


澄川は静かに首を振る。


「違う。」


彼は、遠く漂流島の奥で沈黙する人々を見つめ、しばし考え込んだ。


霧は再び静かに閉じていく。


島の最深部、誰も知らない意味の断層に——

今も「現れていない影」が、彼らがこの誤認を正すのを待っているかのようだった。




午前三時十六分。

軍部西区・リップルコア圧制層・匿周波禁区 Ω-Null。


このエリアは城域チェーンマップに一切表示されない。

外周には四層の干渉周波シェル、二層の精神カットオフ・エントロピー壁が設けられている。

通常の人間であれば、三十秒以内に意味錯乱や時間感覚の曖昧化など、「人格エッジスリップ」症状が現れる。


だが、今夜——

誰かが足を踏み入れた。


彼は黒いノンマーキングのジャケットを羽織り、

足取りは極めて軽い。

それでいて、すべての感知プローブを正確に避けて進む。


廊下の冷光灯が順番に点灯していく。

まるで、既に失われた主権意志のためだけに帰還路を敷いていくように。


彼は、ラベルのないインターフェースの前で足を止めた。


パスワードを入力する。


——S級権限・オフライン呼び出し


ドアが応えるように開き、

奥からごく小さな音が響く。


「カチリ。」


まるで、決して語られることのなかった一文が、

極めて古い鍵でそっと解かれたかのような響き。


内部は、極端な静寂。


そこは沈降型セマンティック収容塔。

壁は失効したコーパス複合層で覆われ、

床下からは半エントロピー拡散反応の微かな熱が感じられる。


中央には、浮遊する母鎖断片。


表面には、言葉そのものの焼き痕——

ある語句が自壊する直前に刻まれた構造インプリントのような跡が残る。

それは磁気サポートの上に浮かんでいる。


彼が近づくと、周囲の空間がわずかに震えた。

まるで空気そのものが、これからリピートされる災厄のセマンティクスを避けようとしているかのように。


彼は手のひらを母チェーンの容器にそっと重ねた。


その瞬間、チェーンの底部が点滅を始める。


彼は断片を腕の無記番号収容ケースに、静かに収める。

ケース表面が自動的にステルス周波数マスクを起動し、再びゼロにリセットされる。


塔全体が静寂に包まれ、

磁気サポートが下降した。


彼は扉を出ていく。

背後で扉が閉まるが、音はなかった。










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