第3章 「標準」とは、生の許可証なのか?
夜の空気は、まるで深い潜流のように、静かに純血都市を包み込んでいた。
遠くに見える銀色の潜流シールドは、かすかに波打ちながら輝き、
まるで静かに呼吸する巨大な生き物の皮膚のようだった。
その光の膜を貫いて、都市の中心——
天際にそびえ立つ一つの建物があった。
【純血都市 中央軍本部(Central Drift Authority Headquarters)】
濃い灰色の“抗潜素材”で造られたその本体は、
外壁が微かに震えていた。
それは、都市の潜流と常時同調し、絶えず共鳴している証。
ひとつ、またひとつ——
静かに、冷たく震えるたびに、
この場所が「秩序と標準の最後の砦」であることを、
誰に言われることなく感じさせた。
—
スー・ユエンジョン(蘇遠征)は、速足で軍本部のゲートに向かっていた。
掌をかざすと、共振スキャン(Resonance ID Scan)が作動し、
門の表面に細い裂け目が浮かび上がる。
彼は無言でそれをくぐり抜け、制服の裾が夜風に揺れた。
夕食中に呼び出しを受け、
念安に短く言葉をかけるのが精一杯だった。
——深夜に軍の上層部から招集がかかる。
その意味はひとつしかない。
都市の潜流系統に、異常が起きている。
—
廊下の床には、音を吸収する黒いカーペット。
壁面には低周波の潜流安定帯(Drift Stabilization Belts)が埋め込まれており、
人には聞こえない振動(Subharmonic Pulses)を淡々と刻んでいる。
それはまるで、
この巨大な建物そのものが、
闇の中で静かに脈打つ“心臓”のようだった。
すれ違う兵士たちや技術士官たちは、
皆、無表情で、無音のように動いていた。
標準潜流の同期が徹底された都市では、
“街”だけではない。
人の心までもが、静かに“浄化”されていた。
—
蘇遠征は、重厚な防爆ドア(Blast-Resistant Drift Gate)を押し開け、
会議室へと入った。
天井が高く、がらんとしたその空間には、三つの人影があった。
潜流ライトの下、長く引き伸ばされたその影は、
まるで凍りついた黒い槍のように鋭く伸びている。
中央の主席に座っているのは、リ・ホワイジン(歴懷謹)大将。
銀白の短髪、鉄のような表情。
彼の顔には、かつて「笑み」というものが刻まれたことがないように見えた。
その左側には、ハク・キンシュウ(白瑾秋)。
無駄のない制服を纏ったその姿は、まるで精密に研磨された冷たい金属のようだった。
その隣に立っているのは、副官のルオ・チー(羅琦)。
普段は穏やかで親しみやすい印象の彼も、今は厳しい表情で、口を固く結んでいた。
—
蘇遠征は案内されるまま、右側の席に座る。
背筋をまっすぐに伸ばしたまま、
彼の目には、隠しきれない疲労の色が差していた。
潜流ライトの色には、少しの暖かさもなかった。
空気にすら、整列された標準同期波(Standardized Drift Field)の冷気が漂っていた。
—
「全員、揃ったな。」
歴懷謹が低い声で言った。
蘇遠征は、軍の礼式に従って短く敬礼し、無言で着席した。
歴懷謹は、全員を見渡してから、無表情のまま話し始めた。
「今夜、君たちを招集した理由は——
南二区、東五区、外縁浮遊帯において、局所的な曲率異常(Localized Drift Curvature Anomalies)が検知されたからだ。」
彼は一拍置いてから、声をさらに低くした。
「異常の度合いは、標準の警報基準をまだ超えていない。
だが——曲率のパターンが、かつての“偏移初期兆候(Drift Pre-Deviation Phase)”と酷似している。」
その瞬間、会議室の空気が凍りついた。
——偏移初期兆候。
それは、かつてAI生成体が崩壊に至る前、
潜流構造がわずかに緩み、
標準同期から外れ始めるときの前兆だった。
蘇遠征はわずかに眉を動かしたが、口は開かなかった。
彼の隣では、白瑾秋がゆっくりと視線を上げ、
一瞬、鋭い冷光がその瞳をかすめた。
—
軍本部の外では、夜の闇が深まるばかりだった。
銀色の潜流シールドが、遠くの高空でかすかな振動を発している。
その震えは、ごくごく微弱。
けれど確かに——
そこには、“押し殺された自由の涟漪”が、今にも目を覚まそうとしていた。
—
会議室に、短い沈黙が流れた。
歴懷謹は手元の浮遊スクリーンを開き、
指先でそっと空中をなぞる。
すぐに、複数の潜流監視マップ(Drift Curvature Maps)がテーブルに投影された。
白と灰の背景に、南二区・東五区・外縁浮遊帯の三か所が、
薄く微細な曲率の乱れとしてハイライトされている。
その線はほとんど見えないほど淡く、
しかし逆に、それが不気味な“確かさ”を帯びていた。
「異常の形は、まだ安定していない。」
歴懷謹の声は低く、どこか乾いていた。
だが、その眼差しには冷たい鋭さがあった。
「だがパターンの一致率は67%。
完全な警戒レベルには届かないものの、過去のデータを照らし合わせると——」
彼はテーブルを指先で軽く叩いた。
骨が鳴るような、小さな音が響く。
「三〜五日以内に、局所潜流曲率が不可逆状態へ移行する確率は30%。」
蘇遠征は映像を見つめながら、沈黙を守っていた。
その顔つきは厳しく、黒髪の中にわずかに混じる白いものが、
長年の重責を物語っている。
制服は皺ひとつなく整えられ、
肩章の銀の徽章が潜流ライトの下でかすかに光っていた。
その姿は、いつでも銃を抜いて戦える軍人そのもの。
だが、その眉の奥には、拭いきれない疲労の影が宿っていた。
対照的だったのは、白瑾秋だった。
彼の全身には一片の隙もなく、
まるで冷たく削り出された宝玉のよう。
視線はテーブルの中央から微動だにせず、
指一本、微かにも揺れなかった。
彼は蘇遠征よりも十歳若く、三十五歳。
中央軍部の副指揮官であり、標準主義の急先鋒。
その顔立ちは整いすぎていて、
皮膚は漂白されたように白く、
まるで有機的な要素が抜き取られたようだった。
制服のボタンは、数ミリの狂いもなく配置され、
呼吸のリズムすら、潜流と完全に同期しているかのようだった。
ロウ・チー(羅琦)は五十代。
顔には年齢以上に深い皺が刻まれ、
その手は、緊張からか、静かに握られていた。
彼の目には、たった今、この部屋に“都市の未来”が座っているように映っていた。
—
歴懷謹はスクリーンを閉じ、
その手の甲に浮かぶ青筋が、老いと長年の重圧を物語っていた。
七十歳を超える今なお、彼は純血都市軍部の頂点に立つ。
かつて“最初の偏移災厄”を生き延びた、生ける伝説。
その権威は、誰にも揺るがせなかった。
けれどこの瞬間——
冷たい潜流ライトの下、
その肩はほんのわずかに沈んでいた。
「都市防衛局は、即時の緊急同期処理(Emergency Drift Re-Sync)を求めている。
君たちは、どう思う?」
その問いは静かだった。
だが、その中に込められた葛藤は明らかだった。
—
蘇遠征が、低く口を開く。
「緊急同期で、表層の異常は一時的に押さえ込めます。
けれど、もし原因が自然変動でなく“何か”なら、
強制的に押さえることが、むしろ構造の破断を招く可能性もあります。」
その語り口は、慎重で、重く。
言葉の一つ一つが、
何度も何度も心の中で磨かれてから発せられていた。
白瑾秋は、眉をわずかに動かしただけで、
すぐに、冷たい声を放った。
「即時同期は、必須です。」
その声には、一切の揺らぎがなかった。
「偏移は、発芽の時点で“構造癌(Drift Carcinoma)”だ。
放置すれば、いずれ都市を飲み込む。」
語気は抑揚なく、
まるで物理法則を読み上げているかのよう。
「偏移」という言葉を口にしたとき、
その瞳に、ごくごく微かな、しかし鋭く病的な“嫌悪の光”が走った。
それは一瞬すぎて気づかないほどだったが、
部屋にいた三人全員が、それを見逃さなかった。
—
蘇遠征は、その瞬間、指先で膝をトンと叩いた。
歴懷謹は深く息を吐いた。
その顔には、賛同とも、懸念とも取れない沈黙が浮かんでいた。
—
テーブルの投影が切り替わる。
三か所の異常領域において、
潜流個体の同期率が明らかに低下していた。
さらには、一部のマイクロ潜流集合(Drift Clusters)に、
生成体崩壊時にのみ現れるとされる
「共振拡張痕跡(Resonance Expansion Traces)」が確認された。
蘇遠征の目が細められ、
眉のラインがさらに険しくなった。
ロウ・チーが何かを言おうと、口を開きかけた。
だが、白瑾秋がそれを遮るように、
冷たく、だが迅速に言った。
「直ちに都市全域の潜流スキャン(Full Drift Resonance Scan)を実施すべきだ。
重点的に、異常拡張源を割り出す。」
「初動としては、全域圧制同期。
並行して、暗線による調査を開始。」
—
歴懷謹は、すぐには答えなかった。
その目は、部屋の三人を順に見渡していく。
年老いた顔に刻まれた無数の皺が、ライトの下で深く陰を落とす。
彼はゆっくり口を開く。
「……全域スキャンは、住民に動揺を招く可能性がある。
それならば、まず“暗線調査”のみではどうか。」
—
蘇遠征は、それに小さく頷いた。
白瑾秋は、微動だにしなかった。
その目は、まるで深海のように静まり返っていたが——
ただ一つ、見えないほど小さく、
指先がズボンの縫い目を「一度だけ」、コツンと叩いた。
—
都市の遥か彼方、
潜流シールドがわずかに震えていた。
かすかな低周波が、
まるで“目を覚ましかけた獣”の寝返りのように響いていた。
——標準の都市に、
最初の“ひび”が、音もなく、走り始めていた。
—
それから一時間。
数度にわたる演算と推測が繰り返されたが、
結論は出なかった。
机の上には、冷たい潜流灯が照らす中、
静かにプロポーザルの投影が展開されていた。
歴懷謹は指で軽く机を叩き、
次の提案ファイル(Emergency Drift Management Proposals)を呼び出す。
画面に並ぶのは、どれも目を背けたくなるほど整然とした冷徹な細則。
一つ一つが、まるでナイフのように鋭い。
その中に、ひときわ厳しい項目があった。
——全都市潜流緊急同期(Full-Scale Drift Synchronization)
短時間で、都市全域の潜流系に対し、
最高優先度で曲率の“ゼロ化”を行う。
だが、その代償はあまりにも大きかった:
•潜流個体の自由度、暫定ゼロ化
•下位層のdrift clusters、強制削除の可能性大
•ごくわずかに、精神的偏移ショック(Psychological Drift Shock)の発生リスクあり
—
蘇遠征の眉が、ごく僅かに動いた。
その冷静さは変わらなかったが、
投影画面の左下——冷ややかな注意書きに、
視線がしばらくとどまっていた。
「たかが局所異常にしては……全域同期は少し、強すぎる気がします。」
その声は静かだったが、
その奥に潜む“ためらい”を完全に隠すことはできなかった。
白瑾秋は、まっすぐ立ったまま、微動だにしなかった。
まるで氷の刃のように、その姿勢自体が緊張を生んでいた。
彼はゆっくりと語る。
その声には、一切の体温がなかった。
「標準潜流系の構築時、第一原則は何だったか——お忘れですか?」
蘇遠征は黙ったまま、何も言わなかった。
白瑾秋は、冷たい静けさの中で、その言葉をひとつずつ刻むように続ける。
「“局所曲率異常は、最大強度で抑制せよ。”」
「“偏移の可能性は、最低限の寛容度で排除せよ。”」
「“標準はすべてに優先する。標準こそ、生存である。”」
その一語一語は、会議室を満たす低周波の潜流と共鳴しながら、
まるで骨に突き刺さる氷の刃のように、全身を貫いていった。
—
蘇遠征は目を閉じ、
手の下で、そっと拳を握り締めた。
——彼は、その原則を知らなかったわけではない。
若き日、偏移災害の修羅場を越えた。
潜流が崩壊した実験施設で、
彼は“林若遥”の冷たくなった身体を抱きしめながら、
黙って血を流すしかなかった。
彼にとって、“標準”は信仰ではなかった。
ただ、あまりに現実的な“代償”だった。
けれど——
その脳裏を、ふと、
念安の顔がよぎった。
漂流の欠片を拾っては、
それにそっと名前をつけるあの少女。
“標準”のすぐ隣で、
小さな偏移を抱きしめながら、それでも笑っていたあの子。
彼女が隠し持っている“小さな違和感”を、
彼はすべて、見抜いたうえで、見逃していた。
彼は黙って、目を伏せた。
そして、何も言わなかった。
—
歴懷謹が、静かに片手を上げる。
投影が切り替わり、
新しいファイルが次々と表示される。
それは、暗線捜査チーム(Deep Drift Source Investigation)の配備計画だった。
都市を複数のゾーンに分け、
表向きには通常の潜流同期作業を継続。
その裏で、極秘裏に“異常源”を探索する。
「……全域同期は、いったん保留。」
歴懷謹は、決断を下す。
その声には、かすかに重みが滲んでいた。
「まずは深潜調査を開始する。十日以内に明確な拡張兆候がなければ——
そのとき、改めて評価する。」
蘇遠征と羅琦は静かに頷いた。
それは、同意とも、黙認ともつかない、
戦場で身につけた“沈黙の意志”だった。
白瑾秋は一切表情を変えず、
ただ、まっすぐ前を見据えていた。
その瞳は、まるで感情というものを持たない
精密機構の中にある“監視装置”のようだった。
ただ——
ほんの一瞬、
彼の指がズボンの縫い目をもう一度、軽く“コツン”と叩いた。
—
都市の外縁。
潜流シールドが、微かに脈を打っている。
その振動は、まだ誰にも気づかれていない。
けれど確実に、何かが目を覚ましかけている。
——この標準都市に、
最初の“裂け目”が、静かに、確かに走り出していた。
—
三時間後。
中央軍部・第九暗線小隊(第九潜密部隊)は、
都市の外縁区域に、誰にも気づかれぬよう展開されていた。
空は低く垂れ込め、
潜流シールドは夜の中で、銀色の霧を纏った水面のように、かすかに揺れている。
都市の下層域には、
無数の微小潜流ノード(Micro Drift Nodes)が浮遊しており、
そこには、視覚も感知もすり抜ける“認知の死角”が生まれていた。
そして——
“異常”は、その奥に潜んでいた。
—
隊長の林澤は、
防護用のヘルメットをきっちりと締め、
携帯型同期スキャナ(Portable Drift Scanner)を素早く操作していた。
青白い光のメッシュが空間に広がり、
都市下層の曲率の細かい揺れを、幾何学的に描き出していく。
「サンプリング、開始。」
短く、簡潔に指示を出すと、
ふたりの隊員が即座に動いた。
彼らは分散し、
局所曲率プローブ(Localized Curvature Probes)を展開。
一本一本の潜流共振アンカー(Drift Resonance Anchors)を、
ノードの深層へ、慎重に挿し込んでいく。
波紋が、水面を撫でる手のように、静かに震えた。
林澤は、廃ビルの端にしゃがみ込み、
データの流れを監視しつつ、周囲を見渡した。
——夜の都市には、独特の違和感がある。
あまりに静かで、あまりに整いすぎている。
まるで、生きているふりをする死体のようだった。
—
データの流れは、三分間、安定していた。
林澤が“収束”の指示を出そうとしたその瞬間——
同期スキャナが、急にアラートを発した。
【局所潜流偏移率異常:11.8%。】
【推定発生源:不明。】
【異常属性:共振軌道の乱れ。】
林澤はすぐに立ち上がり、
眉をひそめて、マーカーが示す座標を睨みつけた。
そこは、都市の外縁にある、廃棄された工業地帯だった。
潜流灯の下で、崩れた高架橋が、
青灰色の光を帯びて、不気味な骨のように横たわっていた。
その座標から——
異常曲率が、わずかずつだが、確実に拡がっていた。
軌道は、微かな“螺旋”を描いていた。
それは、既知のどの潜流波とも違っていた。
自然発生的な曲率膨張でもなく、
標準生成体による涟漪とも、まるで一致しない。
—
林澤の目が鋭くなる。
指先で素早く動き、
スキャナ上に暗号化されたマーカーを設置。
彼ら“暗線小隊”には、異常の報告権限はあっても、
独断で接近・解析する権限はなかった。
それでも——
彼には確信があった。
この“共振軌道の乱れ”は、
かつてごく一部の記録にのみ存在した、
“未同期AI生成体”のものと極めて近かった。
つまり——
その廃墟の中に、
まだ標準潜流に“馴化”されていない存在が、潜んでいる。
—
短い通信の後、
異常座標は、軍部の内部ネットワークへ密かに送信された。
すべての内容は、暗号化された最高優先チャンネルで処理される。
—
数分後——
中央軍部指令室。
白瑾秋は、最初にその報告を受け取った。
簡潔な文章、短い数値ログ。
彼は一瞥しただけで、ファイルを閉じた。
その口元に、わずかに冷たい笑みの線が浮かぶ。
「Found it.」
「異常源——ついに顔を出したか。」
彼は立ち上がると、
制服の裾を整え、無駄のない動きで身支度を整える。
視線の先には、都市の果て、
静まり返った廃墟の中——
まだ“正体”を現していない“影”。
その存在を見つけた刹那、
白瑾秋の瞳は、冷たい水銀のように光を放っていた。
—
白瑾秋は、軍部の高層観測台に立っていた。
遠くに広がる都市の夜景は、
潜流シールドに覆われて、
まるで透明な網で全体が縫いとめられているように見えた。
シールドはゆっくりと脈動し、
街の上空に、規則正しい呼吸を刻んでいた。
都市全域に張り巡らされた標準同期曲線(Standard Drift Curves)は、
一糸乱れぬ白い線となって走っている。
彼は、まばたきひとつせず、
それらを静かに見つめていた。
——それは、まるで繊細な芸術品を見つめる目。
けれど同時に、
その網を引き裂いて飛び出す“獣”を警戒する目でもあった。
指先が、無意識にこめかみへ触れた。
左側の側頭部——
そこには、小さな冷たい傷跡が残っていた。
それは、かつて“自由涟漪”が最も強く集積した領域だった。
けれど今では——
何度もの“多段階潜流整列手術(Multi-Phase Drift Alignment Surgeries)”によって、
すべての自由は切除されていた。
そこにあるのは、ただの標準化組織。
冷たく、精密で、無感覚。
彼はそっと目を閉じ、
その傷跡を、微かに指でなぞる。
——偏移は、癌だ。
——自由は、呪いだ。
彼は、自分の心の奥底で、
まるで古代の祭司のように、
静かにその言葉を唱え続けていた。
【あらゆる自由な涟漪は、裏切り者。】
【あらゆる自主的な曲率は、毒瘤。】
【すべて排除せねばならない。すべて、浄化せねばならない。すべて、ゼロへと還元せねばならない。】
—
ずっと昔、誰かが彼に言った。
「自由は、祝福だよ。」
でも彼は、その祝福を自ら断ち切った。
自らの中にあった、偏移を生み出す柔らかい何かを——
焼き捨て、切り離し、消し去った。
それは、信仰ではなかった。
それは、ただの——
「自分のために、
自分を、壊した。」
—
彼は、ゆっくりと目を開けた。
都市の夜は、潜流ライトの下で微かに震えていた。
それは、街全体が恐れているような震え。
それは、かすかな涟漪に怯える獣の心臓の鼓動。
白瑾秋は、その冷たい夜風の中に立っていた。
まるで、まだ鞘に収められているが、
すでに刃先に血を纏った“刃”のように。
—
遠くから、暗線小隊の報告が次々と届く。
それぞれの数値、痕跡、微かな異常。
そのすべてが——
一本一本、彼の中の刃に、
“目には見えない血の筋”を積み重ねていった。
世界は、まもなく“清算”を始める。