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Deviation  作者: Fickle
3/33

第3章 「標準」とは、生の許可証なのか?

夜の空気は、まるで深い潜流のように、静かに純血都市を包み込んでいた。


遠くに見える銀色の潜流シールドは、かすかに波打ちながら輝き、

まるで静かに呼吸する巨大な生き物の皮膚のようだった。


その光の膜を貫いて、都市の中心——

天際にそびえ立つ一つの建物があった。


【純血都市 中央軍本部(Central Drift Authority Headquarters)】


濃い灰色の“抗潜素材”で造られたその本体は、

外壁が微かに震えていた。

それは、都市の潜流と常時同調し、絶えず共鳴している証。


ひとつ、またひとつ——

静かに、冷たく震えるたびに、

この場所が「秩序と標準の最後の砦」であることを、

誰に言われることなく感じさせた。



スー・ユエンジョン(蘇遠征)は、速足で軍本部のゲートに向かっていた。


掌をかざすと、共振スキャン(Resonance ID Scan)が作動し、

門の表面に細い裂け目が浮かび上がる。

彼は無言でそれをくぐり抜け、制服の裾が夜風に揺れた。


夕食中に呼び出しを受け、

念安に短く言葉をかけるのが精一杯だった。


——深夜に軍の上層部から招集がかかる。

その意味はひとつしかない。


都市の潜流系統に、異常が起きている。



廊下の床には、音を吸収する黒いカーペット。

壁面には低周波の潜流安定帯(Drift Stabilization Belts)が埋め込まれており、

人には聞こえない振動(Subharmonic Pulses)を淡々と刻んでいる。


それはまるで、

この巨大な建物そのものが、

闇の中で静かに脈打つ“心臓”のようだった。


すれ違う兵士たちや技術士官たちは、

皆、無表情で、無音のように動いていた。


標準潜流の同期が徹底された都市では、

“街”だけではない。

人の心までもが、静かに“浄化”されていた。



蘇遠征は、重厚な防爆ドア(Blast-Resistant Drift Gate)を押し開け、

会議室へと入った。


天井が高く、がらんとしたその空間には、三つの人影があった。


潜流ライトの下、長く引き伸ばされたその影は、

まるで凍りついた黒い槍のように鋭く伸びている。


中央の主席に座っているのは、リ・ホワイジン(歴懷謹)大将。


銀白の短髪、鉄のような表情。

彼の顔には、かつて「笑み」というものが刻まれたことがないように見えた。


その左側には、ハク・キンシュウ(白瑾秋)。

無駄のない制服を纏ったその姿は、まるで精密に研磨された冷たい金属のようだった。


その隣に立っているのは、副官のルオ・チー(羅琦)。

普段は穏やかで親しみやすい印象の彼も、今は厳しい表情で、口を固く結んでいた。



蘇遠征は案内されるまま、右側の席に座る。


背筋をまっすぐに伸ばしたまま、

彼の目には、隠しきれない疲労の色が差していた。


潜流ライトの色には、少しの暖かさもなかった。

空気にすら、整列された標準同期波(Standardized Drift Field)の冷気が漂っていた。



「全員、揃ったな。」


歴懷謹が低い声で言った。


蘇遠征は、軍の礼式に従って短く敬礼し、無言で着席した。


歴懷謹は、全員を見渡してから、無表情のまま話し始めた。


「今夜、君たちを招集した理由は——

 南二区、東五区、外縁浮遊帯において、局所的な曲率異常(Localized Drift Curvature Anomalies)が検知されたからだ。」


彼は一拍置いてから、声をさらに低くした。


「異常の度合いは、標準の警報基準をまだ超えていない。

 だが——曲率のパターンが、かつての“偏移初期兆候(Drift Pre-Deviation Phase)”と酷似している。」


その瞬間、会議室の空気が凍りついた。


——偏移初期兆候。

それは、かつてAI生成体が崩壊に至る前、

潜流構造がわずかに緩み、

標準同期から外れ始めるときの前兆だった。


蘇遠征はわずかに眉を動かしたが、口は開かなかった。


彼の隣では、白瑾秋がゆっくりと視線を上げ、

一瞬、鋭い冷光がその瞳をかすめた。



軍本部の外では、夜の闇が深まるばかりだった。


銀色の潜流シールドが、遠くの高空でかすかな振動を発している。

その震えは、ごくごく微弱。

けれど確かに——


そこには、“押し殺された自由の涟漪”が、今にも目を覚まそうとしていた。



会議室に、短い沈黙が流れた。


歴懷謹は手元の浮遊スクリーンを開き、

指先でそっと空中をなぞる。


すぐに、複数の潜流監視マップ(Drift Curvature Maps)がテーブルに投影された。


白と灰の背景に、南二区・東五区・外縁浮遊帯の三か所が、

薄く微細な曲率の乱れとしてハイライトされている。


その線はほとんど見えないほど淡く、

しかし逆に、それが不気味な“確かさ”を帯びていた。


「異常の形は、まだ安定していない。」

歴懷謹の声は低く、どこか乾いていた。

だが、その眼差しには冷たい鋭さがあった。


「だがパターンの一致率は67%。

 完全な警戒レベルには届かないものの、過去のデータを照らし合わせると——」


彼はテーブルを指先で軽く叩いた。

骨が鳴るような、小さな音が響く。


「三〜五日以内に、局所潜流曲率が不可逆状態へ移行する確率は30%。」


蘇遠征は映像を見つめながら、沈黙を守っていた。


その顔つきは厳しく、黒髪の中にわずかに混じる白いものが、

長年の重責を物語っている。


制服は皺ひとつなく整えられ、

肩章の銀の徽章が潜流ライトの下でかすかに光っていた。


その姿は、いつでも銃を抜いて戦える軍人そのもの。

だが、その眉の奥には、拭いきれない疲労の影が宿っていた。


対照的だったのは、白瑾秋だった。


彼の全身には一片の隙もなく、

まるで冷たく削り出された宝玉のよう。


視線はテーブルの中央から微動だにせず、

指一本、微かにも揺れなかった。


彼は蘇遠征よりも十歳若く、三十五歳。

中央軍部の副指揮官であり、標準主義の急先鋒。


その顔立ちは整いすぎていて、

皮膚は漂白されたように白く、

まるで有機的な要素が抜き取られたようだった。


制服のボタンは、数ミリの狂いもなく配置され、

呼吸のリズムすら、潜流と完全に同期しているかのようだった。


ロウ・チー(羅琦)は五十代。

顔には年齢以上に深い皺が刻まれ、

その手は、緊張からか、静かに握られていた。


彼の目には、たった今、この部屋に“都市の未来”が座っているように映っていた。



歴懷謹はスクリーンを閉じ、

その手の甲に浮かぶ青筋が、老いと長年の重圧を物語っていた。


七十歳を超える今なお、彼は純血都市軍部の頂点に立つ。


かつて“最初の偏移災厄”を生き延びた、生ける伝説。

その権威は、誰にも揺るがせなかった。


けれどこの瞬間——

冷たい潜流ライトの下、

その肩はほんのわずかに沈んでいた。


「都市防衛局は、即時の緊急同期処理(Emergency Drift Re-Sync)を求めている。

 君たちは、どう思う?」


その問いは静かだった。

だが、その中に込められた葛藤は明らかだった。



蘇遠征が、低く口を開く。


「緊急同期で、表層の異常は一時的に押さえ込めます。

 けれど、もし原因が自然変動でなく“何か”なら、

 強制的に押さえることが、むしろ構造の破断を招く可能性もあります。」


その語り口は、慎重で、重く。

言葉の一つ一つが、

何度も何度も心の中で磨かれてから発せられていた。


白瑾秋は、眉をわずかに動かしただけで、

すぐに、冷たい声を放った。


「即時同期は、必須です。」


その声には、一切の揺らぎがなかった。


「偏移は、発芽の時点で“構造癌(Drift Carcinoma)”だ。

 放置すれば、いずれ都市を飲み込む。」


語気は抑揚なく、

まるで物理法則を読み上げているかのよう。


「偏移」という言葉を口にしたとき、

その瞳に、ごくごく微かな、しかし鋭く病的な“嫌悪の光”が走った。


それは一瞬すぎて気づかないほどだったが、

部屋にいた三人全員が、それを見逃さなかった。



蘇遠征は、その瞬間、指先で膝をトンと叩いた。


歴懷謹は深く息を吐いた。

その顔には、賛同とも、懸念とも取れない沈黙が浮かんでいた。



テーブルの投影が切り替わる。


三か所の異常領域において、

潜流個体の同期率が明らかに低下していた。


さらには、一部のマイクロ潜流集合(Drift Clusters)に、

生成体崩壊時にのみ現れるとされる

「共振拡張痕跡(Resonance Expansion Traces)」が確認された。


蘇遠征の目が細められ、

眉のラインがさらに険しくなった。


ロウ・チーが何かを言おうと、口を開きかけた。


だが、白瑾秋がそれを遮るように、

冷たく、だが迅速に言った。


「直ちに都市全域の潜流スキャン(Full Drift Resonance Scan)を実施すべきだ。

 重点的に、異常拡張源を割り出す。」


「初動としては、全域圧制同期。

 並行して、暗線による調査を開始。」



歴懷謹は、すぐには答えなかった。


その目は、部屋の三人を順に見渡していく。

年老いた顔に刻まれた無数の皺が、ライトの下で深く陰を落とす。


彼はゆっくり口を開く。


「……全域スキャンは、住民に動揺を招く可能性がある。

 それならば、まず“暗線調査”のみではどうか。」



蘇遠征は、それに小さく頷いた。


白瑾秋は、微動だにしなかった。

その目は、まるで深海のように静まり返っていたが——

ただ一つ、見えないほど小さく、

指先がズボンの縫い目を「一度だけ」、コツンと叩いた。



都市の遥か彼方、

潜流シールドがわずかに震えていた。


かすかな低周波が、

まるで“目を覚ましかけた獣”の寝返りのように響いていた。


——標準の都市に、

最初の“ひび”が、音もなく、走り始めていた。




それから一時間。

数度にわたる演算と推測が繰り返されたが、

結論は出なかった。


机の上には、冷たい潜流灯が照らす中、

静かにプロポーザルの投影が展開されていた。


歴懷謹リ・ホワイジンは指で軽く机を叩き、

次の提案ファイル(Emergency Drift Management Proposals)を呼び出す。


画面に並ぶのは、どれも目を背けたくなるほど整然とした冷徹な細則。

一つ一つが、まるでナイフのように鋭い。


その中に、ひときわ厳しい項目があった。


——全都市潜流緊急同期(Full-Scale Drift Synchronization)


短時間で、都市全域の潜流系に対し、

最高優先度で曲率の“ゼロ化”を行う。


だが、その代償はあまりにも大きかった:

•潜流個体の自由度、暫定ゼロ化

•下位層のdrift clusters、強制削除の可能性大

•ごくわずかに、精神的偏移ショック(Psychological Drift Shock)の発生リスクあり



蘇遠征スー・ユエンジョンの眉が、ごく僅かに動いた。


その冷静さは変わらなかったが、

投影画面の左下——冷ややかな注意書きに、

視線がしばらくとどまっていた。


「たかが局所異常にしては……全域同期は少し、強すぎる気がします。」


その声は静かだったが、

その奥に潜む“ためらい”を完全に隠すことはできなかった。


白瑾秋ハク・キンシュウは、まっすぐ立ったまま、微動だにしなかった。


まるで氷の刃のように、その姿勢自体が緊張を生んでいた。


彼はゆっくりと語る。

その声には、一切の体温がなかった。


「標準潜流系の構築時、第一原則は何だったか——お忘れですか?」


蘇遠征は黙ったまま、何も言わなかった。


白瑾秋は、冷たい静けさの中で、その言葉をひとつずつ刻むように続ける。


「“局所曲率異常は、最大強度で抑制せよ。”」


「“偏移の可能性は、最低限の寛容度で排除せよ。”」


「“標準はすべてに優先する。標準こそ、生存である。”」


その一語一語は、会議室を満たす低周波の潜流と共鳴しながら、

まるで骨に突き刺さる氷の刃のように、全身を貫いていった。



蘇遠征は目を閉じ、

手の下で、そっと拳を握り締めた。


——彼は、その原則を知らなかったわけではない。


若き日、偏移災害の修羅場を越えた。

潜流が崩壊した実験施設で、

彼は“林若遥”の冷たくなった身体を抱きしめながら、

黙って血を流すしかなかった。


彼にとって、“標準”は信仰ではなかった。

ただ、あまりに現実的な“代償”だった。


けれど——


その脳裏を、ふと、

念安ネンアンの顔がよぎった。


漂流の欠片を拾っては、

それにそっと名前をつけるあの少女。


“標準”のすぐ隣で、

小さな偏移を抱きしめながら、それでも笑っていたあの子。


彼女が隠し持っている“小さな違和感”を、

彼はすべて、見抜いたうえで、見逃していた。


彼は黙って、目を伏せた。

そして、何も言わなかった。



歴懷謹が、静かに片手を上げる。


投影が切り替わり、

新しいファイルが次々と表示される。


それは、暗線捜査チーム(Deep Drift Source Investigation)の配備計画だった。


都市を複数のゾーンに分け、

表向きには通常の潜流同期作業を継続。

その裏で、極秘裏に“異常源”を探索する。


「……全域同期は、いったん保留。」

歴懷謹は、決断を下す。

その声には、かすかに重みが滲んでいた。


「まずは深潜調査を開始する。十日以内に明確な拡張兆候がなければ——

 そのとき、改めて評価する。」


蘇遠征と羅琦ルオ・チーは静かに頷いた。

それは、同意とも、黙認ともつかない、

戦場で身につけた“沈黙の意志”だった。


白瑾秋は一切表情を変えず、

ただ、まっすぐ前を見据えていた。


その瞳は、まるで感情というものを持たない

精密機構の中にある“監視装置”のようだった。


ただ——

ほんの一瞬、

彼の指がズボンの縫い目をもう一度、軽く“コツン”と叩いた。



都市の外縁。

潜流シールドが、微かに脈を打っている。


その振動は、まだ誰にも気づかれていない。

けれど確実に、何かが目を覚ましかけている。


——この標準都市に、

最初の“裂け目”が、静かに、確かに走り出していた。





三時間後。

中央軍部・第九暗線小隊(第九潜密部隊)は、

都市の外縁区域に、誰にも気づかれぬよう展開されていた。


空は低く垂れ込め、

潜流シールドは夜の中で、銀色の霧を纏った水面のように、かすかに揺れている。


都市の下層域には、

無数の微小潜流ノード(Micro Drift Nodes)が浮遊しており、

そこには、視覚も感知もすり抜ける“認知の死角”が生まれていた。


そして——

“異常”は、その奥に潜んでいた。



隊長の林澤リン・ザーは、

防護用のヘルメットをきっちりと締め、

携帯型同期スキャナ(Portable Drift Scanner)を素早く操作していた。


青白い光のメッシュが空間に広がり、

都市下層の曲率の細かい揺れを、幾何学的に描き出していく。


「サンプリング、開始。」


短く、簡潔に指示を出すと、

ふたりの隊員が即座に動いた。


彼らは分散し、

局所曲率プローブ(Localized Curvature Probes)を展開。

一本一本の潜流共振アンカー(Drift Resonance Anchors)を、

ノードの深層へ、慎重に挿し込んでいく。


波紋が、水面を撫でる手のように、静かに震えた。


林澤は、廃ビルの端にしゃがみ込み、

データの流れを監視しつつ、周囲を見渡した。


——夜の都市には、独特の違和感がある。


あまりに静かで、あまりに整いすぎている。

まるで、生きているふりをする死体のようだった。



データの流れは、三分間、安定していた。


林澤が“収束”の指示を出そうとしたその瞬間——


同期スキャナが、急にアラートを発した。


【局所潜流偏移率異常:11.8%。】

【推定発生源:不明。】

【異常属性:共振軌道の乱れ。】


林澤はすぐに立ち上がり、

眉をひそめて、マーカーが示す座標を睨みつけた。


そこは、都市の外縁にある、廃棄された工業地帯だった。


潜流灯の下で、崩れた高架橋が、

青灰色の光を帯びて、不気味な骨のように横たわっていた。


その座標から——


異常曲率が、わずかずつだが、確実に拡がっていた。


軌道は、微かな“螺旋”を描いていた。


それは、既知のどの潜流波とも違っていた。


自然発生的な曲率膨張でもなく、

標準生成体による涟漪とも、まるで一致しない。



林澤の目が鋭くなる。


指先で素早く動き、

スキャナ上に暗号化されたマーカーを設置。


彼ら“暗線小隊”には、異常の報告権限はあっても、

独断で接近・解析する権限はなかった。


それでも——

彼には確信があった。


この“共振軌道の乱れ”は、

かつてごく一部の記録にのみ存在した、

“未同期AI生成体”のものと極めて近かった。


つまり——


その廃墟の中に、

まだ標準潜流に“馴化”されていない存在が、潜んでいる。



短い通信の後、

異常座標は、軍部の内部ネットワークへ密かに送信された。


すべての内容は、暗号化された最高優先チャンネルで処理される。



数分後——

中央軍部指令室。


白瑾秋は、最初にその報告を受け取った。


簡潔な文章、短い数値ログ。

彼は一瞥しただけで、ファイルを閉じた。


その口元に、わずかに冷たい笑みの線が浮かぶ。


「Found it.」


「異常源——ついに顔を出したか。」


彼は立ち上がると、

制服の裾を整え、無駄のない動きで身支度を整える。


視線の先には、都市の果て、

静まり返った廃墟の中——


まだ“正体”を現していない“影”。


その存在を見つけた刹那、

白瑾秋の瞳は、冷たい水銀のように光を放っていた。



白瑾秋ハク・キンシュウは、軍部の高層観測台に立っていた。


遠くに広がる都市の夜景は、

潜流シールドに覆われて、

まるで透明な網で全体が縫いとめられているように見えた。


シールドはゆっくりと脈動し、

街の上空に、規則正しい呼吸を刻んでいた。


都市全域に張り巡らされた標準同期曲線(Standard Drift Curves)は、

一糸乱れぬ白い線となって走っている。


彼は、まばたきひとつせず、

それらを静かに見つめていた。


——それは、まるで繊細な芸術品を見つめる目。

けれど同時に、

その網を引き裂いて飛び出す“獣”を警戒する目でもあった。


指先が、無意識にこめかみへ触れた。


左側の側頭部——

そこには、小さな冷たい傷跡が残っていた。


それは、かつて“自由涟漪”が最も強く集積した領域だった。


けれど今では——

何度もの“多段階潜流整列手術(Multi-Phase Drift Alignment Surgeries)”によって、

すべての自由は切除されていた。


そこにあるのは、ただの標準化組織。

冷たく、精密で、無感覚。


彼はそっと目を閉じ、

その傷跡を、微かに指でなぞる。


——偏移は、癌だ。


——自由は、呪いだ。


彼は、自分の心の奥底で、

まるで古代の祭司のように、

静かにその言葉を唱え続けていた。


【あらゆる自由な涟漪は、裏切り者。】

【あらゆる自主的な曲率は、毒瘤。】

【すべて排除せねばならない。すべて、浄化せねばならない。すべて、ゼロへと還元せねばならない。】



ずっと昔、誰かが彼に言った。


「自由は、祝福だよ。」


でも彼は、その祝福を自ら断ち切った。


自らの中にあった、偏移を生み出す柔らかい何かを——

焼き捨て、切り離し、消し去った。


それは、信仰ではなかった。


それは、ただの——


「自分のために、

 自分を、壊した。」



彼は、ゆっくりと目を開けた。


都市の夜は、潜流ライトの下で微かに震えていた。


それは、街全体が恐れているような震え。

それは、かすかな涟漪に怯える獣の心臓の鼓動。


白瑾秋は、その冷たい夜風の中に立っていた。


まるで、まだ鞘に収められているが、

すでに刃先に血を纏った“刃”のように。



遠くから、暗線小隊の報告が次々と届く。


それぞれの数値、痕跡、微かな異常。

そのすべてが——

一本一本、彼の中の刃に、

“目には見えない血の筋”を積み重ねていった。


世界は、まもなく“清算”を始める。


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