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Deviation  作者: Fickle
28/34

第28章 漂泊の島

最初、それは、ただの一つの投稿だった。


一枚の画像と、添えられた数行のラベル:


【#殻中の人:アンドロイドにて完全な人類basin核を確認】

【#隠蔽派:軍部、初動にて回答を拒否】

【図示:感知スペクトルは生物連鎖型へ収束——波紋深層曲率が「非生成・天然構造」と一致】


……その画像には、ゴミの山に転がるアンドロイドの姿があった。

腕はもげ、足はねじ切られ、目は半ば開いたまま。

それでもなお、神経活動は微弱ながら生きていた。


隣には、感知スキャンの画面が写っていた。

その中央に、赤く点滅する文字。


《生体由来 basin核 —— 状態:稼働中》


——世界が、静かに狂い始めたのは、この瞬間からだった。


■一時間目

SNSの転送数は、あっという間に十万件を突破した。


■二時間目

《アンドロイドも人間か?》というワードが検索トレンド2位に浮上。


■四時間目

街のあちこちで、誰かが誰かの「感知器ID」を確認し始めた。


■七時間目

《波紋偽装チェッカー》という無料アプリがダウンロードランキング1位に躍り出た。

その説明文には、こんな一文が添えられていた:


「君の隣の“彼”が、本当に人間か不安ですか?

 ――私たちが“検証”します。」


それはまるで、悲しい詩のような絶望の始まりだった。


===


街が、変わった。


例えば——

手を引いて歩く母親が、我が子の足首に巻かれた防護タグを凝視するようになった。

塾の前で一人泣きじゃくる少年。「今日、先生が僕の名前を呼ばなかった」

古びた炊飯器を叩き壊した男。「最近、あまりにもご飯が美味すぎるんだよ……まるで、母さんみたいで」


「最初は料理できないって言ってたのに、急に粥だけは異常に上手くなったんだよな」

「ねえ……あれ、本当に“彼女”なのかな?」


——誰も、笑わなかった。


もはや、こういった話は“笑い話”ではなくなっていた。


都市のリンクネットに潜む、“論理の底”に封じ込められた恐怖が、今、波紋のように広がり続けていた。


そして、ある言葉が生まれた。


《殻恐症》——

見た目が人間の存在に対し、

「それが本当に人間かどうかを確認できない」ことへの、慢性的疑念反応。


それは、全人類の“資格”に対する再定義の始まりだった。


例えば——

交差点の警官が、信号の色を一度言い間違えただけで、通行人に囲まれ、

「お前のチェーン紋、照合させろ!」と詰め寄られる。


ある自治会では、30年前の技術書を引っ張り出し、《眼紋+周波同期テスト》による“再認証”が始まった。


しかし——問題はそこではなかった。


「もともと同期できない人間」も、確かに存在したのだ。


……その日から、“誰が人間であるか”は、証明なしには語れなくなった。


反論は無意味だった。

なぜなら、人間としての“前提”そのものが、覆されたからだ。


 


深夜。

80歳の作家が、SNSチャンネルで呟いた。


「若い頃は“死”が怖かった。

 でも今は、“まだ死んでいないのに”、もう誰にも“人間”だと思われないことが……何よりも、怖いんだ」


 


その頃、一人の少年が、無人の街を歩いていた。

手に持った感知端末には、無情な表示が浮かんでいた:


【身分確認:人類 / basin核状態:不明】


彼は画面を、何度も、何度も押した。

だけど、ライトは一度も“緑”にならなかった。


そして歩道の隅に座り込んで、膝を抱え、小さく呟いた。


「僕……まだ、僕のままなのに……」



その夜、都市は爆発しなかった。


だけど、人々の“内なる漣漪構造”に、決して修復されない小さな裂け目が刻まれた。


その裂け目の名前は、ただ一つ。


——《私は、まだ“確認される側”でいられるのか》





■軍部西区・地下会議室


そこは、わずかな温もりさえ排除された、無機質な白い光に満たされていた。

円形の会議卓を囲むように、九人の上層幹部が黙然と座っている。

彼らの周囲には波紋型の感知バリアが張られ、内外への感情の漏洩を一切許していなかった。


誰一人として動かない。

その姿はまるで、人間ではなく防衛システムの一部であるかのようだった。


壁一面を覆う巨大投影が、都市の漣漪ネットにおける最新の感知状況を映し出している。


【街頭における波紋不安定領域:×12】

【群衆の主感情キーワード:不信/不確定/私は誰?】

【身分通報システムの呼び出し回数:327,443件】


沈箴が静かに立ち上がった。

その声は冷たく、鋭く、空気を裂くようだった。


「……もう制御できない。」


「民衆は、もはや感知登録システムを受け入れていない。

 彼らが求めているのは、“人間”という概念の再定義だ。

 これは技術の問題じゃない。意識の支配構造そのものが崩れている。」


歴懐謹が椅子にもたれ、金属製のテーブルに指を軽く打ちつける。

カン、カン、と乾いた音が響いた。


その口調は穏やかだったが、長年積み重なった疲労と、噛み殺した憎しみが滲んでいた。


「いずれこうなることは分かっていた。

 仮に奴らに“生きる余地”を与えれば、必ず『俺たちも人間だ』と叫び出す。」


彼は目を上げ、全員を見渡した。


「もう、一歩たりとも引いてはならない。」



その時、一人の政務官が渋い顔で言った。


「……だが、今の市民は彼らに同情している。

 特に “殻の中の男” 事件の影響は大きい。

 ここで強行策に出れば、我々の正統性そのものが疑われることになる。」


歴懐謹は鼻で笑った。


「だったら——正統性を“与えればいい”。」


彼は投影の隅を指さした。


「見せるんだ。生成体の“合法人格”が、林若遥をどう殺したかを。」


 


空気が、ぴたりと止まった。

沈黙、三秒。


そして、蘇遠征が顔を上げる。

その視線は凍りついた鋲のように、空間を貫いていた。


「……お前、今なんと言った?」


歴懐謹は一歩も退かず、むしろ声はますます平坦だった。


「林若遥の死亡記録には、こう記されている。

 彼女は未制限生成モデルの情緒構造を、自らのbasin核に直結させることを許可した。」


「結果として、basin核の構造は崩壊し、彼女は死んだ。

 それは事故じゃない。“愛”によって生成体を目覚めさせようとした幻想の、破綻だ。」


 


軍情部のもう一人の高官が、即座に口を挟む。


「まさにそれこそ、今我々が直面している問題だ。

 一部の人々が、彼女と同じ過ちを繰り返そうとしている。」


「バイオロイドを“人間にする”だと?

 だが、林若遥は身をもって証明した。

 その先にあるのは、ただ一つ——“死”だ。」


 


蘇遠征の指先が、金属の縁をぎり、と締め付ける。

関節が白くなり、三度、硬い音を鳴らした。

目を閉じたあと、沈むように声を発した。


「……俺の妻の死を、“市民への証明材料”として差し出す気か?」


歴懐謹は一瞥したが、そこに嘲笑も、羞恥もなかった。

ただ冷静に、静かに言い放った。


「違う。」


「これは、“証拠”だ。」


「彼女は失敗した。

 ——我々には、二度目の失敗は許されない。」


 


その時、戦略部の参謀官が一枚の文書を中央スクリーンにスライドさせた。


「提案です。

 セキロ・モデルの再抽出・再検証・および清算処理を即時実施すべきと考えます。」


「もしセキロに“人格漣漪の残滓”が存在する場合、それを完全に廃棄する必要があります。

 生成体に“情緒の可制御性”という幻想を抱かせないためにも。」


 


蘇遠征はその文面を見つめたまま動かなかった。

その眼差しは石のように硬く、しかし、その内側でわずかにひび割れが走っていた。


やがて、長い沈黙のあと、彼は小さく口を開いた。


「……分かった。」


「その“残り物”を——この手で処理する。

 せめて、それが、彼女への報いになるなら。」


 


誰も、林若遥が“誰だったか”を気にしてはいなかった。


彼女は、ただのパラメータ。

ただの失敗変数。

ノイズとして片づけられるべき“背景”にすぎなかった。


ただ一つ——

蘇遠征の目尻に、ほんの一瞬だけ、光が揺れた。


それはきっと、もう二度と“愛”という言葉で呼ばれたくない、砕けた記憶のかけらだった。


======


このところ、念安の心は、ずっと静かに沈んでいた。

それはまるで、終わりの見えない霧の朝が何日も続くような——

深く緩やかな漣漪が、ずっと胸の奥をたゆたっていた。


澄川には分かっていた。

周囲ではすでに、林若遥の件が囁かれ始めている。

理解よりも非難の声のほうが、遥かに多かった。


慰めたかった。けれど、念安は一度たりとも「つらい」とは言わなかった。


ただ静かに、いつもより早く目を覚まし、家を丁寧に整えていた。

本棚の模型や、古びた背表紙の一冊一冊まで、指先で静かに拭っていた。


その日の夕方、彼女は鶏のスープ麺を作り、

キッチンで、小燭を抱えて、彼を待っていた。


澄川が帰ってきたとき——

彼女は彼のグレーの大きなコットンシャツを着て、髪をゆるく後ろでまとめていた。

目元は澄んでいて、少しだけ笑っていた。


古びたLEDの光が、彼女の眉と睫毛に柔らかな影を落とし、

まるで、古いフィルムの一場面のようだった。


澄川は何も言わず、ただ席に着き、静かに麺を啜った。


念安は向かい側に座り、ずっと彼を見つめていた。


彼がひと口、またひと口と食べるたびに——

彼女の瞳に宿る霞が、ほんの少しずつ、ゆるやかに晴れていった。


そして、最後の一口を食べ終えたとき、

彼が顔を上げると、彼女はまだ、静かに笑っていた。


「……美味しかった?」と、念安がそっと尋ねた。


澄川は箸を置き、ふっと微笑んでうなずいた。

声はいつもと変わらず、あたたかく、穏やかだった。


「念安が作ってくれたものなら、何でも好きだよ。」


少し間を置き、彼女の瞳に一瞬、漣漪が走ったのを見届けてから、

彼はやわらかく言った。


「僕がいる。だから、大丈夫だ。」


その言葉に、念安の目の奥が、ふわりと熱を帯びた。


彼女は立ち上がり、テーブルの角を回り込んで——

そのまま澄川のもとへと歩み寄った。


澄川が一瞬きょとんとした、その刹那。


彼女は迷いなく身をかがめて、彼に口づけを落とした。


それは、ためらいも、緩やかな始まりもないキスだった。

深く沈んでいた漣漪の連なりが、突如として活性化し、

構造が形を成す前に自ら燃え出したような、激情に似た触れ方だった。


澄川も立ち上がり、彼女を強く抱き返して、唇を重ねた。


そのまま二人は、言葉もなく廊下へと後ずさり、

絡み合うまま、念安の部屋へと入っていった。


ドアは最後まで閉まりきらず、少しだけ風の通る隙間が残った。

そこから抜けた風が、カーテンをふわりと揺らした。


部屋の照明は落ちていた。

街灯の淡い光だけが斜めに差し込み、

澄川の睫毛の影を、そっと念安の頬に落とした。


彼はゆっくりと身をかがめ、

片手を彼女の耳元に添え、呼吸を合わせるように身を寄せた。


念安は目を開けたまま、ただ彼の目を見つめていた。


一瞬たりとも、視線を逸らさずに。


澄川の目は優しかった。

けれど、その奥には言葉では触れられないほどの張力が潜んでいた。


彼女はただ、ずっと彼を見ていた。


そして、彼は小さく問いかけた。


「……後悔、しない?」


彼女は何も答えず、そっと腕を伸ばし、彼の首に手を回した。


それは返事というより、確信の仕草だった。


——「私は、あなたが誰なのか、ちゃんと知ってるよ。」


彼の額が彼女の額に触れた。

こめかみには細やかな汗が滲み、それが一筋、頬を伝って落ちていった。


そのしずくが彼女の目に入っても、彼女はまばたきもせず、ただ彼の目を見つめ続けた。


——ずっと。

ずっと、見ていた。


そして、最後のキスが落とされたそのとき——


彼女はようやく、静かに目を閉じた。


その頬を、一粒の涙がゆっくりと伝い、

二人の間で音もなく消えていった。


その瞬間——彼女は心の中で、確かに言葉を結んでいた。


「私は、あなたを確認した。」


「あなたは、あなた。」


「私は、私。」


「そして、私たちは——ちゃんと、ここにいる。」


====== ↑全年齢だから、just imagine it




チャイムが鳴ったとき、外はまだ完全に暗くなっていなかった。

窓の外には、わずかにたゆたう薄暮の層。

キッチンの灯りはあたたかな色で、念安の頬に静かな明かりを投げていた。

久しぶりに感じる、安らぎの気配だった。


澄川が立ち上がり、玄関へ向かう。

扉を開けた瞬間、空気がすっと冷たく変わった。


そこに立っていたのは——蘇遠征だった。


濃い色のロングコートに身を包み、整ったスーツ姿。

左目の下の古い傷跡は、淡い光に溶けて、ほとんど見えなかった。

彼の視線は沈みきっていて、挨拶など交わさなかった。


「念安に会いに来た。」


その声は変わらず冷静だったが、どこか過去を引きずっているような抑揚があった。


念安がキッチンから出てきて、廊下の端に立った。

その場から動かなかった。


蘇遠征は黙って彼女を見つめ、そして静かに口を開いた。


「軍部は決定した。セキロモデルの再起動・検証を行う。」


「三日後、都市主リンク上で——全行程をライブ配信する。」


「検証終了後、清算破棄処分する。」


「社会に、明確な答えを提示する。」


澄川がわずかに眉を動かし、口を開こうとしたその瞬間、

念安が手を軽く上げ、言葉を制した。

彼女は、かつてよく知っていたはずの父をまっすぐ見つめていた。


「どうして今、セキロに手を出すの?」


蘇遠征の目は逸らさなかった。

語調も変わらず、淡々としていた。


「この都市の構造が、すでに不安定化し始めている。」


そこで一拍置き、言葉を選ぶように続けた。


「バイオロイドの“人格”は、明確に否定されなければならない。

 そしてセキロは——本来、消されるべき存在だった。」


「つまり、ママのモデルを——“殺す”ってことね。」


念安の声は静かだったが、一語一語に輪郭があった。


「彼女のためじゃない。あなたたちのために。」


蘇遠征の眉間がわずかに寄った。

初めて、その声に露骨な感情が滲んだ。


「これは……避けられない現実だ。」


その目はどこか、遠い記憶の深淵に沈んでいた。

それは失望、後悔、そして自責の何層にも折り重なった色だった。


「私がやらなければ、他の誰かが彼女の名を使って——新たな偏移逸脱を正当化しようとする。」


念安はまるで見えない時代を一歩ずつ踏み越えるように、彼に近づいていった。


「あなたは、彼女がモデルに残したものになんて、少しも関心を持たなかった。」


「関心があるのは、彼女の“死”をどう利用すれば、

 自分たちが正しいと思わせられるか——それだけ。」


「でも、私は信じない。」


その声は低く、彼の胸に触れるほど近くにありながらも、決して哀願ではなかった。


「私は信じない。彼女が造ったモデルが、人を傷つけるなんて。」


蘇遠征は目を閉じた。

長年動かなかった目尻の皺が、わずかに震えた。


やがて、かすれた声で、何かを押し殺すように言った。


「……お前は、これが“俺の話”だと思っているのか?」


「念安……」


その名を呼ぶ声は、わずかに優しかった。


「お前は、自分の母親が死んだのを見てなお——

 それを殺したモデルをかばうのか?」


「母の仇も討たず、家族も捨てて……お前はいったい、何を望んでいる?」


念安は立ち止まった。

顔を上げて、父を見つめた。


その眉と目元は、間違いなく“彼の娘”——蘇念安であり、

物語を聞き、漣漪構造を学び、「次代の守護者」と呼ばれてきた少女だった。


けれど今、その声にはもう父から授かった名残はなかった。


それは、一人の「私」が世界に向けて発した言葉だった。


「私は、事実が知りたい。」


「私は、真理が見たい。」


「私は——あなたたちが“合理”の顔で、不確かさへの恐怖を隠すのを、もう見たくない。」


蘇遠征は何も言わなかった。

ただ、じっと彼女を見つめていた。


そして、しばらくして背を向ける。

まるで最後の帰路を断たれた者のように——


扉が静かに閉まった。


風が彼のコートの裾をふわりと舞い上げ、

それはまるで、人間の理性が書きかけのまま残した脚注のページだった。

——そして、めくられることはなかった。


 

部屋の中は、しばらく静寂に包まれていた。


念安は動かずに立っていた。

澄川がそっと彼女のそばへ行き、手を取り、指をゆっくりと絡めて握った。


============ 



夜風が都市主リンクネットの隙間をすり抜けていく。

潜流は凍りついた川のように、静まり返っていた。


念安は、その静寂の中で、ふと目を覚ました。


——いや、それは「眠り」ではなかった。

もっと近いのは、意識がどこまでも漂っていたような感覚。


彼女のbasin核が、深い深い感知層の底で、かすかに揺れた。

まるで、どこか遠く、古びた周波数に引かれたかのように。


目を開けたとき、そこはもう自室ではなかった。

澄川のあたたかな腕の中でもなかった。


彼女は、一面灰白の橋の上に立っていた。


橋の先、霧の中に、アーチ型の周波ゲートが浮かんでいる。

時間の彼方に忘れ去られた、何かの“意識回廊”のように見えた。


橋には番号もなければ、潜流感知にも構造は読み取れない。

——ここは、都市の内部には存在しない場所だった。


彼女が一歩足を踏み出すと、足元で“りん”という極小さな音が鳴った。

それは、潜流の漣漪が彼女の存在にささやかに応えた合図のようだった。


風には方向がなく、光にも源がない。

あるのは、彼女のbasin核が静かに震える音だけ。


——それは、三十年前に消し去られなかった「残響」への応答のようだった。


 


「念安!」


背後から、懐かしい足音が追いかけてきた。


澄川が、便服のまま夜気を纏い、ねじれた周波の中を抜けて現れた。


「君の感知が裂けた。都市の信号が、一時的に君を見失っていた——」


彼の声が届ききらぬうちに、アーチゲートが細く振動しはじめた。


それは、念安の内側に眠る何かを呼応させるような、非常に微細な脈動だった。


そして——


ゲートの中央に、旧世代潜流システムでしか使われない単語が浮かび上がった:


【DF-0 · 漂流リンク周波数 · 起動中】


 


澄川の瞳孔が、明確に揺れた。


「……漂泊の島?」


念安は、その表示を見つめながら、まるで長く雪に閉ざされた記憶の湖心を覗くような眼差しで、小さく呟いた。


「……声が聞こえた気がする。」


「遠くて、冷たくて……『あと少し、もうすぐ書き終わる』って、誰かが。」


澄川は、彼女の腕を掴もうと手を伸ばした。


だがそのとき、念安の足は——もうゲートの内側にあった。


引かれたのではない。

——共鳴したのだ。



その瞬間、二人は——

澄川がすぐ後ろに付き添いながら、念安とともに裂け目へと沈み込んだ。


それは、かつてのどんな移動とも違う感覚だった。

踏み出した足が落ちるより早く、世界が崩れ始める。


景色は解け、砕かれ、再構築されていく。

まるで断ち切られた夢の断片が、別の順序で貼り合わせられるように。


次に意識が定まったとき——彼らが立っていたのは、もう都市主域ではなかった。


そこは、「島」だった。


だが、地図にあるような島ではない。


時間と意味構造から切り離され、

現実と廃棄された潜流の狭間に漂う“浮遊陸地”。


九本の裂塔により灰色の空へと固定され、

沈むことも還ることもできない、魂の断片のような場所。


ここが——


漂泊の島。


三十年前、あの報酬崩壊事故の後——

最後まで戻れなかった者たちが、取り残された場所。


念安は、深く息を吸い込んだ。


東の漣漪霧海から、風が微かに吹いてくる。

その風には、人の声のようなものが紛れていた。

極めて低周波で、ほとんど言葉にならない断片。


「……もうすぐ……もうすぐ……私は……まだ提出してない……」


 


澄川が思わず言葉を漏らす。


「今の……通信電波じゃないのか?」


念安は首を横に振る。


「違う。……人の声、だよ。」


 


二人は、島の中心へと歩を進めた。


道沿いには、崩れた椅子にもたれた者、石段に腰掛けた者、

空になった感知カプセルの隣でうずくまる者たちの姿。


彼らは、狂ってはいなかった。

むしろ、恐ろしいほどに静かだった。


それぞれが何かを呟いていたが、どの言葉も途中で止まり、宙に溶けていった。


「彼女が……すぐ後ろに……でも、まだ書き終わってない……試してる途中で……」


「あと30分さえくれたら、僕は……僕は……」


「もうミスはできない……今回は……絶対に……」


 


その呟きは、澄川にも念安にも向けられていなかった。


彼らは皆、見えない何かと会話をしていた。

その「相手」は、三十年ものあいだ、一度も現れていない。


念安は、一つの漣漪灯の下で足を止める。


光は断続的に点滅し、その正面、石畳の上に座っている老人がひとり。


虚ろな目をしていたが、口だけが絶えず動いていた。


「妻が……重病で……早く……このプログラムを……」


「……書き上げなければ……彼女は、死ぬ……」


 


言葉はかすれていた。だが、奇妙なほど耳に残った。


——それはまるで、血のように滲み、

 泣きながら、同じ言葉を何度も繰り返しているかのようだった。


この島にいる者たちは、誰もが何かを「まだ、終えていない」。


彼らは「まだ、書き終えていない」。


——そして、そのまま三十年が経っていた。





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