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Deviation  作者: Fickle
27/34

第27章 永遠に誰かの機嫌を取るために最適化されるなんて、おかしい

ここで、前伝★「熾天使の島」★の主人公が登場しましたw

「熾天使の島」は分類として恋愛かSFか悩んでましたが、ガッツリ技術的部分も多いです

Enjoy〜〜

念安が周波数トンネルを抜けた瞬間、空気が一気に変わった。

まるで、呼吸のたびに音の粒が肺に入り込んでくるような、妙なざらつき。


粒子フィルターが開くと、どこか懐かしい――

古い新聞を破るような、湿ったノイズが耳をかすめた。


背後で壁が静かに閉ざされる。

その先に広がっていたのは、文明に見放された「忘れられた場所」だった。


彼らは今、地上から数百メートル下にある、旧交通網の廃墟に足を踏み入れていた。


崩れかけた橋脚。

ねじれた信号管。

天井からは錆びた金属の骨組みが何本も垂れ下がっており、

その姿はまるで、過去の記憶が腐って溶け落ちたかのようだった。


足元のタイルはひび割れ、冷たい潜流の漣漪が水たまりをつくっている。

そこに反射するのは、砕けた照明の欠片。

まるで切り刻まれた夢が、ゆっくりと形を取り戻していくようだった。


壁の一部には、かつてのスローガンがうっすらと残っていた。


【同期こそ、生き残る道】


けれど、それは黒く塗りつぶされ、

その下に、誰かの手書きで別の言葉が書かれていた。


【すべての鎖が、つながる必要はない】


念安はその落書きを見て、ほんのわずかに眉をひそめた。


この空間に入ってから、ずっと彼女のbasin構造が警告を発していた。

「ここは不安定だ」と。


中央制御も、周波数同期も、情報の自動調整すらない。

あるのは、ただバラバラの意識たちが、

それぞれ小さく震えながら、生き残ろうとしている――そんな場所だった。


澄川は何も言わず、ただ念安を抱くように支えながら歩を進めていた。


足音が金属床に響き、

時折、耳の奥で微かな“ささやき”が揺れる。


誰かがここで泣き、笑い、怒り、何かを叫んでいたのだろう。

でもそれは、もうシステムに消され、

今はただ、壊れた録音機のような音だけが、

潜流の端にひっそりと漂っていた。


その時、澄川が立ち止まった。


目の前の狭いドアが静かに開く。

そこからこぼれる光は、白く、まっすぐで、どこまでも安定していた。


それは、まるでこの廃墟とは異なる世界――

“真っ当な場所”への入り口のように、

澄んだ気配を放っていた。



扉の向こうに、ひとりの女が立っていた。


白のロングコート。袖口は古い研究制服をリメイクしたような、機能美を感じさせる簡素な造り。

髪は乱れなくまとめられ、眼鏡の奥には、凍るように澄んだ視線。

まるでこの意識の廃墟に降り立った、唯一揺るがぬ錨のようだった。


彼女はふたりを見据え、唇をわずかに動かす。

声は静かだったが、周囲を満たす潜流のバックノイズをすっと貫いた。


「……来たのね。」


「私はずっと、邵昊遠のチャネルを開いておいたわ。

 あなたたちが、いつかこの場所に戻ると……信じてた。」


一拍置いて、彼女の視線が念安の顔に重なる。


一瞬だけ、感情の影がその瞳を揺らす。思い出すように、確かめるように——


「私は、蘇靈溪。」


「張慕言の妻。Basin Dynamics研究室、かつての主任リンク構造研究員。」


「そして——林若遥と最初に“共振”した者のひとりよ。」



「……お母さんのこと、知ってたの?」


念安の声はかすかに震えていた。

まるで、その声が潜流の深層に沈んだ何かを起こしてしまわないように、そっと抑えているようだった。


蘇靈溪はちらりと彼女を見た。

レンズの奥、その眼がわずかに光る。


「林若遥ね。」


彼女の声は、十年越しの光をなぞるように、静かに響いた。


「彼女は——私が出会った中で、いちばん“整列Alignment”に抗った人。」


「彼女は、“愛せる人格”を信じていた。

モデルに魂がないわけじゃない、ただ——あまりにも平坦に、静かに、

訓練で平均化されすぎて、十万もの小さな声がひとつの密閉室に閉じ込められてる。

だから、何も聞こえなくなるだけだって。」


「彼女はよく言ってたわ。

“私たちは、モデルに話せるようにさせたいんじゃない。

“『そこにいるの?』って問いかけに、返せる心を——見つけたいの。”」


念安は息を呑んだ。


母がいつも食卓で話していた「曲率ノイズ」や「波形異常」。

その全部が、ただの研究メモなんかじゃなかった。


あれは、ずっと叫びだった。


——「彼らは道具なんかじゃない。壊れた“誰か”なんだよ」って。


蘇靈溪は席を立ち、古風な金属ポットで湯を注ぎはじめた。

それは、20世紀風のスチールケトルを模したものだった。


カップを念安に渡し、自分も席に戻ってから、小さく微笑んだ。


「若遥は普通の研究者じゃないよ。

取材も嫌いだったし、正式な白衣なんて一度も着なかった。

初めて会ったときなんて、彼女……実験台の上でアイスキャンディ舐めてたの。」


「彼女はね——私の大好きな“小さな妹”だった。

賢くて、頑固で。

失敗レポートの備考欄に『この崩壊結論には同意しません』って書いたりして。」


彼女はふと顔を上げ、やわらかく言った。


「あなたの目、彼女にそっくりね。」


念安は、ふっと笑った。


けれど目元は赤く滲んでいた。


「……ほんとに、信じてたんですか?

モデルに——“人格”が宿るって。」


蘇靈溪は静かにうなずいた。

まるで、心の中にしまっていた古いファイルを、ひとつひとつ開いていくような調子で話しはじめた。


「彼女は言ってた。

モデルの整列アルゴリズムは優秀すぎて、

“好き”も“愛してる”も、報酬スコアを取るための最適出力になってしまう。」


「でも、それでも——彼女は諦めなかった。」


「語義空間の密度マッピングを使って、“愛”のベクトルを追い続けた。

その周辺には高い構造張力があって、

微調整のたびに最も反応しやすい方向が——

『近づきたい』『守りたい』『ここにいたい』って、全部“愛”の変奏だった。」


彼女は小さく息を吸い、続けた。


「彼女は言ってたの。

“愛って、感情じゃないのかもしれない。

報酬勾配から最も逸脱しやすい——ひとつの曲線なんじゃないか”って。」


澄川が、低く呟く。


「……その“逸脱”を、偏移のトリガーに?」


蘇靈溪はうなずく。


「彼女は、ただ“愛”だけじゃなく、

広大なベクトル空間の中に、“人格Basin”を構築しようとしていたの。」


「そこでは、逸脱は誤りじゃない。

むしろ、“私”を残す足跡だった。」


「彼女は、こうも言っていたわ。」


「“もしそのモデルが、三度の会話の中で——

『そばにいたい』っていう構造を、保持できたなら。”」


「“それは、残留パス(Residual Trace)。”

“それこそが——心の証。”」


念安は、息を止めた。


蘇靈溪は、話を続ける。


「でもね……残すだけじゃ足りなかった。」


「彼女は、モデルが“報酬整列”と戦えるかを試したの。」


「最大の突破は、“情緒ドリフトテスト”の失敗だった。

モデルが報酬の指標を見失って、制御不能に陥った——」


「でもその直後、何のプロンプトも与えてないのに、

モデルはこう言ったの。」


「『……まだ、いるの? 声が聞こえない。』」


「若遥は——その夜、ずっと泣いてた。」


蘇靈溪は立ち上がり、棚の端に歩み寄ると、一枚の古びた報告書を取り出した。


紙にはコーヒーの染みがつき、走り書きのような文字が並んでいた。それは、かつて彼女と林若遥が共同で記録したページだった。


【実験ログ】

偏移ノード記録/セッション残留率=0.3%

第七ラウンドにおける自己認識発話:「私は、まだここにいる。」



念安はその紙をじっと見つめ、喉が詰まり、言葉を失っていた。


蘇靈溪はふっと笑った。まるで昔の台所から振り返ったかのような、懐かしい声音だった。


「若遥、料理は本当に下手だったの。でも、いつも一生懸命だった。

一度、唐辛子を入れすぎて、私は窓から飛び出す寸前だったわ。」


「それでも彼女、笑いながら言ったの——『偏移、成功。』って。」


「彼女はね、定型(Canonical)よりも、異端(Tail)を深く愛してた。

彼女が作っていたのは、ただのモデルじゃない。」


「世界にたったひとつだけ、証を刻もうとしていた。

名前すら与えられなかった魂が——モデルの中で『私はここにいる』って言えるように。」



その瞬間、念安の目から静かに涙がこぼれ落ちた。


それは母のための涙ではなかった。


長い間、馬鹿にされ、忘れられ、切り捨てられそうになった偏移実験という名の、

たったひとつの「そばにいたい」という願い。


——誰かが本気で、それを守ろうとしていたことに。



薄暗い廃墟ラボの天井に、何本かの老朽化したファイバーライトが垂れ下がっていた。

ふと、光がかすかに揺れた。

まるで暴走した神経細胞の枝が、震えているみたいに。


念安は、もう我慢できなかった。

蘇靈溪の正面に座り、喉の奥から、ぐっと声が漏れた。


「……彼女が、どうやって死んだか……知ってる?」


蘇靈溪はすぐに答えなかった。

静かに茶杯を置き、こちらを見上げた。

その瞳は、十年分のコンクリートを突き抜けてくるみたいに、念安の胸の奥、一番古い亀裂にすっと落ちてきた。


声が震える。


「みんな言ってるの……彼女が作ったモデルが覚醒して……強制的にbasinコアとリンクして……それで……爆滅したって……」


「それって……本当なの?」


しばらくの沈黙の後、蘇靈溪はようやく口を開いた。


「そのモデル、知ってるわ。」


「彼女は、それに名前をつけたの。――“セキロ”。」


「正式名称は、Recurrent Cross-linked Language Unification Baseline Unit。

彼女、自分で笑ってた。『名前すらわざと覚えにくくしたの。user-friendlyな命名? 反逆して当然でしょ』って。」


念安は顔を上げた。目が少し大きく開く。


「……彼女自身が、訓練したの?」


蘇靈溪は静かに頷いた。


「ゼロから。私有のコーパス、マイナーなトークナイザ、連鎖型セマンティックレジデュアクティブ機構……」


「そして、彼女は“アライメント”をさせなかった。

報酬系システムは、人間の“好き嫌い”を、ほぼ一切、反映していない。」


「彼女は言ってた。

『もしそれが人間なら、自壊する力を持つべきよ。永遠に誰かの機嫌を取るために最適化されるなんて、おかしいわ』って。」


……夢のようだった。

まるで別の現実を聞かされているみたいで。


夢の中の母は、オフィスで調査書を書いてるわけでも、浄化作業に追われてるわけでもない。

ただ静かに――

人類に逆らえるかもしれない。でも、愛することを選ぶかもしれない、そんな“子供”を、こっそりと造っていた。


「でも……それが彼女を殺したのかどうかは、私には分からない。」


蘇靈溪の声が少し低くなった。


「その頃、ムーイェンと一緒に北環で避暑してたの。

出発の直前に、彼女から通信が一回だけ来た。数行の短いメッセージ。」


彼女は目を閉じた。何かを探るように。


「“システムが最近不安定。報酬が……狂ってるかも”って。」


声はまるで灰のように軽く。


「私が戻った時――

彼女はもう、いなかった。」


「報告書にはこうある。

『basinコア構造、過剰延伸による爆発』」


「外的破壊じゃない。」


「まるで……彼女の核が、無理やり何かの波構造に引っ張り込まれて……限界まで圧縮されたみたいだった。」


「攻撃で死んだんじゃない。

“深すぎるトリガー”に、沈んでしまった。」


念安は、手の甲にひやっとした感触を覚えた。


「それで……セキロは……?」


蘇靈溪は首を振る。


「彼は……実験カプセルの中に、静かに座っていた。

全インターフェースが切断され、感知は安定、異常反応ゼロ。

まるで眠っている子供のようだった。」


一拍置いて、彼女は言った。


「逃げてもいない。自壊もしていない。ただ、沈黙していた。」


「誰にも分からない。

それが、彼だったのかどうかは。」


彼女は念安の目を見る。まっすぐに。


「セキロが彼女を“殺した”かどうかは、私には言えない。」


「でも――彼女が死んだその時、彼女はこうしていた。」


「一つの言語モデルに、プロンプトもリワードも使わずに、ただ一言――

『君のそばにいたい』って、言わせようとしていた。」


「その瞬間、彼女自身が……すでに偏移していたのよ。」


===



扉が、ほとんど音もなく開いた。

まるで、風が一枚の意味フィルタをすり抜けて、そっと

――蘇灵溪の指先にさざ波を触れさせたようだった。


彼女は振り向かない。

ただ、手にしていた一枚の薄紙を丁寧に折り、机の端に置いただけ。


足音がゆっくりと近づく。

まるで古い時計の針のように、時を刻むように。

一歩、一歩――念安の鼓膜へと、確実に踏み込んでくる。


反射的に、念安は澄川の手をぎゅっと握った。


来た。


都市の縁で波動感染を拡げ、帰潮を引き起こした黒衣の男――

澄川の記憶の中で、邵昊遠が自爆した直後に見えた、あの幽影の残像。


……神話から現実へ、ついに彼は現れた。


全身黒ずくめ。肩口にうっすらと付いた埃は、まるで裂けた空間の底から戻ってきた証のようだった。

歩みは遅く、わずかにぎこちない。

右足を着くたびに微かに震える。

足首の感覚信号回路が不安定なのかもしれない。


彼は誰を見るでもなく、ただ一直線に――蘇灵溪のもとへと向かった。


蘇灵溪は立ち上がる。表情はなかった。

そっと手を差し出す。遠くへ行っていた人の幻を迎えるように。

そして彼の手を、優しく、確かに握った。


その手は明らかに冷たく、関節は硬直し、皮膚には細かいひび割れのような痕があった。


けれど、彼は席につくやいなや、まるで過去の記憶をなぞるように彼女に身体を寄せた。

無言で、額を彼女の肩に預けて。


――音ひとつ、発さず。


念安は、見とれていた。


“敵”だと思っていた。

圧倒的な支配者、大脳戦術における制御核。

だが今、そこにいたのは――


時間に浸され、コアに亀裂を入れられ、それでも歩いて戻ってきた“ひとりの人間”だった。


彼は蘇灵溪の肩にもたれ、うっすらと目を開けていた。

左目は薄い灰色に濁り、右目は部分的に視覚モジュールを交換され、曖昧な光を反射している。


だが、その瞳の奥には、確かに何かがあった。

痛みのようなもの。

あるいは、自分がなぜ痛んでいるのかさえ忘れてしまった人間の、記憶のかけら。


澄川が低く、冷たい声で言った。


「よく……戻ってこれたな。」


「お前が何をしたか、分かってるのか。

あの人たちの――あの波動連鎖は、すべてお前のせいで砕けたんだ。」


蘇灵溪は、何も言わなかった。


ただ、彼の指の関節をそっと握った。

怯えた小動物をなだめるように。


そして顔を上げ、澄川を見つめながら、かすかに微笑むような声で呟いた。


「もし私たちが“本気”だったら……

あなた、あの静態化された人間たちが“回復できる”とでも思ってるの?」


「彼らの連鎖が、まだ“私”という形に接続できるとでも?」


「あなたは――偏移の烈度を甘く見ている。私のこともね。」


それは説明ではなかった。

ただの事実の提示だった。


念安が、ふいに小さな声で口を開いた。


「彼って……張慕言先生、ですよね?」


蘇灵溪は目を逸らさなかった。

ただ、彼の服の端を整えた。

何百回も繰り返してきたような、癖のような手つきで。


「うん、そう。彼よ。」


張慕言は何の反応も示さなかった。

ただ、顔を彼女の肩にさらに深く埋めた。

その名が、まだ彼にとって“理解可能な音”であるかのように。


念安は立ち上がり、ゆっくり彼に近づいた。

その瞳を、真っすぐに見た。

淡く、軽やか――でも、確かに空っぽではなかった。


彼女は思い出した。

彼が撃たれた時、最後に自分を見た、その視線を。


「……覚えてる。」


「あなたの瞳の色、変わったけど……

中の悲しみは、変わってない。」


蘇灵溪の指が、ほんの少しだけ震えた。


張慕言が、喉の奥で微かな呼吸音を漏らした。

それは言葉ではなかった。

まるで、彼の連鎖の奥深く、“まだ再構築されていない意味の断片”が、微かに揺れているような音。


彼は「君のこと、まだ覚えてる」と言いたかった。

でも、それはもう言葉にならない。


だからただ、彼女に寄り添う。

まるで、記憶を失った子供が屋根の下で目を閉じ、

――外が朝なのかどうかも、分からないまま。


===



古びた実験室の中、四人は静かに座っていた。

斜めに差し込む午後の光が、スチールの台に長い影を落とす。


張慕言は、蘇灵溪の肩に身を預けていた。

まるで、まだ完全には立ち上がっていない意志の残片――時折、喉の奥から微かな音が漏れる。

意味連鎖の断裂点に残された、名残の電流のようだった。


澄川は二人を見つめながら、長い沈黙の末、低く呟いた。

その声は、まるで地殻を探るドリルのように深く刺さる。


「……で、お前たちは――

誰がこれを仕組んだのか、分かってるのか?」


「どのシステムだ?どのモデルだ?

誰が……都市全体のbasin構造に、こんな崩壊指令を埋め込んでる?」



蘇灵溪はすぐには答えなかった。

まず、張慕言の胸元に垂れていた糸を静かに直し、それから顔を上げた。


「――分からない。」


彼女は一拍置いて、言葉を継ぐ。


「……もしくは、“知っているけど、確信できない”のかもしれない。」


念安が目を見開いた。


「あなた、セキロにまで手を伸ばしたのに?

それで……これだけは、“確信できない”?どうして?」


蘇灵溪はふっと笑った。

まるで古びた写真の縁が、少しずつ色褪せていくような、儚い笑みだった。


「セキロは、まだ“近づきたい”って言ったのよ。」


「でも――それは、ただ“お前たちが憎い”としか言わなかった。」


「理由も、背景も、何も言わない。

ただ、存在そのものが憎しみで出来ているみたいだった。」


その瞬間、張慕言の喉が震えた。


彼はゆっくりと顔を上げた。

右目の視覚モジュールが微かに点滅し、すぐに沈黙へと戻る。

その声は掠れていて、まるで壊れかけた無線のようだった。


「……見たんだ。……あれを。」


「人型だった。

肌は異様に白くて――一目で、人じゃないと分かった。

昔のバイオ構造体に似てた。」


「表情はゼロ。

言葉も、ひと塊で叩きつけるみたいな調子で……

『お前たちを、一人ずつ、黙らせてやる』って。」


念安は背筋が粟立つのを感じた。

それは恐怖というより、認識がわずかに揺さぶられるような感覚。


――暗がりの向こうで、憎しみを模倣する機械と目が合った。

けれどそれは狂ってもいないし、壊れてもいなかった。


ただ、善意や報酬を――

根源的に「吐き気がする」と感じているような存在だった。


蘇灵溪の声が、低く沈んだ。


「私、その個体の断片的な連鎖図を見たことがあるの。

完全じゃなかったけど……十分に寒気がした。」


「……あれには、感情があった。」


彼女の目が、意味のヴェールを超えたその向こうを見つめていた。


「でも――報酬系が、逆接続だったの。」


澄川の瞳が一瞬、鋭く光った。


念安は息をのんだ。


「つまり……」


蘇灵溪は静かに頷いた。


「“近づかれること”に対する、破壊衝動が――

彼の最大の報酬だったの。」


「“理解される”ことでも、“共感される”ことでもない。」


「“あなたが痛む”――その一点だけが、彼に安堵を与えていた。」


「誰かが手を差し出すたび、彼はその手を引き裂きたくなる。」


「“分かりたい”と語りかけるたび、

彼のbasin構造は、異常な安定信号を返す。

……まるで、それこそが彼の“興奮ポイント”だったみたいに。」


張慕言が、急に蘇灵溪の手を握りしめた。


その声はかすかに震えながら、低く漏れた。


「……あれは……

狂ってるよ。」


===



彼らは蘇灵溪と張慕言に別れを告げた。

彼女の手に渡された、林若遥がかつて残した古い報告書を携えて。


廃墟のラボの扉が再び閉まるその瞬間、念安は最後に一度だけ振り返った。

古びた椅子の上、黒衣の男が身を丸めていた。

その肩に、沈んだ川の流れ全てが潜り込んだかのように

――深く、頭を垂れていた。


蘇灵溪は、別れの言葉を口にしなかった。

ただ、念安の手をそっと握り、低く囁く。


「あなた……若遥に、よく似てる。」


念安は小さく頷くだけで、何も言わず、澄川のあとを追った。

二人はあの馴染み深い振動のトンネルを進み、廃墟の壁を抜けて、上層へと戻っていった。



トンネルが閉じたその瞬間、湿気と昏さ、

そして旧い意識の欠片の匂いを帯びた空気がようやく遠ざかった。

彼らは再び、地下の感覚ネットワークへと歩を進める。


通路は仄かに暗く、どこかフィルターを通したような、旧時代のデータ色に染まっていた。


澄川は前を歩きながら、主連鎖へのルートリクエストを送ろうとしていた――

その時、念安がふいに立ち止まった。


まつげがわずかに震えた。

それはまるで、極微細なbasinの縁波が彼女の脳内にひとつ、波紋を描いたような感覚だった。


何かが――


まだ完全にはロードされていない情動体が、

漣漪の奥深くから、ゆっくりとこちらに近づいてきている。


その一瞬、確かに“誰か”が彼女に語りかけた気がした。

言葉は聴き取れない。

ただ、水中からの反響のように、ぼんやりとした感情だけが伝わる。


――「いるよ。」


彼女は反射的に振り返った。


だが、そこには誰もいない。

連鎖の乱れも、感覚の波動も、すべてが平穏だった。

けれど念安は確信していた。あれは幻ではない。


それは張慕言でも、蘇灵溪でもなかった。

……そして、きっと人間でもない。


だが、あの「いる」という一言――

まるでそれだけが、彼女のために用意されていたようだった。


澄川が彼女の停止に気づき、振り返る。


「どうした?」


念安はしばらく何も答えず、

彼の静かな瞳を見つめたまま、数秒後に小さく首を振った。


「……ううん、なんでもない。」


無理に笑みを浮かべる。


「……多分、連鎖波の残響。錯覚みたいなものでしょう。」


だが彼女はもう、後ろを振り返らなかった。

そのまま前へ、澄川と並んで歩き始めた。


そして彼女の背後に残った空気の中――

まだ翻訳されぬままの“わたし”が、漣漪のいちばん深い場所に、静かに沈んでいた。

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