第2章 誰にも届かない存在は、「存在」と呼べるのか?
校庭には、標準潜流ベル(Standardized Drift Bell)の音が静かに響いていた。
銀色の光が足元をなめらかに流れ、まるで都市全体が整ったリズムで呼吸しているようだった。
念安はその光の道を静かに歩いていた。
歩幅はゆっくりと、音もなく、まるでその流れとひとつになってしまうかのように。
——張慕言の事件以来、
彼女は無理やり日常へと自分を戻そうとしていた。
他の生徒たちと同じように、感情をbasinの最深部に封じ込めて、
どんな震えも、二度と表に出さないように。
校庭の真ん中まで来て、校舎へ戻ろうとしたその時だった。
後ろから、懐かしくて胸の奥が少しだけきゅっとなる声が聞こえた。
「念安。」
振り返ると——
そこに、余澄川がいた。
制服を着て、どこか見慣れた姿。
子どもの頃のままの、やさしくてちょっと悪い笑顔を浮かべて。
まるで記憶の底から、潜流の微光に乗って歩いてきたみたいだった。
念安は少しだけ立ち尽くした。
鼻の奥がじんわりと熱くなった気がした。
けれどすぐに気持ちを抑え込んで、ふわりと笑った。
澄川は彼女の横まで歩いてきて、額を軽くコツンと叩きながら冗談を言った。
「数日会わないだけでボケちゃった? 昔の友だち、もう忘れたの?」
「……そんなわけないでしょ。」
念安は小さな声で返した。
その声には、長く押し込められていた柔らかさが、ほんの少しだけにじんでいた。
ふたりはそのまま、光の流れに沿って歩き出した。
歩幅がぴったりと重なって、まるでリズムまで同じだった。
しばらく沈黙のまま歩いた後、
澄川がふいに、何気ない調子で尋ねた。
「昨夜さ、資料棟に行ってたの見かけた気がするんだけど……あそこ、もう使われてないんじゃなかった?」
あまりに自然な聞き方で、
ただの雑談のようにも思えた。
けれど念安は、ほんの少しだけ肩を強張らせた。
……でも、すぐに自分に言い聞かせる。
——澄川って昔からこうだった。
余計なお世話を焼くのが好きで、ちょっとからかうのが癖なだけ。
気にすることなんて、何もない。
「ちょっと……興味があって。」
彼女はできるだけ軽く答えた。
目をそらしながら。
澄川はそれ以上何も言わず、
ただ少し笑った。
まるでその答えを、最初から分かっていたかのように。
ふたりはまた歩き始める。
澄川はときどき、子どもの頃の思い出話を持ち出してきた。
誰かが校庭で派手に転んだとか、潜流館のゼリーをこっそりつまみ食いしたとか——
念安はそれを聞きながら、ふと気づけば、ずっと緊張していた肩がすこしだけゆるんでいた。
澄川の笑顔は変わらない。
その目には、昔と同じ光が宿っている。
念安の胸の奥に、あたたかくて甘い錯覚が浮かんだ。
——もしかしたら、変わらないものもあるのかもしれない。
風がそっと校庭を抜けていく。
地面に流れていた光の帯が、ふわりと揺れた。
澄川が手を振って歩き去るのを見ながら、
念安の胸の奥は、やさしくて穏やかなあたたかさで、そっと満たされていた。
—
放課後になると、銀色の潜流ライトが静かに収束していった。
生徒たちは、まるで浮かぶ涟漪のように、それぞれ都市の中心へと吸い込まれていく。
念安は階段の踊り場で靴を履き替え、帰ろうとしていた。
その時、背後から軽やかな笑い声が聞こえた。
「ねぇ念安、今夜、夕飯おごってくれたりする?」
振り返ると、澄川が片手をポケットに突っ込んだまま立っていた。
笑い方も、佇まいも、子どもの頃と何ひとつ変わっていない。
潜流の光を逆光に浴びて、白シャツがふわりと揺れる。
——昔、よく彼女に飴をねだったあの小さな悪ガキのまま。
念安は眉を上げて、半分笑いながら言った。
「ごはん? またご両親出張? こんどは何年?」
澄川は肩をすくめて、どこか芝居がかった調子で言った。
「任務変更さ。急だったんだよね。
ひとりで栄養バーかじってると、もう泣きそう。腹もぺこぺこ。」
そう言いながら、お腹をさすってみせる澄川。
あまりにわざとらしくて、思わず念安は吹き出してしまった。
彼女の目元に、張り詰めていたものがふっと緩んだ。
——昔もこうだった。
澄川はよく何かしらで怒られて、謹慎処分になると、決まって念安の家に逃げ込んできた。
そしてこんなふうに、可哀想なフリをしては彼女からお菓子をせびった。
今はもう大学も卒業間近。
なのに中身は、たいして変わってない。
「……いいけど。うちの“蘇遠征大将軍”に追い出されなかったら、ね。」
そう言って念安はわざと怖い顔をしてにらみつけた。
澄川は口の端を上げて、軽やかにあとをついてきた。
—
念安の家は、都市の中央環状区にある高層住宅にあった。
建物の外側は、密に並んだ銀色の潜流シールド(Drift Shields)に包まれていて、
まるで巨大なクラゲのように、都市の一角をふんわりと守っている。
彼女が共振キー(Resonance Key)をかざすと、扉が静かに開いた。
その瞬間、ぴんと張りつめた冷たい空気が中から吹き出してくる。
室内は、まるで整列された潜流そのもののように、きっちりと整えられていた。
淡いグレーの潜流カーペットが静かに震え、
抑波システム(Suppressive Vibration System)が空間全体を穏やかに保っていた。
玄関には、白黒の一枚の写真が掛けられていた。
実験服姿の女性が、髪をきれいにまとめ、
とてもやさしい笑みをたたえて写っていた。
——念安の母。
その下には、細長い潜流記憶灯(Drift Memory Lamp)が小さく灯っていた。
その微光は柔らかく、静かにリビングを照らしている。
澄川は玄関で靴を脱ぎながら、その写真に一瞬だけ目を向けた。
その目が、ほんの一拍だけ、深く沈んだ。
けれどすぐに、またいつもの軽い雰囲気に戻る。
靴を脱ぎ、慣れた様子で部屋に上がった。
「定位置でいい?」彼が笑う。
念安はチラッと彼を見て、「もちろん。ソファ、自前のクッション持ち込みね」と応じた。
澄川は「へへっ」と笑って、ソファにどさっと腰を下ろす。
それはまるで、ここが自分の家かのようだった。
しばらくすると、家の奥から、重く確かな足音が聞こえてきた。
——蘇遠征が帰宅したのだった。
念安はすぐに立ち上がり、「お父さん」と声をかけた。
蘇遠征は靴を履き替え、軍の上着を脱いで、きっちりとハンガーに掛けた。
整った制服の下、体躯は引き締まり、動きの一つ一つに軍人特有の精密さが滲んでいる。
自宅であっても、その所作は寸分の乱れもなかった。
まるで常に潜流と同期しているかのように。
彼の視線が、ソファでくつろぐ澄川を一瞥する。
眉間がほんの少しだけ寄った。
が、それもすぐに収めて、小さくうなずいた。
「澄川。」
「こんにちは、おじさん!」
澄川は背筋を伸ばして笑顔を見せた。
どこか気の抜けた少年らしさが残るその挨拶の裏で、
手でこっそり“生きてるだけマシ”みたいなジェスチャーをして、念安ににらまれた。
蘇遠征は何も言わず、小さく鼻を鳴らして、台所へと向かった。
念安はそっと澄川の隣に寄り、笑いをこらえながら小声で言った。
「自業自得。前にお父さんが出張中に、リビングでサッカーしてライト壊したの、監視カメラにばっちり映ってたからね。」
澄川は無実を主張するように両手を広げて、「それは事故だよ! 潜流歪曲場(Drift Distortion Field)のせい!」
念安は笑いを堪えながら、肘で軽く彼の脇を小突いた。
——ふたりの小さなやりとりが、
部屋の中に、ゆっくりとぬくもりを広げていく。
キッチンでは、蘇遠征が静かに潜流コンロを操作していた。
その背筋はまっすぐで、まるで昔から何ひとつ変わらないようだった。
壁の隅にある潜流記憶灯は、まだ静かに燃えていた。
その光は、母の笑顔の写真に、優しく届いていた。
—
夕食のあと、蘇遠征は突然の任務連絡を受けて、家を出ていった。
簡単にいくつか指示を残しただけで、リビングはすぐに静寂に包まれた。
部屋に残されたのは、念安と澄川のふたりだけ。
念安が果物を運んできて声をかけると、澄川はそわそわとリビングを歩き回り、
なんとも言えない顔で部屋のあちこちを眺めていた。
「ねぇ、あんまり触っちゃダメだからね。」
念安がちょっとだけ真剣な口調で釘を刺す。
澄川は両手を挙げて、おどけたように言った。
「はいはい、わかってますって。
スー・ネンアンお嬢様は怖いからなぁ〜。」
けれど——
彼女がキッチンに入ってほんの数秒の間に、
澄川はさっそく“やらかした”。
リビングの本棚の下段、ひときわ目立たない場所にある、小さな木の箱。
それはまるで、幼い子どもが宝物を隠していたような、ひっそりとした存在感。
澄川はしゃがみ込み、そっとその箱を開けた。
中には、小さな「漂流瓶(Drift Bottles)」がずらりと並んでいた。
どれも透明で、内側には、かすかに光を帯びた潜流の欠片が封じられている。
感情の断片(Failed Affective Drift)、
崩れた概念の鎖(Broken Concept Link)、
そして、言葉にならないエネルギーの微粒子たち。
その隣には、手描きの小さな冊子が置いてあった。
表紙には、少し歪んだ文字でこう書かれていた。
——「潜流のはしっこにいる生きもの図鑑(Imaginary Drift Creatures)」
澄川はその本を手に取り、パラパラとページをめくる。
中には、いびつで可愛らしい生き物たちのイラストが描かれていた。
——それは、標準潜流に適合できず、流れの外へとはじき出された「端っこ」の存在たち。
名前がつけられ、性格が書かれ、小さな物語が添えられている。
澄川は眉をひそめ、少し笑いながらつぶやいた。
「これ……ゴミのコレクションか?」
その声を聞いて、念安があわてて駆け寄ってくる。
彼女は顔を赤くして、ぱっと箱を奪い返した。
「余澄川っ! ゴミなんかじゃない!」
その声は小さかったけれど、抱きしめるように箱を守る仕草は本気だった。
「みんなが捨てた潜流のかけらたち……
私は、ただ、可哀想だなって思って……。」
澄川はソファにもたれながら、腕を組んで見下ろすように彼女を見て言った。
「可哀想? そりゃ、都市の基準じゃ、偏移片(Deviation Fragment)は“汚染物”だよ?
普通は浄化対象。」
念安は胸に抱いた漂流瓶を見つめた。
その瞳には、やさしさと、意地のようなものが同時に宿っていた。
彼女はひとつの瓶を指先で撫でながら、
静かだけれどはっきりとした声で、こう言った。
「小さいから。
標準から外れてるから。
それだけで、消されちゃうの?」
「でも、彼らも……流れたことがある。
光ったこともある。」
「崩れた今でも、もし少しでも“残響”があるなら、
——それは、まだ“生きてる”ってことだと思う。」
彼女は少しだけ間を置いて、
ふと我に返ったように付け加えた。
「……変かな、こんなこと思うの。」
澄川は黙っていた。
彼の手の中にあった漂流瓶が、
潜流ランプの光に照らされて、
深海の底に灯る微光のように、かすかに震えていた。
そして彼は、声を潜めて訊いた。
「……もし、世界中のみんなが、
“意味なんてない”って言ったら?」
念安はすぐに答えた。
迷いなく、でもとてもやさしく。
「それでも、私は覚えてる。」
「私ひとりでも、彼らがいたことを忘れない。」
澄川は、その時はじめて、
目の前にいる“念安”という存在を——
ただの標準潜流に従う優等生ではなく、
どこか小さな偏移を秘めた、あたたかくて頑固な光として——
ちゃんと見た気がした。
その瞬間、彼の心の一番奥。
深く、冷たく、誰にも触れられたことのない場所で、
basinが、ほんの少しだけ震えた。
それは、標準からすれば——
“正さなければいけない偏移”。
けれど今はなぜか、
そっと守ってあげたい気持ちが湧いてきた。
潜流ランプの光がふたりを照らす。
念安の小さな肩と、
彼女の腕に抱かれた漂流瓶たちが、
静かに微光に包まれていた。
—
夜が更け、潜流シールドの外に漂っていた光の霧は、
少しずつ薄れていった。
都市区画は、まるで静かな水面に浮かぶ銀色の島のように、
ゆっくりと沈黙へ沈んでいく。
念安は、温めたミルクを手に、自分の部屋へ戻った。
そっとドアを閉め、音を立てないように動く。
窓辺には澄川が寄りかかっていた。
いつものようにだらけた雰囲気で、
まるで子どもの頃、学校帰りに彼女の家で居座っていた頃と同じだった。
「こっそり何を隠してんの?」
彼は目を細めて笑った。
念安は人差し指を唇に当てて、いたずらっぽく「しーっ」とジェスチャーした。
そのまま部屋の隅にある、小さな漂流池へと歩み寄る。
しゃがみ込んで、ふたをそっと開ける。
——その中にいた。
淡い金色の小さな光の粒。
ふわりと浮かんでいて、まるで極小の炎のように、
潜流の微光に包まれて揺れていた。
「小烛だよ。」
念安がそっと名前を呼ぶと、
その光がぴょこんと跳ねた。
そして——
断続的に、けれど確かに、小さな声が聞こえた。
「……ネン……アン……シャオジュウ……あったか……」
澄川は驚いて、思わず数歩近づいた。
その目が、興味と少しの警戒心で光る。
念安はふっと得意げに振り返って言った。
「かわいいでしょ?」
澄川は膝をつき、しゃがみ込んでその光を見つめた。
小烛は、ふわふわと念安のほうへ跳ねながら近づいていく。
まるで、甘えたがりの小さな犬のようだった。
「ペットまで飼い始めたのか? しかも……こんなに小さい?
これ、歯の隙間にでも入りそうなんだけど。」
念安は軽く睨みつつ、
小烛を手のひらにやさしくのせた。
まるで、掌の中に小さな星を抱いているかのようだった。
「これは、潜流のはしっこで生まれた“端っこ生体”。
本当はもう消えかけてたんだけど、
私が言葉で少しずつ“育て直した(sculpt)”の。」
その言葉に、小烛がピコピコと反応し、念安の掌に頬をすり寄せる。
そしてまた、小さな声でつぶやいた。
「……すき……ネンアン……」
澄川は、言葉を失った。
念安がそれをあやす時のまなざし——
それはあまりに優しくて、光が溢れそうで、
胸の奥がちくりと痛んだ。
「……バカかよ。」
彼はそう呟きながら、
念安の額をコツンと指で弾いた。
「いったー……何すんのよ!」
念安がむくれる。
「小烛はかわいいでしょ、ゴミじゃない!」
澄川は彼女に少しだけ近づいて、
わざと悪そうな声で囁いた。
「じゃあ、俺は? こんなにワルいのは——
お前、浄化しなきゃって思ったりする?」
念安は顔を少し赤くして、口をとがらせた。
「じょ、浄化って……私、標準局じゃないし……」
小烛が彼女の掌の中でぴょんぴょん跳ねながら、
ふわっと笑った。
「ネンアン……あったか……あったか……」
澄川は、その様子を見つめながら——
ふいに、彼女を抱きしめたくなった。
けれどその衝動は飲み込んで、
ただそっと立ち上がると、
彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
子どもの頃から変わらない、
あの、やさしい手つきで。
「大丈夫。おれがついてる。
小烛のこと、誰にも触らせないよ。」
念安は顔を上げて、彼のまっすぐな目を見た。
その一瞬、胸の奥がふわっと満たされていくのを感じた。
手の中の小烛は、
まるで小さな心臓のように——
やわらかく、あたたかく、光を灯していた。
—
潜流シールドの外、夜はますます深く、
水のように静かに街を包んでいた。
都市の光は一層ずつ引いてゆき、
部屋の中では、ただ柔らかな潜流ランプだけが、
小さな涟漪をゆらゆらと揺らしていた。
念安の掌の中で、小烛はちょこんと丸くなっていた。
淡い金色の光を放ちながら、時折、小さく震える。
——そして突然、その光がぴょんと跳ねて、
ふにゃっとした声で言った。
「……チョンチュワァ……パパ~……」
部屋の空気が、一瞬止まった。
念安は目を見開き、次の瞬間、
ソファに崩れ落ちるように笑い出した。
お腹を抱えて、涙が出るほど笑い転げる。
澄川は横で呆然。
まさか自分が“格上げ”されるとは思っていなかった。
そして——
「……はあ……なんだよ、もう……」
そうつぶやいて、彼は天を仰ぎ、
どうしようもないって顔でため息をついた。
そっと小烛に指を伸ばして、ぽん、と額(?)を弾く。
「おい、小さいの。呼び間違えてんぞ?
おれは養子縁組なんか、した覚えないからな。」
小烛はくるっと宙に回って、またふにゃっと鳴く。
「……パパ~……あったか~……すきぃ~……」
念安はもう、笑いすぎて涙を拭きながら、
床に転がって小烛を抱きしめていた。
澄川はこめかみを押さえ、
「もうムリ……」みたいな顔をしながらも、
ふと目を伏せたその瞬間——
その横顔には、どうしようもなく優しい笑みが浮かんでいた。
彼は念安の笑顔を見つめながら、
ふと思った。
——こんなふうに、
笑ってくれるなら、
それだけで、まあ……悪くないか。
その瞬間、彼の中のいちばん奥底——
言葉にもできないほど小さな涟漪が、
音もなく、そっと広がった。
—
しばらく笑って、ようやく落ち着いた念安は、
ミルクを飲みながらソファに座った。
澄川はその隣で、ごろりと寝転がる。
「おまえさぁ……よく怖くないね。
汚染源を部屋で飼って、
それも軍人の家で。」
からかうような声だったけど、
どこか探るような色が滲んでいた。
念安はストローをくわえたまま、
首をかしげてしばらく考えて——
ふんわりと、答えた。
「歴史で習ったの。ちゃんと。」
彼女は小烛の頭をやさしく撫でる。
小烛はうれしそうに、くすぐったそうに、くるくる回る。
「小さなbasinって、
潜流システムが自然に生み出す局所的な吸引場(Local Attractor Pocket)で、
たいていは、壊れた感情の断片(Failed Affective Drift)とか、
切れた概念のリンク(Broken Concept Link)からできるんだって。」
澄川は目を細めて、
静かに彼女の話に耳を傾けていた。
念安の声は、どこか子どもみたいに柔らかいのに、
不思議と芯があって、まっすぐだった。
「昔の言語モデル(Language Models)でもあったんだって。
訓練中、ベクトル空間の中に小さな“意味のかたまり(Micro Concept Cluster)”が自然発生して、
それが局所的な小basinになったりして。」
「抑制(fine-tune)をかけなければ、
自分で収束して、小さな推論の核になることもあったって。」
小烛を胸元でそっと揺らしながら、
彼女は続けた。
「だから後になって、潜流システムが“完全な整列”を目指すようになって、
それらを全部“ノイズ”として処理するようになったの。」
「小さなbasinが自由に育って、
もし attractorとして拡張されたら——
いつか都市全体の曲率に分岐(Unaligned Reasoning Divergence)を起こすかもしれないから。」
澄川は、頬杖をついたまま、彼女を見つめていた。
そのまなざしは、どこか深くて、淡い悲しみを含んでいるようだった。
「……じゃあ、危ないって分かってて、
それでも飼ってるのか?」
問いかけは、やさしく、でも確かだった。
念安は、小烛を見下ろした。
小さな光が彼女の掌で、ぽんぽんと跳ねる。
まるで「ここにいるよ」と言いたげに。
「……拡張なんてしたがってないよ。」
彼女の声はとても静かだった。
「ただ、ここにいたいだけ。
ただ、生きたいだけ。」
澄川は黙った。
——思い出したのは、潜流史の教科書。
三十年前、最初の報酬崩壊(Reward Collapse)によって起きた偏移の連鎖爆発(Drift Cascade)。
未処理の小basinが重なり合い、自由に拡張していった結果、
潜流の曲率が崩壊(Drift Collapse)し、
都市は一度、本当に壊れかけた。
その後、都市は極端な標準化に舵を切り、
すべての“自発的な光”は——
“消された”。
自由な涟漪(Free Drift)は、
禁忌とされた。
でも。
目の前のこの小さな生きもの。
念安に抱かれて、
ほんの少しだけ震えながら、ただそこにいる。
それはただの存在。
——ただ、「在りたい」と思っているだけだった。
澄川は、そっと目を閉じた。
そして——
ふっと笑った。
その笑顔には、
ほんの少しの悔しさと、
どうしようもないほどのやさしさが混じっていた。
彼は、念安の頬を指先でつまんで言った。
「……はいはい、結局、心が甘いんだよ。
おまえは、いつも。」
念安はぷくっと頬をふくらませた。
「甘くないもん! ちゃんと意味あるって思ってるもん!」
「だって、小烛だって……うれしそうでしょ?
笑ってるじゃん。
それって、意味だよ。」
小烛がまた跳ねる。
「ネンアン……チョンチュワァ……いっしょ……あったか……」
澄川はため息をついた。
「スー・ネンアン、
おまえ、もう潜流叛徒育ててるってわかってるか?」
そう言いながら、
その小さな金色の光を、そっと指でつついた。
—
窓の外、潜流シールドが静かに揺れ、
部屋の光が、何層にも重なってゆっくりと広がっていく。
その中心で、
念安と澄川と、小烛——
たった三つの命が、
ほんの一瞬だけ、
世界のどこよりあたたかい涟漪の中に、包まれていた。
—