第16章 感情に「報酬」がついた時点で、それは本物か?
シールド都市、春季第3週。
今年は例年よりも空気が湿り気を帯びていて温かい。潜流粒子は街のあちこちで柔らかく漂い、都市全体がまるで発酵中の温室の中で、ゆっくりと目覚めていくかのようだった。
LightStreamSNSが始動した。
登録すれば、小型の浄化植物が一鉢プレゼントされる。都市広場の高い広告パネルには、金色の文字が粒子の光を帯びて流れていた。
「ときめきを植えて、流れる春をとどめよう。」
ほぼ一夜にして、若者たちの連絡帳は同じ話題で埋め尽くされた:
•「初日でときめき数100超え!」
•「うちの子、銀の葉が一枚目出た!」
•「だれか一緒に涟漪繋げようよ〜」
ソーシャルの流れは、ゆっくりと引かれた細い糸のように、都市のシールド下で静かに編まれていった。
念安も流れに乗って登録した。
きっかけは、グループチャットでみんながかわいい“ときめき盆栽”を見せびらかしていたこと——
それと、登録時にもらえる小さな粒子アニメカードが、意外にもとても可愛かったから。
カードには、こう書かれていた:
【心動之初,涟漪未名。】
背景には、潜流の中でそよぐ小さな花畑。
登録はあっという間だった。10分も経たずに、すぐ配達通知が届く。
•【あなたのときめき盆栽は出発しました】
•【1時間以内にお届け予定です】
•【素敵な出会いがありますように!】
念安は感知器を抱えたまま、寮の窓辺に座って足をぶらぶら揺らしていた。心の中には、ほんの少しの期待感が浮かんでいた。
窓の外では、シールドの光がまるで薄い潜流のヴェールのようにふわりと漂い、遠くの学区広場では早くも小さな盆栽市が開かれていた。白いテントの下に並んだ緑の鉢たちの周囲では、潜流粒子が楽しげに弾けていた。
「もう届いたの?」
澄川がドアの隙間から顔を出し、手に感知装置の調整ボードを持っていた。どうやら研究室帰りらしい。
念安は誇らしげにスマホの画面を見せつけた。
「もちろん!今なら盆栽の種類も選べるんだよ〜」
「私、銀葉涟漪草にしたの!」
澄川は少し眉を上げ、ゆっくりと近づいてきて窓際に腰を預け、進行状況のバーに目をやった。
「……育てられるの?」
彼は相変わらず気怠げに訊いた。
念安は軽く彼の肩を叩いた。
「失礼な!涟漪草は都市のシールド下で一番育てやすい浄化植物なんだよ!」
配送ロボットは時間ぴったりに到着した。
白い小型ポッドが寮の玄関にふわりと着地し、自動で開くと、中から透明なパッケージに包まれた小さな鉢が現れた。
涟漪草の葉は細長く銀白色で、シールドの光を浴びて淡く輝いている。潜流探針がスキャンを走らせる——
【情緒同期率:極めて良好】
【浄化指数:A+】
念安はそれをそっと抱き上げ、まるで宝物のように胸に抱えた。
「……これが“ときめき”の香りかも。」
小さく呟いた。
澄川は窓辺にもたれたまま、黙って彼女を見ていた。唇の端が、かすかに緩んだ。
シールドの外から、風がふわりと流れ込む。
春の草木の香りと、極めて微細な潜流粒子の甘さが、空気の中に淡く混じっていた。
すべてが順調だった。
あまりに順調で、まるで現実ではないようだった。
——ただ一つだけ。
澄川が感知器に触れた瞬間、粒子レベルのスキャン結果の最下層に、ほとんど無視されかねない小さな警告が表示された。
【微量の潜流波形共振異常を検出】
【異常値:0.0002%(基準内)】
澄川は黙って睫毛を伏せ、指先でその通知を静かに保存した。
—
春は、シールド都市の中でゆっくりと花開いていく。
バルコニーに並んだ小さな盆栽たちは、粒子流の中で静かに呼吸していた。
一枚一枚の銀白の細葉が、何も語らず、ただ——
涟漪していた。
—
三日後、気温はさらに上がった。
午後の陽射しは、潜流シールドの表面に淡い弧状の涟漪を描き、街のあちこちでは人々の歩みによって微細な粒子の波が立っていた。
心流涟漪広場。若者たちは三々五々と緑陰に腰を下ろし、それぞれのLightStream“心動パネル”を見せ合っていた。足元には銀白の盆栽。潜流粒子が枝葉に沿ってゆるやかに流れ、ほのかな光を灯している。
階段に腰を下ろしていたショートカットの少女は、感知器を指で素早く滑らせ、抑えきれない興奮を顔に浮かべていた。
今日彼女が投稿した“涟漪心動ログ”は:
「雨の日のミルクティー、大切な人と一緒に」
わずか数時間で、心動のリアクション数は三千を突破。
いいねの赤い通知音が何度も感知器から鳴り響くたびに、彼女の胸の奥には淡い涟漪の跳ね返りが走り、まるで春の波が打ち寄せてくるようだった。
その少し先——
潜流校服を着た男子が広場の柵によりかかりながら、感知器に表示される“心動リアクションなし”という表示をただ見つめていた。
唇を噛みしめ、指先が白くなるほど握り締めながら、彼は自分が投稿したばかりの涟漪をじっと見つめていた。
「ひとりでも楽しいよ。」
——返信は、ひとつもなかった。
彼の呼吸は浅くなり、シールドの内側には微細な曲率の陥没が現れはじめていた。
—
屋台街の隅。
化粧を完璧に決めた女子が、光の入り方を何度も調整しながら自撮りを繰り返していた。
ベストな角度を選び、こんな涟漪を投稿する:
「ときめきの中で咲く。」
周囲の潜流粒子は彼女のまわりで軽く跳ね、即座に多数のいいねとシェアを引き寄せた。
彼女は微笑みながらも、数分おきにパネルを素早くスクロールし、最新の心動データを確認する。
その目には、わずかな焦燥の色。
ひとつの“いいね”は呼吸、一件の“シェア”は心拍のように——
彼女の感情と潜流は、もはや切り離せなかった。
—
都市シールド局・南エリアの一角。
とある普通のオフィスで、中年の会社員がぼんやりと感知器を見つめていた。
彼がLightStreamに登録したのは、ほんの気まぐれだった。
庭に転がっていた涟漪草をそのまま盆栽として育てただけ。
けれど——最初の短い涟漪が、思いがけず数十件の若者たちからリアクションを得た瞬間——
彼の指先が、かすかに震えた。
それからというもの、彼は夜通し十数件の投稿を編集し直し、
あの“見られ、認められ、賞賛される”感覚を、何とかもう一度得ようとした。
——気づけば、心動リアクションが増えるたびに、彼の潜流核はわずかに、しかし確実に膨張していた。
—
シールド商店街。
カップル用のジャケットを着た二人の若者が、並んで歩いていた。
それぞれが感知器を見つめ、足元の盆栽では涟漪の鎖が細く絡まり合い、まるで結び目を探しているようだった。
ふたりは互いにいいねを送り合い、シェアし合い、
「一緒にいる」という存在の証明を繰り返していた。
——だが。
彼女の方が彼よりも多くの“心動”を得たとき、
彼女はそっと顔を逸らし、自分の盆栽が光を放つ様子を眺めながら、目に見えぬ悦びと焦りの混ざった影を落とした。
彼は気づいていなかった。
次の投稿を必死に編集していた——
「君に出会えた、それが一番の幸運だった。」
—
都市シールドの整流系統は、依然として正常を維持していた。
潜流探針は警報を発することなく、粒子の流れもすべて基準値内。
人々は歩き、呼吸し、涟漪を投稿し、いいねを押し、リツイートし、盆栽をアップする。
ひとつの心拍、ひとつのタップが、
静かに水面へと石を投げるように、涟漪の波紋を広げていく。
都市のシールドの下——
数万と並ぶ銀白の小さな盆栽たちは、静かに呼吸していた。
葉は細く、淡い光をたたえ、粒子の流れに揺れながら、
それぞれが小さな潜流の誘餌となって、
——次なる“ときめきの波”を待っていた。
誰も気づかなかった。
その柔らかで小さな裂け目は、
すべての“いいね”と、“心動リアクション”の中に——
ゆっくりと、確かに口を開き始めていた。
—
春の午後。都市のシールド光は柔らかく、
広場の「心流展示ウォール」の前では、銀白の粒子がゆるやかに流れ、すべてが静かで平穏に見えた。
林挽音は、その展示ウォールの片隅、小さな石段に腰を下ろしていた。
感知器を手に持ち、角度を調整しながら、ようやく決めた一枚の写真を撮影した。
オフショルダーの服。細い首筋。
シールドの光に照らされる鎖骨が、淡く柔らかく輝いていた。
彼女は少し控えめに、少し不器用に笑っていた。
文言はこうだ:
「春風と、抱きしめたい人と」
彼女は深く息を吸い込み、それを投稿した。
感知器が震え、「心動涟漪」がLightStreamの共振ウォールにアップロードされたことを通知した。
最初は順調だった。
“心動リアクション”は一件ずつ伸びていき、彼女の涟漪盆栽——小さな銀葉がそのたびにわずかに揺れ、まるで小さな心臓の鼓動のように動いた。
林挽音は膝を抱えて目を細め、数字がどんどん伸びていくのを見ていた。
通知音が鳴るたびに、彼女の心拍もわずかに早くなる。
——しかし、すぐにリアクションは鈍り始めた。
新たな“いいね”はぱらぱらとしか来ない。
彼女は顔をしかめ、何度も感知器をリロードした。
毎回の更新で、盆栽の銀葉は少しずつ光を失っていくように見えた。
そして、ついに新たな通知が届いた。
それは“心動”ではなかった。
短く冷たいコメント——
「またかよ、目立ちたいだけだろ」
「やりすぎてて引くわ」
林挽音は、手の指が感知器の上で止まり、目を見開いた。
そのコメントたちは、潜流の中に仕掛けられた見えない釣り針のように——
涟漪の奥深くを引っかけ、彼女の感情をずるずると引きずり下ろしていった。
彼女は息を乱しながら、投稿を削除し、もっと露出度の高い写真を選び直した。
肩をより大きく出し、笑顔を作り直し、再投稿。
指先が感知器の画面を何度も滑る。まるで助けを求めるように。
しかし——今度は、もっと反応がなかった。
わずかないいね。
風に吹かれて今にも消えそうな、火の粉のようだった。
彼女の盆栽はかすかに震え、粒子スキャナが警告を弾き出した:
【情緒涟漪異常振動】
【シールド安定度:78%に低下】
林挽音は気づかなかった。
彼女の視線は虚ろで、感知器を抱く指は白くなるほど強く握り締めていた。
もっと反応がほしい。
もっと注目されたい。
好きになってほしい。
承認されたい——
それでも、“心動数”は変わらなかった。
コメント欄は、まるで死海のように沈黙していた。
ただ一つ、冷たい一文が滑り込んできた。
「せいぜい、その程度だね」
林挽音の呼吸が乱れた。
シールドの粒子は逆流をはじめ、潜流チェーンは断続的に跳ねていた。
彼女は突然立ち上がり、感知器を握ったまま展示ウォールへと駆け出した。
そして——
感知器を、壁に向かって叩きつけた。
割れたガラスのような音が広場に響き渡った。
潜流の破片が飛び散り、局所シールドが揺らぎ、周囲の人々は悲鳴を上げて後退した。
誰かが彼女を止めようとした——だが、もう遅かった。
林挽音は砕けた感知器を抱きしめたまま、展示エリアの柵まで後退していた。
風が髪を乱し、手にぶら下げた銀葉盆栽がかすかに音を立てた。
彼女は都市のシールドの下、潜流の光帯を見下ろした。
あと一歩先は、透明で——致命的な高さ。
彼女には聞こえた気がした。
幾千もの“いいね通知”が、高空から砕け落ちてくる音。
—
念安と澄川が現場に駆けつけたとき、
彼女の姿は、すでに柵の外、風の中に立っていた。
一度も振り返らず——手を離した。
銀葉の盆栽が先に落ち、シールド光の中で、
ひとすじの優雅で、悲しい軌跡を描いた。
そのすぐ後ろを追って——林挽音が跳んだ。
叫びも、抵抗もなかった。
ただ静かに。
まるで、断ち切れた涟漪が自然に深海へ滑り込むように。
都市シールドは緊急バッファを起動したが——
一歩遅かった。
粒子の壁が圧し潰され、展示エリア全体に警報が鳴り響く。
潜流は細かな閃光となって、空中に散った。
人々は数秒間の沈黙ののち、一斉に悲鳴を上げて逃げ出した。
—
念安はその場から動けなかった。
感知器には真っ赤なアラートが点滅している。
澄川は彼女の手首をつかみ、低く言った。
「……見るな。」
だが念安は動かなかった。
ただ、涟漪の破片を見つめていた。瞬きもせず。
彼女は、初めてはっきりと悟った。
裂け目は、敵が作るものじゃない。
——わたしたち自身が、“心動”と“承認”のあいだで、少しずつ割れていくものなんだ。
—
救助活動が終了した広場には、
砕けた盆栽の破片が静かに散乱していた。
夕方の風が、シールドの端をすり抜ける。
その風には、潜流の微細な波動が混じり、まるでまだ醒めきらない夢の残響のように、都市の空気に漂っていた。
念安は、銀葉涟漪草を抱えながら歩いていた。
足取りは、どこかふわふわとしていて不安定だった。
盆栽は小さく揺れ、葉が彼女の手の甲を掠める。
そこには、ほんのかすかに甘くて、けれど心の奥を締めつけるような粒子の香りが漂っていた。
澄川はその隣に付き添うように歩いていた。
地面を見つめ、まるで何の警戒もしていないように見える。
けれど念安は、ふと彼の方を見た。
高空の潜流の隙間から、月光が差し込む。
それは彼の乱れた黒髪に落ち、柔らかくも鋭い線を描いていた。
彼の横顔は、冷たいくらいに静かだった。
その輪郭は粒子で彫り出した図面のように整っていて、目の奥には、海底のような深い静寂が広がっていた。
広場の果てにたどり着いた時——
念安は、ふと立ち止まった。
澄川が彼女の方を振り返る。
彼女は盆栽を胸に抱いたまま、顔を上げた。
——その瞬間、彼女はほとんど理解してしまった。
自分は今、歩いているのではない。
涟漪に「押し出されて」いるのだ。
彼女は澄川の目を見つめた。
その淡い灰色の瞳には月光が降り注ぎ、睫毛の影がそっと頬に落ちていた。
彼はそこに立っていた。
ポケットに手を入れ、無造作で、けれどまるで幻のように美しかった。
心臓が、早鐘のように脈打っていた。
シールド内で潜流粒子がぶつかり、感知器の限界値に達しそうな勢いで曲率が跳ね上がっていく。
念安は気づいた。
これは——ただの“心動”じゃない。
何かが、潜流のレイヤーで、
彼女の情緒チェーンを拡大し、推進していた。
彼女の手は自然に力を込めた。
涟漪草の葉が彼女の掌で震える。
澄川が一歩、静かに彼女に近づいた。
月光がその肩をなぞるように滑り落ちていき、彼の姿を幻想的な影に包んだ。
「念安。」
彼はそっと、彼女の名を呼んだ。
その声は、風が潜流の涟漪を撫でるように、静かだった。
その一言で——
念安は、彼を抱きつきたくなった。
盆栽を投げ捨てて、この冷たくも温かい胸に飛び込みたかった。
彼の腕の中で、溺れてしまってもいいと思った。
彼女の感知器は、警報を上げていた。
潜流粒子の逆旋が進み、
感知値はすでに設定された曲率閾値を超えかけている。
念安は息を切らし、目が熱くなっていた。
理性は、今にも破れてしまいそうな薄膜のようだった。
その時——
澄川が、そっと手を伸ばした。
彼は彼女を抱き寄せたわけではない。
でも、彼の手はまっすぐに、彼女の胸元にある盆栽を、そっと押さえた。
その接触で、微細な潜流粒子の震動が、
二人の間をするすると滑っていく。
澄川は目を伏せ、低い声で言った。
「——それは、お前の心じゃない。」
「それが、お前を押してるんだ。」
念安はその場に固まった。
彼女の手は、盆栽を抱えたまま、緩み、また締まった。
指先が感知器の縁を刺すように圧していた。
スキャンが自動で走った。
【潜流波動:基準曲率を16%超過】
彼女は顔を上げた。
目の前にあるのは——
澄川のあの灰青の瞳。
冷たく、静かで、けれど確かに彼女を“見ている”その目。
——まるで、今にも脱線しそうな涟漪を、釘付けにしているようだった。
そのとき念安は、ようやく理解した。
——これは、好きすぎたからじゃない。
——感情が本物だからじゃない。
潜流が、誘導していたのだ。
それは、彼女の気持ちを“報酬”で包み、拡大し、
制御できなくなるまで滑らせていた。
まるで銀葉涟漪草が粒子の風に震えるように。
まるで、心流共振ウォールのいいねやシェアが、人々の感情を持ち上げるように。
それは、最初から設計された「滑り落ちる構造」だった。
澄川は手を引き、彼女の盆栽を静かに正した。
その声は、ため息に近かった。
「——涟漪を収めろ。飲まれんな。」
念安は強く唇を噛み、
目を閉じ、護盾感知器の設定を手動で一つずつ切り替えた。
最も原始的なモードへ。
最も浅い粒子層へ。
自分自身を、シールドの底へと引き戻していく。
涟漪は、少しずつ静かになっていった。
世界は再び、微かな光と微かな冷たさを取り戻していた。
彼女の腕の中には、ただ——
静かに呼吸する銀葉涟漪草。
まるで、それ自体が心臓であるかのように。
そしてまた、次の“滑落”を待っているかのように。
—
夜風がゆっくりと吹き抜け、
潜流シールドがわずかに震えた。
それは、限界まで張り詰めた透明な薄膜が、
静かに警告しているようだった。
念安は広場の柵に腰を下ろしていた。
膝を抱え、銀葉涟漪草を胸に抱き、身体を小さく丸めている。
盆栽は静かに彼女の腕の中に収まり、
葉は微風に揺れていた。
夜の粒子の光が、かすかに灯っていた。
澄川はその前にしゃがみ込み、
片手で柵に寄りかかり、もう一方の手で顎を支え、静かに彼女を見つめていた。
誰も言葉を発さない。
遠くの警戒区の光が淡く点滅し、
その向こう、都市の高空では、まだ潜流の残片が流れ続けていた。
しばらくして——
念安がぽつりと口を開いた。
「澄川……あのさ……」
「覚えてる?紀先生の家の……あの盆栽のこと。」
澄川は瞬きを一つした。
指先が柵をコツコツと二度叩く。
まるで、記憶の中の潜流チェーンをたどっているかのように。
「……ああ、覚えてる。」
あの日、彼らは初めて「盆栽による涟漪異常」を察知した。
だが、全ての探針システムは——正常を示していた。
その前に、紀先生は失控した。
護盾の裂け目は、音もなく滑り出し、潜流は静かに逆流した。
念安は、銀葉の端にそっと指を這わせた。
葉は柔らかく、粒子の流れは均整が取れていて、表面上は完璧だった。
でも、彼女には分かっていた。
最も深い感知層で——
そこには、かすかに虚構じみた「引かれる感覚」が存在していた。
水面下の釣り針のように。
外からは見えず、けれど確かにそこにある“引力”。
「当時は、紀先生の“個人問題”だと思ってた。」
「でも……もしかしたら、違ったのかもしれない。」
彼女は顔を上げた。
その瞳には、かすかな光が宿っていた。
「もしかして——あの植物たちそのものが、
感情チェーンを誘導しはじめていたんじゃないかな。」
澄川はゆっくりと目を細めた。
彼は彼女の腕の中から盆栽を取り、感知器を操作しながら
一時的な曲率スキャンプログラムを立ち上げた。
画面に、粒子の流れが浮かび上がる。
潜流涟漪は標準範囲。
浄化指数も優秀。
——だが。
深層の周波スキャンには、一本だけ細く、沈んだラインが現れていた。
「引き込み曲率」
深海の底に圧し込められた裂け目のような曲線だった。
澄川は画面を念安に見せながら、低く告げた。
「情緒の乱れでもない。シールドの故障でもない。」
「これは……“それら”が、俺たちを滑らせてるんだ。」
念安はそのかすかな線をじっと見つめた。
その瞬間、心臓がぐっと跳ねた。
澄川は感知板を操作し、いくつかの事故データを呼び出す。
•蘇婉儀事件:嫉妬と恐怖の増幅
•林挽音事件:自己評価の崩壊、羞恥と承認欲の増幅
•心動広場群像:自己認識、比較、焦燥、狂喜の増幅
違う人間、違う感情。
でも、共通しているのは——
外部の侵入じゃない。
彼ら自身の感情が、潜流の中で拡大され、暴走したことだった。
—
念安は盆栽をぎゅっと抱きしめながら、かすかに呟いた。
「本来、シールドは感情の過波動を抑えるためのものだった……」
「けど今じゃ、それらがシールドの中で、増殖してるんだ……」
その声は、潜流の塵に紛れるくらいに小さくて静かだった。
澄川は何も言わなかった。
ただ彼女の隣に腰を下ろし、腕を柵に預けた。
月光が彼の頬に落ちていた。
その横顔は鋭く、それでいてどこか優しかった。
彼の目の奥には、深い深い海が広がっていた。
彼は伏し目がちに、まるで深海から発せられる声のように、低く言った。
「問題は、SNSの仕組みだけじゃない。」
「環境だ。粒子だ。——植えられた“それら”だ。」
—
念安は、再び自分の腕の中にある盆栽を見下ろした。
小さな鉢の中。銀白の葉。
潜流粒子は静かに流れ、何の問題もなさそうに見える。
でも彼女には分かっていた。
これはただの植物じゃない。
これは——
人間の心の潜流の一番深いところに埋め込まれた、“種”なのだ。
静かに芽を出し、
静かに根を張り、
静かに誘う。
滑落するその日を——
ただ、静かに、待っている。
—




