第15章 安らぎの名で撒かれたものは、毒ではなかったか?
第六層シールド都市。
シールド広場は、今日ひときわ賑わっていた。春季の潜流職務募集市が幕を開けたのだ。
念安と澄川は並んで人混みの端を歩いていく。足元の石畳は磨かれて光り、頭上から降りそそぐシールド光が、すべての影を細く長く伸ばしていた。
「人が多いね。」
念安は目を細め、片手で頭上をかばいながら、道端に立つ募集案内板を軽く蹴った。
今日は淡いグレーの実習制服を着ていて、襟元には学校支給の感知バッジが留められている。シールドの光を受けて、その姿は柔らかく明るく映っていた。
澄川はその隣を気怠そうに歩いている。両手をポケットに突っ込み、制服のボタンは留めず、上着の裾は風に揺れ、どこか冷たく気だるげな印象を漂わせている。
彼はうつむき加減で、時折感知ペンの先で指を打ち、まるでシールドの流れを測っているかのようだった。
念安は彼をちらりと見て、つま先立ちで近づき、小声で尋ねた。
「感知器、何か異常ある?」
澄川は目を細めて周囲を見渡し、だるそうに答える。
「基準内。流場にやや滞留があるけど、まだ正常の範囲だ。」
念安はこくんと頷き、目を輝かせた。彼女はこういう、人が多くて賑やかで、陽の光の下に不穏なことが起きない日が何より好きだった。
広場の中央には巨大な透明シールドのテントが張られている。その中にはさまざまな職業ガイド台が並んでいた。潜流整備士、シールド調整士、同期調律員……
どのブースにも長蛇の列ができていた。
さらに、潜流リラクゼーションエリアも設けられており、小型の浄化植物が整然と並んでいる——
白銀灯芯草、潜流安神藤、情緒安定苔。
シールド空気の中に、清掃剤の香りや陽にあたったシールド膜の暖かさとともに、微かな植物の香りがふんわりと漂っていた。
—
「ちょっと試してみる?」
念安はくすくす笑いながら、潜流リラクゼーションエリアを指さした。
澄川は眉をひそめた。
「社会の洗脳体験か?」
念安はむっと口を尖らせる。
「そんな大げさな……ただリラックスするだけだよ。」
そう言いながら、すでに彼の腕を引いて歩き出していた。二人は行列の脇を通り抜け、心流植物ゾーンの傍にある小さなスペースに腰を下ろした。
植物は特に涟漪の形に植えられており、輪が連なり、中心からゆるやかに広がっている。
シールドのそよ風が通り抜け、細かな葉がふるふると揺れて、かすかな柔らかな音を奏でていた。
澄川はシールド光の柱にもたれ、目を閉じて日を浴びている。
念安は膝を抱えながら、そっと彼の横顔を盗み見た。陽光がやや乱れた前髪に反射し、銀白の光の輪が浮かぶ。
彼の顔立ちは清らかで彫りが深く、都市の喧騒から切り離されたような静けさをその身にまとっていた。
念安の心臓は一拍遅れて鼓動した。
——この瞬間に時が止まればいいのに。
潜流の異常も、シールドの裂け目もない。
ただ彼と自分と、そして静かに呼吸するこの緑だけがあれば。
—
彼女が気づかぬうちに——
シールドの最深層で、ごくごく微細な潜流周波の共振が、静かに植物群の間をすり抜けていた。
それは、まだ覚めきらない夢のようだった。
—
シールド広場の端にある面接ホール。
念安と澄川は人の波に紛れながら、ゆっくりと中へ押し入った。シールドのゲート前には淡い青の粒子スキャナーがずらりと並び、それぞれの潜流同期度と情緒安定率を自動測定していた。
場内には柔らかな旋律が繰り返し流れている。ぬるま湯に包まれるような空気が、眠気を誘いつつ、どこか緊張を浮かび上がらせる。
念安は面接ホールの構造をざっと見渡した。
中央には巨大な潜流浄化装置が据えられ、透明なパイプの中を安定曲率の粒子液がゆるやかに循環している。周囲には改良型の潜流植物が配置されていた。
白銀灯芯草、心語涟漪藤、静流苔。
それぞれの植物が静かに“呼吸”しながら、目に見えぬほどの潜流鎮静波を放っている。
空気は過剰なほど清らかで、ほんのり甘く、まるでシールドを校正した後に再現された春の匂いだった。
「人が……すごいね……」
念安は小さく呟き、感知器をぎゅっと抱きしめた。
澄川は隣で気だるげに立っている。片手はポケットに、もう片方で感知ペンを退屈そうに叩いていた。制服のボタンは二つ開けたまま、上着は肩に軽くかけられている。その無造作な姿が、人混みの中でもひときわ冷たく際立っていた。
念安は彼をちらりと見て、内心こっそり思う。
——こんな人、就職面接なんて似合わない。
顔で食ってけるレベルじゃない、もっと上、もう芸能人すら超えてる。
そのとき、アナウンスが番号を呼び上げた。
二人は実習班ごとに「C組」としてまとめられ、周囲の人々と共に面接分室へと案内された。
分室は広く、天井には半開放のシールド光幕があり、うっすらと潜流粒子の流れが見える。
各組は十人ずつ、円になって着席し、それぞれの前に感知記録器が設置されていた。
面接官は潜流部門の人事調整官で、標準的なシールド制服をまとい、声は穏やかだが、その目つきは鋭い。
「リラックスしてね」
調整官は微笑んだ。
「私たちが見たいのは、皆さんの本来の潜流状態です。」
最初は、何の問題もなかった。
一人ずつ立ち上がり、自己紹介をし、潜流同期やシールド維持に関する基礎的な質問に答えていく。
手のひらに汗をにじませる者、口元を噛みながら用意した答えを小声で唱える者——さまざまだが、概ね落ち着いていた。
念安は感知器を抱えながら、こっそり感知スキャンを起動した。
すると——
数名の周囲に漂う潜流粒子の流れが、どこか奇妙だった。
激しく乱れているのではなく、わずかに滞っている。まるで、何か柔らかな網に引っかかっているような……
澄川の指が、感知ペンをゆっくり叩き続けていた。
彼の視線はぼんやりしているようで、念安には分かる。
——もう、彼も涟漪の異常に気づいている。
「異常ある?」
念安はささやいた。
澄川はゆったりと答えた。
「ちょっとした偏流。大きくはないけど……流れの方向が変だ。」
そのとき、広場の向こうから低いうなりが聞こえた。
念安がそちらを振り返ると——
群衆の中に、シールド勤務服を着た邵昊遠が数名の副官を連れて巡回していた。歩調は安定しており、鋭い眼差しで各グループを見渡している。
そのさらに向こうには、劉竹文の姿もあった。淡い制服に感知器を腰に提げ、いつものようにどこか気弱そうな笑顔を浮かべていた。
彼の名札にはこう書かれていた:
【情緒波動緊急対応顧問(臨時)】
彼は群衆の端に立ち、感知分析の書類を抱えながら、淡々と何かを記録していた。
そして、再びアナウンスが流れる。
次の面接が始まる。
天井では潜流粒子が渦を巻き、地面では植物の涟漪がゆっくりと動き続けていた。
—
柔らかな音楽が、今もなおアナウンスから繰り返し流れていた。
ホールの上空には穏やかなシールド光が灯り、すべてが正常に見える。
——けれど、空気の感触が変わった。
それはごくわずか、ぬるま湯の底に逆流が生まれたような、微細で、しかし抗いがたい流れだった。
念安は感知器を抱きながら、澄川と共にC組指定の席に座っていた。
彼らの番が来た。
はじめのうちは、誰もが礼儀正しく答えていた。自己紹介、潜流同期の経験、シールドに関する基礎知識……
声が震える者、膝を握る手に力が入る者、様々だが、全体としては穏やかだった。
——だが、ある男子学生が立ち上がり、質問に答えた後、唐突に一言付け加えた。
「俺なら、訓練キャンプで他人の足を引っ張るようなことはしない。」
その瞬間、空気がぴたりと止まった。
本来であれば拍手が起こるはずのタイミングで、周囲の顔が微妙に凍りつく。
念安の胸がきゅっと縮まり、思わず澄川の方を見る。
彼は動かない。けれど、感知ペンを叩く指のリズムが、わずかに速まっていた。
—
次の人間が立ち上がった。
きちんとした制服に、甘く整った声の女子学生。質問には丁寧に答えたが、最後にわざとらしくこう付け加えた。
「コネでここに入り込んだ人と比べて、私はちゃんと潜流の成績で来たんです。」
笑みを浮かべたまま、その瞳はもう氷のようだった。
グループ内では誰かが歯を噛みしめ、誰かが顔を赤くして俯いていた。
—
空気の中に、奇妙な「匂い」が立ち込める。
——いや、それは匂いではない。潜流粒子が局所的に逆旋し始めていたのだ。
まるで、目に見えない何かが空気を引っ張り、捻じっているような感触。
—
念安の背中に、うっすらと汗がにじんだ。
彼女の感知はすでに察知していた:群衆の中に漂う涟漪が、自然に流れることをやめ、一つ一つが張り詰めた弦のように引き絞られている。
相互に圧し合い、抵抗し、引き裂こうとしていた。
笑顔がぎこちなくなり、拍手はまばらに。
立ち上がる者たちの視線には、微かな敵意が宿っていた。
狩りのような。
競争のような。
——隣を踏みつけにしたくなる、本能的な欲望のような。
澄川が、ふと動いた。
そっと手を伸ばし、念安の手の甲に触れると、低く告げた。
「感知を絞れ。自分を守れ。」
念安ははっとして、すぐに自分の感知領域を縮小した。
手のひらのシールド探針が、ぴくりと反応して、短く警告音を発した。
【局所潜流圧力上昇。リスクレベル:低。】
システムは“正常”だと告げている。——けれど彼女には分かっていた。
もう、ここは“正常”ではない。
—
アナウンスは変わらず流れ続ける。
「次のグループは、答弁の準備をお願いいたします。リラックスして臨んでください。」
その声は、まるで催眠のような柔らかさを帯びていた。
だが群衆の中では、感情の裂け目が静かに、確実に開いていた。
念安の胸に、不安が膨らんでいく。
けれど、視線の先には——劉先生と邵少将が、静かに群衆の端に立っていた。
感知板を抱え、微笑みながらも、目は鋭く。
涟漪の異常な跳動を示す者を一人ひとり見逃さず、彼らは黙って学生たちを見守っていた。
—
音楽は、まだ流れていた。
ホールの上空には穏やかなシールド光が満ちていた。まるで無色の雨が降り注いだ後のように、空気は澄み切って透明だった。
群衆は、緊張の中で待機していた。
すべての笑顔、すべてのお辞儀、すべての自己紹介が——
裂けかけた涟漪の縁をなぞるように、危うく、それでもなお平静を保とうとしていた。
—
このグループの最後の答弁者は——誰の目にも一瞬で印象を残す、あの女生徒だった。
蘇婉儀。
清潔な制服、きりっとしたポニーテール、優しく上品な表情。
言葉を発する時、口元に浮かぶ微笑は、まるで春のシールド光のように柔らかかった。
彼女の自己紹介は、声も明瞭で柔らかく、視線には自信がありながらも、決して高圧的ではない。
思わず拍手したくなるような、そんな佇まいだった。
澄川は目を細めて彼女を一瞥し、低く呟いた。
「生まれながらの、人々の涟漪焦点だな。」
念安はこくりとうなずき、目には憧れの色が浮かぶ。
——さすがは誇り高き先輩。いつか自分も、あのように自信に満ちて、輝けるように。
調整官が感知板を確認し、やがて顔を上げて告げた。
「蘇婉儀。主城区シールド調整局主管、内定です。」
やはり最優秀の先輩。一番難しい職務を見事に射止めた!
拍手が起こる。これまでで最も大きな拍手だった。
蘇婉儀は静かに一礼し、口元の微笑みは、夜空の星のようにきらめいていた。
彼女は講壇を下りるために、くるりと振り返る。
その瞬間——
曖昧な黒い影が、背後から突然襲いかかった。
ほとんど前触れなどなかった。
澄川が反射的に立ち上がり、念安が驚きに目を見張る。
そして最初に駆け出したのは、秩序を監視していた劉竹文だった。
彼は感知板を放り投げ、駆け出すように台に飛び込み、叫び声をあげる。
「蘇婉儀!危ない!!」
人々は悲鳴を上げ、後ずさる者もいた。反応は一瞬遅れた。
だが、影はすでに彼女の背後に迫っていた。
——襲撃者は、瘦せた青年だった。もともと面接を受けていた一人。
その顔は狂気で歪み、血走った目と、食いしばる歯の音が空気を裂いていた。
彼は蘇婉儀の首に噛みついた。
肉を裂く音がシールド音波を突き破り、鮮血が潜流のようにほとばしった。
彼女は短い悲鳴を上げ、階段下へと崩れ落ちた。
劉竹文が彼女を抱きかかえ、身を挺してその上半身を覆う。止涟脈に手を当て、必死の表情で出血を抑える。
一方、襲撃者は台の上に立ち、口元には血を滲ませながらも、視線は蘇婉儀を見据え、叫び声をあげる。
「なぜ彼女なんだ?!なぜまた彼女なんだよ!?」
「俺はこんなに頑張ったのに……なんで、なんでいつもこうなんだ!?」
「彼女は全部持ってる!完璧だ!ずるいだろ!!!」
その叫びがシールドドームに反響し、粒子の奔流とともに、空気全体を震わせる。
人々は完全に混乱し、押し合い、逃げ惑い、ある者はその場で立ち尽くす。
シールド粒子が急速に旋回し、地面の涟漪はひび割れた光となって走る。
そして——
ついに、アラートが鳴り響いた。
【警告!警告!局所潜流チェーンが断裂!】
【シールド安定度:78%に低下!】
澄川が念安を引き寄せ、片手で彼女を守り、もう片手でシールドを展開する。
その背後で、崩れ落ちた蘇婉儀を抱いた劉先生が、冷たい顔で周囲を睨み、額には汗が流れ落ちていた。
彼の姿は、嵐の中で崩れかけた壁となって、ただ一つの静かな場を守ろうとしていた——
—
涟漪が壊れ、都市の“息”が、裂け始める。
—
事故発生から十分が経過した。
救助用シールドが展開され、アナウンスが柔らかく繰り返される。
「落ち着いてください。指示に従って、順に避難してください。」
——けれど、その声はまるでビニール膜のように、指先一つで破れてしまいそうなほど薄く、脆い。
念安と澄川は群衆に紛れながら、C組の一員として面接ホールを退出した。
シールド広場は依然として明るい。春の植物たちは風に揺れ、まるで何事もなかったかのように静かだった。
——だが、空気の“気配”だけが、確かに壊れていた。
彼らがちょうど開放エリアに差し掛かった時。
一人の男子が突然しゃがみ込み、両手で頭を抱え、裂けるような声で叫んだ。
「俺、狂いたくない!!あんなふうになりたくない!!!」
彼は叫びながら、自らの感知制服を引き裂き、皮膚に赤い傷を刻みつけていった。
誰も止めなかった。
さらに多くの者が、四方八方に散って逃げ始めた。まるで驚いた鳥たちの群れのように。
少し離れた場所では、一人の女子が地面に膝をつき、感知器を抱えたまま、虚ろな目で笑っていた。
「……はは……違う……違うの……私じゃない……
私、悪くない、私は一番清潔……
あれが悪いのよ、あれが、あれが!!!」
彼女は笑いながら、涙をぽろぽろと零していた。
その雫が涟漪の上に落ちるたび、淡く歪んだ小さな波紋が広がった。
さらに奥では——
二人の男子が互いの制服を掴み、怒鳴り合いながら取っ組み合っていた。
「お前は感染してる!さっき暴れたの、俺見たんだ!!」
「ふざけるな!お前こそだろ!俺は大丈夫だ!!」
潜流の感知回路が二人の間で崩壊し、互いの周囲に乱流のような断裂痕を生んでいた。
誰かが、裸足でシールドの外縁に向かって走り出す。
「俺は断ち切る!もうつながりたくない!
汚染される前に断つんだ!!きれいになりたい!
清潔!清潔!!清潔ぅううう!!!!」
彼の身体を包んでいた潜流シールドが、光の破片のように砕け散った。
——それは、まるで自ら死を選ぶような断絶だった。
念安はその光景を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
耳鳴りがする。感知器のスクリーンには警告が点滅している。
【局所潜流破損率:22%】
【シールド安定度:68%】
澄川が彼女の手を強く握り、声を低くして、ほとんど叱るように言った。
「念安!感知を引っ込めろ!巻き込まれるな!」
念安は歯を食いしばりながら、自分の感知領域を必死に縮めた。
目の前で起きている光景は、あまりにも遅く、あまりにも止めようがない災害のようだった。
次々と壊れていく。
若き彼らが抱える最も原始的な恐怖、嫉妬、羞恥、そして——自らへの嫌悪が、
シールドの下で一片一片の涟漪となり、静かに、けれど確かに崩壊していく。
少し先では、一人の男が撤収通路の脇に立ち、険しい顔で周囲を見つめていた。
彼の手の中の潜流記録器は、砕けていく一つ一つの潜流を記録している。
その動きは冷静で、速やかだった。
——ただ、一瞬だけ。
その目の奥に、深くて深い、影のような色が走った。
まるで、海底に掠めていく何かの“気配”のように。
風が、シールドの隙間を吹き抜けていく。
緑の植物がかすかに揺れた。空気には、血と汗と崩壊の匂い、
——それから、甘すぎて吐き気を誘うような植物の香りが、淡く漂っていた。
—
夜はすっかり更けていた。
都市シールドの最外層——第三技術区の休憩所。
ここは軍部・校部・指導顧問向けに開放された半プライベートな会談スペースで、シールド光は極端に落とされ、潜流粒子は最小限に抑えられていた。
植物も、“情緒最適化因子”も一切ない。
——この都市で、数少ない「本当の静寂」が存在する場所だった。
—
長テーブルの上には、印刷されたばかりの潜流異常報告書が広げられていた。
紙の端がわずかに反っており、まだ残る熱と、部屋に漂う沈黙が絡み合って、空気はまるで凝り固まった潜流の水面のようだった。
念安は感知器を胸に抱き、ソファの隅に座っていた。背筋は真っ直ぐ、指の節が少し白くなるほど力が入っている。
澄川はその隣で、片手で顎を支え、もう片方の手で感知ペンをゆるく回していた。視線は報告書の上を、気怠げに滑っている。
邵昊遠は光板の傍に立ち、まだ現場用の指揮外套を着たまま、疲労を滲ませながらも頭は冴えていた。
劉竹文はその隣に座っている。淡い色の制服の袖には、まだ少しだけ血の跡が残っていた。彼は俯きながら、小さなノートに一文字ずつ丁寧に何かを書きつけていた。
「現時点での定義としては——」
邵昊遠は全員を一瞥し、印刷物をテーブルの中央へ押し出した。
「軍部上層の意向としては、
『多重情緒の重なりによる群集潜流波動事件』として処理したいらしい。」
「つまり——
責任は問わず、外部にも伏せ、技術調査を早急に終わらせる方向で。」
念安は唇を噛みしめ、低く呟いた。
「でも……これは普通の涟漪感染じゃない……
何かこう……“引きずり出された”感じがして……」
澄川は「うん」と軽く相槌を打ち、回していた感知ペンをふと止めた。
「誰かの感情の“点”を、無理やり引っかけたような感覚だった。
あのホール全体が、一つの道筋に滑っていく感じ。」
劉竹文が頷き、顔を上げる。
「同意します。情緒行動学の用語で言えば、
あの現象は“鏡向涟漪焦慮”と定義できます。」
その口調は穏やかで、まるで授業をしているようだった。
「閉鎖環境で強い感情が放出されると、basin核は通常“同期”か“回避”を選びます。
でも、回避に失敗した場合、発生するのが——“連鎖滑落”です。」
念安は頷きながらも、まだ何かを探しているような表情を浮かべていた。
劉竹文は報告書の二枚目を開いた。
「それから——浄化植物システムです。」
「事故現場の植物被覆率は95%。調整因子は最も標準的な鎮静モードだったにもかかわらず、
事故の四時間前に、浄化粒子波形が二度、わずかに上昇しています。」
少し間を置き、彼は言った。
「まるで……何かに“軽く干渉”されたような波形でした。」
邵昊遠がその言葉を引き取る。顔は冷静なままだった。
「最近の浄化装置には、“情緒安定の強化機能”が付加されている。
basin核が破損しかけている者を、再び整合させるための設計だ。」
彼は少し言い淀みながらも、ついに口を開いた。
「もしかしたら……
あの時の植物調整パラメータが——“効きすぎた”のかもしれない。」
苦笑を漏らし、記録のページを一つめくる。
「設計部の元同僚に聞いてみよう。パラメータの収束が甘かった可能性がある。」
澄川は彼を見たが、何も言わなかった。
彼の指先は再び感知ペンを静かに叩きはじめる。
念安は感知器を胸に抱えたまま、背中をソファに預け、視線を報告書と澄川の横顔のあいだでさまよわせていた。
「つまり、今のところ……」
劉竹文はテーブルに手をつき、全員を見渡した。
「仮説としては——
“情緒波動”+“高圧環境”+“浄化強化フィードバック”が、
“集団潜流連鎖滑落”を引き起こした。」
「ただ……足りないんです。」
彼の声が、わずかに低くなる。
「最初の“フック”が。
誰なのか——
あるいは、何だったのか。」
一秒間の沈黙が、空間を満たした。
まるで都市全体の潜流が、一拍、遅れたかのように。
「もしかして……」
念安がぽつりと呟いた。
「私たちみんなの中に、そのフックは……
元々あったのかもしれない。」
「ただ、あの日——
誰かが、早く“それ”を引いてしまっただけで。」
誰も言葉を返さなかった。
ただ、紙の上に走る劉竹文の筆記音だけが、静かに響いていた……
澄川は感知ペンをそっと閉じ、視線を遠くのシールド壁に投げる。
粒子灯が、淡く瞬く。
——まるで、見えない何かがそこにまだ残っているかのように。
—




