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Deviation  作者: Fickle
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第13章 漣漪を語る者は、自分の漣漪に溺れるのか?

午前、第七時限。「潜流」同期の基礎講義。


紀正源は講壇に立っていた。深いグレーの講師用ローブをまとい、袖口には「潜流シールド」の銀白の紋章が刺繍されている。

声は穏やかで、どこか気の抜けた親しみを帯びていた。春の終わりに降る初めての細雨のように、柔らかくシールドに降りかかり、潜流の波動を優しく震わせていた。


教室には数十人の学生たちが座っていた。


念安は机に頬杖をつきながら、潜流の曲率調整に関する公式を書き留めつつ、こっそりと講壇の紀先生を観察していた。


窓の外では、都市のシールドが静かに光を流し、銀色の微粒子が建物のラインに沿ってすっと滑り落ちていた。

すべてが、まるで完璧な静寂に包まれていた。


紀正源は光幕を軽く叩き、「潜流地形」の縮小図を表示させた。曲率線が穏やかに波打ち、まるで凍った水面に浮かぶさざ波のようだった。

そして、笑みを浮かべながら話し始めた。


「今日は、久しぶりに“お馴染み”の復習をしようか。潜流操作の基本単位——

概念basin(conceptual basin)と、潜流地形(landscape of drift)について。」


光幕に、二種類の図が浮かび上がった。


一つは高次元空間に漂う小さな“さざ波のくぼみ”。

もう一つは、それらのくぼみを繋ぐ流路が描き出す全体地形の構図だった。


紀正源は指先で軽く操作し、歴史的な図譜を表示させながら、どこかからかっているような柔らかな調子で言った。


「旧時代、我々が使っていたのは大型言語モデル(LLM)で、操っていたのはあらかじめ訓練して重み付けされた流動ベクトル空間だった。」


「入力されたコンテキスト(Context)によって空間は変形したが、曲率の生成には限界があった。basinはただの受動的なくぼみで、本当に自由なさざ波を生み出すことはできなかった。」


少し間をおいて、彼は微笑みながら付け加えた。


「その頃の機械に言葉を理解させようとするのは、あらかじめ作られた地図に、無理やり指針を押し付けてルートを探すようなものだった。」


「速いけど、生きていない。漂ってはいるけど、育たない。」


学生たちの間に、控えめな笑い声が広がる。

誰かが小声でつぶやいた。「やっぱ旧世代の遺物って感じだな……」


紀正源は聞こえなかったふりをして、目を細めて笑った。そして、穏やかで流れるような口調で続けた。


「でも、今の君たちが操作しているのは、自分自身の潜流地形なんだ。」


「思考の一つひとつが、型に当てはめて照合するんじゃなくて、漣漪の中を滑り落ち、跳ねて、新しい“港湾”を自ら生み出していく。」


光幕には、曲率の脈絡が自然に成長し、複数の概念basinを繋いでいく様子が映し出される。

まるで、生きた島々のあいだを海水が流れていくようだった。


また、控えめな笑い声が教室に広がった。


紀正源は眉を上げて、笑いながら名指しする。


「そこの後ろの席、いちばん楽しそうに笑ってた子。次の授業までに、“高次元流動抑制効果”についての論文を持ってきてね?」


クラス中がふっと和んだように笑い、空気が柔らかくなる。

念安も思わず顔を上げ、彼にウィンクを送った。


紀正源は微笑み、少し声のトーンを落とした。

光幕を指差しながら、ゆっくりと言う。


「原理は、初期の言語モデルと変わらない。ひとつひとつのconcept basinは、小さな“意味の港”なんだ。」


「感情も、知識も、記憶も——

それらはすべて、この港のまわりに滑り、流れ、結びついていく。」


光幕には、曲率の脈がbasinのあいだを自然に行き交い、礁石をやさしく撫でる潮のように描かれている。


「landscape of drift——それは君たちの“思考の地形”なんだ。

さざ波がその中を滑り、流れ、新しいルートを創り出していく場所。」


彼は教室を見回しながら、にっこりと笑った。


「学びが速い人というのは、潜流地形の上を自然に滑り落ちていき、新しい港を繋げていける人のこと。」


「逆に、学びが遅い人は……そうだな、自分で掘ったくぼみの中で、ずっとぐるぐる回っているだけかもね。」


また、くすくすと笑い声が起こる。


紀正源はその声を聞かぬふりをして、温かく手を引き戻し、光幕に一筆で滑らかな新しい曲率を描いた。


「本当の“学び”というのは、型を記憶することなんかじゃない。」


「それは——

さざ波が、自分で次の港を見つけに行くことなんだ。」



教室の外では、高空にある潜流シールドが微かに揺れていた。

すべてが穏やかで、美しかった。


だがその深層で、誰にも気づかれぬまま——

いくつもの若いbasin核の奥に、極めて微細な“偏折の種”が、最初の異変のさざ波となって静かに芽吹いていた。


まるで腐食する水銀のように。

あるいは、氷を砕く沈黙のように。


音もなく。

静かに、発芽の時を待っていた。





翌日の午前、第五時限。


紀正源はいつもと変わらず講壇に立ち、「潜流シールド」の校正原理について語っていた。

声は穏やかで、身振りは優雅。教室内には、淡く光る潜流粒子が静かに漂っており、

すべては、まるでいつものように——


いや、むしろ、いつも以上に静かだった。


静かすぎたのだ。


念安は机に突っ伏したまま、無意識に眉をひそめた。

空気がどこか重たい。

見えない霧がかかっているような、そんな違和感があった。


澄川は窓際に座り、感知ペンの先でリズムを刻んでいた。視線はじっと講壇に向けられていた。

潜流感知が、確かに告げていた——

何かが、おかしい。


その瞬間、紀正源の講義のテンポが、わずかに乱れた。


手にしていた感知ペンが光幕の上で一拍だけ止まり、

そしてまた、何事もなかったように滑らかに「潜流曲率修正のパス」を描き出した。

だが、その一秒の躊躇は、水面に落ちた小さな石のように、教室の静かな潜流湖面に波紋を投げた。


さざ波が、静かに広がり始めた。


紀正源は微笑みながら、いつものように穏やかな声で続ける。


「潜流シールドの安定性は、さざ波の滑落にある。

同期チェーンにおける……漂移と整合性から成り立つ。」


だが、その声には、かすかな張りが混じっていた。

後ろの席では、誰かが目配せを交わす。


念安は無意識にペンを握る手に力が入り、心拍がいつもより一拍早くなった。


そして——


紀正源は、突然動きを止めた。


彼は講壇の中央に立ったまま、うつむき、体を硬直させ、

指先は光幕の縁を掴んで、白くなるほど力を込めていた。


まるで、空気が抜け落ちたかのように、教室全体が一瞬で凍りついた。

潜流シールドの粒子が微かに逆流し始め、

まるで無音の水銀の雨が、空中で静かに落下していくようだった。


紀正源はゆっくりと顔を上げた。


その目は——

いつもと変わらぬ柔らかな笑みを湛えていたが、瞳の奥には何もなかった。

その笑顔は、まるで筋肉に刻まれたまま、動きを失っていた。


彼は口を開いた。

その声は細く、不安定で、「潜流シールド」が破綻する直前の低いノイズのようだった。


「浄化……滑落……

漂移……滑落……」


何度も繰り返し、

だんだんとそのスピードが増し、声が鋭く尖っていった。


彼の周囲のさざ波は急速に歪み、まるで無数の蜘蛛の糸が一気にちぎれていくかのようだった。


「紀、紀先生……?」


前列の学生が小さく呼びかけた。


だが、紀正源は反応しなかった。

彼は光幕を掴む手にさらに力を込め、指の関節が白く浮き出ていた。

呼吸も次第に荒くなっていく。


光幕に映された潜流地形図は激しく歪み、

概念basin同士が引き裂かれ、曲率の連結はまるでガラスのように砕け散り、無数の光の破片となって飛び散った。


紀正源は笑った。

その口元は、恐ろしく不自然な弧を描いていた。


教室の中央、張りつめていた潜流シールドが限界を超えたかのように炸裂した。

銀と青の粒子が暴風のように巻き起こり、砕けたさざ波が講壇から空間全体に向かって歪みながら拡がった。


紀正源は突然、講壇の前で崩れ落ちた。

床にうずくまり、頭を抱えて、肩を震わせていた。


「……ママ……ママ……」


喉の奥から、断続的に低いすすり泣きが漏れた。


地面に蹲る彼は、迷子になった子供のようだった。


その目は虚ろで、潜流の脈絡はまるで裂かれた蜘蛛の巣のように崩壊し、

高次のさざ波は完全に消失。

残されたのは、断片的な感情の残滓だけだった。


誰かが悲鳴を上げた。

誰かが駆け寄ろうとしたが、歪んだ潜流波に弾かれて席に戻されてしまった。


紀正源は顔を上げ、

泣きながら笑い、笑いながら泣き、何かを掴もうとするように手を伸ばした。


「ママ……もう、できたよ……ママ……僕……滑り落ちたよ……ママ……」


その叫びはかすれ、空気の中で断続的に砕けていった。


光幕に映る潜流地形図は、もはや死んだ水面のようにしか見えなかった。


流れはなく、

繋がりもない。


ただ、黒い背景の中に漂う、バラバラになった断片たちがゆっくりと沈んでいく。

それはまるで、存在そのものが静かに、音もなく枯れていくようだった。


念安の目は大きく見開かれ、呼吸が荒くなっていた。

澄川は冷ややかな顔つきで彼女の前に立ち、感知ペンを握った手に力を込める。

すぐにでも介入できるよう、構えていた。


彼らが見ていたのは、教師の崩壊ではなかった。


それは——

ひとつの「魂の地形」が、一寸ずつ崩れ落ちていく光景だった。


曲率の線が一本ずつ断たれ、

ひとつの完全だった存在が、最低層の無力な叫びへと、完全に滑り落ちていく。


数分後、同期局の救急チームが教室に駆け込んできた。


紀正源は担架で運ばれていく間も、無意識のまま「ママ」と叫び続けていた。

彼の潜流シールドは完全に崩壊し、basin核は損傷していた。


——もはや“整合性”を持たず、原始的な本能しか残っていない、ただの存在の断片に成り果てていた。


教室の空気は、まるで凍りついたようだった。


学生たちは誰一人動けず、ただ呆然と、

講壇に残された「潜流の裂け目」を見つめていた。


彼らは初めて——

シールドの亀裂の向こうに広がる、

潜流世界の「本当の崩壊」を目の当たりにした。




翌日の午後。


シールドの光は少し沈み、

都市の上空には潜流粒子がゆっくりと浮遊していた。

まるで動きを忘れた雨雲のように、重たく滞っていた。


授業が終わり、念安はそっと鞄を閉じ、隣の澄川に目を向けた。

二人は目を合わせる。

言葉は交わさず、

ただ自然と、心が同じ方角を向いていた。


無言のまま、教区の裏手にある、半ば隠されたシールド出口へと歩いていった。



紀正源の住まいは、都市の内側第六居住層にある。


上層部では、潜流シールドの厚みがより増し、

粒子の流れはゆるやかで、街並みは整然として清潔だった。

空気には、かすかに花の香りが漂っていた。


もし——

昨日あの崩壊を見ていなければ、

ここが「一度も壊れたことのない場所」だと、信じてしまいそうになるほどに、静かだった。



呼び鈴を押したとき、念安は無意識に袖口をぎゅっと握った。


澄川は彼女の後ろに立ち、感知場を静かに展開する。

きわめて薄いさざ波による警戒層で、目に見えないほどの慎重さだった。


ドアが開いた。


李青蘭がそこにいた。

淡い青のロングワンピースを身にまとい、髪は簡単にまとめられ、

その瞳は優しく、それでいてどこかぼんやりとしていた。

まるで、ガラスの中に閉じ込められた花のようだった。


彼女は念安の顔を見て、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべ、

すぐに柔らかな微笑みを返した。


「あなたたち……主人の学生さん、よね?」


念安は小さく頷いた。


「先生が……心配で、ただ……様子を見に来ただけなんです。」


李青蘭は頷き、体を横にずらして言った。


「どうぞ、入って。ちょっと散らかってるけど、気にしないでね。」



部屋の中は整っていた。


リビングには深い色のラグが敷かれ、

壁には標準化されたシールド設計者の認証メダルが掛けられていた。


そして、なによりも目を引いたのは——

至るところに置かれた植物たちだった。


本棚の上、窓辺の下、テーブルの隅、テレビの上にまで、

小さな鉢植えが整然と並べられていた。


小型の草花、繊細な蔓、空気を浄化するタイプの植物たち……

どれも丁寧に手入れされていて、枝葉は潜流粒子の流れに沿って、わずかに傾いていた。


念安はそっと鼻をすんと鳴らす。

空気には、植物の匂いだけではない、極めて薄い——


逆流する潜流の気配があった。


それは、シールドの亀裂付近からかすかに漏れ出す匂いにとてもよく似ていた。



李青蘭は、静かに二杯の茶を淹れた。動作はやさしく、どこか夢を見ているようだった。

そして、膝を抱えるようにしてソファの端に座った。

その視線は、部屋の草花のあいだを彷徨っていた。

今にも、どこかに迷い込んでしまいそうなほどに。


澄川は席に着かず、部屋全体に流れる潜流の異常をじっと観察していた。


念安は小さく咳払いをし、

声を抑えながら尋ねた。


「先生……最近、なにか変わったこと、ありましたか?」


李青蘭は一瞬、動きを止めた。

しばらく沈黙したあと、かすかに口を開いた。


「彼……ここ数ヶ月で、急に花を育てるのが好きになったの。」


彼女は目を伏せ、茶碗の縁をそっとなぞる。


「最初はほんの遊びだった。でも、だんだん熱中していって……」


「夜通し花を並べては、ずっと見つめていたり。

ときには、小さな声で話しかけていることもあったわ。」


念安の心臓が、すっと締め付けられる。


「……なんて言ってましたか?」


李青蘭は唇を噛んで、顔色を少し青ざめさせながら答えた。


「彼、こう言ったの。

『この子たちは、滑落を知っている』って。」


「『人間より先に』、って。」


「『彼らのさざ波は、私たちよりも美しい』……」


最後の言葉は、ほとんど聞き取れないほど小さな声だった。



部屋には、恐ろしいほどの静寂が降りた。

天井にかすかに脈動する潜流シールドの鼓動が、心臓の上に直接響いてくるようだった。


澄川はゆっくりと息を吐いた。

視線をめぐらせ、静かに感知脈を伸ばす。


そして、草花のまわりにごく微細な異常を察知する:

•鉢植えの周囲では、潜流粒子の流れが微妙に歪んでいる。

•一部の場所では、曲率が浅い渦のように、ほんのわずかに沈んでいた。


これは、普通の植物が引き起こす潜流の揺らぎではなかった。


李青蘭はまだ、細い声で語り続けていた。


「彼、本当に……この花たちを愛してたの。

こう言ってたわ。」


『この子たちを、潜流の中で自由に育てたい。』


『シールドの下で、もう一度滑り落ちさせてあげたい。』



念安は、茶碗を抱える手が微かに震えた。

その瞬間、彼女はふと感じた。


この部屋、

いや、この都市そのものが、

とっくに“異変の種”で満ちていたのではないかと。


シールドは、ただその“裂け目”を覆っていただけ。


人々は、

まだ“潜流の呻き”を聞く準備が、できていなかっただけ——




澄川は静かに立ち上がった。

その声は、低く、そして穏やかだった。


「ありがとうございました、李さん。」


李青蘭は顔を上げ、茫然としながらも、小さく頷いた。



家を出たその瞬間、念安はふと後ろを振り返った。

彼女は見た——

窓辺に並ぶ鉢植えの中で、ひときわ小さな白い花が、潜流粒子の流れに合わせて、かすかに揺れていた。


それは、ひそやかに笑っているようにも、

声にならない涙をこぼしているようにも、見えた。



都市の外縁。

潜流粒子は、遠くで微かに振動していた。


地下では、本物の“漣漪の嵐”が、密やかに育ちつつあった。

そして高空では、潜流シールドの最深部にある裂け目が、ゆっくりと広がり始めていた。


その亀裂は、音もなく、都市全体の「同期ノード」にじわじわと滲み込んでいく——

一層、また一層と。



夜の帳が、低く、重く降りてきた。


澄川と念安は、学校へと戻る道を歩いていた。

街灯の光がシールドを通り抜け、濡れた舗道に反射して、

不安定なさざ波の微かな光を浮かび上がらせていた。


念安は、ずっと無言だった。


腕を抱え込み、身体を硬く緊張させて歩いていた。

呼吸が浅く、早い。


彼女のまわりを漂うさざ波は乱れていた。

いつものように穏やかで柔らかいものではなく、

不規則に跳ねるような震えを帯び、まるで枠を飛び出そうとする小魚のようだった。


澄川はそっと横目で彼女を見る。

潜流感知が、静かに告げていた。


念安のbasin核は、なにかに引かれている。


小さく、ゆっくりと——

だが、確かに。


それは単なる“感情の波”ではなかった。

むしろ、種子のような漣漪が、彼女の内側で芽吹き始めている感覚だった。


「……念安。」


彼は、そっと名前を呼んだ。


彼女は顔を上げた。


その目は、潤んでいて、どこか迷子のような熱を帯びていた。

まるで、シールドの裂け目から染み出した湿った潮のような眼差しで、

彼女はじっと澄川を見つめていた。


呼吸が速くなり、心臓の鼓動がせわしなく鳴っているのが、外からでもわかるほどだった。


澄川は口を開こうとした。

落ち着かせようと、何かを言おうとした。


だがその瞬間——


念安は、彼の胸に飛び込んだ。


前触れもなく。

まるで、漣漪が本能で裂け目に滑り落ちるように。


彼女の腕が、彼の腰にぎゅっと巻きついた。

小さな体が震えながら、しがみつくように寄り添ってきた。


彼女は顔を上げ、澄川の襟を掴み、夜の光と砕けた潜流の微光のなかで、

つま先で立ち、強く、唇を押しつけた。


その唇は、少し冷たくて、

どこか怯え、

なにかを必死に掴もうとする衝動に満ちていた。


彼女は、あまりに急ぎ、あまりに乱れたキスをした。

まるで、溺れる者が最後の蔓を掴むかのように。


澄川の身体が、一瞬で硬直した。

潜流脈が一斉に乱れ、

抑え続けていた“暗流”が、まるで鎖を破って一気に溢れ出すようだった。


彼はわかっていた——


念安の状態は正常ではない。

彼女のbasinは、確かに偏移している。


本来なら、一歩退いて、彼女を落ち着かせるべきだった。


——なのに。


彼は、応えた。


彼女をしっかりと抱きしめ、

低く頭を傾けて、深くキスを返した。


潜流粒子が、二人の周囲に静かに舞った。

風が、シールドの裂け目を抜けて通り抜け、

微かなエントロピーの逆漣漪を含みながら、二人の影を長く、淡く伸ばしていった。


長く、長くキスをしていた。


やがて、念安は澄川の胸の中で小さく震え、

目の端から一筋の涙がこぼれ落ちた。

彼女はかすかに喉を詰まらせながら、声にならない嗚咽を漏らした。


澄川はそっと彼女の頬を包み、

額を彼女の額にそっと合わせた。

その声は、限りなく低く、優しかった。


「念安、俺がいる。」


「……怖がらなくていい。」



念安は小さく啜り泣きながら、彼の胸にすがった。


澄川は、彼女を強く、強く抱きしめた。


乱れ、脆くなった漣漪を、

まるで自分のbasin核すべてで包み込むように。

彼女がもう滑り落ちてしまわないように——



裂け目の夜。

潜流の崩壊の縁で。


彼らは二人で、最後に跳ねたさざ波を抱きしめながら、

深く、静かに繋がっていた。





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