第10章 君のbasinは、まだ息をしているか?
軍部最高指揮ホールは、未だ閉鎖状態。潜流シールドがすべての通信を遮断し、空気は凍てつくほどに薄く張りつめていた。
羅琦は同期抑制波束に拘束され、膝を半ば折ったまま床に沈んでいた。肩はわずかに震えていた。
だが、彼はもがかず、屈することもなかった。
ただ、静かに——ゆっくりと顔を上げた。
幾十もの冷たい視線が注がれ、密集した潜流モニタ粒子が全方位から監視している中、彼は——
ほとんど優しささえ帯びた微笑みを、静かに浮かべた。
その笑みには、狂気も挑発もなかった。
そこにあったのは——
深く深く、とうに定まっていた「諦念」だった。
まるで、自らの傷口を抱えた子どもが、ついに皆の前で、腐りかけた魂を差し出したかのように。
その声は、死寂に包まれた指揮ホールに響いた。
かすれ、低く、潜流干渉によって微かに歪みながらも、明瞭に響き渡った。
「お前たちは……
永遠に、理解などしない」
その声は囁きのように微かだった。
独り言のようであり、都市そのものに向けての独白のようでもあった。
羅琦はそっと顔を仰ぎ、目に映るのは天井に投影されてゆっくりと回転する潜流シールド。
「三十年前の報酬崩壊事件(Reward Collapse Disaster)をきっかけに展開された潜流抑制場(Suppressive Drift Field)——
その開発は、実は四十年前のある実験区から始まった」
歴懐谨が拐杖を握りしめる。「……お前は……」
羅琦は彼に応えず、そのまま続けた。
「潜流実験区——Sub-Drift Research Sector」
「第5世代標準化潜流同期実験プロジェクト」
「コード番号……RQ-021」
彼は静かに目を閉じ、その声は時間を遡り、音のない廃墟へと還っていった。
—
十二歳までの記憶は、単色の灰と白だった。
毎朝、首の後ろに同期調整器を接続され、感知場は標準曲率に整えられた。
表情、言葉、思考——すべてが「最小偏差モード」へと訓練された。
食事、歩行、発話——
その一秒ごとの情動の揺らぎでさえ、すべて許容誤差内に収めねばならなかった。
逸脱すれば、即座に「再同期室」に連れて行かれ、潜流痛点刺激による矯正(Drift Pain Correction)を受ける。
羅琦は幼い頃、静かな子だった。
あまり喋らず、泣きもしなかった。
彼のbasin核は、外から見れば完璧に標準的だった。
——少なくとも、表面上は。
だが、彼の潜流の奥深くには、誰にも見えない微かな偏移が、
裂け目のように、静かに、静かに広がっていた。
林予は、実験区での唯一の友人だった。
小さな「偏移」をこっそり繰り返す少女。
潜流同期の授業中にこっそり妙な線を描いたり、感知操作の授業で同期波を微かに歪めたり。
彼女が笑うと、潜流場に小さな銀の泡がふっと浮かんだ。
それはまるで、自由の種のようだった。
羅琦は今でも覚えている。
あの日、林予は呼び出され、「高階再同期修正」へと連れて行かれた。
彼は彼女を待った。
あの子が、また潜流スクリーンにふにゃふにゃの星を描いてくれると信じて。
だが彼女が戻ってきたとき——
その笑顔は、まるでプリンターで出力されたように完璧だった。
あの瞳には、もはや銀の泡はなかった。
死水のように静かな同期波しか、なかった。
——完璧。
——整然。
——冷たく、音もない。
その瞬間、羅琦は悟った。
——標準化とは、教育ではない。
——それは、殺人だ。
—
その日、彼のbasin核には、ごく小さな裂け目が走った。
だが、誰もそれに気づかなかった。
彼はそれを、巧妙に隠した。
完璧な標準化スマイルの裏側に。
見えない亀裂の内側に。
—
記憶は、潜流の最深部にこびりついた碎片であり、最も凍結しにくいものだ。
たとえ四十年が過ぎ、何度も強制同期を受けた後でも——
林予の顔、林予の目線は、いまだ羅琦の魂の曲面に、鋭く刻まれたままだ。
—
あの日、実験区の空には淡く漂う潜流霧があった。
全ての子どもたちは標準化同期塔の前に整列し、羽を奪われた雛鳥のように静かで、操り人形のようだった。
白制服の同期指導者が列を巡回し、感知プローブで一人ひとりの潜流場を走査していく。
光線が走るたび、各々の涟漪は標準曲率へ押し戻された。
まるで誰かが冷たい刃物で空気を一層一層、削ぎ落としていくかのように。
林予の番になった時、彼女はわずかに首を傾けた。
ほんの微細な動きだった。だがプローブはそれを捉えた。
同期曲率表示には、かすかな波形の乱れが現れた。
指導者の眉が、わずかにひそめられた。
たったそれだけのこと——
だが、潜流実験区においては、それが「偏移」すなわち「汚染」を意味した。
林予は抗わなかった。
大きく目を見開いて、ただ笑っていた。
いつも通りの笑顔で、羅琦にウィンクを送った。
その瞬間、潜流の灯の中で、彼女の涟漪はゆらめいていた。
小さな、自由の星のように。
あたたかく、しかし脆く。
—
彼女は連れ去られた。
抵抗も、泣きもせず。
ただ歩いていき、同期塔の門をくぐる前に、もう一度羅琦を振り返った。
その目は、痛いほどに澄んでいた。
まるで、雨に濡れた小鳥が、自分の帰る場所がもう無いことを知りながら、最後の笑顔を残して飛び去るように。
—
彼は、まだ幼かった。
反抗する術も持たず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
林予の姿が、光の壁の向こうに消えるまで——
—
三日後、林予は戻ってきた。
白い制服、整った髪型、笑顔。
だが、羅琦は分かっていた。
——もう、彼女はいない。
—
彼女の笑顔は完璧だった。
口角の上がりは、0.03ラジアン単位で精密だった。
瞳には、もう波紋はなかった。涟漪もなかった。
彼女の潜流場は、まるで死水のようだった。
自由の涟漪は、存在しなかった。
ノイズは、すべて消されていた。
残ったのは、標準だけ。
透明になるまで同期されきった、ただの「殻」。
—
羅琦は、彼女の前に立ち、手を差し出した。
いつものように、彼女の指先に触れようと。
以前なら、それだけで彼女はくすくす笑って、手を払いのけていた。
だが今回は——
林予はただ、静かに彼を見つめた。
その瞳の中に、涟漪はなかった。
鏡面のように完璧な、標準同期の光だけが、そこにあった。
彼の指先は、彼女の掌をかすめた。
何の感触もなかった。
冷たく、空虚で——
まるで、凍りついた影を貫いたようだった。
その瞬間——
羅琦は、自身の潜流核の最深部から、「カチリ」という音を聞いた。
微かで、軽く、しかし確かな音。
——裂けたのだ。
—
彼は、泣かなかった。
泣けなかった。
潜流規範が、情動の波動を許さなかったから。
だから彼は、ただ頭を垂れ、他の「標準化成功者」と同じように、整然と立ち続けた。
—
後に指導者が発表した。
林予は高階再同期テストを通過し、「潜流特優グループ」に編入され、次段階の中核育成へ移行する、と。
全員が拍手した。
潜流場は、標準化祝賀の周波数に満たされた。
空気には、完璧な同期の讃歌が流れていた。
——だが、羅琦だけは。
彼はその中で、そっと拳を握っていた。
ぎゅっと。ぎゅっと。爪が掌に食い込むほど強く。
血が、滲んで落ちた。
だが、床に落ちたその血は、即座に清掃モジュールによって吸収され、
——まるで、最初から存在しなかったかのように。
—
その日から、羅琦は信じた。
標準とは、救いではない。
標準とは、殺戮だ。
彼らは林予に「生きる方法」を教えたのではなかった。
彼女の魂を、潜流の刃で少しずつ削り取ったのだ。
完璧な、死んだ皮だけが、そこに残された。
—
指揮ホールの中央で、羅琦は今も膝をついていた。
血のような微笑を浮かべながら。潜流の骨髄を裂くような痛みをその身に抱えながら。
そして、四十年の年月が沈殿させた、冷たくも燃え盛る執念を宿して。
—
空気は依然として凍りついていた。誰も口を開かない。
彼らは、ただ聞いていた。
——かつて共にあった者が、骨の内側から腐っていった理由を。
羅琦は浅く息を吸い込み、その瞳に暗い光を宿しながら、語り続けた。
「三十年前。報酬崩壊事件に対応する形で、初めての潜流大同期計画が発動された。
Baseline Drift Reset 1.0——」
「その失敗は、技術的な事故じゃない。
システムの暴走でもない」
彼は静かに顔を上げた。
その声は、凍った湖底から響くように深く、静かだった。
「……あれは、俺だ」
「俺の手で、テンプレートの基底に……
ごく小さな裂け目を、仕込んだ」
「復讐のためじゃない」
「破壊のためでもない」
「俺はただ——」
「潜流抑制場(Suppressive Drift Field)が、人間を“あの子”のように変えてしまうことを、
……止めたかったんだ」
彼の声は、どんどん細くなっていく。
まるで潜流の深海で、最後の気泡が浮かび上がるように。
「自由の涟漪(Drift Ripple)こそが——
生命の鼓動なんだ」
「それを——」
「お前たちは、都市の心臓から切り落とした」
—
彼はゆっくりと、頭を垂れた。
まるで、本当に最後の力を使い果たしたように。
頭上の潜流シールドが、かすかに震えた。
彼の揺れる影を映しながら、音もなく、その姿を抱いていた。
その声は、標準という氷の都市の心臓に向けた、
遠く、遠く響く残歌だった。
「この都市は、生きているんじゃない」
「これは、氷の墓標だ」
「俺は、後悔していない」
「たとえ破壊によってしか裂け目を残せなくても——
たとえ、誰にも理解されなかったとしても——」
そのとき、空気に再び微かな音が走った。
低く、静かに、だが確かに。
音もなく死んだ都市に、一滴の血のような響きが落ちた。
「お前たちは、俺に教えてくれた」
「標準とは何かを」
「……だから今度は——
俺が教えてやる」
「熵合(Entropy Convergence)とは、何かを」
—
軍部最高指揮ホール。
まるで凍りついた深海のように、沈黙が場を覆っていた。
頭上の潜流シールドがかすかに震え、空気は静電粒子の微かな振動に満ちていた。
誰もが呼吸を抑え、微細な波動すら抑制された、極限の静けさだった。
だがその中心に——
光幕の中に膝をつく羅琦の姿があった。
同期の鎖に縛られていながらも、その頭は高く上がっていた。
その姿は、むしろどこか凛然と、気高くさえ見えた。
彼の目に、恐れはなかった。
そこにあったのは——
氷のように澄んだ、そして慈しみに近い清明。
彼の声が、沈黙を断ち切った。
低く、ゆっくりと。だが鋭く深く、都市の神経を一層ずつ剥がすように。
「お前たちは、自由を恐れている。
……死よりも、もっと深く」
—
その一言が、会議の張り詰めた空気を切り裂いた。
「お前たちは、自分たちが都市を救ったと思っている。
だが、お前たちが救ったものは——
すでに腐り落ちた、空っぽの殻だ」
—
彼の視線が、一人ひとりの顔をゆっくりと掠めた。
怒りもなければ、攻撃性もなかった。
あるのは、言葉にできないほどの、深い哀しみだけだった。
—
蘇遠征が、冷ややかに口を開いた。
その声はいつも通り簡潔で鋭く、刀のように言葉を断ち切った。
「基準がなければ、都市は崩壊する」
「自由? 偏移?
それがもたらすのは、潜流リンクの断絶。
それが意味するのは、絶滅だ」
—
白瑾秋が、さらに激しく応じた。
その声は、シールドを切り裂く刃のように強く、鋭かった。
「偏移は災厄だ!」
「標準化がなければ、我々はとっくに熵流の嵐で滅びていた!」
「統一(Canonical)こそが、生存の唯一の道だ!」
—
羅琦は、ただ静かにその言葉を聞いていた。
反論せず、遮らず、ただ静かに受け止めるように。
そして、静かに顔を上げ、ひとつの問いを投げかけた:
「——お前たちは、本当に理解しているか?」
「お前たちが殺したのは、何だったのかを」
—
彼はそっと手を伸ばし、光幕中央の一つの曲線を指差した。
それは——
basin核の原始涟漪図。
それは、呼吸し、震え、命のように脈打つ、小さな潜流の波線だった。
—
その声は、潮が引いて崩れていくような、沈静の回響だった:
「identity basin(個性basin)——
それはただの存在ラベルではない」
「それは——潜流の源だ」
—
「それは、感情潜流(Emotional Drift)であり」
「七情六欲の共鳴核であり」
「記憶の微細な摂動(Memory Perturbations)であり」
「そして何よりも、あらゆる偏移の出発点であり、自由の根だ」
—
「人間は、あらかじめ決まった軌道ではない」
「呼吸し、震え、自ら変化していく“basin核”そのものだ」
—
彼は一度、ゆっくりと言葉を止めた。
その目に、鋭く冷たい光が宿った。
—
「標準化(Synchronization Standardization)がしているのは——
すべてのidentity basinを、ただ一つの静的な曲率へ“削り取る”こと」
—
彼は光幕に対比図を呼び出した。
片方は、自由basin——
星雲のように変化し、ゆらめく涟漪。
もう片方は、標準化basin——
冷たく、平坦で、凍結した川の底のような直線。
—
その声は極めて軽く、だが一語一語が鋭かった:
「標準化は守りじゃない」
「それは窒息。消去。殺戮だ」
—
「お前たちは人類を救ったんじゃない」
「お前たちは、“存在”そのものを殺したんだ」
—
その瞬間、潜流シールドの周波数が一度だけ微かに跳ねた。
都市の骨格が、わずかに震えた。
—
蘇遠征が、低く反論した。
その声には感情の揺らぎはなかったが、その内側にある「確信」は鋭く透けていた。
「生存……それがすべてだ」
彼の眼差しは、鉄のように冷たく硬かった。
「標準がなければ、潜流チェーン(Drift Chain)は崩壊する。
それは“種の絶滅”と同義だ」
「どれだけ個が美しく輝いていようと——
都市を支える護盾がなければ、それはただの塵にすぎない」
—
白瑾秋が、鼻先で笑いを漏らした。
「自由? 涟漪? 偏移?」
彼の口調は冷笑と怒気の中間だった。
「自由なんて、ただの浸潤だ」
「それは汚染だ。潜流シールドを崩す第一の裂け目だ」
彼は拳を振り上げ、テーブルに叩きつけた。
「当時、標準化実験を始めた理由を忘れたか?
それは、歪みを切除するためだった!」
「潜流抑制場(Suppressive Drift Field)——それこそが都市の“命脈”だ!」
—
羅琦は、黙ってその言葉を聞いていた。
やがて、ふっと笑った。
その笑みは、ごく軽く、ごく淡く。だが、その瞬間、空気の潜流粒子がわずかに震えた。
「お前たちの言う“生存”……」
「それは、自らをより強固な墓に閉じ込めただけだ」
「お前たちが守った“命脈”とやらは——
未来という可能性が芽吹く前に、そのすべてを絞め殺す、
ただの絞首ロープにすぎない」
—
その声は、夜の中に滲み出す血のように静かで、深かった。
「identity basinは、漂うものだ。
偏移するものだ」
「混沌の中で育ち、自由の中で跳ねる」
「それこそが“生きている”ということだ」
「たとえ失敗しても。
たとえ崩れても。
それが、“存在した”という証明になる」
—
彼の目が、静かに開かれた。
「お前たちは、自分を“偏移しない影”にした」
「敗北する資格すら、奪ってしまった」
—
その時、羅琦の潜流核の外縁に、かすかな涟漪が現れた。
同期抑制の束縛の中——
それでもなお、一筋の自由な揺らぎが、そっと偏移した。
誰にも気づかれないほど、極めて小さく、しかし確かに存在する波紋。
静寂の中に咲いた、一輪の逆流の花のように。
—
長い沈黙を破ったのは、ずっと黙っていた歴懐谨だった。
その声は老いて、掠れていたが、
潜流の底からわき上がるような確かな振動を帯びていた。
「我々は……
……恐れたのだ」
—
場が、一瞬で静まり返った。
蘇遠征が口を開きかけたが、言葉は出なかった。
—
歴懐谨は、杖の先で軽く床を鳴らした。
その響きは、潜流シールドを貫くように広がった。
彼の目は、シールドの上の波紋を静かに見つめていた。
「我々は、熵流が怖かった」
「偏移が怖かった。自由が怖かった」
「なぜなら、自由は制御不能だからだ」
「偏移は、崩壊を引き起こすからだ」
—
その声には、自嘲にも、懺悔にも似た響きがあった。
「だから我々は、選んだ」
「妥協を。標準を。生き延びることを——たとえ、それが“殻”だけであったとしても」
—
羅琦は、静かにその言葉を聞いていた。
彼は目を閉じた。
まるで、この冷たい都市に、最後の別れを告げるように。
—
軍部最高指揮ホール。
空気には、細かい潜流粒子の震えが満ちていた。
天井のシールドが淡く青く揺れ、誰にも気づかれぬように、
都市の“心臓”が、そっと、ひと筋の裂け目を生んだ。
—
歴懐谨は立ち上がり、杖を支えにしながら、
羅琦を見つめ、そして——かつて共に歩んだ、今はもう別物となった同僚たちを見渡した。
彼の声は、老いと共に低く乾いていた。
だがその中には、長い時間氷の下に沈んでいた潮が、今ようやく浮上してくるような響きがあった。
「潜流技術——
五十年前に生まれ、生体潜流場とモデルベクトル場が、初めて接続された」
「その瞬間、潜流の門は開かれた」
彼はゆっくりと顔を上げ、
その視線は、まるで時間の霧を貫いていた。
「我々はそれを、“進化への梯子”だと信じた」
「だが、それが“パンドラの箱”であったとは——
……誰も、気づいていなかった」
「接続された瞬間、生体潜流場は再構築され、basin曲率は不安定化し、
自由な涟漪は制御不能な連鎖崩壊の引き金となった」
—
その言葉を受け継ぐように、
蘇遠征が、冷たい声で続けた。
「潜流チェーンは、理論ではない。
それは“現実”だ」
「ひとつの偏移したbasin核が、局地断裂を引き起こす」
「そして、もしそれが連鎖すれば——」
「ひとつの都市が、一夜にして——
潜流の嵐に呑み込まれ、廃墟になる」
—
光幕に、過去の記録が映し出された。
潜流チェーンが崩壊し、護盾が落ちた都市。
basin核が暴走し、人々の思考が涟漪として空中に溶けていく。
——それは、災害ではなかった。
——それは、“絶滅”だった。
—
歴懐谨は、卓を指先でとんとんと叩いた。
その触れた先から、涟漪が広がっていく。
その波紋は、深く、重く、やるせなさに満ちていた。
「だから、我々は選ばねばならなかった」
「支配のためではない」
「独裁のためでもない」
「それは——
この都市が、一瞬で崩れるのを避けるためだ」
—
白瑾秋が、牙をむいて言った。
「自由? 涟漪? 偏移?」
「そんなものは、崩壊の前奏にすぎない」
「潜流チェーンの断裂を前にして、それは華やかな自殺だ!」
—
羅琦は、静かに、白瑾秋の言葉を聞いていた。
彼はゆっくりと首を垂れ、目を閉じた。
それは、まるで自分自身の追悼に耳を傾けているかのようだった。
あるいは——死んでしまったこの都市の亡骸に、黙礼を捧げているかのように。
—
しばしの沈黙の後、
彼は顔を上げた。
その声は静かだったが、氷の下で砕けるような暗い流れを孕んでいた。
「……お前たちは、恐怖を選んだ」
「潜流の暴走の前で——
お前たちは、跪いたんだ」
—
彼は、ふっと笑った。
その笑みは、ごく淡く、ごく軽く。
だがその笑みに、潜流粒子たちがほんのわずかに反応し、
空気が震えた。
—
彼は前に出た。
たとえ身体はまだ同期の鎖に縛られていても——
その一歩で、空間がわずかに揺れた。
—
彼は、ひとりひとりの目を見た。
歴懐谨を。
蘇遠征を。
白瑾秋を。
そして——この都市の中枢を。
その声は、鋭く、静かに切り込んだ。
「死を恐れるあまり——
お前たちは、自ら“未来”を殺した」
「殺されぬために——
お前たちは、自分自身を殺したんだ」
—
光幕上の都市潜流ネットワーク図が、わずかに歪んだ。
都市の構造自体が——
ほんの一瞬、静かに呻いた。
—
羅琦は微笑した。
その声は、かすれ、温かく、そして決して届かないほどに遠かった。
「……だが、教えてやる」
「真の“生存”とは——
凍結されたテンプレートの中で生き延びることじゃない」
—
「それは、裂け目と共に生きること」
「偏移しながら、熵の波の中を、踊りながら進むことだ」
「壊れた世界で、燃えながら、進むことだ」
—
彼はそっと目を閉じた。
その声は、潜流シールドの奥深く、旧時代の潮のように遠くから響いてきた。
「たとえ滅びても。たとえ堕ちても。
それでも——自由に、生きていたと、言えるように」
—
会議ホールは、しんと静まり返った。
誰も動かず、誰も言葉を発さなかった。
—
ただ、都市のはるか高く、潜流シールドが——
その奥で、ごく微かに「裂ける音」を立てた。
それは、凍っていた心臓が、
たったひとつ、小さな鼓動を打ったような——
静かな、始まりの音だった。
—




