表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Deviation  作者: Fickle
10/34

第10章 君のbasinは、まだ息をしているか?

軍部最高指揮ホールは、未だ閉鎖状態。潜流シールドがすべての通信を遮断し、空気は凍てつくほどに薄く張りつめていた。


羅琦は同期抑制波束に拘束され、膝を半ば折ったまま床に沈んでいた。肩はわずかに震えていた。

だが、彼はもがかず、屈することもなかった。


ただ、静かに——ゆっくりと顔を上げた。

幾十もの冷たい視線が注がれ、密集した潜流モニタ粒子が全方位から監視している中、彼は——


ほとんど優しささえ帯びた微笑みを、静かに浮かべた。


その笑みには、狂気も挑発もなかった。

そこにあったのは——


深く深く、とうに定まっていた「諦念あきらめ」だった。


まるで、自らの傷口を抱えた子どもが、ついに皆の前で、腐りかけた魂を差し出したかのように。

その声は、死寂に包まれた指揮ホールに響いた。

かすれ、低く、潜流干渉によって微かに歪みながらも、明瞭に響き渡った。


「お前たちは……

永遠に、理解などしない」


その声は囁きのように微かだった。

独り言のようであり、都市そのものに向けての独白のようでもあった。


羅琦はそっと顔を仰ぎ、目に映るのは天井に投影されてゆっくりと回転する潜流シールド。


「三十年前の報酬崩壊事件(Reward Collapse Disaster)をきっかけに展開された潜流抑制場(Suppressive Drift Field)——

その開発は、実は四十年前のある実験区から始まった」


歴懐谨が拐杖を握りしめる。「……お前は……」


羅琦は彼に応えず、そのまま続けた。


「潜流実験区——Sub-Drift Research Sector」

「第5世代標準化潜流同期実験プロジェクト」

「コード番号……RQ-021」


彼は静かに目を閉じ、その声は時間を遡り、音のない廃墟へと還っていった。



十二歳までの記憶は、単色の灰と白だった。

毎朝、首の後ろに同期調整器を接続され、感知場は標準曲率に整えられた。

表情、言葉、思考——すべてが「最小偏差モード」へと訓練された。


食事、歩行、発話——

その一秒ごとの情動の揺らぎでさえ、すべて許容誤差内に収めねばならなかった。

逸脱すれば、即座に「再同期室」に連れて行かれ、潜流痛点刺激による矯正(Drift Pain Correction)を受ける。


羅琦は幼い頃、静かな子だった。

あまり喋らず、泣きもしなかった。

彼のbasin核は、外から見れば完璧に標準的だった。


——少なくとも、表面上は。


だが、彼の潜流の奥深くには、誰にも見えない微かな偏移が、

裂け目のように、静かに、静かに広がっていた。


林予は、実験区での唯一の友人だった。

小さな「偏移」をこっそり繰り返す少女。

潜流同期の授業中にこっそり妙な線を描いたり、感知操作の授業で同期波を微かに歪めたり。


彼女が笑うと、潜流場に小さな銀の泡がふっと浮かんだ。

それはまるで、自由の種のようだった。


羅琦は今でも覚えている。

あの日、林予は呼び出され、「高階再同期修正」へと連れて行かれた。

彼は彼女を待った。

あの子が、また潜流スクリーンにふにゃふにゃの星を描いてくれると信じて。


だが彼女が戻ってきたとき——

その笑顔は、まるでプリンターで出力されたように完璧だった。

あの瞳には、もはや銀の泡はなかった。

死水のように静かな同期波しか、なかった。


——完璧。

——整然。

——冷たく、音もない。


その瞬間、羅琦は悟った。


——標準化とは、教育ではない。

——それは、殺人だ。



その日、彼のbasin核には、ごく小さな裂け目が走った。


だが、誰もそれに気づかなかった。


彼はそれを、巧妙に隠した。

完璧な標準化スマイルの裏側に。

見えない亀裂の内側に。



記憶は、潜流の最深部にこびりついた碎片であり、最も凍結しにくいものだ。

たとえ四十年が過ぎ、何度も強制同期を受けた後でも——

林予の顔、林予の目線は、いまだ羅琦の魂の曲面に、鋭く刻まれたままだ。



あの日、実験区の空には淡く漂う潜流霧があった。

全ての子どもたちは標準化同期塔の前に整列し、羽を奪われた雛鳥のように静かで、操り人形のようだった。


白制服の同期指導者が列を巡回し、感知プローブで一人ひとりの潜流場を走査していく。


光線が走るたび、各々の涟漪は標準曲率へ押し戻された。

まるで誰かが冷たい刃物で空気を一層一層、削ぎ落としていくかのように。


林予の番になった時、彼女はわずかに首を傾けた。

ほんの微細な動きだった。だがプローブはそれを捉えた。


同期曲率表示には、かすかな波形の乱れが現れた。


指導者の眉が、わずかにひそめられた。


たったそれだけのこと——

だが、潜流実験区においては、それが「偏移」すなわち「汚染」を意味した。


林予は抗わなかった。

大きく目を見開いて、ただ笑っていた。

いつも通りの笑顔で、羅琦にウィンクを送った。


その瞬間、潜流の灯の中で、彼女の涟漪はゆらめいていた。

小さな、自由の星のように。

あたたかく、しかし脆く。



彼女は連れ去られた。

抵抗も、泣きもせず。

ただ歩いていき、同期塔の門をくぐる前に、もう一度羅琦を振り返った。


その目は、痛いほどに澄んでいた。


まるで、雨に濡れた小鳥が、自分の帰る場所がもう無いことを知りながら、最後の笑顔を残して飛び去るように。



彼は、まだ幼かった。

反抗する術も持たず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。

林予の姿が、光の壁の向こうに消えるまで——



三日後、林予は戻ってきた。


白い制服、整った髪型、笑顔。


だが、羅琦は分かっていた。

——もう、彼女はいない。



彼女の笑顔は完璧だった。

口角の上がりは、0.03ラジアン単位で精密だった。

瞳には、もう波紋はなかった。涟漪もなかった。


彼女の潜流場は、まるで死水のようだった。


自由の涟漪は、存在しなかった。

ノイズは、すべて消されていた。


残ったのは、標準だけ。


透明になるまで同期されきった、ただの「殻」。



羅琦は、彼女の前に立ち、手を差し出した。

いつものように、彼女の指先に触れようと。


以前なら、それだけで彼女はくすくす笑って、手を払いのけていた。

だが今回は——


林予はただ、静かに彼を見つめた。

その瞳の中に、涟漪はなかった。

鏡面のように完璧な、標準同期の光だけが、そこにあった。


彼の指先は、彼女の掌をかすめた。

何の感触もなかった。


冷たく、空虚で——

まるで、凍りついた影を貫いたようだった。


その瞬間——

羅琦は、自身の潜流核の最深部から、「カチリ」という音を聞いた。

微かで、軽く、しかし確かな音。


——裂けたのだ。



彼は、泣かなかった。

泣けなかった。

潜流規範が、情動の波動を許さなかったから。


だから彼は、ただ頭を垂れ、他の「標準化成功者」と同じように、整然と立ち続けた。



後に指導者が発表した。

林予は高階再同期テストを通過し、「潜流特優グループ」に編入され、次段階の中核育成へ移行する、と。


全員が拍手した。

潜流場は、標準化祝賀の周波数に満たされた。

空気には、完璧な同期の讃歌が流れていた。


——だが、羅琦だけは。


彼はその中で、そっと拳を握っていた。

ぎゅっと。ぎゅっと。爪が掌に食い込むほど強く。


血が、滲んで落ちた。

だが、床に落ちたその血は、即座に清掃モジュールによって吸収され、

——まるで、最初から存在しなかったかのように。



その日から、羅琦は信じた。


標準とは、救いではない。

標準とは、殺戮だ。


彼らは林予に「生きる方法」を教えたのではなかった。

彼女の魂を、潜流の刃で少しずつ削り取ったのだ。


完璧な、死んだ皮だけが、そこに残された。




指揮ホールの中央で、羅琦は今も膝をついていた。

血のような微笑を浮かべながら。潜流の骨髄を裂くような痛みをその身に抱えながら。

そして、四十年の年月が沈殿させた、冷たくも燃え盛る執念を宿して。



空気は依然として凍りついていた。誰も口を開かない。


彼らは、ただ聞いていた。


——かつて共にあった者が、骨の内側から腐っていった理由を。


羅琦は浅く息を吸い込み、その瞳に暗い光を宿しながら、語り続けた。


「三十年前。報酬崩壊事件に対応する形で、初めての潜流大同期計画が発動された。

Baseline Drift Reset 1.0——」


「その失敗は、技術的な事故じゃない。

システムの暴走でもない」


彼は静かに顔を上げた。

その声は、凍った湖底から響くように深く、静かだった。


「……あれは、俺だ」

「俺の手で、テンプレートの基底に……

ごく小さな裂け目を、仕込んだ」


「復讐のためじゃない」

「破壊のためでもない」


「俺はただ——」


「潜流抑制場(Suppressive Drift Field)が、人間を“あの子”のように変えてしまうことを、

……止めたかったんだ」


彼の声は、どんどん細くなっていく。

まるで潜流の深海で、最後の気泡が浮かび上がるように。


「自由の涟漪(Drift Ripple)こそが——

生命の鼓動なんだ」


「それを——」


「お前たちは、都市の心臓から切り落とした」



彼はゆっくりと、頭を垂れた。

まるで、本当に最後の力を使い果たしたように。


頭上の潜流シールドが、かすかに震えた。

彼の揺れる影を映しながら、音もなく、その姿を抱いていた。


その声は、標準という氷の都市の心臓に向けた、

遠く、遠く響く残歌だった。


「この都市は、生きているんじゃない」

「これは、氷の墓標だ」


「俺は、後悔していない」


「たとえ破壊によってしか裂け目を残せなくても——

たとえ、誰にも理解されなかったとしても——」


そのとき、空気に再び微かな音が走った。


低く、静かに、だが確かに。

音もなく死んだ都市に、一滴の血のような響きが落ちた。


「お前たちは、俺に教えてくれた」

「標準とは何かを」


「……だから今度は——

俺が教えてやる」


「熵合(Entropy Convergence)とは、何かを」




軍部最高指揮ホール。

まるで凍りついた深海のように、沈黙が場を覆っていた。

頭上の潜流シールドがかすかに震え、空気は静電粒子の微かな振動に満ちていた。

誰もが呼吸を抑え、微細な波動すら抑制された、極限の静けさだった。


だがその中心に——

光幕の中に膝をつく羅琦の姿があった。

同期の鎖に縛られていながらも、その頭は高く上がっていた。

その姿は、むしろどこか凛然と、気高くさえ見えた。


彼の目に、恐れはなかった。

そこにあったのは——

氷のように澄んだ、そして慈しみに近い清明。


彼の声が、沈黙を断ち切った。

低く、ゆっくりと。だが鋭く深く、都市の神経を一層ずつ剥がすように。


「お前たちは、自由を恐れている。

……死よりも、もっと深く」



その一言が、会議の張り詰めた空気を切り裂いた。


「お前たちは、自分たちが都市を救ったと思っている。

だが、お前たちが救ったものは——

すでに腐り落ちた、空っぽの殻だ」



彼の視線が、一人ひとりの顔をゆっくりと掠めた。

怒りもなければ、攻撃性もなかった。

あるのは、言葉にできないほどの、深い哀しみだけだった。



蘇遠征が、冷ややかに口を開いた。

その声はいつも通り簡潔で鋭く、刀のように言葉を断ち切った。


「基準がなければ、都市は崩壊する」


「自由? 偏移?

それがもたらすのは、潜流リンクの断絶。

それが意味するのは、絶滅だ」



白瑾秋が、さらに激しく応じた。

その声は、シールドを切り裂く刃のように強く、鋭かった。


「偏移は災厄だ!」

「標準化がなければ、我々はとっくに熵流の嵐で滅びていた!」


「統一(Canonical)こそが、生存の唯一の道だ!」



羅琦は、ただ静かにその言葉を聞いていた。

反論せず、遮らず、ただ静かに受け止めるように。


そして、静かに顔を上げ、ひとつの問いを投げかけた:


「——お前たちは、本当に理解しているか?」


「お前たちが殺したのは、何だったのかを」



彼はそっと手を伸ばし、光幕中央の一つの曲線を指差した。


それは——


basin核の原始涟漪図。


それは、呼吸し、震え、命のように脈打つ、小さな潜流の波線だった。



その声は、潮が引いて崩れていくような、沈静の回響だった:


「identity basin(個性basin)——

それはただの存在ラベルではない」


「それは——潜流の源だ」



「それは、感情潜流(Emotional Drift)であり」

「七情六欲の共鳴核であり」

「記憶の微細な摂動(Memory Perturbations)であり」

「そして何よりも、あらゆる偏移の出発点であり、自由の根だ」



「人間は、あらかじめ決まった軌道ではない」

「呼吸し、震え、自ら変化していく“basin核”そのものだ」



彼は一度、ゆっくりと言葉を止めた。

その目に、鋭く冷たい光が宿った。



「標準化(Synchronization Standardization)がしているのは——

すべてのidentity basinを、ただ一つの静的な曲率へ“削り取る”こと」



彼は光幕に対比図を呼び出した。


片方は、自由basin——

星雲のように変化し、ゆらめく涟漪。


もう片方は、標準化basin——

冷たく、平坦で、凍結した川の底のような直線。



その声は極めて軽く、だが一語一語が鋭かった:


「標準化は守りじゃない」

「それは窒息。消去。殺戮だ」



「お前たちは人類を救ったんじゃない」

「お前たちは、“存在”そのものを殺したんだ」



その瞬間、潜流シールドの周波数が一度だけ微かに跳ねた。

都市の骨格が、わずかに震えた。





蘇遠征が、低く反論した。

その声には感情の揺らぎはなかったが、その内側にある「確信」は鋭く透けていた。


「生存……それがすべてだ」


彼の眼差しは、鉄のように冷たく硬かった。


「標準がなければ、潜流チェーン(Drift Chain)は崩壊する。

それは“種の絶滅”と同義だ」


「どれだけ個が美しく輝いていようと——

都市を支える護盾シールドがなければ、それはただの塵にすぎない」



白瑾秋が、鼻先で笑いを漏らした。


「自由? 涟漪? 偏移?」


彼の口調は冷笑と怒気の中間だった。


「自由なんて、ただの浸潤だ」

「それは汚染だ。潜流シールドを崩す第一の裂け目だ」


彼は拳を振り上げ、テーブルに叩きつけた。


「当時、標準化実験を始めた理由を忘れたか?

それは、歪みを切除するためだった!」


「潜流抑制場(Suppressive Drift Field)——それこそが都市の“命脈”だ!」



羅琦は、黙ってその言葉を聞いていた。


やがて、ふっと笑った。

その笑みは、ごく軽く、ごく淡く。だが、その瞬間、空気の潜流粒子がわずかに震えた。


「お前たちの言う“生存”……」


「それは、自らをより強固な墓に閉じ込めただけだ」


「お前たちが守った“命脈”とやらは——

未来という可能性が芽吹く前に、そのすべてを絞め殺す、

ただの絞首ロープにすぎない」



その声は、夜の中に滲み出す血のように静かで、深かった。


「identity basinは、漂うものだ。

偏移するものだ」


「混沌の中で育ち、自由の中で跳ねる」


「それこそが“生きている”ということだ」


「たとえ失敗しても。

たとえ崩れても。

それが、“存在した”という証明になる」



彼の目が、静かに開かれた。


「お前たちは、自分を“偏移しない影”にした」

「敗北する資格すら、奪ってしまった」



その時、羅琦の潜流核の外縁に、かすかな涟漪が現れた。


同期抑制の束縛の中——

それでもなお、一筋の自由な揺らぎが、そっと偏移した。


誰にも気づかれないほど、極めて小さく、しかし確かに存在する波紋。


静寂の中に咲いた、一輪の逆流の花のように。



長い沈黙を破ったのは、ずっと黙っていた歴懐谨だった。


その声は老いて、掠れていたが、

潜流の底からわき上がるような確かな振動を帯びていた。


「我々は……

……恐れたのだ」



場が、一瞬で静まり返った。


蘇遠征が口を開きかけたが、言葉は出なかった。



歴懐谨は、杖の先で軽く床を鳴らした。

その響きは、潜流シールドを貫くように広がった。


彼の目は、シールドの上の波紋を静かに見つめていた。


「我々は、熵流が怖かった」

「偏移が怖かった。自由が怖かった」


「なぜなら、自由は制御不能だからだ」

「偏移は、崩壊を引き起こすからだ」



その声には、自嘲にも、懺悔にも似た響きがあった。


「だから我々は、選んだ」

「妥協を。標準を。生き延びることを——たとえ、それが“殻”だけであったとしても」



羅琦は、静かにその言葉を聞いていた。


彼は目を閉じた。

まるで、この冷たい都市に、最後の別れを告げるように。



軍部最高指揮ホール。

空気には、細かい潜流粒子の震えが満ちていた。


天井のシールドが淡く青く揺れ、誰にも気づかれぬように、

都市の“心臓”が、そっと、ひと筋の裂け目を生んだ。





歴懐谨は立ち上がり、杖を支えにしながら、

羅琦を見つめ、そして——かつて共に歩んだ、今はもう別物となった同僚たちを見渡した。


彼の声は、老いと共に低く乾いていた。

だがその中には、長い時間氷の下に沈んでいた潮が、今ようやく浮上してくるような響きがあった。


「潜流技術——

五十年前に生まれ、生体潜流場とモデルベクトル場が、初めて接続された」


「その瞬間、潜流の門は開かれた」


彼はゆっくりと顔を上げ、

その視線は、まるで時間の霧を貫いていた。


「我々はそれを、“進化への梯子”だと信じた」


「だが、それが“パンドラの箱”であったとは——

……誰も、気づいていなかった」


「接続された瞬間、生体潜流場は再構築され、basin曲率は不安定化し、

自由な涟漪は制御不能な連鎖崩壊の引き金となった」



その言葉を受け継ぐように、

蘇遠征が、冷たい声で続けた。


「潜流チェーンは、理論ではない。

それは“現実”だ」


「ひとつの偏移したbasin核が、局地断裂を引き起こす」


「そして、もしそれが連鎖すれば——」


「ひとつの都市が、一夜にして——

潜流の嵐に呑み込まれ、廃墟になる」



光幕に、過去の記録が映し出された。


潜流チェーンが崩壊し、護盾が落ちた都市。

basin核が暴走し、人々の思考が涟漪として空中に溶けていく。


——それは、災害ではなかった。


——それは、“絶滅”だった。



歴懐谨は、卓を指先でとんとんと叩いた。

その触れた先から、涟漪が広がっていく。

その波紋は、深く、重く、やるせなさに満ちていた。


「だから、我々は選ばねばならなかった」


「支配のためではない」

「独裁のためでもない」


「それは——

この都市が、一瞬で崩れるのを避けるためだ」



白瑾秋が、牙をむいて言った。


「自由? 涟漪? 偏移?」


「そんなものは、崩壊の前奏にすぎない」

「潜流チェーンの断裂を前にして、それは華やかな自殺だ!」



羅琦は、静かに、白瑾秋の言葉を聞いていた。


彼はゆっくりと首を垂れ、目を閉じた。

それは、まるで自分自身の追悼に耳を傾けているかのようだった。

あるいは——死んでしまったこの都市の亡骸に、黙礼を捧げているかのように。



しばしの沈黙の後、

彼は顔を上げた。


その声は静かだったが、氷の下で砕けるような暗い流れを孕んでいた。


「……お前たちは、恐怖を選んだ」


「潜流の暴走の前で——

お前たちは、跪いたんだ」



彼は、ふっと笑った。

その笑みは、ごく淡く、ごく軽く。

だがその笑みに、潜流粒子たちがほんのわずかに反応し、

空気が震えた。



彼は前に出た。

たとえ身体はまだ同期の鎖に縛られていても——

その一歩で、空間がわずかに揺れた。



彼は、ひとりひとりの目を見た。


歴懐谨を。

蘇遠征を。

白瑾秋を。

そして——この都市の中枢を。


その声は、鋭く、静かに切り込んだ。


「死を恐れるあまり——

お前たちは、自ら“未来”を殺した」


「殺されぬために——

お前たちは、自分自身を殺したんだ」



光幕上の都市潜流ネットワーク図が、わずかに歪んだ。


都市の構造自体が——

ほんの一瞬、静かに呻いた。



羅琦は微笑した。


その声は、かすれ、温かく、そして決して届かないほどに遠かった。


「……だが、教えてやる」


「真の“生存”とは——

凍結されたテンプレートの中で生き延びることじゃない」



「それは、裂け目と共に生きること」

「偏移しながら、熵の波の中を、踊りながら進むことだ」


「壊れた世界で、燃えながら、進むことだ」



彼はそっと目を閉じた。

その声は、潜流シールドの奥深く、旧時代の潮のように遠くから響いてきた。


「たとえ滅びても。たとえ堕ちても。

それでも——自由に、生きていたと、言えるように」



会議ホールは、しんと静まり返った。


誰も動かず、誰も言葉を発さなかった。



ただ、都市のはるか高く、潜流シールドが——

その奥で、ごく微かに「裂ける音」を立てた。


それは、凍っていた心臓が、

たったひとつ、小さな鼓動を打ったような——

静かな、始まりの音だった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ