心奥の燻りに感を塞ぐ
世界とは不明瞭で不条理で不均衡で、そして途方もなく難解だ。
ともすれば内に存在する人もまた、果てしなく難解なのだろう。
辞書によれば真理とは、真実の道理を示す熟語らしい。
それは思惟と存在、つまりは脳内の思考と現実の事物とが一致すること。
それは私論と世論、つまりは所有の命題と数多の諸命題とが一致すること。
ようは相違点がなければいい。
ようは矛盾が生じなければいい。
いつ何時も、永遠の不変を絶対とされた世界の理法。
不可侵に徹するそれは、科学技術を手にした生物でさえ介すことのできない境地。
思案すること20秒弱、その間に互いが互いから視線を逸らすことはなかった。
ベッドに横たわる少女と、その枕元に直立不動の影1つ。
不法侵入だとか、一体どこからとか、何が目的でとか、いろいろと考えるべきことはあるはずだ。
けれど非現実的かつ幻想的な影が与えやがった絶大なるインパクトは尾を引いて。
そこに在る者を、理解すべく努めた。
真っ白の長い髪が隙間なくその身を包む黒衣に映える。
上半分が悪趣味な人骨髑髏で覆われた顔。
垣間見える肌はそれこそ髪色と同じくらいに白い。
窪んだ髑髏の目玉に焦点を合わせていた視界の下方、一文字に結ばれていた口元がにたりと歪む。
嘲笑だった。
かろうじて見える病的な色の指先。
何もないはずのそこに、大きな鎌が見えた。
随分とビジュアル重視な姿だが、なるほどこれが噂に聞く死神というやつなのかもしれない。
少女の心を染めた恐怖は一息で限界値を振り切り、掻き消され、異常でありながら正常な思考が巡りだす。
「体を逆さまにして呪詛を吐けば、貴方は逃げてくれますか」
呪詛ではなく呪文だろうとすかさず自分に突っ込みを入れてみた。
性別のわからない、そもそも人であるかも判断し辛い影から嘲りが消える。
無を湛えたのは僅かの間、影は声をあげて笑い1度天井を仰ぎ、再び髑髏の目で少女を見下ろす。
「君、死の香りがする」
予感が確信に変わった。
「そうですか」
「随分と冷静だね」
「キャパ超えちゃって自棄になったのかもしれません」
確かに。
大きすぎる恐怖は少女という枠から飛び出し霧散した。
年端のいかない子供が持つ受容力など高が知れている。
許容範囲外。
眩暈がするほど相応しい言葉だ。
おそらく日付は変わっている。
となると今日は少女がこの世に生を受けた、さらには結婚可能な年になる祝福すべき日なのだけれど。
人生の終わりというオプションとともに、この真夜中を迎えてしまった。
広辞苑の初版が発行された日に死ぬとは想定外だ。
「ねえ」
「何ですか」
「僕が解る」
「解りません」
「死神だって、思わなかったの」
「貴方が死神だと言うのなら、間違いなく死神なんでしょう」
思わなかったわけじゃない。
寧ろそうであると根拠のない確信を抱いたほどで。
ただそれを実証する物は何もなく、推測の域を出ぬ曖昧な憶測でしかなかっただけだ。
影は、死神だった。
今この室内で、少女の部屋で明かされた1つの真実。
それが偽りである可能性なんて欠片も思いつかなかった。
死神といえば人骨が古ぼけたローブを羽織り、その手に鎌を携える姿が一般に広く知れ渡っている。
なればこの近代的かつ現代的で芸能活動でもしてそうな背格好は、何なのだというのだろう。
外見を生きた人の姿に似せる術か何かを習得済みなのかもしれない。
もしくは世間の見解が誤りで、目前の影こそが本来あるべき死神という存在なのかもしれない。
髑髏の下には果たして2つの眼があるのか。
あるとすればその瞳孔は何色か。
ぶつけるつもりのない疑問についてわざわざ頭を使うのは、非現実的に向き合う自分を確立する手段の1つだった。
「ねえ」
「何ですか」
「死神って解る」
「解りません」
「本当に」
「確信の得られないことは言いたくないもので」
死の神様なんでしょうけれど。
影は少し揺らぎ、体を屈めて距離を縮め、そうしてニヒルな笑みを浮かべた。
残り香に誘われ来てみれば、何てことはない、横たわる小さな人型。
ただの人間か。
そう思った。
けれど人型、もとい少女はあまりにらしすぎた。
泣かず嘆かず強がらず、まして縋ることも真偽を問うこともしない。
受け入れるだけ受け入れて、飲み込むだけ飲み込んで、その上自我は失わず、意思は手放さない。
今までの誰よりも生きたがり、死を恐れているくせに。
今までのどんな人よりも人らしい、在るべき姿の人。
生きたくて生きたくて、その思いに意志が置いていかれた。
その思いを認識することさえ許されなくなり、それは執着の薄れへと変じた。
面白い。
愉快だ。
なんて喜ぶべき、必然。
「君、生きたい?」
言った後で問いの無意味さに気付く。
死なせる気など欠片さえないのだから。
「人である限りは誰もが生きたがりますよ」
「じゃあ生かしてあげる」
僕が君を。
「私の記録を、奪いにきたのではないんですか」
「面白い表現をするね」
「私が踏んできた地面をたったの1文字で流すなんて御免蒙ります」
「2文字ならいいの」
「いいんです」
「そもそも文字数の問題なんだ」
「そういうわけでも」
影が上体を起こし背筋を伸ばした。
「ねえ」
「何ですか」
「君は死なないよ」
「死神が枕元に居たら死ぬ運命だと相場が決まっています」
「否定はできないな」
影が動く。
ベッドに広げられたタオルケットを踏みしめる音さえしない。
影が止まる。
少女の視線もまた足元へと移ろう。
影が振り返る。
伸びた手が髑髏を剥ぎ取った。
露になった人と同じ2つの眼は雪の色。
「ほら、これでいい」
呪詛を吐いても逃げないけどね。
色を忘れた影が笑う。
愉悦と歓喜に震える体を押しとどめて、ただ笑い、笑い、笑う。
それは些細な気紛れで。
それは一時の戯れだった。
はじめちゃった。どうしよう。