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ー天使ー
人が多い・・・。視界いっぱいに行き交う人々に露店で煽る店員。足早に過ぎていく人に、肩で風を切り追い越していく人。好奇心に誘われ、気づいたら異界の地に降り立っていた。
‟なぁ、嬢ちゃん。なぁにしてんだ?”
横から不意にかけられた言葉。自分に向けられた言葉と思えず、周りを見渡す。柔和な笑顔をした男性がこちらを見ていた。咄嗟に視線を下に背け、声をひねり出す。
「・・・私、ですか?」
「おう、お嬢ちゃん以外に誰がいるのよ。こんな場所に突っ立って何かお困り?」
「・・・お、お困りです」
信じられないかもしれないが、もうすでに私はキャパオーバーしていた。見慣れない光景に、予期せぬタイミングでの人間との会話。多少の心構えぐらいさせてほしい。
視線をずらしたのは失礼だったかと、今更思い至った私は外套のフードを脱いで、声をかけてきた男性の目をしっかりと見つめた。
「訳アリって感じだぁ~。ご飯でもどうよ。もちろん俺のおごり。ここらにはうまい飯屋なんていくらでもあるからな」
「は、はい」
フードを脱いで開けた世界はまた一段と色が足されたようだった。なんだか息がしやすく、足が軽い。人混みの中に埋もれそうな男性の背中を私は追っていく。
「俺の名前はアスバル。嬢ちゃんの名前は?」
「ノルンです。ア、アスバル、さん。ここは食堂ですか?」
「そうだな。夜は酒飲みどもが増えるから、酒場の方が正しいかもな」
「酒場というのですか・・・」
質問できた。会話ができた。名前も呼べた。人間は数多の同種とコミュニケーションをとり、協力して生きていく。知識として私は知っている。ただその通りであっただけなのに、口角が上がる。
‟おまちどぉ~”心のこもっていない軽い言葉で店員が現れる。テーブルに二、三品の大皿が並び、匂いと見た目が期待感を高めていく。
初めての人間の食事をするには、薄汚れた外套は似合わない。背中から足に沿わせるようにしまっていた『翼』を広げた。背筋を伸ばし、翼を広げる。"んッ"と、解放感に声にならない吐息が漏れる。
「ノルン、それはっ!?」
アスバルは素っ頓狂な声に押されるように椅子ごと身を引いて、桔梗紫の目を見開いた。目の奥には驚きとも怯えともとれる色が住んでいた。アスバルの大声と私の翼は、酒場の注目を攫うには十分だった。心地の良かった喧騒は、刺される視線の気になる沈黙に変貌した。
「い、いったん外に行こうか!」
「は、はいッ!」
アスバルは石のように硬直した私に外套を被せ、腕を掴んで店を連れて出す。まともな思考を取り戻した時には、何処にいるのかすら見当がつかない。何処に向かっているのか、この包み込むような手を握り返すことしかできなかった。
「適当に座ってくれていいぞ」
手を引かれるままに着いたのは彼の自宅?だろうか。ソファ、ベッド、テーブルと生活に必要な家具は揃っており、小奇麗にされている。若干の気まずさを持ちながら、ソファの隅にちょこんと座った。
「・・・ノルンは天使なのか?」
「違います」
「じゃあ、その純白の翼はなんなんだ?」
「半なんです。半。半分人間で、半分天使なんです」
自分でも珍しい存在であることは分かっている。アスバルはコップを持ち上げる手が止まった。何か値踏みされているような目線。
「・・・珍しいな。どこから来たんだ?」
「言ってもいいですけど、知る意味はないと思いますよ。ただ人間の街に来るのは初めてです」
あそこにはもう戻る理由がない。人間が行く理由もない。だから私はここにいる。
「なんでここに来たんだ?」
「一番ここが近かったからです。特別な理由はないですよ」
「じゃあ、他の天使はー」
「ー待ってください。私にだけ根掘り葉掘り聞くのはフェアじゃないと思いませんか?私もあなたも聞きたいことはあるんですから。一回ずつです。天使の話は貴重なんですから、これでもお得だと思いますよ?」
私の翼が少し跳ねる。生まれた風がアスバルの顔を押し返すように撫でた。こんな尋問みたいなのは面白くない。
「最初のはサービスってことにしましょう。次は私の番です。なんで私に声をかけたんですか?」
「あぁ~、そりゃ美人だったからだ。目を奪われた。そしたら連れもいない。それに挙動不審だったかららな。困りごとがあったのなら、助けになろうと思ってな。美人の手助けは喜んでだ」
アスバルは喉につっかえた物から出てきたものは予想外の褒め言葉だった。くすぐられる感覚をごまかすために、翼の羽毛を撫でる。思い返あせば美人と呼ばれるのは初めてだ。可愛いがられることはあっても対等な立場で言われるのは背筋が伸びる。一瞬、酒場の視線が脳裏によぎる。
「翼を見た後でもー」
「待て待て。一回ずつだろ?他の天使はどうしてる?」
「むぅ、私が知る限りいませんよ。私の知ってる天使は全員旅立ちました。だからここに出てきたんです。一人で生きていくのは苦労が多いですし、街に行けと言われてたので。そこからは自由にしろ、と」
今でも鮮明に思い出せる。この街に比べたら、小さな小さな天使の園。時間がゆっくりと流れる代り映えのない生活。微かに聞こえる誰かの鼻歌。天使たちの純白を模ったような寝顔。私の全部があった場所。
「ノルンは人間の世界で生きていきたいのか?」
「・・・そんなこと考えたことなかったです」
虚を突かれた。質問の順番など忘れる程度には。
「すまん、もっと軽いつもりで聞いたんだ。馴染むのも大変だろ?亜人も魔人も苦労してるみたいだしな。ハッピーに生きれるのかな、と?」
「ふふふっ、ハッピーですか?」
馬鹿馬鹿しい、アホらしい。真っ白な言葉は本質のような気もした。
「少々探し物もありましたが・・・。しかし、決めるには時期尚早です。アスバルが教えてください。幾ばくかの後、定めましょう。私からの質問は最後にします。人間の世界を紹介してくれませんか?」
アスバルは微笑んだ。とても無邪気に可愛く見えた。
「ッおう。任せろ!ノルンのことも教えろよな、天国にいく方法とかな!」
「はい!」
私をこみ上げる何かを抑えながら、元気よく返事をした。立ち上がってオペラでも歌って踊りたい気分だ。
「碌なものはないが自分の家だと思って好きに過ごしてくれ。足りないものはまた一緒に買いに行こう」
アスバルに会って心底よかった。人には一期一会という言葉があるんだ、と天使の一人が言っていた。同じ人が集う茶会でも、同じ茶会は二度とない。転じて人との出会いを大切にしなさいという意味を持ったと。元の場所では茶会も出会いも縁のなかったものだったが、胸に言葉が沁みる。
「そうだ、言っておくことがある。外に出るときには翼を隠すこと。体のラインが出ないようにするんだ。今着ているような外套とかのゆったりとした服を着ろ。何があっても脱ぐな。フードも被って顔も隠せ。家に人が訪れたときは俺が出る。俺がいない時に誰か来たら、絶対に出るな。無視だ。分からないことは俺に聞け。簡単なことでも、常識的なことでも。緊急時以外は俺に聞け。あと…」
口うるさぃ・・・。じんわりと温かくなった心は胸焼けのように重くなる。連日の一人旅に、見慣れぬ経験は疲労にへと繋がる。確かな理知を持つ言葉に、アスバルの回り続ける舌に、妙な安心感を覚える。最後は、雨音のように包み込まれ、意識が遠くなった。
ぼやけた視界に映る知らない天井。膨れ上がった恐怖で一気に覚醒する意識。朝日が窓から私の頬をなでる。
「人間の街なんだ」
ソファを抜けだしアイデンティティたる腕と白磁の翼を広げる。背中を反れば清々しい朝の始まりだ。
「ノルン、起きたのか」
「はい!おはようございます」
「今日はやることがたくさんある!服に、雑貨の買い物に街のルール、常識などなど天使様に人間を教えこむ!」
あれよあれよと、外に連れ出される。賑わいにつられるように活気のある声に近づいていく。
「おっちゃん、2つ!んっ、ノルンも食えよ」
アスバルは硬貨と引き換えに湯気を立たせる魚の串焼きをもらう。ほいっ、と一口齧りながら私に差し出してきた。
「・・・おい、食わないのか?まさか食事の必要性がないとかか?それとも生き物を殺すのがアウトか?」
「そ、そんなことありませんよ!もちろんいただきます。貨幣制度って本当にあるんだなって思いまして。聞いてはいましたが、やはり見た目はおかしいものですね」
「これまでどうしてたんだ?俺たち人間は金がなきゃ死ぬだけだ」
「すべてを分配したり、共有したりでしたね。人数が少ないからできたことです」
"人間の欲を加味すれば、それでも無理でしょうね"この言葉は心に仕舞った。
この塩焼きのおいしさも欲深さのおかげですかね。塩加減が絶妙です。食べないならアスバルの分もくれないでしょうか?冷めては味も半減です。
「ほかに食べたいものはあるか?」
「人間の食べ物なら何でも!」
貨幣だって湧いて出てくるものではない。仕事の対価にもらうものだ。私のために躊躇なく使ってくれるとは。アスバルが特殊なのかは分かりませんが、なんと優しい。貨幣は欲望によって生み出されたのではなく、奪い合いをなくすための側面の方が強かったりするのでしょうか。
「なら中心一択だな!大体そこで俺たちが欲しいものは揃うだろ。飯だってそこで選び放題だ」
これ以上賑わってるところがあるんですか!?・・・憂鬱ですね。もちろん楽しみでもあるんですが。活気のある所は何かエネルギーが奪われるような気がします。この落ち着かない雰囲気がダメなんですかね?けれども食べ物です。美味しい物は苦痛を忘れさせてくれます。