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第55話 娘の作文

 賑やかだった運動会が幕を閉じ、ほんの少し涼しくなり始めた十月のある日。

 この時期恒例で行われる保護者懇談会に足を運んだ一ノ瀬さくらの母、明日香は、教室で担任教師と向き合っていた。


「最近どうでしょうか、うちの娘」

「ええ、よく頑張ってますよ。もともと勉強はよく出来てましたけど、二学期に入ってからは苦手だった体育も積極的になった印象です」


 話し易そうな印象の、自分とあまり歳の変わらなさそうな少し背の高い女性教員は、落ち着いた口調で学校での様子を語った。


「そうですか。あの、それでクラスではどんな感じでしょうか?」

「私の見る限り、それなりに良好だと思います。新しいお友達も出来たみたいですし」

「そうですか」


 あまり学校の話をしたがらなかった一学期と比べて、夏休み以降、娘の雰囲気は明らかに変わった。どうやら学校でも目に見える変化があったらしい。


「なんだか夏休みが終わってから、さくらさん雰囲気が変わりましたね。一学期は少しクラスの雰囲気に馴染んでないといった感じでしたが、今は表情が明るくなりましたね。コンクールで入選して自信をつけたんでしょうかね」

「コンクール?」


 いったい何のコンクールだろう。教師の言っていることがさっぱり分からず、明日香は聞き返した。


「区の主催する夏休み作文コンクールですよ。お母様もさくらさんの書いた作文、お読みになられてますでしょう?」

「いえ、初耳です」


 その返答に、担任教師の表情が一変して険しくなった。


「それはどうゆうことですか?」


 逆に質問をしてきた担任教師に、事情を把握できていない明日香は何も返すことが出来ない。


「失礼ですけどお母様、お子さんとちゃんとコミュニケーションをとっておられますか? 最近は子供に対して無関心な親が増加していると聞き及んでます。もしかして……」

「いえいえいえ、うちは親子共々仲良しですよ。コンクールのことをここで先生から聞かされて、私が吃驚しているくらいですから」

「そうですか……」


 先生はまだ納得していないような雰囲気だった。

 しかし、教師の心情よりももっと大事なことがあった。


「すみません。コンクールのこと、少し順を追って説明して頂けませんか?」


 話を聞いてみると、問題の作文は、夏休みの課題として出された「私の夏休み」というテーマの作文だった。

 夏休みの課題の作文は、毎年教師によって優秀作品を学年ごとに選出し、区のコンクールに推薦するのだと言う。


「一ノ瀬さんの作文は本当に秀逸で、教師一同満場一致で区のコンクールに推薦いたしました。しかし、区から先週返却された作文を、お母様がまだ読んでおられないというのはどういうことなのでしょう」


 それを聞きたいのはこちらの方だった。

 教師の不信感を拭いきれないまま、個人面談を終えた明日香は学校を出た。

 急いで帰宅すると、壁に掛けてある時計を見上げてからすぐに娘の部屋へと向かった。

 娘は今、習字の教室に行っているのでしばらく帰って来ない。

 机の前で明日香はしばらく立ち尽くす。

 こんなこと、たとえ親子であってもしてはいけない。

 分かっていながらも、明日香は娘の机の引き出しを開けた。

 区のコンクールで入賞したのに、親に見せようとしなかった作文。それにはどういう意味があるのだろう。

 綺麗に重ねられた封筒の下にその原稿用紙はあった。


「ごめんね」


 ひと言呟いて、明日香は原稿用紙を開いた。

 少し右肩上がりの丸みのある文字。娘の書く見覚えのある字体が、そこに綴られていた。


 私の夏休み 三年二組 一ノ瀬さくら


 一学期の終業式が終わった翌日のことです。

 あまり変わり映えのしない夏休みを送るはずだった私に、今年はお母さんが山村留学というプレゼントを用意してくれました。

 留学先の村はお母さんが少女時代を過ごした緑豊かな田舎で、とても遠い所でした。

 本当に何もないただ美しいだけの里山。それがお母さんの故郷、和歌山県上ノ郷村でした。

 そして、期待と同じくらいの不安を抱いて村を訪れたあの日、私は夏の妖精と出逢ったのです。


 そこから先には、あの里山での日々が瑞々しく綴られていた。

 高くて青い空。見渡す限りの山々。どこまでも広がる緑の田畑。蝉の声に包まれた里山の夏を駆け回る娘が、作文の中で息づいているようだった。

 原稿用紙を持つ指先が自然と震える。

 まるで、小学校三年生の娘の目をとおして、あの夏の体験をしているようだった。

 作文を読み進めながら胸がいっぱいになっていく自分を、明日香は感じていた。

 

「さくら……」


 一度目を閉じて、明日香は胸に手を当てる。

 お日さまのような少女に手を引かれて、娘は一生忘れられないような冒険をした。

 それはまるで、遠い昔に明日香自身が、あの特別な友達と過ごした日々のようだった。

 大きく息を吐いて、明日香は作文の終盤にまた目を戻す。


 親切な村の人たちからたくさん思い出をもらった山村留学は、あっという間に終わってしまいました。

 それは本当に夢のようなお母さんからのプレゼントでした。

 別れ際、私はたくさんの人から優しい送る言葉をもらいました。

 でもその中で、あの同級生の女の子だけが私を引き留めようとしました。

 行かないでって。たくさん泣いてくれました。

 私はまだ小学三年生です。

 それでも、彼女が一生に一度出会えるかどうか分からない特別な人であったのは間違いありません。

 もう二度とあんな特別な友達には出逢えない。私はそう思うのです。

 あの日、私はさよならを言いませんでした。

 何度も何度も、ありがとうと、言い尽くせない感謝の言葉だけを彼女に伝えました。

 私にはわかるのです。

 私たちの冒険はまだ終わっていないのだと。

 お母さんのように、また再び、いつかきっとあの夏の続きが始まるのだと。

 それまでは、お手紙をいっぱい書こうと思います。

 そしてまたいつか、私と同じだけ大きくなった夏の妖精と、冒険の続きをしたいと思います。


 作文を読み終えた明日香はそのまま呆然としていた。

 やがてその目から涙が溢れ、頬を伝い落ちていく。


「さくら……」


 涙を手の甲で拭って、明日香は読み終えた原稿用紙を机の上に広げた。

 そしてポケットから取り出したスマホに作文の写真を収めた。

 そしてそのままスマホを操作して電話を掛ける。


「もしもし、私。あなたに見てもらいたいものがあるの……」

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