第54話 夏が過ぎ去った後に
夏休みが終わり、二学期が始まった。
未だ残る熱気に汗を滲ませながら、通学する大勢の小学生に紛れて久しぶりの校門をくぐれば、そこには大して広くないグラウンドと、立派な白い校舎がある。
あべこべだな。
私はあの里山の小学校を鮮やかに思いだす。
無駄に広いグラウンドと、小さくて可愛らしい白い校舎。
私はそこで夏の妖精に手を引かれ、陽気な子供たちとウサギを捜した。
確かに存在していた筈の、あの少女と過ごした夢のような日々が、本当は夢であったかのように今は思える。
数えるほどしか子供たちのいなかった里山の小学校に比べて、気を付けて歩かなければ肩をぶつけてしまいそうなくらい、ここには大勢の子供たちがいる。
それなのに、誰とも口をきくこともなく一日を終えることも珍しくない。
「本当にあべこべだ……」
たった一人の特別な同級生がいたあの夏の日々。
あのお日さまのような少女が手を引いてくれたなら、きっとどこにいたって素敵な場所になるのだろう。
私はいつも繋いでいた掌を見つめながら、またあの懐かしい面影を思い出していた。
三時限目の体育の時間。
真っ直ぐな白線のひかれたグラウンドで、私は順番を待っていた。
運動会に向けての五十メートル走の練習。
クラスでも足の遅い自覚のある私は、消極的な気分を抱えつつ、スタートを切る男子の背中を眺めていた。
すぐに女子の順番が来て、やがて自分のグループの番が来る。
隣で軽く足を動かしているのは、私の苦手な女の子。
運動があまり得意でない私を、うっとしくからかってくる、スポーツ万能気取りの嫌な子だ。
そして今日も、くだらない挑発をしてくる。
「ねえ、一ノ瀬さん、競争しようよ」
私は彼女と目を合わせない。
この子は勝てる相手としか競争しない。丁度隣にいたカモを弄って愉しんでいるのだ。
「無視? いいわ。あんたには絶対負けないから」
勝手に喧嘩を売って、勝手に勝負する気になっている。
本当にうんざりだった。
横一列に並んだ五名の女子は、私以外はみんなそれなりに足の速い子たちだった。
狭いグラウンドには夏の名残のような陽炎が揺らめく。
「よーい」
先生の笛の合図がピッと鳴って、グループが一斉に駆け出す。
少しスタートが遅れた。
僅かにもたついた私は、駆け出してすぐに違和感を覚えた。
あれ?
視界に入るクラスメートたちの背中がまだそこにある。
そして私はやっと気付いた。
そうか……みんなそんなに速くなかったんだ。
私の記憶の中で、あの眩しい後ろ姿が鮮明に甦る。
あの里山で、私の手を引いて前を走っていた少女の方がずっと速かった。
「こっちや。さくらちゃん」
私はそのまま夏の妖精の面影を追いかける。
私は君に手を引かれ、ヒグラシの坂を歩き、お稲荷さんに続く長い石段を上り、あの里山を毎日のように駆けまわった。
どんなに頑張っても、君には追いつけなかった。
だけど……
ゴールした私は、グループの子たち全員を追い抜いていた。
「すごいじゃない、一ノ瀬さん」
予想外の走りをした私に、続いてゴールしたグループの子たちが次々と声を掛けてきた。
挑戦状をたたきつけてきたあの女の子だけは、何も言わずそそくさと退散していったが、意外性がきっかけとなり、私は今まで話したことも無かったクラスメートと言葉を交わしたのだった。
体育の授業が終わって、私は乾いた喉を給水機で潤す。
冷たい水を飲み終えて、私は口元を拭った手を開いて見つめていた。
「また手を引いてくれたんだね……」
私は遠く高い空を見上げる。
この青い空の下のどこかにいる君を想って。
九月が終わりに近づき、海外に出張へ行っていたお父さんが一時帰国した。
一年のうちの半分をドイツで過ごすお父さんは、実際かなりの子煩悩で、娘の学校行事に合わせてたびたび帰国していた。
今回は娘が運動会で走る姿をこの目で見ようと、たくさんのお土産を持って帰国し、そして運動会の当日、気まぐれな雨に降られ、予定していた運動会は翌週に流れた。
仕方のないことだが、折角駆け付けたお父さんは、何の成果もなくとんぼ返りすることとなった。
「まただ。我ながら本当に運がない……」
こうしてお父さんが空回りする姿を、もう私は何度見たことだろう。
自宅のマンションの夕食の席で残念がるお父さんを、お母さんは苦笑交じりに慰める。
「あまり気を落とさないで。運動会のビデオは送ってあげるから」
「ありがたいけど、生で見たかった」
明日の朝早く、またお父さんは飛行機に乗らなければいけない。お母さんに倣って、私も思いつく慰めの言葉を言っておいた。
「私もお父さんに見て欲しかったけど、またビデオで見て。私、今回は頑張るから」
「ああ、期待してるよ。でも今年はリレーメンバーに選ばれたんだろ。心残りで仕方ないよ」
「じゃあ、来年もリレーメンバーに選ばれるよう頑張る」
私の通う学校では、クラス対抗リレーのメンバーはタイム順で選出される。
50メートルのタイム計測で私は良い成績を出し、400メートルを男子四人、女子四人でバトンを繋ぐメンバーの中に選ばれたのだった。
「来年か……」
箸を止めて、お父さんはポツリとそう口にした。
「なあさくら、学校はどうだ?」
「え、まあ普通だよ」
「そうか……なあ、さくら、もし転校することになったらお前は大丈夫かい?」
「え?」
唐突なお父さんの話に、私は食べていた箸を止めた。
「いや、夏休みに入る前にな、お母さんと話してたんだ。お前あんまり、クラスの子たちと合わないみたいだし、それなら家族三人、向こうで暮らすのもありかなって」
「向こうって……」
フッと目の前が暗くなった気がした。
お父さんの話はまだ続いていたが、その声はなんだかとてもうつろだった。
「まあ驚かせるつもりはなかったんだけど、それもいいかなって思ってさ。そうしたらお父さんも毎日さくらの顔が見れるし……」
それはきっと大切な話だったのだろう。
お父さんの話をなんとなく理解しながら、私はぼんやりとした頭の中で、それが現実でないことを願っていた。




