第53話 さようなら小春ちゃん
窓の外から聞こえてくる野鳥のさえずりで私は目を覚ます。
斜めに射し込む朝の光が彩る部屋で、私は布団から身を起こし、出かける準備をする。
顔を洗ってさらに目を覚まし、寝間着をTシャツに着替えると、今日もあの明るい声が私の名を呼ぶのだ。
「さくらちゃーん」
急いで靴を履いて玄関を出ると、そこには虫籠と虫捕り網を持った夏の妖精が立っている。
私はその眩しい姿に、今日も一瞬見とれてしまう。
「おはよう。小春ちゃん」
そして私たちはいつものように手を繋ぐ。
まだ涼しい木漏れ日の道を歩いて、ちょっと尖った姿をした茶色く光る宝物を探すのだ。
そう、今日で最後なのだ。
もうほんの少しで、二人の冒険は終わりを迎える。
この木漏れ日の道を、こうして二人で歩くことはもう無いのかも知れない。
目に焼き付けておこう。私はそう思う。
この美しい里山の夏の何もかもを。そして、大切なあなたの全ての表情を。
「今日も暑くなりそうや」
「うん。そうだね」
木漏れ日の隙間を見上げた小春ちゃんの横顔に、いつもと違う表情が見える。
きっと私も同じ様な顔をしている。そう思いながら、今日一番に鳴き始めた蝉の声に、私は夏の終わりを感じてしまっていた。
カブトムシを二匹捕まえて戻ると、お母さんは当たり前のように二人の朝食を用意してくれていた。
「荷造りはそんなにないし、二人で遊んできていいわよ」
お母さんに甘えさせてもらい、私達は最後の冒険に出掛けた。
水筒とお弁当を小さなリュックに詰め込んで、私達は麦わら帽子姿で日陰を探しながら緩やかな坂道を辿る。
そして、今まで行ったことのない山道に足を踏み入れた小春ちゃんに私もついていく。
夏場にハイキングなどあまりしたことがない。
今日、小春ちゃんがこうすることを選んだのは、きっと理由があるのだろう。
それから私達は、あまり整備されていない片道四十分程度の山道を、たくさん汗を流しながら登り切った。
「あれやよ」
小春ちゃんが指さした先には、長く伸びた雑草に埋もれるかのように、木造の朽ちかけた展望台がひっそりと設置されていた。
「ちょっと待っといてな」
小春ちゃんはかなり用心しながら、ともすれば踏み抜いてしまいそうなボロボロの階段を上がって行く。
「行けそうやよ。さくらちゃんも上がっておいで」
手を差し出してくれた小春ちゃんに掴まって、何とか階段を上がると、そこには雑草で阻まれて見えなかった胸をすくような景色が広がっていた。
「すごい。山の向こうまで見渡せられる」
「そうやろ。ここからやったらさらに遠くまで見通せるねん。ほらさくらちゃん、後ろ向いてみて」
「あっ!」
振り返ってみてやっと気付いた。
「海だ。海が見える」
「そうやろ。ここからやったら海まで見えるねん」
はるか遠く、そこに広がる海の色は青くって、なんだかドキドキした。
ずっと向こうの綺麗な海に、このまま手を繋いで飛んで行けそう。私は夢のようにそんなことを思い浮かべる。
「よっしゃー、さくらちゃん一緒にいくで!」
「え?」
「ちょっと遠いけど、二人なら声だけやったら行けるかも知れん!」
「うん。そうだね!」
そして私たちは大きく息を吸い込む。
「ヤッホ―――!」
高らかに伸びやかに、私達の声は真っ直ぐに夏の空を突き抜けていく。
私たちの声は海まで届いただろうか。
返って来たやまびこに、私達は喜び合う。
「さくらちゃんと海まで行ってしもうた」
「うん。行っちゃったね」
どこまでも青い、無駄なものなど一切無い空の下、私たちの冒険はこうしてフィナーレを迎えた。
展望台でお弁当を食べて山を下りると、私と小春ちゃんは一旦家へと戻るために言葉少なく歩き出した。
空に高く伸びる白い入道雲。太陽の眩しさに目を細めながら、私たちは言葉少なく帰り道を辿る。
分かれ道にさしかかっても、繋いでいた手を放してしまうのがどうしてもできない。
手を繋いだまま立ち尽くす木漏れ日の道。
蝉の声がいつものように五月蠅い夏休みの午後。
私達の世界は何も変わらないようで、変わり続けている。
時が来たのだ。
伏し目がちに黙り込む小春ちゃんに、私は感謝を伝える。
「ありがとう。本当に楽しかった」
「うん……」
お礼を言うと、小春ちゃんは繋いだ手を見つめたまま小さく頷いた。
「私、手紙書く。小春ちゃんにいっぱい」
「うん……うちも書く……」
俯いたままの小春ちゃんには、いつものお日様のような笑顔はなかった。
夏の風が頭上の枝を揺らしてさらさらと音を立てる。
名残惜し気なニイニイ蝉の声が、フッと途絶えた。
そして私たちは繋いでいた手を放した。
すごくすごく苦しかった。
「じゃあ、また後でね」
「うん。また後で」
それだけの言葉を交わして、私たちは小さく手を振った。
最後の手続きの為、役場に寄らなければいけない私たちを、小春ちゃんはお母さんと車で見送りに来てくれることになっていた。
分かれ道で手を振った後、小春ちゃんは山側に、私は麓側への道を辿る。私は一度立ち止り、坂道を辿る小春ちゃんの麦わら帽子を見送った。
それから私は、木漏れ日の道を辿りながら、こらえきれない涙をたくさん流した。
お世話になったログハウスを出て、私とお母さんは車で山を下りた。
流れていく車窓からの景色。
白い校舎の小学校が、感傷に耽る間もなく、あっという間に遠ざかって見えなくなった。
それから役場に行って、お世話になった山崎のおじさんにお礼を言った。
おじさんはやっぱり溌剌としていて、それでもどこか寂し気に、またおいでと私たちを送り出してくれた。
立派な役場の外に出ると、手続きを終えた私たちを小春ちゃんは母親と共に待っていてくれた。
「また淋しくなるね」
小春ちゃんのお母さんは、山崎のおじさんのようにどこか寂し気な笑顔でそう言った。
そして私の目線に合わせるように膝を折って、ニコリと笑った。
「さくらちゃん。また遊びに来てね」
「はい。ありがとうございます」
そして、小春ちゃんのお母さんはお母さんの手を取って、明るい声でお別れの言葉を口にした。
「たくさんの思い出をくれてありがとう。明日香ちゃん」
「私こそ。素敵な思い出をありがとう。園枝ちゃん」
そして、どちらからともなく、二人はお互いの背に腕を伸ばし、きつく抱きしめあう。
「元気でね……明日香ちゃん」
「園枝ちゃんも……元気でね」
しばらくの抱擁のあと、二人は目頭を赤くさせたまま、ゆっくりと離れた。
遠いあの日に叶わなかったお別れを、二人は今ここでやり直したのだ。
そして小春ちゃんのお母さんは、下を向いて黙り込んだままの小春ちゃんの頭に手を載せた。
「さあ、小春。あんたもさくらちゃんを送り出してあげて」
小春ちゃんは唇を真一文字に結んで、頭に載せられた手をパッと振り払った。
「いやや。うち、さくらちゃんと一緒がええ」
「小春、その話は昨日したやろ。笑って送り出したげるってお母さんと約束したやろ」
困り顔を見せたおばさんに構わず、小春ちゃんは駄々をこねる小さな子供のように、首を大きく横に振った。
「そんなん出来へん。こんなに悲しいのになんで笑えるの? うちはいやや。明日も明後日も、ずっとさくらちゃんと一緒がええねん」
小春ちゃんは顔を真っ赤にしながら目に涙をいっぱい溜めて、母親に食ってかかった。
そんな娘の気持ちを受け止めるかのように、おばさんは落ち着いた口調で小春ちゃんをなだめる。
「あんたがそんなこと言ってたら、さくらちゃんが帰り辛くなるやろ。ちゃんとお別れしてあげるんや」
「いやや。うちはお別れなんかせえへん。さくらちゃんやって帰りとうないはずや。な、そうやろ」
その必死さに私の胸はいっぱいになる。
彼女の必死さに応えたくて、何か声を掛けたかったが、どうしても言葉が出てこなかった。
小春ちゃんは今度はお母さんの腕をとって訴えかける。
「お願いや。さくらちゃんを連れて行かんといて。うちからさくらちゃんを奪わんといて」
「ごめんなさい。小春ちゃん……」
それでも小春ちゃんは諦めずに、立ち尽くす私の腕を掴む。
「いやや。さくらちゃんがおらんといやや……」
まっすぐな小春ちゃんの言葉に私の胸は張り裂けそうだった。
帰りたくない。そう素直に言葉にして、あなたと一緒にいられたらどれほど嬉しいだろう。
私の口から出てきたのは、言葉ではなく小さな嗚咽だった。
「うっ、うっ」
流れ出した涙が頬を伝う。拭っても拭っても、涙は止まることはなかった。
それは別れの寂しさからか、それとも彼女の思いの大きさを知ったからか。
「さくら」
嗚咽し続ける私の肩にお母さんの手がそっと置かれた。
「小春ちゃんの気持ちにちゃんと応えて」
拭いきれない涙がぽたぽたと足元に落ちていく。
「小春ちゃん……」
嗚咽混じりに、私は気持ちを言葉にしようと藻掻いた。
「ありがとう。ありがとう……」
気の利いた言葉は何も出てこなかった。
ただ、悲しくて、胸が痛くて、私は大切な友達に送る感謝の言葉を繰り返した。
「ありがとう。本当にありがとう……」
「いやや。行かんといて。行かんといて……」
縋りついてくる小春ちゃんの涙が私の服を濡らす。
「小春。さくらちゃんを泣かしたらあかんやろ」
そのひと言で、小春ちゃんは私の腕を放して、母親の胸に飛びついていった。
「わぁぁぁーうわぁー」
わんわんと声を上げて号泣する小春ちゃんを、おばさんは抱き締めてなだめる。
大きくて良く通る声。
小春ちゃんの声は泣き声だってこの里山に響き渡るんだ。
「小春ちゃん、さくらと仲良くしてくれて本当にありがとう。きっとまた来るから。元気でね」
お母さんは号泣したままの小春ちゃんにそう声を掛けて、私に最後のお別れを言っておくよう促した。
「小春ちゃん……元気でね」
背を向けて母親に縋って泣き続ける小春ちゃんに、私はやっとそれだけ言うことが出来た。
「じゃあ、園枝ちゃん」
「うん。また会おうね」
それからお母さんに促され、私は車の助手席に乗った。
窓を開けて手を振っても、小春ちゃんは母親にしがみ付いたまま号泣し続けていた。
「ありがとう。小春ちゃん」
最後の言葉は小春ちゃんに届いただろうか。
車が発進して、泣き叫ぶような声がゆっくりと遠ざかっていく。
痛々しい彼女の姿を見ていられずに、私は涙に滲んだ景色に目を向ける。
悲しい別れには似合わない程の穏やかな里山の夏の景色。
今日の続きがどこまでも続いていて、また明日ねって、そう言って手を振れたなら、どれだけ幸せだっただろう。
「さくらちゃん!」
バックミラー越しに駆けてくるその姿に、私は振り返る。
「小春ちゃん!」
窓から顔を出して、私は自分の出せる精いっぱいの声で名前を呼んだ。
顔をくしゃくしゃにして、小春ちゃんは真っ直ぐに続く道を必死で走って来る。
そして、あんなに足の速かった小春ちゃんが遠ざかってゆく。
あふれ出る涙が止まらない。
「小春ちゃん!」
緩やかなカーブにさしかかり、やがて小春ちゃんの姿は見えなくなってしまった。
あのよく通る声も、もう聞こえてこない。
私は気付かないうちに、声を上げて泣いていた。
涙で滲んでしまった、きっとどこにでもある里山の景色。
あなたと並んで見たその景色は、本当に美しかった。
小春ちゃん。
あなたに出逢えて本当に良かった。
初めてこの里山へ来た時、正直私は期待よりも不安の方が大きかった。
でも私はあなたに出逢った。
夏の陽光の下に現れた向日葵柄のワンピースを着たあなたは、まるで夏の妖精のようだった。
あなたと駆け抜けた世界はとても鮮やかで、その何もかもが美しかった。
ありがとう、小春ちゃん。
私はあなたを忘れない。
あなたと過ごしたこの里山の夏を、私は絶対に忘れない。
初めてここへ来た時と同じ夏の空の下、開け放った窓の向こうで、どこか寂し気な蝉の声が物語の終りを告げる。
さようなら、私の夏の妖精。
こうして、私の忘れられない夏休みは静かに過ぎ去っていった。




