第38話 温泉へ行こう
野球の日から一夜明けて、私は全身に疲労感を覚えつつ、目を覚ました。
夢中でやっていたので気付かなかったが、流石にプールと野球というのはきつかったようだ。今日はきっと小春ちゃんも少し遅くまで寝ているに違いない。
お母さんはもう起きているようだ。起きあがって窓を開けると、雨の匂いのする里山の空気が部屋に入ってきた。
そう言えば、昨晩遅くに雨の降る音を聴いた気がする。
湿度を含んだいつもより涼しい空気を吸い込むと、また少し頭の中がはっきりとして来た。
「おなかすいたな……」
この里山に来てからというもの、私はとにかくよく空腹感に襲われていた。
自動車が電気やガソリンで動くように、人間も燃料を入れてやらないとガス欠になる。そして、小春ちゃんと行動を共にするには、たっぷりのエネルギー補給が欠かせない。
丁度お母さんがトーストを焼いてくれていたので、私はすぐに朝のルーティーンを済ませて席に着く。
「今朝はよく寝てたわねー」
「へへへへ」
私は笑ってやり過ごす。
昨日帰ってから、私はお母さんに野球で活躍したことをいっぱい話した。
お母さんは私の小さな冒険譚を最後まで楽し気に聞いてくれた。しかし、プールの後に炎天下で野球をしていたことについては、軽く小言を言われた。
「また熱を出して寝込んだって知らないわよ」
折角お母さんが滞在期間を延長してくれたのに、また熱を出す原因を作ってはいけないのは重々承知していた。
あまり疲れを貯めるとまた熱が出かねない。今日ぐらいは少しゆっくりしておいた方がいいかも知れない。
「ねえさくら、今日は何をする予定なの?」
「えっと、まだ決めてなくって。取り敢えず今日は、朝ご飯を食べた後、小春ちゃんの家に遊びに行く約束なの」
「あら、そうなの?」
お母さんは少し意外そうな顔をした。小春ちゃんと朝ご飯をここで一緒に食べることが、お母さんの中では当たり前になっているのだろう。
「今日はカブトムシ獲りはお休み。夜から朝にかけて雨が降るって言ってたから」
「そうだったわね。本当に雨が降ってたし」
お母さんと二人で食べる朝食。
東京にいたときにずっとそうしてきた馴染みの景色だった。
朝が早く、さらに出張がちのお父さんとは、あまり普段一緒にご飯を食べなかった。
それが私のあたり前で、お母さんの当たり前だった。
なのに今、隣の席に小春ちゃんがいないことに、言い尽くせない物足りなさを私は感じていた。
きっと私のあたり前は、もう前の当たり前ではなくなってしまったのだ。
軽く焦げ目のついたトーストを齧りながら、そんなことを考えていた時にお母さんが口を開いた。
「ねえさくら、予定決めてないんだったら、今日はお母さんとお出掛けしない?」
突然のお母さんの誘いに私は躊躇ってしまう。こっちに来る前、お母さんは私にこの故郷を案内してあげると言っていた。
でも、ここへ来てすぐ、私は夏の妖精に出逢ってしまった。
お母さんと巡るはずだった夏の里山を、私は夢中で小春ちゃんと駆け回ったのだった。
間違いなくお母さんは、私に新しいお友だちが出来たことを喜んでくれている。でも、それとは別にお母さんもこの故郷で、娘との夏の思い出を作りたいと思っているのではないだろうか。
なかなか返答できずに困っていると、お母さんは見透かしていたようにクスリと笑った。
「分かってるって。勿論小春ちゃんも一緒よ」
「なんだ、びっくりしたー」
胸を撫で下ろすと、お母さんは今日これからどこへ行くのかを話してくれた。
「上ノ郷村のはずれにね、村営の温泉があるの。今日はそこへ行かない? 露天風呂もあるのよ」
「行く行く。温泉なんて久しぶり」
「じゃあ決まりね。じゃあ、園枝ちゃんに電話しとくわね」
それから、小春ちゃんを迎えに行ってから、お母さんの運転する車で三十分ほどかけて、私達は村はずれの温泉施設までやって来た。
「実はここも、さくらちゃんを連れて来たかったとこの一つやねん」
車を降りて明るくそう言った小春ちゃんは、きっとそのうちに自転車で私と来るつもりだったのだろう。
どう考えても自転車では遠すぎる。途中急坂もあったりしたので、エアコンの効いた車で来れたのは本当にありがたかった。
道すがら小春ちゃんは、村営のこの温泉にもう何度も来たことがあると言っていた。
大概は家族そろって車で来るらしいが、ゆきねえと自転車で来たこともあるらしい。
無尽蔵の体力を誇る小春ちゃんなら可能だろうが、私は辿り着ける自信が無かった。
小春ちゃんを先頭に、施設の重たい扉を開けて中へ入ると、受付のカウンターにいた小太りのおばさんがすぐに声を掛けてきた。
「小春ちゃんやないの。えらい早いねえ」
「おばちゃん、紹介するわ。さくらちゃんとさくらちゃんのお母さんやねん。いまうちらの村に留学中やねん」
「ああ、山村留学の。よう来てくれたねえ」
きっとそうだと思っていたが、やはりこのおばさんとも小春ちゃんは顔馴染みだった。
どこに行っても可愛がられる人懐こい猫のように、やはり小春ちゃんは誰からも愛されていた。
「おばちゃん、村の子供は二百円でええんやよね」
「そうや。上ノ郷村のもんは半額やよ」
「ほんなら、みんな半額でええんやろ。さくらちゃんのお母さんはうちの村に里帰りしたわけやし、どう考えても二人は村の人やろ」
小春ちゃんの理屈は微妙だったが、おばさんはニコニコ笑って了承してくれた。
「ほんまや。小春ちゃんのゆうとおりや。ほんならお母さんが三百円で子供二人で二百円ずつや。なあ小春ちゃん、合計いくらかわかるか?」
「そんなん簡単や。みんなで七百円やろ」
「流石三年生やね。大したもんや」
「うち算数は得意やねん。この間の割り算のテスト、百点やってん」
得意げに胸を張って見せた小春ちゃんがとても可愛い。
君は本当に猫のようだ。
私はこの愛くるしい同級生に、またちょっとやられてしまっていた。