第37話 ゲームセット
五回の裏。最終回の攻撃は一番打者からだった。
一年生のこの葉ちゃんは三振し、続くもう一人の一年生、足立蓮君はショートゴロに倒れた。
ツーアウトで回ってきた打順に、私はネガティブなシナリオ以外浮かんでこなかった。
きっとここでアウトになって、四番の小春ちゃんに繋ぐことが出来ないまま終わってしまう。
「いけー! さくらちゃん!」
小春ちゃんを筆頭に、チームのみんなの賑やかな声援が私の背中に掛けられる。
その声に背中を押されるように打席に立った私は、とにかくバットを構えた。
坊主頭のたっつんは、やや警戒気味にかなり内角を攻めてくる。
下投げのボールなので、バットに当てることは出来そうだけれど、手元に来るボールはかなり打ち辛い。
「ピッチャーストライクはいらへんで。 そのうちデッドボールや!」
小春ちゃんが軽くヤジを飛ばす。
デッドボールという言葉を意識したのか、たっつんの内角攻めが少し甘くなった。小春ちゃんの誘導に上手く乗せられた感じだ。
続けて入ってきた甘い球を、私は振り抜いた。
ポンと弾んだボールはファールラインを割っていく。
「その調子やー! 次は絶対ええの打てるでー!」
小春ちゃんの声援を受けると、不思議と自信が湧いてきた。
何となく打てそうな気がする。根拠も何もないけれど、自分の打った球が、この夏の空に綺麗に飛んでいきそうな、そんな気がした。
そして次の球を私は振り抜いた。
パン!
小気味のいい快音。
手元に伝わるその手応えと仲間の歓声に、体中が高揚感に包まれる。
内野の頭上を越えていったボールを目で追いかけていた私は、小春ちゃんの良く通る声に呼び戻された。
「走れー! さくらちゃん!」
ひときわ大きな歓声に、私は慌てて全力で走り出す。
一塁ベースに向かう私の背中に、小春ちゃんの声が追いついて来る。
「セカンドまで行けるで! さくらちゃん!」
一塁ベースを踏んでそのまま私は二塁を目指す。
歓声の中で駆け抜けるグラウンド。
夏の暑さを忘れてしまうほどの興奮が、今私の脚を動かしていた。
二塁ベースを踏んだ私は、滴る汗をそのままに、チームのみんなに大きく手を振った。
「ナイスバッティング!」
歓声を上げて、みんなが大喜びしているのを見て、私も興奮を抑えきれない。
「やったー!」
握ったこぶしを青い空に高々と掲げて、私は自分でもびっくりするような大きな声を上げた。
そして小春ちゃんが打席に立つ。
「よっしゃーこいやー!」
小春ちゃんがバットを構える。
セカンドベースから見た小春ちゃんは、とても小さかったけれど、見るからにエネルギーに満ち溢れていて、私は期待に胸を膨らませた。
「打って! 小春ちゃん!」
思わず大きな声を上げた私に、遠目の小春ちゃんが、あの太陽のような笑顔を浮かべる。
「まかしといて!」
少年が腕を振りかぶる。
小春ちゃんは三年生だけれども、尋常ではない運動神経の持ち主だ。本人が真剣勝負を望んでいることもあって、少年は上級生と同じように上投げで投げる。
たっつんの指を放れたボールは、小春ちゃんの胸元に勢いよく吸い込まれていった。
内角のボールを見送って、小春ちゃんはまたバットを構え直す。
「遠慮せんでええで。本気の球を打ち返したる」
「やれるもんならやってみー!」
また熱くなりだした二人の勝負を、みんなが見守る。
ここで私がホームに帰れば同点だ。そして小春ちゃんが帰れば逆転勝ちになる。
小春ちゃんがこだわっていた逆転満塁ホームランではないが、それに近いドラマティックな展開であるのは間違いなかった。
「イケーこはるん!」
「一発頼むでー!」
チームのみんなの声援が熱を帯びる。
この炎天下の中、野球をすることに、最初はどこか乗り気ではなかった私だったけれど、今はこの熱い舞台で、皆と同じ気持ちでドキドキしていた。
そして少年の投げた球が甘いコースに入って行った。
セカンドベースからの景色はとても新鮮だった。
真っ直ぐにストライクゾーンに入って行ったボールに、小春ちゃんのバットが一閃した。
パン!
夏の空に甲高い快音が広がった。
はじき返されたボールは、内野の頭上を越えてさらに伸びていく。
ついボールを目で追いかけていた私は、我に返ってベースを蹴って駆け出し、三塁を目指す。
「さくらちゃん! ホームまで走れー!」
チームの声が届いて、私は三塁を蹴ってそのままホームを目指した。
あと少し。
大きな歓声の中、私はホームを目指して、もどかしい両脚を一生懸命動かした。
そして、私は最後まで駆け抜けた。
「やったー! 同点や!」
待ち構えていたチームのみんなに盛大に迎えられて、私も大きく手を上げて喜びの声を上げた。
「やった! やったあ!」
まだ同点なのだけれど、逆転勝ちしたかのような雰囲気だった。
「さくらちゃーん!」
明るい声に振り返ると、小春ちゃんは二塁で大きく手を振っていた。
私も大きく手を振り返す。
「ナイスバッティング! 小春ちゃん!」
ツーアウトで同点の緊迫する場面。
次の打者は五年生の松浦由実ちゃんだった。
今のところ、由実ちゃんはまだヒットを打っていない。上級生に遠慮なく速球を投げるたっつんの餌食になっていた。
いかにも棒立ちでバットを構える由実ちゃんに、少年の自信満々な速球が襲い掛かる。
三つ編みを揺らして空振りする由実ちゃんを見ている限り、全く打てそうな感じはない。
「同点やから負けはないでー! 思い切って振っていけー!」
二塁の小春ちゃんがやや尻込みしていそうな由実ちゃんに声を掛ける。チームのみんなも小春ちゃんに続いて応援する。
「由実ちゃん。がんばれー!」
「たっつんの球、こはるんに比べたらおっそいぞー!」
「おもいきし振ってけー!」
熱い声援の中、追い込まれてからの四球目、少し高めの球を由実ちゃんのバットが捉えた。
ポン!
フワリと上がったボールがサード側へと飛んで行った。
完璧な内野フライに、皆が注目する。
それは簡単に取れそうなフライではあった。が、しかし、落下点を守っていたのは白い日傘を差した節子先生だった。
「あかん! 先生のとこや!」
たっつんが悲鳴のような声を上げた。
小春ちゃんは頂いたと言わんばかりに駆け出す。
青い空に舞い上がった軽いボールを、傘を差したままの先生が顎を上げて眩し気に見上げる。
誰もがそのボールの行方を見守っていた。
三塁ベースを小春ちゃんが踏んだのと同時だったのではないだろうか。
日傘の外に片手を伸ばした先生の掌が、ボールを掴んでいた。
先生は自分の掌に収まったボールを、何とも不思議そうな顔で見つめる。
三塁ベースを踏んだ小春ちゃんは、そんな先生を残念そうに見上げる。
「やられた。ゲームセットや」
こうして私たちの熱い野球大会は、引き分けという形で終わったのだった。